主日礼拝

神から出た教え

「神から出た教え」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:創世記 第17章9-14節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第7章10-24節
・ 讃美歌:19、197、392

祭のたびにエルサレムに上るイエス
 ユダヤ人の大きな祭の一つである仮庵祭の時に、主イエスがエルサレムに上り、神殿の境内で人々に教えを語ったことが、ヨハネによる福音書第7章に語られています。12節には、人々が主イエスのことをいろいろと言っていたことが語られています。「良い人だ」と言う人もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う人もいたのです。つまりイエスとは何者なのか、について人々の思いは真っ二つに分れていました。その中で、主イエスが人々を前にしてどのようなことを語るかが注目されていたわけです。ヨハネ福音書は、主イエスがユダヤ人の祭の時にエルサレムに上ったことを繰り返し語っています。2章13節には、過越祭が近づいたのでエルサレムに上って行ったとありました。その時に主イエスは、神殿の境内で商売をしていた人々を追い出して「わたしの父の家を商売の家としてはならない」とおっしゃったのです。また5章1節にも、ユダヤ人の祭りがあったのでエルサレムに上ったとありました。どの祭だったのかは記されていませんが、この時主イエスは、エルサレムにあるベトザタの池のほとりで、三十八年間病気で苦しんでいた人を癒したのです。そして本日の7章には仮庵祭の時にエルサレムに上ったとあります。大きな祭のたびにエルサレムに上っている主イエスのお姿をヨハネ福音書は語っているのです。イエスはお祭好きだった、ということではありません。祭の時には多くのユダヤ人たちがエルサレムに集まります。その人々の前に主イエスは姿を現し、教えを語られたのです。そういうことが繰り返される中で、ある人々はイエスのことを「良い人だ」と言い、ある人々は「いや、群衆を惑わしている」と言うようになったのです。第7章にも、主イエスが仮庵祭の間に神殿の境内で教えを語ったことによって人々の中に起った反応が語られているのです。

わたしをお遣わしになった方の教え
 そのユダヤ人たちの反応の一つが15節です。「ユダヤ人たちが驚いて、『この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう』と言うと」とあります。主イエスが聖書をよく知っていることにユダヤ人たちは驚いたのです。この聖書とは勿論旧約聖書のことです。その中心は、創世記から申命記までの「律法」と呼ばれる部分です。この「律法」を一生懸命研究していたのが「律法学者」たちでした。「この人は学問をしたわけでもないのに」というのは、律法学者たちの下で学んだことがないのに、ということです。聖書のことを、律法のことを最もよく知っているのは律法学者だと考えられていました。その律法学者から学んでいない主イエスが、聖書のことを、律法のことをこんなによく知っているのは何故だろうかと人々は驚いたのです。
 これに対して主イエスはこうお答えになりました。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」。主イエスは、聖書を、その中心である律法を、律法学者たちから学んだのではなくて、ご自分をお遣わしになった方から学んだのです。主イエスをお遣わしになった方、それは主イエスの父である神です。そしてその神こそ、イスラエルの民に律法をお与えになった方です。つまり主イエスは、そもそも律法をお与えになった神ご自身から直接に教えられたことを語っておられるのです。律法学者は、神から直接教えを受けたわけではありません。彼らは皆先輩の学者たちから学び、受け継いだことを語っているのです。しかし主イエスは、律法をお与えになった父なる神から直接教えられて語っておられます。だからどの律法学者よりも主イエスの方が律法を、聖書をよく知っているのです。それは知識が豊富だと言うだけではありません。律法学者は律法の文字を学び、知っていますが、主イエスはそれをお命じになった方のみ心を、その思いや気持ちを知っておられるのです。

神から出た教え
 主イエスはどうして聖書をこんなによく知っているのか、という問いは、律法学者たちの教えていることと、主イエスが語っておられることと、どちらが律法の捉え方として正しいのか、という問いでもあります。主イエスは「良い人だ」と言っていた人々と、「いや、群衆を惑わしている」と言っていた人々がいたのはそのためです。主イエスは律法に示されている神のみ心を正しく教えている良い人だと思っている人と、律法学者の教えと違うことを語っているイエスは群衆を惑わしていると思っている人とがいたのです。主イエスと律法学者のどちらが本当に神から出た教えを語っているのか、ということが問われているのです。17節の主イエスのお言葉はその問いを意識しています。「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのかが、分かるはずである」。主イエスの教えは神から出たものなのか、それとも自分の考えを勝手に語っているだけで神から出た教えではないのか、それが問われているわけです。そして神から出た教えと人間が勝手に語っている教えを見分けるための秘訣が18節に語られています。「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない」。神から出た教えと人間が自分勝手に語っている教えとを見分ける秘訣は、その教えが自分の栄光を求めているものなのか、それとも自分をお遣わしになった方の栄光を求めている教えなのか、にあります。これはあらゆる場面に当てはまる教訓であると言えるでしょう。その人の教え、主張、言葉が本当に聞くべきものであるのかどうかは、その人の言葉が根本的に何のために、何を求めて語られているのか、ということによってこそ判断されるべきなのです。結局のところ自分の栄光、自分の名誉、自分の利益のために語られている言葉というのは胡散臭いものです。自分の栄光や名誉や利益を求めるのではなくて、神に栄光を帰そうとする教え、言葉こそが本当に聞くべきものです。それは言い替えれば、自分が神に遣わされ、神に仕える者であるという自覚をもって語られている言葉、神の御心に従おうという思いから語られている言葉です。そういう言葉こそが真実であり、神から出た言葉です。そのような思いをもって語っている人には不義がないと言えるのです。逆にそういう思いによらずに語られている言葉は、基本的に自分勝手な言葉なのです。

