主日礼拝

成し遂げられたこと

「成し遂げられたこと」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第22編13-16節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第19章25-30節
・ 讃美歌:313、469

十字架と復活
 本日は、ヨハネによる福音書第19章25節以下をご一緒に読みます。ここには、主イエス・キリストが十字架の上で息を引き取られたことが語られています。先週私たちは、主イエスのご復活を喜び祝うイースターの礼拝を守りました。復活の話から、また十字架の死のことへと戻ってしまうわけですが、ヨハネによる福音書を連続して読んでいるためのことですからご容赦願いたいと思います。また、主イエスの十字架の死と復活とは切り離すことのできない神の救いの出来事です。十字架の死なしに復活はないし、復活を抜きにして十字架の死を正しく捉えることはできません。主イエスの復活の喜びの中で、十字架の死を見つめることは相応しいことだとも言えるのです。

成し遂げられた
 さて主イエスが十字架の上で亡くなられたことは本日の箇所の最後の30節に語られていますが、そこに、主イエスの最後のお言葉が記されています。主イエスは「成し遂げられた」と言って息を引き取られたのです。28節にも、「この後(のち)、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた」とあります。主イエスの十字架の死において、すべてのことが成し遂げられた、とヨハネ福音書は語っているのです。そのことは17章4節にも語られていました。そこには「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」という主イエスのお言葉があります。17章は、主イエスが捕えられる直前に弟子たちにお語りになった長い別れの説教をしめくくる祈りです。つまりここで主イエスが「あなた」と語りかけておられるのは父なる神です。十字架の死を目前にして主イエスは、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げました」と祈られたのです。主イエスは、父なる神から託された救いのみ業を成し遂げて、十字架の上で死なれたのです。「息を引き取られた」と訳されている言葉は、直訳すると「霊をお渡しになった」となります。父なる神から託された救いのみ業を成し遂げて、ご自分の霊を父なる神にお返しになった、それが主イエスの十字架の死だったとヨハネ福音書は語っているのです。

聖書の言葉が実現した
 28節に戻りますが、すべてのことが今や成し遂げられたのを知った主イエスは、「渇く」と言われました。それによって聖書の言葉が実現したと語られています。その聖書の言葉とは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編22編の16節「口は渇いて素焼きのかけらとなり 舌は上顎にはり付く」です。詩編22編には主イエスが十字架の死において味わったいろいろな苦しみが預言されています。先々週の礼拝で読んだ、兵士たちが主イエスの服を分け合い、くじ引きにした、というのもその一つでした。それらの苦しみの中に「渇く」ということもあったのです。このお言葉を聞いた人々が、「酸いぶどう酒」を主イエスの口もとに差し出したと29節にあります。このことも、詩編69編22節の「人はわたしに苦いものを食べさせようとし/渇くわたしに酢を飲ませようとします」という言葉の実現です。主イエスの十字架の死において、これらの聖書の言葉が実現した、とヨハネ福音書は語っているのです。それは、この出来事が神によって既に預言されていた、ということであり、神のみ心、ご計画がここで実現した、ということです。それは主イエスが「成し遂げられた」と言って息を引き取られたのと同じことを示しています。主イエスの十字架の死において、私たちを救って下さる神のみ心、ご計画が実現し、神の救いのみ業が成し遂げられたのです。神の救いのみ心は、この福音書の3章16節に示されていました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神に従わず、神を神として敬っていない罪人である私たちが、その罪によって滅びてしまうことなく、救われて永遠の命を得るために、父なる神はその独り子である主イエス・キリストを、救い主としてこの世に遣わして下さったのです。主イエスは私たちの罪を全てご自分の身に負って、私たちに代って、十字架にかかって死んで下さいました。それによって私たちは罪を赦され、滅びから救われたのです。神がその独り子を与えて下さるほどに私たちを愛して下さり、罪人である私たちを滅びから救って下さる、というみ心、ご計画が、主イエスの十字架の死において成し遂げられたのです。

