「信じるなら、神の栄光を見る」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:エゼキエル書 第37章11-14節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第11章38-44節
・ 讃美歌:332、458
なお続く試練の日々
5月に入りました。今日はゴールデンウイークのど真ん中の日曜日です。普通なら行楽地に人が溢れており、横浜も騒がしい時ですが、今年は閑散としています。六日までの予定だった緊急事態宣言も延長されることになり、教会も5月中に皆が集まる礼拝を再開することは難しいと判断しました。今月もこの説教の音声を聞いたり、原稿を読んでそれぞれの家で礼拝を守っていただくことになります。日々の生活においても、信仰においても、なお試練の日々が続きますが、皆さんの上に主の守りと導きがありますように、この礼拝においても祈っています。
ラザロの復活
さて皆で礼拝を守ることができなくなった4月から、ヨハネによる福音書第11章を読んできています。この11章には「ラザロの復活」が語られています。ヨハネ福音書において主イエスがなさった七つのしるしの最後にして最大のものです。本日の箇所の最後の44節に、ラザロが復活して墓から出て来たことが語られています。手と足を布で巻かれたまま、顔は覆いで包まれたままで出て来たとあります。非常にリアルな描写であり、グロテスクですらあります。ヨハネ福音書は、死んで墓に葬られていたラザロが、葬られたままの姿で復活して出て来たことをリアルに語っているのです。そのことの意味についても後で考えたいと思います。
主イエスの憤り
44節でついにラザロが復活するわけですが、そこに至るまでにいろいろなことが語られてきました。本日の箇所の冒頭の38節には「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた」とあります。主イエスが心に憤りを覚えたことは33節にも語られていました。主イエスはこの11章で二度にわたって心に憤りを覚えておられるのです。33節では、ラザロの姉妹マリアや慰めに来ていたユダヤ人たちが泣いているのを見て心に憤りを覚えたとありました。ラザロの死を嘆き悲しんでいる人々を見て憤られたのです。先週も申しましたようにそれは、嘆き悲しんでいる人たちに対して憤られたのではありません。この憤り、怒りは、彼らを捕えて悲しみと絶望の淵に引きずり込んでいる死の力に向けられています。本日の38節における憤りもそれと同じです。ここは話の流れからすると、37節でユダヤ人たちの中に「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者がいたことが語られています。「さすがのイエスもラザロを死の力から救うことはできなかった」と思った人々がいたわけで、それを聞いて主イエスが憤られたと読めるのです。しかしここでも、主イエスの憤りは、そのように言った人々に向けられていたのではないでしょう。人々がそのように思ったのも、死の力が圧倒的に支配しているという現実のゆえです。一旦死に捕えられてしまったら、もう誰もその人を解放することはできない。死こそこの世で最も強い力で、主イエスといえどもそれに打ち勝つことはできない、彼らはそのように思ったのです。主イエスは、そのように思った人々に対してではなくて、そのように人々を捕え支配し、希望を失わせている死の力に対して、再び激しい憤りを覚えつつ、ラザロの墓に来られたのです。
死の力との戦い
主イエスが憤られたことが二度にわたって語られていることには大きな意味があると思います。ラザロの復活は、主イエスの憤りによってなされた奇跡なのです。そう言うと、主イエスが憤りつまり怒りによって奇跡をなさるなんて…と意外に思う人もいるかもしれません。しかし憤り、怒りには激しいエネルギーが込められています。怒りに燃える時、私たちは普段は出ない力を発揮したりするのです。死んだラザロを復活させる、それは死の力との戦いです。死は圧倒的な力を持って私たちを脅かし、支配しようとしています。一旦死に捕えられたらもう手遅れで、誰もそこから抜け出すことはできない、それが私たちが知っているこの世の現実です。主イエスは今、この圧倒的な死の力に戦いを挑もうとしておられるのです。それにはとてつもないエネルギーが必要です。そのエネルギーが、主イエスの憤り、怒りから発しているのです。この憤り、怒りは、私たちがしばしば起す癇癪とは違います。これは神の怒りです。その怒りは、再三申していますように、私たち人間に向けられているのではありません。私たちは神によって命を与えられていながら背き逆らっている罪人であり、神を信じて従おうとしていてもなお弱さがあり、すぐに不信仰、疑いに陥ってしまいます。だから神の怒りが私たちに向けられても仕方がないのですが、しかし神は罪人である私たちに対して怒るのではなくて、むしろ愛して下さっているのです。その愛のゆえに、私たちが罪に支配され、そのために死の力にも支配されてしまっていることを悲しんで下さり、私たちを罪と死から救い出すために、独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さったのです。主イエスは父なる神の愛のみ心に従ってこの世を歩み、この福音書の3章16節にあったように「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という神のみ心を告げ知らせ、そして先週の箇所にあったように死の力による悲しみの中にいる者たちのために涙を流し、そして私たちを捕え、苦しめ、悲しませ、絶望させている死の力に対して激しい憤りをもって戦いを挑んでいかれたのです。主イエスの怒りに込められたエネルギーは、私たちを愛し、大切に思い、救ってくださろうとしている神の愛のエネルギーです。私たちを心から愛して下さっている神のエネルギーが、死のエネルギーに勝利したことによって、ラザロの復活の奇跡が起ったのです。