誰の栄光を求めているのか
 そしてこのことは、教えを語る者にのみ問われていることではありません。それを聞く者の姿勢も問われているのです。17節で主イエスが言っておられるのは、私をお遣わしになった方である父なる神の御心を行おうという思いを持っている者ならば、私の教えが自分勝手なものではなくて神から出たものであることが分かるはずだ、ということです。自分自身が神の栄光をこそ求め、神のみ心を行おうとしている者は、語られている教えを正しく受け止めることができるのです。つまり神が独り子主イエスをこの世にお遣わしになったことによって示されている神のみ心を知り、信じることができるのです。そのみ心とは、この福音書の3章16節に語られていたことです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神の栄光を求め、神に従おうとしている人は、この神の私たちへの愛のみ心を知り、それを信じて、主イエスを独り子なる神、救い主と信じて生きることができるのです。しかし神の栄光ではなくて自分の栄光、名誉、利益を求めている者は、神がお遣わしになった独り子主イエスを受け入れることができません。その代表が律法学者たちでした。彼らは、自分たちが先輩から受け継いだ律法の解釈に固執して、それを守り行うことこそが神に従うことであり、それによって神の民として生きることができると思っているので、神が独り子主イエスを遣わして実現しようとしておられる救いを受け止めることができず、主イエスの教えを神からの教えとして聞くことができないのです。それは彼らが律法を学ぶことにおいて、つまり聖書を読むことにおいて、神の御心を行おうとするのではなくて、自分たちが受け継いだ教えに固執しており、神の栄光ではなくて結局自分たちの栄光を求めているために起っていることなのです。

安息日の律法
 ユダヤ人たちが律法を行うことに熱心でありながら、それをお与えになった神のみ心に反することをしている、そのことを主イエスは19節以下で具体的に指摘しておられます。「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか」とおっしゃったのです。モーセがあなたたちに律法を与えた、と言っておられるのは、ユダヤ人たちが律法をモーセによって与えられたものとして大事にしていたからです。創世記から申命記までは「モーセ五書」と呼ばれていて、モーセが書いたと言い伝えられていました。律法即ち聖書は、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放した指導者モーセによって書かれ、与えられたものとして大事にされていたのです。しかし主イエスはここで「モーセによって与えられた律法をあなたがたは守ろうとしていない」と言っておられます。それは、モーセが律法の中心として神から与えられた十戒を意識してのことです。十戒には「殺してはならない」という戒めがあるのに、あなたがたは私を殺そうとしている、と言っておられるのです。これを聞いた群衆は「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか」と言いました。それは、「あなたを殺そうとしているだって、何おかしなことを言っているんだ。誰もそんなことは思っていない」ということです。しかしユダヤ人たちが主イエスを殺そうとしている、そういう思いが募っていることは既に第5章18節に語られていました。そこには「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった」とあります。なぜそうなったのかが5章1節以下に語られていました。先程申しましたように主イエスはユダヤ人の祭の時にエルサレムに上り、ベトザタの池のほとりで、三十八年間病気で苦しんでいた人に、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」とお命じになり、その人を癒したのです。その癒しの奇跡は安息日になされました。ユダヤ人たちはそのことを問題にしたのです。安息日にはいかなる仕事もしてはならないと律法にある。直ちに手当をしなければ死んでしまうという緊急の場合以外は、病気を癒すという治療の仕事も安息日にはするべきでない、というのが律法学者たちが受け継いできた律法の解釈でした。この安息日の律法の違反が、ユダヤ人たちが主イエスを殺そうと思うようになった一つの大きな理由でした。21節に「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている」とある、その「一つの業」とは、ベトザタの池での癒しの奇跡です。そのことを安息日に行ったというのであなたがたは私を律法に違反したと非難し、殺そうとしている、しかし私がしたことは、律法をお定めになった神の御心に適ったことでこそあれ、それに反することでは全くない、と主イエスは語っておられるのです。

