主日礼拝

今とその日

「今とその日」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:エレミヤ書 第31章31-34節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第16章16-24節
・ 讃美歌:

悲しみが喜びに変わる
 主の2021年を迎えましたが、例年とは大きく違った年明けとなりました。毎年私たちは新年の礼拝を守り、その後「明けましておめでとうございます」と挨拶を交わし、新しい年を共に歩み出すことができることを喜び合ってきましたが、今年はこの新年の礼拝も三回に分かれて行われています。顔を合わせて年頭の挨拶をすることができない兄弟姉妹が沢山います。なんと寂しい年明けでしょうか。
 昨年は、新型コロナウイルスに振り回された一年でした。影響が出始めたのは2月半ばぐらいからですから、もうじき一年になります。4月から6月半ばまでは、礼拝に皆で集まることをやめざるを得ませんでした。三回に分けることでようやく礼拝を再開しましたが、感染はなお拡大しており、皆が共に集まることはいつになったらできるのか、見通しは立ちません。迎えた2021年が、皆で礼拝することを再開できる年となることを切に願うものです。
 本日ご一緒に読む聖書の箇所、ヨハネによる福音書第16章16節以下には、新共同訳聖書において、「悲しみが喜びに変わる」という小見出しがつけられています。2021年がまさにそのような年となり、昨年私たちがさんざん味わわされてきた新型コロナウイルスによる悲しみが喜びに変わる年となることを私たちは心から願っています。この小見出しは20節後半から来ています。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」とあります。あなたがたの悲しみは喜びに変わる、と主イエスが約束して下さっている。今日私たちはこの約束のみ言葉を聞いて、新しい年を歩み出すのです。

あなたがたはもうわたしを見なくなる
 ヨハネ福音書が見つめている「あなたがたの悲しみ」は勿論、今私たちが体験している新型コロナウイルスによる悲しみとは違います。20節の前半には「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが」とあります。「あなたがた」とは主イエスを信じ、従っている弟子たちです。その弟子たちが泣いて悲嘆に暮れる、それは、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」からだ、ということが16節以下に繰り返し語られています。しばらくすると、弟子たちは主イエスのお姿を見ることができなくなり、そのことが彼らに悲しみ、悲嘆をもたらすのです。彼らが主イエスのお姿を見ることができなくなるのは、主イエスが父のもとに行くからです。そのこともここに語られています。この16章は、いわゆる最後の晩餐において主イエスが弟子たちにお語りになったみ言葉です。つまり主イエスはこの後すぐに捕えられ、翌日には十字架につけられて殺され、そして三日後に復活するのです。これらのことによって主イエスは、もともとおられ、そこから来られた天に、父なる神のもとに行くのです。そのことがもうすぐ起ろうとしている、それが、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」ということです。十字架と復活によって主イエスが父なる神のもとに行ってしまうと、弟子たちはもう主イエスを肉の目で見ることができなくなります。目に見えない主イエスを、見ることなく信じて生きていかなければならなくなるのです。それはしんどいことです。主イエスによる救いは本当なのだろうか、という疑い、不安が繰り返し起ってきます。それに加えて、主イエスが目に見えないということは、主イエスこそ神の子であり救い主であることの目に見える証拠を人々に示すことができないということでもあります。だから弟子たちは、信仰を周囲の人々に理解してもらえずに、迫害を受けることになるのです。20節前半の「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」は、世の人々による迫害によって弟子たちが悲しみを受けることを語っているのです。「あなたがたの悲しみ」とは、主イエスをこの目で見ることができない中で信じて生きていく弟子たちが受ける様々な悲しみなのです。

私たちの悲しみ
 弟子たちのこの悲しみは、新型コロナウイルスによって今私たちが受けている悲しみとは違いますが、しかし繋がってもいます。主イエスが父なる神のもとに行かれた後の時代を生きている私たちも、主イエスのお姿をこの目で見ることはできません。見ないで信じるのが私たちの信仰です。それは今も申しましたように、主イエスによる救いの目に見える証拠はない、ということです。他方、新型コロナウイルスは目に見える仕方で私たちを脅かしています。世界中で既に180万人を超える人々が亡くなりました。日本でも感染の拡大が止まらず、医療体制が危機にひんしています。そういう目に見える圧倒的に厳しい現実の前で、目に見えない主イエスを信じていることに果たして意味はあるのか、それは何の役に立つのか、そもそも主イエスによる救いなど本当にあるのか、と周囲から問われることがあるし、自分の中にもそういう疑問、疑い、迷いが起ってきます。私たちは今、新型コロナウイルスによる自分や家族の命の危機、経済的な危機、生活に様々な制約を受けることにによる精神的危機と並んで、主イエスを信じる信仰の危機にもさらされているのです。その悲しみは、主イエスをこの目で見ることができない中で、迫害を受けつつ生きていった弟子たちの悲しみと繋がっています。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」という主イエスの語りかけは、私たちにとっても希望なのです。

