「イエスとは誰か?」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:ミカ書 第5章1-3節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第7章40-52節
・ 讃美歌:51、124(1-4、6)、287
主イエスの言葉への群衆の様々な反応
本日はヨハネによる福音書第7章40節以下からみ言葉に聞こうとしています。冒頭の40節に「この言葉を聞いて」とあります。「この言葉」というのは、主イエスが仮庵祭の時にエルサレムの神殿の境内でお語りになった、37、38節のお言葉です。主イエスは「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」とおっしゃったのです。主イエスは4章14節でも同じことを語っておられました。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。主イエスのもとに来て、主イエスが与えて下さる生きた水を飲むなら、その水は私たちの内で泉となって、永遠の命に至る水がそこから湧き出るようになる。その水によって常に潤される私たちはもはや渇くことのない者となるばかりか、その水が川となって流れ出て、周囲の人々をも潤していくようになる。主イエスはそのようにお語りになったのです。
この言葉を聞いた群衆の中に、様々な反応が起ったことが40節以下に語られています。「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者がいました。「あの預言者」という言葉は1章21節にもありました。洗礼者ヨハネに人々が「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねたのです。「あの預言者」とは、旧約聖書申命記18章15節に語られている「モーセのような預言者」のことです。モーセは、「将来わたしのような預言者が現れてイスラエルの民を導くから、その人に聞き従え」と語ったのです。その預言者が現れることを人々は期待していました。しかし洗礼者ヨハネは「自分はその預言者ではない」と答えました。この人々は、主イエスこそがその「モーセのような預言者」なのではないかと思ったのです。また群衆の中には「この人はメシアだ」と言う人々もいました。「メシア」とは神が遣わして下さる救い主のことです。「あの預言者」よりもさらに待ち望まれていたのがこのメシアです。イエスこそ神から遣わされた救い主なのではないか、と思った人々もいたのです。「あの預言者だ」というのも「メシアだ」というのも、主イエスが神から遣わされて救いのみ業を行う方ではないかと期待している点では同じです。私は生きた水を与えると語った主イエスに、神の救いの実現を期待した人々がいたのです。
メシアはベツレヘムから?
しかしもう一方で、このように言う人々もいました。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」。この「聖書に書いてある」というのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、ミカ書第5章1節以下のことです。ベツレヘムはダビデ王の出身地です。そのベツレヘムから「イスラエルを治める者が出る」というこの預言は、ダビデ王の子孫としてメシアが現れることを語っているのです。一方主イエスはガリラヤの町ナザレの出身であることが人々に知れ渡っていました。エルサレムの人々から見てガリラヤは田舎、辺境の地です。そんな所からメシア、救い主が出るはずはない、メシアはベツレヘムから出ると聖書に書いてあるのだから、ガリラヤのナザレ出身のイエスがメシアであるはずはない、とこの人たちは言ったのです。しかし主イエスはまさにそのベツレヘムでお生まれになった方だと私たちは知っています。両親はガリラヤのナザレに住んでいたが、ローマ皇帝アウグストゥスの住民登録の命令によって、ダビデの子孫であったヨセフが先祖の地ベツレヘムに登録に行かなければならず、その旅先のベツレヘムで主イエスが生まれた。ということをルカによる福音書が語っているのです。それはまさに主イエスが、ミカ書の預言の成就としてベツレヘムで生まれた救い主であることを示しているわけです。しかしヨハネによる福音書は、主イエスの誕生のエピソードを一切語っていません。主イエスがベツレヘムで生まれたことはヨハネにおいては前提となっていないのです。イエスはガリラヤのナザレ出身とだけ思っているので、この人々は、イエスは救い主ではないと言っているのです。「こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた」と43節にあります。「イエスとは誰か」ということをめぐって、人々の間に様々な異なった思いが生まれていたのです。
