「荒れ野で叫ぶ声」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; イザヤ書、第40章 1節-11節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書、第1章 19節-28節
序 「ヨハネによる福音書」はその冒頭で「初めに言があった」ことを告げ知らせます。そしてそれに引き続いてこの言のうちに命があったこと、この命は人間を照らす光であったと語っています。この言、この命、この人間を照らす光こそは、御子なるキリストにほかなりません。この福音書全体のテーマは、父の独り子が生ける神にほかならないということです。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(18節)と言われています。このプロローグを受けて、実際の主イエスの言葉と業が続きますが、それに先立って、福音書は洗礼者ヨハネの証しから出発しています。
福音書はヨハネをこう紹介しています、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(6-8節)。ヨハネは証しをするために遣わされた者で、その他のなにものでもないということがさかんに強調されているのが分かります。ヨハネの生き方は、「世に来てすべての人を照らすまことの光」を証しすることに徹していたのです。自分を宣べ伝えるのではなく、主の御名によって来られる方を証しし、指し示すことにのみ、与えられた人生の意味を見出していたのです。
1 洗礼者ヨハネの証しとはいったいどんなものだったのでしょうか。わたしたちは何かを証しすると聞くと、それは一生懸命言葉を並べてまくし立て、守るべきもののために言葉を費やし、それが確実なものであることを説得するために力を尽くすことだと考えがちです。けれども、ヨハネの証しは、少なくとも最初は、そのような形で始まってはおりません。ヨハネの証しは、まず自分が何者でないかを示すことから始まるのです。この証しをするきっかけとなったのは、ユダヤ人たちが祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたはどなたですか」と質問させたことでした。おそらく洗礼者ヨハネが活動を開始し、悔い改めと罪の赦しの洗礼を授けているという評判が、ユダヤ人たちの耳にも届いていたのでしょう。彼らは自分たちで確かめに行くのではなくて、祭司やレビ人たちをヨハネのもとに遣わしました。当時の宗教的権威を代表する者たちを遣わして判断させようとしたのです。そしてこう問わせたのです、「あなたは、どなたですか」。あなたは誰によって遣わされ、何の権威によってこのようなことを行うのか、それがこの問いで問われていることです。この問いに対するヨハネの最初の答は「わたしはメシアではない」(20節)というものでした。
逆に言えば、ヨハネが来たるべきメシアだと受け取られかねない状況が当時あったということになります。それほどメシア、救い主を待ち望む思いが人々の中に強くあったのです。「もしかしたらこの人がメシアかもしれない」という期待を抱かれる可能性が大きかったのです。イスラエルの民の間には、古くから救い主を待ち望む信仰がありました。メシアがダビデの子孫のうちに約束され、世を治める、公平と正義を行い、イスラエルの救いを得させる、そういう期待が人々の中にありました。神の民イスラエルの王として、神に油を注がれた王が立てられる、そう信じられていたのです。ですからヨハネは真っ先に「わたしはメシアではない」と宣言し、このことについての答をはっきりさせておく必要があったのです。ここで「公言する」と訳されている言葉は、「公に信仰を告白する」という意味の言葉と同じものです。「イエスはキリストである」という信仰が告白することに対応して、ヨハネはキリストではない、あるいは「人間はキリストではない」、「わたしはキリストではない」ということが言われなければならないのです。
さらに祭司やレビ人たちは問います、「では何ですか。あなたはエリヤですか」(21節)。旧約聖書の最後の書、マラキ書の終わりには次のようにあります、「見よ、わたしは 大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす。 彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる。 わたしが来て、破滅をもって この地を撃つことがないように」(マラキ3:23-24)。このマラキの預言以来、救い主が地上に来る時、その前に現れる預言者はエリヤの再来であると信じられてきました。この方こそがその再来すると言われてきたエリヤなのではないか、そう噂され、言い広める人たちもあったのでしょう。しかしこの期待に対してもヨハネは「違う」と答えたのです。
洗礼者ヨハネはさらに、「あなたは、あの預言者なのですか」と問われます。これも申命記(18:18)の中で指し示されている預言者の伝統に則った問いだと言われています、「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう」。そのような大預言者の登場を期待するような思いに対しても、ヨハネはきっぱりと「そうではない」と答えました。