産みの苦しみが喜びに変わる
 悲しみが喜びに変わる、その具体的な例として主イエスは21節で、出産の苦しみのことを語っておられます。「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」。陣痛の苦しみは子どもが生まれた喜びに変わる、男である私はこのことを実感することができませんが、苦しみを経て喜びに至ることの最も身近な例が出産であることは理解できます。ところで、この21節の「苦しむ」と20節の「悲しむ」は原文においては同じ言葉であり、肉体的、精神的な痛み、苦しみを意味しています。出産において女性が感じるのは「悲しみ」と言うより「痛み」ですから、21節を「苦しみ」と訳すのは当然です。ということは20節も「あなたがたは苦しむが、その苦しみは喜びに変わる」と訳した方がいいと言えます。最近出た聖書協会共同訳は「あなたがたは苦しみにさいなまれるが、その苦しみは喜びに変わる」となっています。それに伴って16節以下の小見出しも「苦しみが喜びに変わる」となっています。この訳の方が20節と21節の繋がりがはっきりしますし、「悲しみ」よりも「苦しみ」の方が、ここに語られていることの意味を正確に示していると思います。主イエスのお姿を見ることなしに、弟子たちは迫害の中を歩み、私たちは今新型コロナウイルスの猛威の中を生きています。それによって弟子たちも私たちも、「悲しみ」をも含む「苦しみ」の中にいるのです。主イエスはその私たちに、産みの苦しみが出産の喜びへと変わるように、あなたがたの苦しみは喜びに変わるのだと告げて下さっているのです。

私は再びあなたがたと会う
 苦しみはどのようにして喜びに変わるのでしょうか。どのような喜びが与えられるのでしょうか。22節にはこうあります。「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。この「悲しんでいる」も同じく「苦しんでいる」です。その苦しみが喜びに変わるのは、わたしが再びあなたがたと会うことによってだ、と主イエスはおっしゃっています。私が父のもとに行くので、あなたがたはもう私を見なくなる、それによってあなたがたは苦しむ、しかし私は再びあなたがたと会う。それによってあなたがたの苦しみは喜びへと変わるのだ、ということです。それが、16節の「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」というお言葉の意味なのです。十字架の死と復活を経て主イエスは父なる神のもとに行く、それによって弟子たちは、私たちは、主イエスをこの目で見ることができなくなる、しかしその苦しみの中にいる私たちと主イエスは再び会って下さるのです。去って行った主イエスが戻って来て下さるのです。そのことは既に14章の2、3節に語られていました。そこで主イエスは、父の家に行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来てあなたがたを迎える、と言っておられました。また14章18、19節にも「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きるようになる」とありました。父なる神のもとに行かれた主イエスが弟子たちのもとに戻って来て下さり、再び会って下さるのです。それによって弟子たちの、私たちの苦しみは喜びに変わるのです。その喜びを私たちから奪い去ることは誰にもできない、そういう喜びで私たちは満たされるのです。

弁護者である聖霊によって
 この、主イエスが戻って来て再び会って下さるというのは、この世の終わりに主イエスが神としての栄光をもってもう一度来られ、生きている者と死んだ者とを、つまり全ての者をお裁きになること、つまりこの世の終わりのキリストの再臨のことを言っているのではありません。ヨハネ福音書がここで見つめているのは、主イエスが父のもとに行かれた後、父なる神と主イエスから、「弁護者」と呼ばれている聖霊が弟子たちに、信仰者に遣わされることです。そのことがこの16章の前半に語られていました。7節にこうありました。「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」。弟子たちのもとを去って父なる神のところに行った主イエスに替わって弁護者が遣わされるのです。その弁護者のことが13節ではこう語られていました。「しかし、その方、すなわち真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである」。弁護者とは真理の霊であり、真理をことごとく悟らせて下さる方です。そのことは14章26節にこう語られていました。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。弁護者は真理をことごとく悟らせ、すべてのことを教える。それは「わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」ということ、つまり主イエスのみ言葉によって示された父なる神の救いを分からせ、悟らせ、その救いにあずからせて下さる、ということです。この弁護者である聖霊が、父のもとに行った主イエスから遣わされることによって、目には見えない主イエスが戻って来て再び会って下さるのです。それによって、私たちの苦しみは喜びに変わり、誰も奪うことのできない喜びが与えられるのです。