主イエスのご生涯を正しく語るとは
イエスとは誰かをめぐって人々の間に対立が起ったことはこれまで読んだ所にも語られていました。そこには、この福音書が書かれた紀元1世紀の終り頃のユダヤ人社会の様子が反映されているのだ、ということをこれまでも何度かお話ししてきました。ユダヤ人の中には、主イエスこそが神からのメシア、救い主であると信じた人、つまりクリスチャンがおり、教会が生まれていました。しかし一方で、イエスがメシアであることを受け入れず、キリスト教会を迫害している、ファリサイ派を中心とする人々もいました。使徒パウロも元々はその一人だったわけです。つまり紀元1世紀の後半というのは、ユダヤ教の中に生まれ、最初はその一派と見なされていたキリスト教の独自性、ユダヤ教との違いが次第に明確になってきて、クリスチャンたちがユダヤ人の会堂から追い出され、ユダヤ教とキリスト教が分離していった時代なのです。ヨハネ福音書の著者は、自分たちが今体験しているその現実を意識しつつ主イエスのご生涯を描いているのです。
つまりヨハネ福音書は、自分たちが生きている時代の状況に引き寄せて主イエスのご生涯を語っています。それでは主イエスのご生涯を正確に語ることができないのではないか、と思うかもしれません。しかしそうではないのです。主イエス・キリストのことは、むしろこのような仕方によってこそ正しく見つめることができるし、語ることができるのです。なぜなら、主イエス・キリストは単なる歴史上の偉人なのではなくて、神が私たちのために遣わして下さった独り子であり、救い主だからです。その主イエスのことを正しく見つめ、語ることは、今この時、この時代を生きている自分のために神が遣わして下さった方として主イエスを見つめ、語ることによってこそできるのです。主イエスのご生涯は、そのみ業もみ言葉も、単なる過去の出来事ではなくて、今生きている私たちのためのご生涯であり、み業でありみ言葉です。私たちに対する神の語りかけがそこにあるのです。ですから私たちは主イエスのみ業やみ言葉を、単なる歴史的関心によって見つめるのではありません。そこに自分たちのための神の救いのみ業を見るのです。ヨハネ福音書がしているのはそういうことです。そしてそれはヨハネだけでなく、他の福音書だってそうです。それぞれの福音書は、それぞれが書かれた教会が置かれている状況の中で主イエスのご生涯を見つめ、語っているのであって、主イエスの伝記を客観的に書いているのではありません。だから、いろいろな違いのある四つの福音書があるのです。主イエスの伝記なら四つもあったら混乱するばかりですが、福音書は、救い主イエス・キリストについての四つの証言です。四つの福音書の存在は、主イエス・キリストのことは、伝記を書くような仕方で語ることはできない、ということを示しているのです。
イエスとは誰か?
ヨハネ福音書は、主イエスとは誰か、をめぐってユダヤ人たちの間に起っていた対立を見つめつつ主イエスのご生涯を語っています。その点においてヨハネ福音書は私たちにとっても身近なものです。なぜなら私たち自身もそういう対立の中にいるからです。と言っても、今私たちの生きている社会が、イエスは救い主かそうでないか、ということをめぐって二分されているわけではありません。この対立は、私たち自身の心の中で起っているのです。私たち自身が、このことによって引き裂かれており、深い葛藤をかかえているのです。つまり一方に、主イエスこそ神が遣わして下さった独り子、救い主であると信じて、その救いにあずかり、感謝と喜びをもって信仰者として生きていこうとしている自分があります。あるいはその信仰を求める、いわゆる求道の思いをもってこの礼拝に集っている方々がいます。それは偽りのない思いです。しかしその私たちは、イエス・キリストによる救いなど全く前提となっていない、主イエスが救い主かどうかはおろか、神の存在すら否定されているような、あるいは人間の心が生み出した多くの神々の一つがキリスト教の神だとしか思われていない社会の中で生きています。私たちの日々の生活はそういう世の中にどっぷりと浸されており、この世の常識の下で営まれているのです。一週間の内の圧倒的に多くの時をそういう中で生きている私たちにとって、本当のところ主イエスとは誰なのでしょうか。私たちは日々の生活を、イエスを誰として生きているのでしょうか。日曜日に教会に来て礼拝している私たちは、イエスは神の子、救い主であると信じ、主イエスに従おうとしています。しかしその信仰は、この礼拝を終えて教会を出て日常の生活へと戻って行った時にどうなっているでしょうか。仕事や学校や、この世の様々な営みに忙しく没頭しているウィークデーの歩みにおいて、主イエスは私たちにとって誰なのでしょうか。私は皆さんが日々の生活においてちゃんと信仰者として生きていないのではないかと疑っているのではありません。「主イエスとは誰か」という、ヨハネ福音書が直面していた問いが、私たちにとっても大きな、そして現実的な問いなのだと言っているのです。ヨハネ福音書が書かれた教会はユダヤ教との対立という現実の中でこの問いの下に立たされていました。私たちはそれとは全く違う現実を生きていますが、その中で私たちも同じ問いの下に立たされているのです。