わたしたちはここに証し人とはどのようなものであるのかを示されています。たとえば他の福音書を見ますと、主イエスはヨハネについて、この人は「預言者以上の者である」とおっしゃり、「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」と言っておられます。そして「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」(マタイ11:14)と言っておられるのです。しかしヨハネ自身は自分がエリヤの再来だとは思っていません。「あなたはエリヤですか」との問いに、「違う」と答えているのです。ヨハネは自分で意識して再来のエリヤとなろうとしたのではありません。自分で願ったわけではなかったのに、再来のエリヤとして神に立てられたのです。そこで結果的には再来のエリヤの役割を果たしたのです。ヨハネ自身がそうなろうと欲したのではなく、ただ神に立てられ、用いられるがままに働いたヨハネの歩みが、結果として再来のエリヤの役目を果たしたのです。主イエスはヨハネをそのように立てて、用いられた神の御心をご存知であったので、「彼は現れるはずのエリヤである」とおっしゃられたのです。ヨハネの思いを認めておっしゃられたのではなく、ヨハネを再来のエリヤとして立てるという神のご意志をご存知でいらっしゃったので、ヨハネは神が再来のエリヤとして立てた人物だ、とお認めになったのです。
およそ神に立てられる者は自ら願ってそうなるのではありません。モーセや預言者イザヤやエレミヤ、ヨナたちが神に呼び出される場面を見てみると、いずれもそうであります。誰も初めから願って神に呼び出され、ご用に立てられるのではありません。自分の判断や願望に逆らって神のご意志によって立てられるのです。人間的には何のとりえもない貧しい存在であっても、神が彼/彼女を用いることをよしとされたのならば、それがその人が立てられる根拠になるのです。それは逃げようとしても逃れられない、神様に捕まった、という思いを与えられる 出来事であります。伝道者として立てられる者はこの感覚をよく知っているはずですし、それはいつも忘れられてはならない感覚です。しかしこの感覚は伝道者だけが知っている者ではありません。それはキリスト者すべてが知っている感覚です。わたしたちの中で誰が、自分は神に愛され、選ばれるに価する人間だから自分で決断してキリスト者になったのだ、と思っているでしょうか。当然キリスト者になるに価する、そういう価値がある存在だからキリスト者になったのだ、と言う人があるでしょうか。そのように思っている人はいないはずです。キリスト者すべてが自分の判断や願いのすべてに先立って神が働き、このわたしを選び、洗礼を受けることへと導いてくださったのだ、と知っているはずです。たとえ自分が洗礼を受けることを決断したように見えても、洗礼を受けたいという願いを起こすよう促し、導いてくださったのは神であり、神がそのことをよしとしてくださった以外に理由はないのです。神がわたしたちを選び、立てられた、それだけがキリスト者が立っている理由です。
今まだ洗礼を受けてはいないけれども、キリストの御言葉に関心を抱いてこの場に集うている人があれば、そのような思いを抱かせ、今日この教会へと導いてくださったお方は神です。そのような促しを与えて、働きかけてくださったお方がいるのです。その方が何を願っておられ、何を自分に語りかけようとしておられるのか、そのことにわたしたちは耳を澄まし、心を開きたいのです。
2 洗礼者ヨハネは自分をお遣わしになった方を知っており、自分が務める役割は限られたものであるということをはっきりと知っていました。証し人、証人とは、何かが正しく、確かであるということを指し示し、保証する存在です。逆に言えば、それ以上の差し出がましいことをしてはならないのです。結婚式の時に立つ証人の夫妻は、その結婚が神の前にふさわしいものであることを証しするために立てられているのであって、自分たちがそのカップルを押しのけて真ん中に立つようなことをしてはなりません。裁判における証人は自分が見たことを証言するよう求められているのであって、そこで自分がどんなに立派な人間であるかを長々と話すことを期待されているのではありません。それと同じように、ヨハネが遣わされたのは、後から来られる方、主イエスを指し示すためであり、ヨハネは自分を信ぜよ、自分に従ってきなさいと言ってはならないのです。そのように制限され、主イエスが来てくださることよって初めて自分のしてきたことの意味も満たされるようになる、それが証し人のあり方です。
そこで今までの徹底的した否定の後に、「それではいったいだれなのです」、「あなたは自分を何だと言うのですか」という苛立ちの交じった問いに答えて、ヨハネは初めて、自分が何者であるかを言うのです、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」。「声」というものはそれだけで意味があるのではありません。「声」はそれを発した人がいることを前提としています。その声を放った、その声を遣わした人格がいるのです。誰がその声を放ったかが大切なのです。ヨハネは自らが遣わされた声であることに徹することで、自分を遣わした方を指し示しているのです。それは来るべきお方、主イエス・キリストにほかなりません。
