主日礼拝

血しおと水

「血しおと水」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:出エジプト記 第12章43-46節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第19章31-37節
・ 讃美歌:127、449

安息日が始まる前に
 先週の礼拝で読んだ19章30節において、主イエス・キリストは十字架の上で息を引き取られました。本日はその続きです。31節に「その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので」とあります。主イエスが十字架につけられたのは、安息日の前日でした。安息日とは土曜日ですから、金曜日ということです。「準備の日」というのは、過越の食事の準備をする日、という意味です。19章14節には、ピラトによる主イエスの裁判が行われたのは「過越祭の準備の日の、正午ごろであった」と語られていました。その裁判で死刑の判決が下され、直ちに処刑が行われたのです。ユダヤにおいて一日は日没から始まりますので、主イエスの十字架の死から、日没になって翌日の安息日が始まるまでにはあまり時間がありません。それで、31節後半にあるように「ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た」のです。十字架にかけられた遺体は汚れたものと考えられていましたから、安息日が始まる前に取り降ろして埋葬しようとしたのです。「足を折って」とあるのは、十字架の死刑は基本的に、十字架に釘付けにして晒しておき、じわじわと死ぬのを待つという、その点でも大変残酷な処刑方法だったわけで、死ぬまでにかなりの時間がかかることがあったのです。その場合に、死を早めるために棍棒で死刑囚の足の骨を折るということがなされていたようです。足を折って早く死なせて埋葬しよう、ということです。

過越祭の準備の日
 このようにここには、主イエスの十字架の死は、過越祭の準備の日の午後のことだったと語られているわけですが、ヨハネ福音書のこの記述は他の三つの福音書とは違っています。過越祭の準備とは、先ほども申しましたように過越の食事の準備です。日没になって過越祭の日になると、過越の食事がなされるのです。それに備えて、準備の日の午後に過越の小羊が屠られます。ヨハネ福音書は、過越の小羊が屠られるまさにその時刻に、主イエスは十字架の上で死なれた、と語っているのです。他の三つの福音書においては、主イエスが弟子たちと共にとった最後の夕食、いわゆる最後の晩餐が過越の食事だった、と語られています。その過越の食事の日に、私たちの感覚からするとその翌日になりますが、主イエスは十字架にかけられたとされているのです。このように他の三つの福音書とヨハネでは、主イエスの十字架の日が一日ずれています。ヨハネ福音書はこのことによって何を語ろうとしているのでしょうか。

主イエスこそ過越の小羊
 過越の小羊は、イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態から解放された過越の出来事において屠られました。エジプトの王ファラオがイスラエルの民の解放をなかなか認めないので、主なる神は数々の禍を下されましたが、その最後決定的なものが、エジプト中の初子、つまり最初に生まれた男子また雄の家畜を撃ち殺す、というみ業でした。その時、イスラセルの民においては、過越の小羊が屠られ、その血が戸口に塗られたことによって、それが目印となって、初子を撃ち殺す主のみ使いはその家を過ぎ越した、つまり通り過ぎたので、イスラエルの初子は一人も死ぬことはなかったのです。この過越の出来事によってついにエジプト王は、イスラエルがエジプトを去ることを認めました。過越の小羊の死という犠牲によって、神の民イスラエルの救い、奴隷状態からの解放が実現したのです。その過越の小羊の死と主イエスの十字架の死は重なります。主イエスの十字架の死という犠牲によって、罪に支配され、その奴隷となっている私たちに罪の赦しが与えられ、罪の支配からの解放が実現したのです。この福音書の1章29節で、洗礼者ヨハネが主イエスを見つめて「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました。それは主イエスこそ過越の小羊だということです。このヨハネの言葉の通りに、主イエスは過越の小羊として十字架の上で死なれたのだ、ということをヨハネ福音書は語ろうとしているのです。

主イエスの足は折られなかった
 さてユダヤ人たちの求めを受けてピラトは兵士たちを遣わし、十字架にかけられた囚人たちが死んだことを確かめさせました。他の二人の足を折ったが、主イエスのところに来てみると、既に死んでいたので、その足は折らなかった、と33節にあります。そして36節には、このことは「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉の実現だった、と語られています。主イエスの足の骨が折られ、砕かれることはなかったということに、ヨハネ福音書は旧約聖書の預言の成就を見ているのです。「その骨は一つも砕かれない」に最も近い言葉は詩編34編21節にあります。詩篇34編20、21節にはこう語られています。「主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように彼を守ってくださる」。この言葉は、主に従う人を主は骨の一本も損なわれることのないように守って下さる、ということを語っています。主イエスの足が折られなかったことがこの言葉の実現だったとしたら、この出来事は、主なる神に徹底的に従って十字架の死を遂げた主イエスを、神はなお守って下さっており、復活へと至らせて下さる、ということを意味していることになるでしょう。しかしヨハネ福音書がここで意識しているのはむしろ、先ほど共に読まれた出エジプト記第12章だと思うのです。この12章にはまさに、先ほどの過越の出来事が語られており、43節以下は、そのことを記念して行われる過越祭についての掟です。イスラエルの人々は、それぞれの家で、過越の犠牲である羊を屠って家族で食べることによって、主なる神がこの過越の出来事によって与えて下さった救いを記念し、喜び祝うのです。その食事が過越祭の中心です。その食事についての教えの46節に、「また、その骨を折ってはならない」とあります。過越の小羊の肉を食べる時に、その骨は折ってはならないのです。主イエスの足が折られることはなかったことに、ヨハネ福音書はこの言葉の実現を見ているのだと思います。つまりこの出来事も、主イエスが私たちのための過越の小羊として死んで下さったことを示しているのです。ヨハネは、主イエスの十字架の死によって、過越の出来事においてイスラエルの民に与えられたのと同じ救いが実現したことを見つめているのです。

