主日礼拝

あなたを照らす命の光

「あなたを照らす命の光」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; イザヤ書、第30章 8節-14節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書、第1章 1節-18節

 
序 心理療法家の河合隼雄は子供の頃読んだ印象的な話を紹介して、あるところで次のように語っています、「何人かの人が漁船で海釣りに出かけ、夢中になっているうちに、みるみる夕闇が迫り暗くなってしまった。あわてて帰りかけたが潮の流れが変わったのか混乱してしまって、方角がわからなくなり、そのうち暗闇になってしまい、都合の悪いことに月も出ない。必死になってたいまつをかかげて方角を知ろうとするが見当がつかない。そのうち、一同のなかの知恵のある人が、灯りを消せと言う。不思議に思いつつ気迫におされて消してしまうと、あたりは真の闇である。しかし、目がだんだんとなれてくると、まったくの闇と思っていたのに、遠くの方に浜の明りのために、そちらの方が、ぼうーと明るく見えてきた。そこで帰るべき方角がわかり無事帰ってきた」、そういうお話です。
 わたしは8年ほど前にタイの山奥に入って仲間の学生や村の人たちと一緒にワークキャンプをしたことがありました。最後の日の夜、楽しい交流会も終わる頃、みんなが持っていた明りを消してみようという提案がありました。その提案に従って、みなが持っていた明りを消すと、空には一面に数え切れないような星星が宝石をちりばめたように光り輝いていました。天の川が鮮やかに浮かび上がり、その年に大接近していた大きな彗星も肉眼で見ることができました。
 自らが掲げる光に固執して、自分の光ですべてを見て、把握して、解決しようとするのがわたしたちの姿かもしれません。しかしそこでその光を掲げるのをいったんやめて、天からのまことの命の光に照らされる喜びに生きるよう、神は招いておられます。暗闇の中で輝いている、いのちの光にこそ目を向けるよう、招いてくださっているのです。それがヨハネによる福音書がわたしたちに証していることです。