この時と同じように今も
この時ラザロを捕え、その姉妹たちを悲しみのどん底に突き落とした死の力は、今新型コロナウイルスを用いて私たちをも脅かしています。世界で何十万もの人々が実際に命を失い、その数はなお増えています。実際に病気を発症しなくても、恐れ、不安が私たちの心を捕え、ストレスが高まり、積極的に人と関わり、人を愛そうとする思いを萎えさせ、かえって怒りや苛立ちを募らせています。このウイルスによって人と人との間が分断されているのです。それらは全て、死の力の支配の現れです。そこには私たちの弱さ、罪、不信仰が絡んでいますが、しかし神は今も、罪人である私たちに対してではなく、私たちを捕え、苦しめ、悲しみ、絶望に引きずり込んでいる死の力に対して激しく憤っておられ、その怒りをもって死の力と戦い、勝利して下さるのです。ヨハネ福音書11章は私たちにそのことを告げています。神が私たちへの愛に基づく怒りのエネルギーによって死の力に勝利して下さり、私たちを悲しみ、絶望から解放し、新しく生かして下さるのです。ラザロの復活の出来事は、今不安や恐れの中にいる私たちにこのことを示し、希望を与えるのです。
死の支配か神の栄光か
心に憤りを覚えてラザロの墓に来られた主イエスは、墓を塞いでいる石を「取りのけなさい」とおっしゃいました。墓を塞いでいる石は、ラザロを死の支配下に閉じ込めている石です。死の力の支配を象徴する石です。それを取りのけることによって、主イエスはいよいよ死の力と直接対峙し、戦われるのです。しかしラザロの姉妹であるマルタは、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言いました。これが私たちの知っている現実であり、人間の常識です。死に支配された人間は墓の中で腐敗し、朽ちていくしかない、それが、死の支配の前になすすべのない人間の現実認識なのです。しかし主イエスはそこで、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」とおっしゃいました。「あなたは神の栄光を見る」と主イエスは既に語っておられたのです。それは23節の「あなたの兄弟は復活する」という宣言と、それに続く25節の「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」というお言葉のことでしょう。さらに4節には、ラザロの病気のことを聞いた主イエスが「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」とおっしゃったことが語られていました。ラザロの病気は、死の支配によって終わるものではなくて、復活へと至る。それによって神の栄光が、神の子である主イエスの栄光が現される、と主イエスは既に告げておられたのです。「四日もたっていますから、もうにおいます」というマルタの言葉は、死に対する敗北宣言です。しかし主イエスは「あなたが見るのは死の力の勝利と支配ではない、神が死の力を打ち砕いて新しい命を与え、ご自身の栄光を示して下さる、その神の栄光をこそあなたは見るのだ」とおっしゃったのです。死の力の支配の対極にあるのは神の栄光です。あなたがたが最終的に見るのは死の力の勝利と支配なのではない。死の力に対する神の勝利によって示される神の栄光をこそあなたがたは見るのだ、と主イエスはマルタに、そして私たちに、宣言して下さっているのです。
信じるなら神の栄光を見る
しかしそこには、「もし信じるなら」という言葉があります。神の愛が死の力に勝利し、神の栄光が示されるのを見ることは、信じることによってこそ可能となるのです。信じることなしには、神の栄光を見ることはできません。そして信じるとは、まだ目に見える現実となっていないことを信じることです。この福音書の20章29節に、「見ないのに信じる人は、幸いである」という主イエスのお言葉がありますが、神の私たちへの愛が死の力に打ち勝つのを見ることができるのは、それをまだ見ていなくても信じて歩むことによってなのです。つまり私たちは、神の栄光を見たから信じるのではなくて、信じて歩むことの中で神の栄光を見るのです。主イエスが今私たちに求めておられるのもまさにこのことです。新型コロナウイルスを用いて死の力が私たちを脅かし、恐れと不安の中で絶望へと引きずり込もうとしています。その苦しみ悲しみが今私たちの目に見える現実であって、そこからの出口はまだ見えない、いつまでこの苦しみが続くのか、見当もつきません。しかしその私たちに主イエス・キリストは今、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と語りかけておられます。このみ言葉に励まされて私たちは、神が今、私たちへの愛のゆえに、恐れと不安を覚えて悲しんでいる私たちのために涙を流し、憤りをもって死の力と戦い、それを打ち破って新しく生かして下さるという救いを信じて歩んでいくのです。その歩みの中で私たちも、神の愛の勝利と栄光を見ることができるのです。
主イエスの十字架の死と復活によって
私たちはそのように、まだ見えていない救いを信じて生きることができます。なぜなら私たちは、この主イエスのお言葉が、単なる口先だけの安請け合いではなかったことを知っているからです。主イエス・キリストは、私たちを支配し、恐れと不安を与えている死の力と実際に戦って下さいました。その戦いにご自分の命をささげて下さったのです。死の力との戦いにおいてご自身が苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さったのです。神の独り子である主イエスが私たち罪人のために十字架にかかって死んで下さったのです。その主イエスを父なる神は死の力の支配から解放し、復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。それによって、私たちの罪の赦し、死の支配からの解放、新しい命、復活の命の約束という救いが実現したのです。ラザロの復活はこの主イエスの十字架の死と復活において実現した救いの先取りです。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」という主イエスのお言葉も、「わたしは復活であり、命である」という宣言も、主イエスご自身の十字架の死と復活という救いの出来事によって裏付けられている確かな言葉だったのです。私たちはそのことを知っているので、死の力が猛威をふるい、救いが目に見える仕方で現されていない今の現実の中でも、神の愛の勝利を信じて、神はご自身の栄光を必ず見させて下さると信じて歩むことができるのです。