過越の小羊である主イエスの肉を食べる
 そこからさらに言えることは、イスラエルの民が過越によるエジプトからの救い、解放を記念して過越の食事を行っているのと同じように、主イエスの十字架の死による救いにあずかった者たちも、その救いを記念する食事にあずかっていることをヨハネは意識しているだろう、ということです。それは教会において行われている聖餐のことです。聖餐のパンと杯にあずかることにおいて私たちは、主イエスが私たちのための過越の小羊として十字架の上で肉を裂き、血を流して死んで下さったことによって実現した救いを覚え、この体をもってその救いにあずかるのです。イスラエルの民にとっての過越の食事が私たち教会においては聖餐なのです。他の三つの福音書は、最後の晩餐が過越の食事だったと語っており、そこで主イエスが弟子たちに、パンと杯を分け与えて、「これはわたしの体である」「これはわたしの血である」とおっしゃり、「わたしを記念するためにこのように行いなさい」とお命じになったこと、つまり聖餐をお定めになったことを語っています。つまり最後の晩餐が過越の食事だったという他の福音書の記述は、過越の食事を受け継ぐものとして聖餐が定められたことを語っているのです。ヨハネ福音書は、最後の晩餐において聖餐が定められたことを語っていません。しかし主イエスご自身が過越の小羊として十字架の上で死なれたと語ることによって、私たちも過越の小羊である主イエスの肉を食べることによってその救いに体をもってあずかるのだということを見つめているのです。そのことをはっきり語っていたのが、6章53?56節です。そこには主イエスのこういうお言葉が記されていました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。このみ言葉が聖餐の恵みを語っていることは明らかです。

聖餐への招き
 このことから分かるように、ヨハネ福音書と他の三つの福音書とでは、主イエスの十字架の日付が一日ずれていますが、どちらも、見つめていることは同じなのです。主イエスの十字架の死は、私たちのための過越の小羊としての死であり、それによって救いが与えられたのです。主イエスを信じてその救いにあずかった者たちは、過越の小羊である主イエスの肉を食べることによってその救いを記念し、味わうための食事である聖餐へと招かれているのです。四つの福音書は共通してそのことを語っています。その聖餐に私たちは、新型コロナウイルスのためにこの一年あずかることができていません。それは教会として由々しい事態です。み言葉が語られていれば聖餐にあずからなくてもいい、ということは決してありません。三回に分かれて礼拝をしなければならない今のこの状況において、どうすれば不安なく、喜びをもって聖餐にあずかることができるかを、長老会において今真剣に考えています。再び聖餐に共にあずかることができる日を、忍耐しつつ待ち望んでいきたいのです。

主イエスを刺し貫いた者
 さて34節には、「しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」とあります。そして37節には「また、聖書の別の所に、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』とも書いてある」とあって、このことも、聖書の言葉の実現だったと語られています。その聖書の言葉とは、旧約聖書ゼカリヤ書第12章10節です。そこにはこう語られています。「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」。このゼカリヤ書の言葉は、「ダビデの家とエルサレムの住民」つまり主なる神の民である人々が、「自らが刺し貫いた者であるわたし」を見て深く嘆き悲しむ、という主なる神のお言葉です。神の民であるはずの者たちが、自分たちの神である方を刺し貫いてしまう、ということがここには預言されているのです。主イエスの十字架の死においてこの預言が実現した、とこの福音書は語っているのです。そう語っているのは、36節にあるように「それを目撃した者」です。それは先週の箇所にも出て来た「愛する弟子」のことだと思われます。彼は主イエスの十字架の真下にいて、主イエスの死を間近で目撃したのです。その弟子が、主イエスのわき腹が槍で突かれたことに、このゼカリヤ書の言葉の実現を見たのです。それは彼が、主イエスを刺し貫いたのはこの自分だ、と思ったということです。実際に槍で刺したのはローマの兵士だけれども、神の民であり、主イエスの弟子である自分が、神の独り子主イエスを刺し貫いてしまった、自分の罪のゆえに、神の独り子が刺し貫かれている、彼は主イエスの十字架の死にそのことを見て愕然としたのです。そして同時に、そのようなとんでもないことが起こることを、神ご自身が既に預言しておられたことにも気付かされたのです。そこに主なる神の深いみ心、ご計画があったのです。ゼカリヤ書の言葉には、神を刺し貫いてしまった者たちが、「独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」とあります。しかし主イエスの十字架の死において起っているのは、父なる神ご自身が、独り子を失った嘆きを、初子の死の悲しみを負っておられるということでした。神を刺し貫いてしまった罪人である自分が本来味わわなければならない嘆き、悲しみを、神が代って負って下さり、それによって自分を赦して下さっている。主イエスの十字架の死によって実現したその救いを彼は体験し、それを証ししたのです。