十字架の下にいた人々
 さて本日の箇所には、主イエスが十字架の死において成し遂げて下さったもう一つのことが語られています。それを語っているのが35?37節です。主イエスの十字架のそばには、四人の女性たちと「愛する弟子」が立っていました。このことはヨハネ福音書だけが語っています。他の福音書には、女性たちが主イエスの十字架を遠くから見ていたとありますが、ヨハネは、十字架の真下にこの女性たちがいたと語っているのです。また「愛する弟子」がそこにいたと語っているのもヨハネのみです。この弟子は最後の晩餐の場面から登場している、ヨハネ福音書に特徴的な人物です。他の福音書では、主イエスの十字架の場面に弟子たちは全く出て来ませんが、ヨハネだけは、この弟子が十字架の真下にいて、主イエスから語りかけられているのです。この特徴的な話によって、ヨハネ福音書は何を語ろうとしているのでしょうか。

イエスの母と愛する弟子
 四人の女性たちがいましたが、主イエスが語りかけたのは「その母」つまり主イエスの母です。十字架の上で死に臨んでおられる主イエスが、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と語りかけたのです。そしてその傍にいた「愛する弟子」にも「見なさい。あなたの母です」と語りかけたのです。「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」とあります。この話は単純に読めば、十字架の死を目前にした主イエスが、遺していく自分の母に、「これからはこの弟子をあなたの子と思って頼りなさい」と語りかけ、その弟子には「これからは私の母をあなたの母として面倒を見てやってほしい」と託した、ということになります。死に臨んで母親のこれからのことを心配しておられる主イエスのやさしさが描かれている、ということになるわけですが、しかしこれはそんな単純な話ではありません。ヨハネがこの話をそのような美談として語ってはいないことは、「婦人よ」という呼びかけから分かります。ここは以前の口語訳でも新しい聖書協会共同訳でも「女よ」となっています。直訳すれば「女よ」であって、新共同訳はそれを丁寧に「婦人よ」と訳したのですが、それはいかにも不自然な訳です。しかしそういう翻訳の問題よりも、そもそも母親に向かって「女よ」と呼びかけること自体が不自然であり、失礼なことです。なぜ「お母さん」と言わないのか。そこに、この話の深い意味を探っていくヒントがあるのです。

カナの婚礼の話との繋がり
 これと同じことは以前にもありました。この福音書の第2章の、ガリラヤのカナでの婚礼の場面です。そこにも主イエスの母が登場しています。そして主イエスは2章4節で母に、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と言ったのです。これも「女よ」という呼びかけです。しかもここで主イエスは母に、「わたしとどんなかかわりがあるのです」と言っておられます。これは、「あなたは私とどんな関わりがあるのです」ということです。母親に向かって、あなたと私は関わりがない、関係がない、と言っているのです。これは「女よ」以上にひどい言葉だと言わなければならないでしょう。しかし実はこの箇所と本日の箇所とは繋がっているのです。両方を繋げて読むことによって初めて、この二つの話の、そして主イエスの不可解な言葉の意味が見えてくるのです。

主イエスの時
 2章4節において大事なのは「わたしの時はまだ来ていません」という言葉です。「主イエスの時」がまだ来ていないので、主イエスは母に「あなたはわたしとどんなかかわりがあるのです」と言ったのです。ということは、「主イエスの時」が来たなら、そのかかわりが生まれるということです。「主イエスの時」はいつ来るのでしょうか。それは十字架の死においてです。十字架の死が迫って来る中で主イエスが「わたしの時が来た」とおっしゃったことがこの福音書に繰り返し語られています。例えば17章の祈りの冒頭に「父よ、時が来ました」とありました。この後捕えられ、翌日には十字架につけられることを意識しつつ主イエスは「時が来ました」とおっしゃったのです。つまり「わたしの時」とは、主イエスが十字架にかかって死ぬことによって神から託された救いのみ業を成し遂げる時です。今やその時が来ているのです。ですから今こそ「母と子」のかかわりが生まれるのです。