1 ヨハネによれば、暗闇の中で輝く光は「人間を照らす光」であり、それはまた、「言の内にある命」であるといいます。そして何よりも万物に先立って、初めにあったものは「言」であったと言います。1節に次のようにあります、「初めに言があった」。口語訳も新共同訳も、ロゴスという元の語を、葉っぱの「葉」をつけない「言」、言語の「言」のみの字をもって表現しました。それはこの言葉が世のあらゆる言の葉、飛び交うおしゃべりや単なる言葉とは違う意味であることを表現しています。この「言」は出来事や事件を引き起こすダイナミックな神のアクションを表現しています。ただの静的な書いたり語られたりする言葉ではありません。そこにおいて生ける神の動的な人間への働きかけが力強く明らかにされる場です。そこで神が暗闇の中で行きなづむわたしたちに身を向けてくださって、これと関わり、激しい義と愛をもって介入されることが明らかになる場、それがここで言われる「言」にほかなりません。そしてその場はほかならぬ主イエス・キリストにほかならないのです。
 ヨハネ福音書はこの初めに言があったことを告げることに続いて、すぐ「言は神と共にあった」と言います。しかし不思議なことにさらに続けて、「言は神であった」とも言います。言が神と共にあったと言うと、神とは区別された言というものが神と共なるものとしてあったのだと受け止めることができます。しかしすぐその後で「言は神であった」と言い切っているのです。区別されている言と神とが、しかし実は一体のもの、同じものであるのだと言っていることになります。「言は神であった」。父なる神と子なる神とは、区別されつつも一体のものであることが、ここで言われているのです。父なる神と同じように子なる神も、父なる神と少しも増えたり、減ったりしない形で、まことの神として父なる神と一体のものであることが告白されているのです。このことはここでは直接出てきていませんが、聖霊なる神についても、同じように言われることです。父なる神、子なる神、聖霊なる神が三位一体の神として、世の始まる前から、まことの神として永遠の交わりをご自身の内に持っておられるのです。
 しかしそのことは、神がご自身を明らかにし、人間に身を向けてくださらなければ、人間が知ることのできないことです。ちょうどわたしたちがどんなに一人の人を理解しようと欲しても、その人が自らの心を開いて自己を表現してくれなければ、その人を本当に理解できないのと同じです。今ここで言われているのは、その神の恵みをもってご自身がどのようなお方であるのかを開き示された出来事が、まさにイエス・キリストの出来事なのだということです。この大変よく知られたヨハネ福音書の冒頭の箇所で、ヨハネがもっとも言いたいこと、いやこの福音書全体を通してヨハネが言いたいことは、18節に記されています、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。「父のふところにいる独り子である神」、つまり主イエス・キリストこそが、神を示されたのであり、この方こそが世に先立っておられた「神と共なる言」だというのです。言は神であった、そしてこの言が肉となった、だから肉となられた言であるイエス・キリストは、神ご自身にほかならないのだ、というのがわたしたちに与えられているメッセージです。
 イスラエルの歴史において、神を直接見ることはその人の死を意味しました。神と合い見えてなお生きているということは考えられないことだったのです。生ける神の栄光に直面した者は、その底知れぬ罪を明らかにされ、その大いなる全能と義と主権の前に溶け去り、滅び去ってしまうしかないのです。それなのに今わたしたちが神のみ前に進み出て、このように主の御前で礼拝を捧げることが許されているのはなぜでしょうか。それは「父のふところにいる独り子である神」がこの世に降り、この方がわたしたちに神がどのようなお方であるかをお示しくださったからにほかなりません。このお方が、ご自身が天地創造に先立って神と共なる言であることを示され、その生涯と十字架、復活と聖霊の注ぎ、また再び来られることを通して、神がどのようなお方であるかを明らかにされたのです。
 そしてこの独り子なる神がわたしたちのために執り成してくださって、わたしたちが神の御前に立つ時、神の前に否定され、否認されなければならないすべての罪をご自身に引き受けてくださったのです。それと交換にキリストのもつ神の義がわたしたちに恵みとして与えられたがゆえに、わたしたちは感謝をもって主を祝い、賛美をもって主の大庭に入ることを許されており、またそうするように招かれていることを知るのです。主イエスこそは、この神の救いの出来事を告げ知らせるお方であうと同時に、その真理そのものであるお方なのです。