血と水
 槍で突かれた主イエスのわき腹からは、血と水とが流れ出ました。槍で突かれて血が流れ出るのは自然なことです。それは神の独り子である主イエスが、私たちと同じ人間としてこの世を生きて下さり、肉体をもって十字架の苦しみと死を受けて下さったことを示しています。主イエスが十字架の上で、私たちに代って、一人の人間として血を流して死んで下さったことによって、私たちは罪を赦され、神との良い関係を回復されたのです。この主イエスの血による救いを体をもって味わうために、聖餐の杯が与えられています。私たちは聖餐において、主イエスの裂かれた脇から流れ出た血しおにあずかるのです。
 血と共に水が流れ出たとあります。この水は、この福音書の第7章37節以下に語られていた主イエスのお言葉の実現であると言えるでしょう。主イエスはそこで、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」とおっしゃいました。また4章14節にも「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とも言われていました。主イエスが十字架の上で血を流して死んで下さったことによって、渇いている私たちにこの生きた水、永遠の命に至る水が与えられたのです。7章39節には、主イエスが与えて下さるこの生きた水について「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである」と語られています。主イエスが与えてくださる水とは、主イエスのもとから遣わされる霊、聖霊のことです。聖霊を注がれることによって私たちは、命の泉である神から離れてしまっている罪による魂の渇きを癒され、神のもとに立ち返り、命の水によって潤され、喜びをもって生き生きと神と共に歩むことができるようになるのです。そしてその命の水は私たちの内で泉となって流れ出し、周囲の人々をも神の救いの恵みによって潤していくのです。またこの水が神が与えてくださる霊であることは、先ほどのゼカリヤ書の言葉ともつながります。そこでは、神を刺し貫いてしまった神の民に、神が「憐れみと祈りの霊を注ぐ」と言われていました。この福音書の著者は、自分が神の子を刺し貫いてしまったという深い罪に気付かされ、愕然としました。その彼に神は、憐れみと祈りの霊を注いで下さったのです。聖霊は憐れみと祈りの霊であるがゆえに、命の水です。その命の水によって彼は魂の渇きを癒され、神の憐れみによって罪を赦され、神に祈ることができる、つまり神との良い交わりに生きることができる者とされて新たに生き始めたのです。主イエスのわき腹から血と水が流れ出たことを目撃した彼は、主イエスの十字架の死によって実現したこの救いが自分に与えられたことを体験したのです。

真実な証しによって新しく生かされる
 その彼によってこの福音書は書かれました。35節に「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている」とあります。彼は主イエスの十字架の真下で、その裂かれた脇から流れ出た血しおと水による救いを体験したのです。そしてその救いを証ししたのです。「その証しは真実である」と彼は言っています。それは、主イエスの十字架による救いが彼を本当に生かしている、ということです。神の独り子を刺し貫いてしまう罪のゆえに、絶望の内に滅びるしかない自分が、主イエスの十字架の死によって赦され、憐れみと祈りの霊を注がれて、新しくされ、喜びをもって神と共に生きることができるようになったことは、彼にとってまぎれもない事実なのです。その真実な救いを彼はこの福音書において証ししているのです。それは「あなたがたにも信じさせるため」です。この福音書を読んでいる私たちも、主イエスによる救いを信じてそれにあずかり、罪を赦されて、憐れみと祈りの霊を注がれて新しくされ、神との良い交わりを回復されて、喜んで生きる者となるのです。それによって、隣人との間にも良い交わりを築いていくことができる者とされるのです。自分の証しを通してそういう救いが必ず起こることを彼は知っています。「自分が真実を語っていることを知っている」とはそういうことです。そのことが今私たちに起っています。彼の真実な証しであるこの福音書を読み、み言葉を聞いている私たちも、彼と共に、主イエスの十字架の真下に立って、自分のために十字架の上で死んで下さった主イエスを目撃しているのです。そして、その裂かれた脇から流れ出た血しおと水によって、罪もけがれも洗いきよめられ、新しく生かされているのです。今私たちは、み言葉を聞くことによってその恵みにあずかっていますが、み言葉と共に、体をもってその救いにあずかる聖餐に共にあずかる日を、切に待ち望んでいるのです。

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