愛する弟子とは
 その母と子のかかわりは、主イエスの母と主イエスの間に実現したのではありません。十字架の上で主イエスは母に、愛する弟子を、「御覧なさい。あなたの子です」と与え、愛する弟子に、母を、「見なさい。あなたの母です」と与えたのです。つまり主イエスはここで、主イエスの母と愛する弟子の間に、「母と子」の関係を与えたのです。「愛する弟子」とは誰なのでしょうか。この人は、弟子たちの中で主イエスが特別に愛しておられた者、として登場しています。そしてこの弟子こそ、この福音書を書いたとされるヨハネではないかと言われています。実際にヨハネが書いたのではないとしても、ヨハネを指導者として歩んでいた教会においてこの福音書は書かれたと考えられているのです。つまりヨハネ福音書は、自分たちの指導者である弟子を登場させて、その人は主イエスから特別に愛されていたのだ、と語っているのです。そこには、弟子の筆頭と位置づけられていたペトロに対するある対抗意識が現れています。この福音書が書かれた紀元1世紀の終わり頃、教会の中に、ペトロの教えを受け継ぐ流れと、ヨハネの教えを受け継ぐ流れとがあったのです。両者は対立していたわけではなくて、共にキリストの教会として歩んでいましたが、対抗意識もありました。そのことがこの福音書には随所に感じられます。そういう背景から、主イエスの十字架の下にはヨハネがいて、主イエスの母を託された、という話が生まれたと思われるのです。

信仰者の代表である「愛する弟子」
 けれどもそれはこの話が生まれた背景であって、ヨハネ福音書がこの話を記したことの目的は別のところにあります。ヨハネ福音書はこの話によってもっと大事なことを語ろうとしているのです。なぜなら、もしもこの「愛する弟子」が、ペトロよりもヨハネの方が主イエスに愛されていたのだという主張のために登場しているのだとしたら、この弟子はヨハネだ、ということがはっきり語られたはずだからです。しかしこの「愛する弟子」の名前はどこにも語られていません。彼がヨハネだというのは後からの推測であって、この福音書にはそれは語られていないのです。ペトロの名前は何度も出て来るのに、この弟子の名前は語られず、ただ「愛する弟子」とか「イエスの愛しておられた者」と言われているだけなのです。このことは何を意味しているのでしょうか。それは、この福音書が、この弟子を、自分たちの指導者であるヨハネに特定しようとしているのではなくて、むしろ主イエスの弟子たち全体を代表する者として描こうとしている、ということです。主イエスに愛された弟子は決してヨハネだけではありません。主イエスは弟子たち一人ひとりを、心から愛しておられたのです。13章の1節には「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とありました。弟子たちは皆、主イエスによってこの上なく愛し抜かれた人たちだった、ということをヨハネ福音書も語っているのです。その弟子たちの代表が「愛する弟子」なのです。つまりこの弟子は、ヨハネの教えを受け継いでいる人々の代表ではなくて、主イエスに愛され、主イエスによる救いにあずかっている全ての信仰者の代表、つまり私たちみんなの代表なのです。

信仰者に与えられた母
 ですからこの話は、主イエスの十字架の死において、信仰者たちに母が与えられた、ということを語っているのです。その母とは、イエスの母マリアではありません。私たちは、他の福音書から、主イエスの母がマリアという人だったことを知っています。しかしヨハネ福音書には、母マリアの名前は一度も出て来ません。本日の箇所においても、他の二人がマリアだったことは語られているのに、イエスの母の名は語られていません。愛する弟子の名前が語られていないのと同じように、主イエスの母の名前も語られていないのです。つまりこの母も、マリアという特定の人を指しているのではなくて、象徴的な存在として語られているのです。主イエスが「お母さん」ではなくて「女よ」と語りかけているのはそのためです。ヨハネ福音書はここで、表面的には、主イエスが母を愛する弟子に託した、ということを語りつつ、信仰者たちの代表である「愛する弟子」に、象徴的な母が与えられたことを語っているのです。