2 この言である主イエス・キリストの中に永遠の命、尽きることのないとこしえの命があり、それはまた「人間を照らす光」であると福音書は語ります。そしてこの光を証しするために遣わされたのが、洗礼者ヨハネです。「まことの光」、世に到来し、「すべての人を照らす光」が上からやってきた。その光を証しするのがヨハネの役割です。「彼は栄え、わたしは衰えていく」、そうヨハネは言いました。このお方が光よりの光、まことの神よりのまことの神であることを指し示し、証し、賛美し、たたえることがこの神から遣わされた者の務めです。イエス・キリストを証し、声を張り上げてヨハネは言いました、「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」。この世の時間の中では、洗礼者ヨハネの方が主イエスより先に生まれています。それなのに「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」という不思議な言い方がされています。後から来られる方、すなわち主イエスは、実はこの時間の中に来られるよりも先から、子なる神として、父なる神と聖霊なる神とともにおられたことが、ここで示されているのです。このお方がすべてのものの創造の基となられ、また人間を罪から贖う、来るべき新しい命の基ともなられ、ご自身が始めであり、終わりであることを明らかにされたのです。
 このまことのいのちの光である子なる神が御国をも御座をも捨てて、この世に降られ、わたしたちと同じ肉を取られるところまでご自身を低くしてくださった出来事が、クリスマスの出来事にほかなりません。14節、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」。この出来事の背後に、神の重大なご決意があります。罪にとらわれて死んだようになっている人間を放っておくことをせず、その苦しみの極みと深みにまで降りてこられることを、神は御子において決意し、実行されました。すべての恐れと悩みを味わい尽くされ、十字架においてそのすべてを担いきられたのです。そしてわたしたちをとこしえの命へと引き揚げ、神の国にわたしたちのための場所を用意してくださったのです。    
 この方の下にとどまり、この方に枝としてつながれていることが、まことの命に生きる道であることを、わたしたちはイエス・キリストという独り子なる神を通じて示されたのです。この方の名を信じ、受け入れる歩みは、主の満ちあふれる豊かさ、汲めど尽きせぬ命の泉を通して、恵みの上に恵みを増し加えられる
歩みとなるのです。
 しかしこの人となられた神を受け入れない人々もいます。11節、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。5節後半、「暗闇は光を理解しなかった」。かつて背信の民、イスラエルは先見者に向かって「見るな」と言い、預言者に向かって「真実を我々に預言するな。滑らかな言葉を語り、惑わすことを預言せよ。道から離れ、行くべき道をそれ 我々の前でイスラエルの聖なる方について語ることをやめよ」と言ったと言われています。まことの命の光が天から到来しても、それを拒み、財産や名声、健康や業績、家族といった小さな光に依り頼み、それを究極の拠り所としている限りは、まことの命の道は開けません。それは「高い城壁に破れが生じ、崩れ落ちるようなもの」なのです。わたしたちを造られた主なる神が肉を取ってこの世に来られたのに、この方を受け入れないならば、そのこと自体が既に、わたしたちの裁きとなり、永遠の命に与かることができないのです。ヨハネの教会は母胎となったユダヤ教と決別し、ナザレ人イエスこそ、「人となりたる生ける神なり」と信じ、告白する決断へと促された時代を背景としています。ナザレのイエスはあなたにとって一体誰か、どのような方なのか、そのことが鋭く問われた時代でした。この方をどのようなお方として信じ、告白するかが、その人の生き方、死に方を決めたのです。人生の立つか倒れるかを決定づけたのです。わたしたちもまた、神の御前に立つ時に、いつもこの問いの前に立たされていることを思わなければなりません。それが人生の一こま一こま、決断の一つ一つ、人生への根本的な姿勢を決定づけていくのです。

結 わたしたちがしがみつき、守ろうと躍起になっている小さな光をいったん消して、暗闇の中に見えてくる命の光に目を向けるよう、主は求めておられます。そしてその愛の光に照らされる時、歩むべき道、進むべき方向が指し示され、人生や家族、仕事やお金、あるいは困難や試練の受け止め方も変わってきます。神の御心に適う方向へと導かれるのです。この命の光を証しする歩みは、その恵みの光に照らされて、その光を反射する歩み、反映する歩みです。わたしたちが何かの光を灯さなければならない、と躍起になる必要はありません。ちょうど地球のような惑星が、それ自身では光を発することはないのに、太陽の光を受けて明るく照り輝くのと同じように、わたしたちは恵みと真理に満ちた命の光に照らされて証しの歩みを辿るのです。先週わたしたちは、このような証しの歩みを辿られた姉妹を主のみもとに送りました。今わたしたちもまた、この姉妹と同じように主に結ばれて、光の子、昼の子として歩むように招かれています。命の光に照らされ、輝くよう招かれています。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(12節)のです。わたしたちは神の子、光の子として天からの光をいっぱいに受けている恵みを思い、その光を人々の前に輝かす歩みへと押し出されていく者とされたいと思います。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、あなたは世の造られる先よりあなたと共にあり、あなたと一つであった独り子を、惜しむことなくこの世にお与えになり、救いと命の光の道へとわたしたちを招き入れてくださいました。そして「主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることない」(詩34:6)ことをお示しになりました。どうかこの主イエスこそ、「まことの神にして、まことの人」、わたしたちの贖い主、救い主であることを賛美と共に信じ、告白する者として強めてください。このまことの命の光をいっぱいに受けて、それを証しする喜びの中にわたしたちを生かしてください。
これらの祈りと願いを、わたしたちを暗闇の中から驚くべき光の中へと招きいれてくださった、主イエス・キリストの御名によって祈り願います、アーメン。

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