祭司やレビ人たちは問い詰めます、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」(25節)。「洗礼を授けるのなら、メシアこそ、再来のエリヤこそ、あの預言者こそふさわしいはずではないか、あなたはそのいずれでもないのに、何の権威があってこのようなことをしているのか、われわれの権威を差し置いて、出すぎたことをするな」、と責めているのです。ここでは洗礼を施す権威が問われているのです。なんのいわれがあって、あなたはこんなことをしているのか、という問いです。
それに対するヨハネの答えは「わたしの後から来られる方」のゆえだ、というものです。しかもそのお方は「あなたがたの知らない方」として、すでに「あなたがたの中に」おられるというのです。このお方はヨハネが授ける水の洗礼を越える、聖霊による洗礼をお授けになる方です。それは神の霊によってわたしたちを主イエスと結びつける洗礼です。悔い改めのしるしとしての洗礼にとどまらず、キリストの命と結ばれる洗礼、とこしえに神のものとされる洗礼です。キリストの十字架の死と甦りの命に与かる洗礼です。キリストと共に死に、自分の罪を洗い清められ、キリストと共に、新しい命のうちに甦る洗礼です。これが与えられていればほかのなにものも絶対必要なものではなくなる、と言えるものです。これが与えられていればこの世のどんな恐怖も、完全にわたしたちを支配することはできない、そう言いきれるほどのものです。それがキリストの授けてくださる霊による洗礼です。
教会では今も水による洗礼を授けます。しかしヨハネの洗礼と決定的に違うのは、この水の注ぎという目に見える形を通して、生けるキリストの聖霊がわたしたちの内に住まわれ、罪を清めて、キリストの命に生かしてくださるということです。キリストの十字架の死と復活の命に与からせてくださるのです。教会における水による洗礼が行われる時、同時にそこで聖霊による洗礼が授けられているのです。
結 この聖霊による洗礼を授けられた者は、ヨハネのようにキリストを証しする 者とされます。魂が飢え渇き、苦しみと悩みのうちにさまよっているこの世界という荒れ野の中で、既にわたしたちのうちに来てくださっている救い主を指し示すのです。横浜指路教会という教会名はまことに意義深いと言わなければなりません。教会は「道」である方、主イエスを指し示すのです。ヨハネが主イエスを指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言ったように、救い主を指し示すのです。世界が求めず知らず過ごしている中で、肉を取ってこの世に来られた生ける神がおられることを告げ知らせるのです。ちょうど暗い港町に夜の闇を照らす灯台が必要なように、恐れに満ちた闇の夜に、命の灯火を力強くかかげるのです。わたしたちが自分の力で立つのではありません。主が立たせてくださるのです。わたしたちは自分を宣べ伝えるのではありません。主を証しし、主を指し示すのです。
ヨハネの教会は「イエスを誰と告白するか」を巡って、ユダヤ教と袂を別ち、イエスをキリストと告白する群れとして歩み出す時代を生きました。イエスをあなたにとって何者と告白するかが鋭く問われたのです。ユダヤ人たちや祭司・レビ人は主イエスに向けてさまざまに問いを発しました。「わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません」というのです。しかし実は自分たちこそが、今このお方をあなたにとっての誰と告白するのか、問われているのです。返事を求められているのです。祭司やレビ人たちはユダヤ人たちから遣わされましたが、本当に罪を赦し、新しく遣わしてくださるお方が目の前におられるのです。問い詰めようと思っていたわたしが逆に問われる、人を遣わした人間が逆に自分の罪を赦し、遣わしてくださるまことの主人を知る、それが信仰を与えられ、洗礼を受ける時にわたしたちの中に起こっている出来事です。この恵みの出来事に生かされて、救い主を指し示す証しの歩みへと今、ここから、遣わされていきたいと思います。
祈り 主イエス・キリストの父なる神様、この国と社会、また世界は魂の飢え渇く荒れ野の中をさまよい、苦しんでいます。どうか今こそわたしたちが本当に返事をすべきお方があなたであること、わたしたちを遣わしてくださるまことの主人があなたであることを教えてください。もとよりわたしたちはあなたの知恵を悟るに遅く、御心をわきまえ知ることに疎い者でありますが、キリストと結び合わされている恵みに確かに生かされている者であります。どうかその恵みに生きることを通してあのヨハネのように、キリストを証しする生涯をたどらせてください。
父と子と聖霊の御名によるバプテスマを制定してくださいました、わたしたちの主、イエス・キリストの御名によって祈り、願います、アーメン。