神のみ心に従うことこそが大事
 そのことを示すために主イエスは22節以下で、モーセが与えた律法に「割礼」が命じられていることを取り上げておられます。イスラエルの民の男の子は生まれて八日目に割礼を受けるべきことが律法に記されているわけです。それはモーセによって与えられた律法にあることですが、しかし実はモーセから始まったことではなくて、族長たち、つまりイスラエルの民の最初の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブの時代に始まったことだ、ということを語っているのが22節です。まさにここに、主イエスが聖書に精通しておられたことが示されているわけで、割礼を受けるべきことは、モーセによって与えられた律法において初めて語られたことではなくて、本日共に読まれた旧約聖書の箇所である創世記17章において、主がアブラハムにお命じになったことだったのです。この指摘を通して主イエスが語ろうとしておられるのはこういうことです。つまり、ユダヤ人たちはモーセによって与えられた律法を金科玉条のように大事にしているが、大事なのはモーセの言葉に従うことではなくて、アブラハムの時代からイスラエルの民に語りかけ導いておられ、モーセを選び用いてこの民をエジプトにおける奴隷の苦しみから救い出し、そのモーセを通して律法をお授けになった主なる神のみ心に従うことなのだ、ということです。モーセは主なる神によって遣わされてエジプトからの解放という主の救いのみ業に用いられたのであって、彼は自分をお遣わしになった神のみ心に従って、神の栄光を求めて生きた。そのモーセを通して神が与えて下さった律法も、神のみ心に従って生きるために与えられているのだ、ということを主イエスは語っておられるのです。

安息日にも割礼を施すなら
 このように、律法は何のために与えられているのかを示唆しつつ主イエスはここで、あなたがたは律法に従って安息日にも割礼を施しているではないか、と言っておられます。律法には、生まれて八日目に割礼を施せとあるわけで、その律法に従ってユダヤ人たちは子どもが生まれると八日目に割礼を施していました。その日が安息日でも割礼は行われていたのです。このように安息日に割礼を授けることは律法において許されているとあなたがたは考え、それを実行している。それなのになぜ私が安息日に三十八年間病気で苦しんでいた人を癒したことで腹を立てるのか、と問うておられるのです。イスラエルの民の子として生まれた子どもが、神の選びの印である割礼を受けて神の民に加えられることと、神の民の一人が三十八年間苦しんできた病気を癒されて、神の民としての普通の生活を回復されることは、どちらも神によって与えられる祝福です。神が安息日の掟によって、週に一日、人間の営みをやめて神のみ前に出て、神の祝福にあずかって生きることをお命じになった、そのみ心にどちらも適っているのです。こちらは安息日になされてもよいが、こちらはいけない、などという教えはむしろ、安息日をお定めになった神のみ心に反しているのです。主イエスは父なる神からこのみ心を直接聞いておられたから、安息日にも癒しをなさったのです。

うわべだけの裁きと正しい裁き
 24節で主イエスは「うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい」とおっしゃいました。「うわべだけで裁く」とは、律法の字面だけを見てそれに従おうとし、それをお与えになった主なる神のみ心を見つめようとしないことです。神のみ心をこそ求め、それに従おうとする思いがないところに、そういうことが起るのです。そしてその根本には、自分の栄光を求めているということがあります。自分の栄光を求め、自分の思いを第一とし、神のみ心に従おうとしないところには、神がお与えになった律法、聖書の言葉によって人をうわべだけで裁くことが起るのです。それに対して「正しい裁き」は、神のみ心を求め、それに聞き従おうとするところでこそ可能となります。その根本には、神の栄光をこそ求める思いがあります。私たちは、主イエスのこのみ言葉を受け止めて、正しい裁きをすることができるようになることを、いろいろな事柄をみ心に従って判断していけるようになることを求めていきたいと思います。そのために必要なのは、神のみ心を知ることです。神のみ心はそのみ言葉である聖書に示されています。私たちには、旧約聖書と新約聖書が与えられており、その全体によって神がみ心を示して下さっています。聖書全体によって神がどのようなみ心を私たちに示し、語りかけて下さっているのか、それを真剣に求めていくことが必要なのです。そうしないと、私たちはすぐに自分勝手に語り始めます。神から出た教えではなくて自分の教えを語ってしまいます。そして人をうわべだけで裁く者となってしまうのです。

主イエスによって示された神のみ心
 父なる神のみ心を、父ご自身から教えられて、それを実行し、また教えて下さったのは、独り子なる神主イエス・キリストです。主イエスは、ご自分をお遣わしになった方の教えを語り、またその方のみ心に完全に従って歩まれたのです。それゆえに、独り子なる神である主イエスが十字架にかかって死んだのです。主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架で死ぬことによって私たちの罪を赦して下さることこそが神の救いのみ心だったからです。そして父なる神は主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。そのことによって、私たちにも、復活と永遠の命の約束を与えて下さることが神のみ心だったのです。この主イエスのご生涯と十字架の死と復活においてこそ、神の私たちへの救いのみ心が示されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というみ心です。私たちはこの独り子主イエス・キリストによってこそ、神のみ心を知ることができるのです。聖書が分かるというのも、この神のみ心が分かることです。主イエスこそ、聖書を与えて下さった神のみ心を直接聞いておられ、それを教え、実行して下さった方なのです。聖書のことを誰よりもよく知っているのは主イエス・キリストです。私たちがその主イエス・キリストと結び合わされ、一つとされるために、洗礼があります。洗礼を受け、キリストの体である教会の一員とされ、礼拝において主イエスとの交わりに生きていくことの中でこそ私たちは、聖書に記されている神の愛のみ心を正しく知ることができるようになります。そしてその愛のみ心によって支えられていく喜びの中で、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛して生きる者となっていくのです。

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