父と子とは一体
墓を塞いでいた石が取りのけられると、主イエスは天を仰いで、父なる神に祈られました。それは、「ラザロを復活させてください」という祈りではありませんでした。主イエスは、「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」と祈られたのです。父なる神と独り子なる神主イエスとが一体であり、父と子の間の深い信頼関係があることを感謝する祈りです。神による救いはこのことによってこそ実現しました。父なる神は、私たちへの愛のゆえに、罪と死に支配されている私たちを救うために独り子主イエスを遣わして下さいました。独り子主イエスは、その父のみ心に忠実に従ってこの世を歩み、罪と死の力に対して憤りをもって戦いを挑み、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。その歩みに応えて父なる神は主イエスを死の支配から解放し、復活させて下さいました。それによって、神の愛が死の力を打ち砕き、私たちを新しく生かして下さる救いが実現したのです。ラザロの復活はこの救いを証ししています。その出来事は、ただ主イエスが偉大な力でラザロを復活させたというのではなくて、父なる神と独り子なる神主イエスとが一体となって、主イエスの十字架の死と復活によって実現して下さった救いの先取りなのです。父と子との間に、「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」という深い信頼関係があるからこそこの救いは実現したのです。主イエスはさらに、「しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」とも祈られました。父なる神が主イエスをこの世にお遣わしになり、主イエスによって救いのみ業を行って下さること、つまり「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というみ心を人々が信じるようになるためにこそ、ラザロの復活という奇跡は行われたのです。
神の愛の大声
こう祈って、主イエスは「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれました。大声で叫んだ。そこには、神の私たちへのありったけの愛のエネルギーが、そして私たちを支配し、恐れや不安、絶望に引きずり込もうとしている死の力への激しい怒り、憤りのエネルギーが込められています。それは私がここでどんな大声を張り上げても及びもつかない、神の愛の大声です。その声によって、ラザロは復活し、墓から出て来たのです。しかしヨハネ福音書はここで、ラザロが墓から出て来たとは語っていません。「死んでいた人が」出て来たと言っています。これは、この物語が1節の「ある病人がいた」という言葉で始まっていることと対になっています。これは、ラザロという人の復活の話であると同時に、ある病人が死んで葬られたが、主イエスがそこに来られ、「わたしは復活であり、命である」と告げ、憤りをもって死の力と戦って下さったことによって、死んでいた人が復活し、新しい命を生き始めた、という話なのです。主イエスが来て下さり、出会って下さることによって、そういうことが私たち一人ひとりにも起るのだとヨハネ福音書は告げているのです。
ほどいてやって、行かせなさい
ラザロは「手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた」とあります。埋葬されたままの姿で墓から出て来たのです。このことが語られているのは、主イエスの復活との違いを示すためでしょう。主イエスも亜麻布で包まれて埋葬されました。しかし主イエスの復活においては、このような描写はありません。主イエスは、埋葬されたままの姿でではなく、復活して新しい命を生きておられるお姿で弟子たちに出会われたのです。ラザロの復活はこの主イエスの復活を指し示しており、それによって実現した救いを先取りしています。私たちもラザロと同じように、主イエスによって死の支配から解放され、新しく生き始めるのです。しかしラザロがそうだったように、新しく生き始めた私たちにも、埋葬における布や覆いが、死の支配のもとで私たちの体にまとわりつき、私たちから自由を奪い、生き難くしているものがなお残っているのです。主イエスは「ほどいてやって、行かせなさい」とおっしゃいました。主イエスによる救いにあずかり、新しい命を生き始めた私たちにもこのように、ほどかれなければならないものがあります。主イエスの十字架と復活によって神の愛が勝利して、打ち砕かれたはずの罪と死の支配の残り滓(かす)がなお私たちを捕え、自由を奪い、喜びをもって生き生きと生きることを妨げているのです。新型コロナウイルスによってもたらされている不安や恐れもその一つです。しかし神の愛の力は、独り子主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、既に死の力に勝利し、その支配から私たちを解放し、新しい命を与えて下さっています。聖霊のお働きによって、なおからみつく不安や恐れを脱ぎ捨てて、神の愛によって与えられている新しい命を、自由に、伸び伸びと生きていきたいのです。