イエスの時
群衆の間に、イエスは神から遣わされた救い主ではないか、という思いが広がり始めていることに、祭司長たちやファリサイ派の人々は懸念を覚えました。それで、下役たちを遣わしてイエスを捕らえようとした、と32節に語られていました。本日の箇所の44節にも、群衆の中にイエスを捕らえようと思った者がいたが、手をかけることはできなかったとあります。そういうことがこれまでに何度か語られています。彼らが主イエスを捕らえることができなかったのは、「イエスの時」がまだ来ていなかったからだ、と30節に語られていました。本日の箇所で下役たちが主イエスを連行することができなかったのも、根本的には「イエスの時」がまだ来ていなかったからです。「イエスの時」が来なければ、主イエスが捕らえられ、十字架につけられることは起らないのです。そのことによってヨハネ福音書が示そうとしているのは、主イエスの十字架の死は、敵対する祭司長たちやファリサイ派の人々の思いによって起ったのではなくて、主イエスの父である神のみ心によって起ったのだ、ということです。「イエスの時」をお定めになるのは父なる神です。神がお定めになったその時が来るまでは、主イエスが捕らえられることは起らないのです。
今まで、あの人のように話した人はいません
46節には、主イエスを連行して来なかったことを祭司長たちやファリサイ派の人々に責められた下役たちが弁明した言葉が記されています。「今まで、あの人のように話した人はいません」と彼らは言いました。彼らは、主イエスの語っている言葉に驚いたのです。こんな言葉は聞いたことがない、このように語る人にはこれまで出会ったことがない、と思ったのです。彼らは何をそんなに驚いたのでしょうか。それは、主イエスが、父なる神の独り子として、父なる神による救いをもたらす者としてお語りになったことです。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」というお言葉もそうです。ユダヤ人の宗教的指導者だったファリサイ派などの律法学者たちはこのような語り方はしませんでした。彼らは、神の律法にこう書いてある、だからこうしなさい、という教えを語ったのです。しかし主イエスは、律法に基づいて教える者としてではなくて、ご自分の権威によって救いを与える方としてお語りになりました。そこに、「今まで、あの人のように話した人はいません」という驚きが生まれたのです。私たちが主イエスと出会うところにも同じ驚きが生じます。私たちがこれまで聞いてきた、古今東西の様々な偉人たちが教えてきたこととは全く違う、神からの救いの宣言を私たちは主イエスから聞いて、驚くのです。そこに、救い主であるイエス・キリストとの出会いの、そして信仰の始まりがあるのです。
人間の教えは何の驚きをも与えない
しかし下役たちの驚きに対してファリサイ派の人々は「お前たちまでも惑わされたのか」と言っています。神の子、救い主としての主イエスの力あるみ言葉に触れて驚いた人に対して、「あなたは惑わされている」と言う人もいるということです。ファリサイ派の人々は、「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている」と言いました。ここに、主イエスの力ある言葉に驚き、信仰へと歩もうとすることを妨げるものが描かれています。議員やファリサイ派の人々というのは、ユダヤ人の政治的、宗教的指導者たちです。世の中のことや、律法つまり神の教えのことがよく分かっていると思われている人々です。その人々は、自分たちは物事がよく分かっているが、分かっていない無知蒙昧な群衆がイエスに惑わされている、と思っているのです。しかし実際には、彼らが分かっているのは人間の教えに過ぎません。人間が分かってしまえるのは人間の教えです。それは人間の心から出たものであり、古今東西の偉人たちが語ってきたことだから、教養のある彼らはそれを学んで知っているのです。しかしそのような人間の教えは、私たちに何の驚きをも与えないし、私たちを新しく生かすものではありません。道徳の教えがいくら語られても私たちの生き方が変わらないのと同じです。私たちを本当に新しく生かし、救いを与える神の言葉は、「今まで、あの人のように話した人はいません」という驚きを私たちに与えるのです。その驚きの中にこそ、私たちを本当に生かす神との出会いがあるのです。
ニコデモ