何も尋ねる必要がなくなる
 それはどのような喜びなのかが23、24節に語られています。23節には、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」とあります。「その日」とは、弁護者である聖霊によって主イエスが再び会って下さり、今の苦しみが喜びに変わる日です。その日には、私たちはもはや主イエスに何も尋ねなくなるのです。尋ねる必要がなくなるからです。聖霊によって、父なる神が主イエスによって救いを与えて下さったことがはっきりと分かるようになるのです。つまりこの福音書の3章16節に語られていた、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という神の愛が本当に自分に注がれていることが分かるのです。そして、独り子すらも与え、その十字架の苦しみと死とによって私たちの罪を赦し、救って下さっている神の愛が分かるようになるなら、神について、信仰について私たちが抱いているいろいろな疑問は解消されるのです。主イエスをこの目で見ることができず、目に入るのはこの世の厳しい苦しみの現実ばかりである中で私たちが陥る疑いや迷いも払拭されるのです。十字架の苦しみと死を私たちのために味わって下さった主イエスが、苦しんでいる私たちと共にいて下さり、そして死の力に勝利して主イエスを復活させて下さった父なる神が、私たちにも復活と永遠の命を約束して下さっていることを信じることができるようになるのです。さらに私たちが、み子イエス・キリストの名によって願うならば、独り子の命をすら与えて下さった父なる神は、私たちの願いに応えて、本当に必要な恵みを与えて下さるという信頼に生きることができるようになるのです。聖霊の働きによって、父のもとに行かれた主イエスが戻って来て再び会って下さることによって、私たちにはそのように、主イエスによる救いを信じ、父なる神の愛に信頼して生きることができるようになる、そういう喜びが与えられるのです。

主イエスの名によって祈る
 また24節には「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」とあります。父なる神の愛を信じて、本当に必要な恵みを与えて下さることを信じて願い求めることができる、という喜びは、独り子主イエスによってもたらされたものです。主イエスが十字架の死と復活を経て父のもとに行かれたことによって、私たちはその主イエスの名によって父に祈ることができるようになりました。つまり「天の父よ」と呼びかけ、「主イエス・キリストのみ名によって」祈ることができるようになったのです。私たちは、主イエスによって祈りが確かに父なる神に届き、父が愛によって本当に必要な恵みを与えて下さることを信じて祈ることができるようになったのです。主イエスのみ名によって父なる神に祈り願うことができること、それこそが、「その日」に聖霊によって私たちの内に満たされる喜びです。その喜びを私たちから奪い去ることができる者はいないのです。

苦しみの中で祈ることができる喜び
 あなたがたは今苦しんでいるが、聖霊によって私があなたがたに会うその日には、その苦しみは喜びに変わる、と主イエスは私たちに語りかけて下さっています。私たちはそれを聞くと、主が早く「その日」を来たらせて、新型コロナウイルスによる今のこの苦しみを喜びへと変えて欲しいと思います。主イエスは「わたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」、「願いなさい、そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」と言って下さっているのですから、私たちはこの新しい年、苦しみが喜びへと変えられることを祈り求めつつ歩んでいきたいと思います。しかしそれと同時に私たちは、主イエスが21節で、今の苦しみを「産みの苦しみ」に喩えておられることに改めて注目したいのです。このたとえは、この苦しみは間もなく過ぎ去り喜びに変わる、ということだけを言っているのではないでしょう。産みの苦しみは、他の諸々の苦しみとは性格が違います。それは虚しい苦しみではなくて、意味のある、希望のある苦しみです。だからこそ、子どもが生まれるともはやその苦しみを思い出さない、ということになるのでしょう。主イエスはこの喩えによって私たちに、あなたがたの今の苦しみは、虚しい苦しみではなくて、意味のある苦しみであり、そこから新しい、良いものが生まれるという希望があるのだ、と語りかけておられるのです。つまり主イエスは私たちが、今のこの苦しみや悲しみが過ぎ去るのをただ待つだけでなく、この苦しみの中に意味と希望を見出させようとしておられるのです。そのために聖霊が遣わされています。聖霊によって主イエスが戻って来て再び会って下さる「その日」は、先ほども申しましたように、この世の終わりの救いの完成の日ではありません。つまり聖霊が遣わされて全てがハッピーエンドになるのではなくて、まだ救いが完成していない、苦しみや悲しみが続いているこの世の現実の中で、聖霊は私たちに働きかけて下さり、その苦しみの中で私たちが主イエスと出会い、神の愛が自分に注がれていることが分かるようになり、主イエスの名によって父なる神に祈り願うことができるようにして下さるのです。それによって今の苦しみが無くなって喜びに変わってしまうわけではありません。目に見える苦しみの現実は変わらずにあるのです。しかしその中で私たちは、聖霊によって、主イエスによる救いを信じて、本当に必要な恵みを与えて下さる神の愛に信頼して、主イエスの名によって父なる神に祈り願うことができるようになるのです。苦しみの中でそのような祈りを祈っていくことができるなら、その苦しみは虚しいものではなくなります。苦しみの中にも希望が示されていくのです。苦しみの中でこのように神に信頼して祈ることができるようになることこそ、聖霊によって与えられる喜びです。苦しみ悲しみが過ぎ去って喜びに変わることによって初めて喜びが得られるのではありません。苦しみの真っ只中で、主イエス・キリストのみ名によって父なる神に祈り願うことができるところにこそ、聖霊によって与えられる喜びが満たされるのです。その喜びを私たちから奪い去ることができる者はいません。主の2021年、新型コロナウイルスによる厳しい苦しみの現実が続きますが、聖霊のお働きによって、必要な恵みを必ず与えて下さる神の愛に信頼して、主イエスのみ名によって祈り願うことができる喜びに満たされて歩んでいきたいのです。

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