母なる教会
 信仰者たちに与えられたこの母は、教会を象徴しています。「母なる教会」という言い方が古来なされてきました。教会は、私たち信仰者の母です。その教会とは勿論建物ではありません。またそれは人間が集まって営む団体でもありません。教会は、父なる神が、主イエス・キリストによる救いにあずかる者たちを集め、頭であるキリストに結び合わせて下さった、キリストの体です。キリストと結び合わされたことによってお互いどうしも繋がって共に生きている群れです。この福音書の15章にはそのことが、まことのぶどうの木である主イエスに枝である私たちが繋がっている、というイメージで語られていました。ぶどうの枝である私たちは独りでは生きることができず、実を結ぶこともできません。それは、人間一人では生きられない、仲間が必要だ、ということではありません。枝がいくら集まって交わりを持ってもぶどうの木になることはできないのです。地面にしっかりと根を下ろしている幹に繋がることによって初めて、個々の枝に命が与えられ、そして枝どうしの交わりも与えられるのです。そのぶどうの木が母なる教会です。
 生まれつきの私たちは、繋がっているべき幹から離れてしまっています。神によって命を与えられ、神と繋がっていることによってこそ生かされるはずの私たちが、神を信じ従おうとしない罪によって、神との繋がりを失い、命の源から切り離されて、干涸びた枯れ枝になってしまっているのです。神はそのような罪人である私たちをなお愛して下さって、独り子を与えて下さいました。神の独り子主イエスは私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪の赦しを成し遂げて下さいました。このキリストの十字架の下へと私たちは招かれています。そこで私たちは罪を赦され、神との繋がりを回復され、神の子として新しく生まれ変わって生き始めるのです。それが洗礼を受けるということです。洗礼によって私たちは神の子として新たに生まれるのです。その新しい誕生が起る場が母なる教会です。私たちは母なる教会の礼拝において主イエス・キリストと出会い、主イエスが自分を「愛する弟子」として下さっていることを知らされ、洗礼を受けて、キリストの体の一部として新しく生き始めるのです。そして母なる教会の中で、主イエスの父である神の子とされて生きていきます。母なる教会が私たちを、父なる神の子として生み、育ててくれているのです。主イエスの十字架の死によって、私たち信仰者に、この母なる教会が与えられた。ヨハネ福音書はそういう母と子のかかわりが主イエスによってもたらされたことを語っているのです。

母なる教会において、父なる神の子として生きる
 主イエスに愛されている弟子である私たちに与えられたこの母は「主イエスの母」です。私たちは、主イエスの母を自分の母として与えられている。それは主イエスの兄弟姉妹とされている、ということです。母なる教会において新しく生まれた私たちは、主イエスが一番上の兄である、主イエスの弟、妹とされています。そして主イエスと共に、神を「父」と呼んで祈ることができる者とされているのです。それもまた、母なる教会において与えられている恵みです。私たちは、教会という母のもとで生まれ、養われ、育てられていくことによって、自分を本当に愛し、守り、導いて下さる父の子とされ、天の父に向かって愛と信頼をもって語りかけ、どんなことでも打ち明け、願い求めていく、そういう祈りに生きることができる者とされているのです。
 今私たちは、新型コロナウイルスの感染状況に一喜一憂しつつ、不安と恐れの中を生きています。より感染力の強い、また重症化する率も高いとされる変異ウイルスが広がって来て、三度目の緊急事態宣言もあるかもしれない、とされています。このようなことがいつまで繰り返されていくのか、とうんざりするような思いです。しかし私たちには、母なる教会が与えられています。私たちを神の子として新しく生まれさせ、神のみ言葉によって養い、育ててくれる母なる教会です。母なる教会において洗礼を受け、キリストと結び合わされた私たちは、独り子主イエス・キリストと共に、神に「天の父よ」と呼びかけて祈ることができる神の子とされているのです。そこには、いかなる苦しみによっても、そして死の力によっても失われることのない真実の平安、慰め、力付けが与えられます。主イエス・キリストの十字架の死において、この救いが成し遂げられたのです。

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