しかし、主イエスは人々を惑わしていると決めつけているファリサイ派の人々の中に、それとは違うことを言った人がいたことが50、51節に語られています。それはニコデモという人です。この人は「以前イエスを訪ねたことのある」人です。そのことは3章の前半に語られていました。彼はファリサイ派に属する人であり、ユダヤ人の議員でもありましたが、ある夜主イエスのもとに教えを聞きに来たのです。夜にというのは、人目を避けてこっそりと、ということです。ファリサイ派の人々が主イエスを受け入れず敵対している中で、彼だけはこっそり、主イエスの教えを聞きに来たのです。そのニコデモがここでこう言っています。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」。つまり、話も聞かずに一方的に、「彼は人を惑わしている」と断罪することは律法においても許されていない、ということです。彼の言う通りなのであって、旧約聖書の律法は、正しい裁判を行うべきこと、判決を下すためには、二人か三人の証言が一致していなければならないことを繰り返し語っています。その根底には、十戒の中の「隣人について偽証してはならない」という戒めがあります。証拠もなしに先入観を持って一方的に人を断罪するようなことがあってはならないと律法は教えているのです。ファリサイ派の人々はその律法に反することをしているのです。
ガリラヤから預言者は出ない
ところが彼らはニコデモにこう答えました。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」。ガリラヤからはメシアはおろか預言者も出ない、それは41節で群衆のある者たちが言っていたことであり、ファリサイ派の人々もそう考えているが故に、イエスがメシアであるはずはない、と決め付けているのです。しかしこれは、彼らが旧約聖書をちゃんと読んでいない証拠です。なぜなら、イザヤ書の第8章の終わりのところに、「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」とあり、それに続く第9章5節には、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」という、まさに救い主メシアの誕生の預言が語られているのです。ガリラヤからはメシアは出ない、という彼らの主張は、「律法を知らないこの群衆は、呪われている」と彼らが言っている群衆と同じくらい聖書を知らない発言なのです。
ひそかに信じている人たちへ
このように、ファリサイ派の人々が主イエスをメシアと認めず、人を惑わす者として排除しようとしている中で、ニコデモだけは律法に基づいて公正な判断を下すように求めています。このニコデモはこの後、19章の主イエスの埋葬の場面にも登場します。最初は夜、人目を避けてこっそりと主イエスのもとに来た彼が、そこではアリマタヤのヨセフと協力して、十字架につけられて殺された主イエスの遺体を丁重に葬ることによって、自分が主イエスの弟子であることをはっきりと示しているのです。本日の箇所は、彼がこの信仰の告白に至る過程の姿を語っていると言うことができます。このニコデモの姿は、ヨハネ福音書が書かれた当時のユダヤ人社会において、ファリサイ派の人々の中にも、ひそかに主イエスを信じている人々がいたことを示しています。その信仰を公にすると、ファリサイ派の仲間から、そしてユダヤ人の会堂から追い出されてしまう、そのことを恐れて、イエスこそ救い主だ、という信仰をなかなか言い表すことができずにいる人々がいたのです。ヨハネ福音書はこのニコデモの姿を通して、そのように言わば隠れキリシタンとして生きている人々に、その信仰をはっきり告白して教会に加わるように促しているのです。
聖書をどう読むか
これは紀元1世紀後半のユダヤ人社会における問題ですが、私たちがここから見つめるべきことは、同じ聖書(この場合には勿論旧約聖書ですが)を読みながら、ある人は主イエスをメシア、救い主と信じ、ある人はイエスがメシアであるはずはない、という結論に至っているということです。「イエスとは誰か」という、私たちも直面している問いにおいて大切なのは、聖書をどう読むかです。旧約聖書だけでなく新約聖書も与えられている私たちは、主イエスを救い主と信じるのにより良い環境を与えられているとも言えます。しかし私たちが、聖書を読みながらも、人間に分かる人間の教え、私たちが学んで知ることができる、そういう意味で分かりやすい処世訓のような、倫理や道徳の教えしか聞き取ろうとしないならば、結局は「ガリラヤからは預言者は出ない」ということになっていくのです。聖書は、そのような私たちの知識や、過去の偉人たちの教えをはるかに超えた、生きておられるまことの神からの語りかけであり、救いの宣言です。聖書は、「こんな話は聞いたことがない」という驚きを私たちにもたらすのです。主イエス・キリストとの出会いにおいて、聖霊の働きによって与えられるその驚きをこそ求めて聖書を読み、神からの語りかけを聞くために礼拝に集うことこそが、「イエスとは誰か」という問いへの答えを得るための、つまり信仰をもって生きていくための道なのです。