主日礼拝

故郷、親戚、家族の間で

「故郷、親戚、家族の間で」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第69編8-22節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第6章1-6節a  
・ 讃美歌:299、164、441、521

不信仰に驚く
 礼拝においてマルコによる福音書を読み進めておりまして、本日から第6章に入ります。本日の箇所には、主イエスがご自分の故郷にお帰りになり、安息日に会堂で教え始められたこと、しかし故郷の人々は主イエスの教えを受け入れず、つまずいたことが語られています。最後のところに「人々の不信仰に驚かれた」とあります。主イエスの故郷の人々は、主イエスが驚くほどの不信仰に陥ったのです。
 先週まで二週間続けて、私たちは第5章21節以下を読んできました。そこには、信仰によって主イエスの救いにあずかった人々のことが語られていました。会堂長ヤイロの娘の復活の話は、父親ヤイロが主イエスの足もとにひれ伏して救いを求めたことから始まっています。そこに既に一つの信仰の姿を見て取ることができます。そして主イエスの一行が彼の家へと向かう途中で、娘が死んだという知らせが届きます。間に合わなかった、という絶望が皆を支配する中で、主イエスは「恐れることはない、ただ信じなさい」とおっしゃいます。ヤイロはそのみ言葉を聞いて、主イエスと共に歩き続けたのです。いやむしろ、主イエスが歩き続けるので、よろめきながらその後について行ったというべきでしょう。主イエスの後について行くことは信仰を持って生きることを象徴していますが、ここにはその一つの姿が示されています。つまり信仰に生きるとは、確信を持って堂々と力強く生きるということばかりではないのです。恐れを抱きつつ、絶望をかかえつつ、しかし主イエスが「恐れることはない、ただ信じなさい」と言って先頭に立って歩いていかれる、その主イエスに引きずられるようによたよたとついていく、信仰を持って生きるとはそういうことでもあるのです。むしろ私たちにおいてはそういうことの方が多いのではないでしょうか。
 またここには、十二年間出血の止まらない病気で苦しんでいた女性が登場します。彼女は、主イエスの服にでも触れれば癒していただけるのではないかと思って、人ごみに紛れて近付き、後ろからそっと触れたのです。この人の姿は、主イエスを救い主と信じて、その信仰を人々の前で公に言い表し、従っていくという信仰の本来のあり方からはかけ離れた、弱さと欠けに満ちたものです。主イエスの服にでも触れれば、という思には迷信的な感覚も含まれていたと言えます。しかし主イエスは、彼女が救いを求めてご自分に触れた手を敏感に感じ取って下さり、群衆の中から彼女を探し出して出会って下さり、「あなたの信仰があなたを救った」と言って下さったのです。つまり「あなたは私を信じる者であり、その信仰によって救われたのだ」と宣言して下さったのです。このように5章21節以下には、信仰によって救いにあずかった人々のことが語られていました。その信仰は、決して力強い、目覚ましいものではありません。むしろよたよたとした、問題や欠けのある、不十分なものです。しかしそういう弱い、欠けのある思いを主イエスは受け止めて下さり、それに応えて下さり、その思いをまことの信仰へと育て養っていって下さる、そういうことが5章には語られていたのです。
 ところが6章に入ると、今度は人々の不信仰が見つめられています。その不信仰のゆえに、主イエスは5節にあるように、「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」のです。主イエスの救いのみ業を妨げてしまうほどの不信仰がここには語られています。5章21節以下と合わせて考えるならば、主イエスの故郷の人々は、弱い、欠け多い信仰でも受け入れ、育てて下さる、その主イエスもどうすることもできないような、まさに箸にも棒にもかからないような不信仰に陥ったのです。主イエスの求めておられた信仰のレベルが高過ぎ、厳し過ぎたから、その基準に達することができなかったのではありません。主イエスはこの上なく寛容に、救いを求める思いを受け止め、それを信仰へと育てて下さろうとしているのに、故郷の人々の思いは、信仰へと育てられていく余地の全くないもの、寛容な主イエスが驚くような不信仰だったのです。その不信仰とはどういうものであり、またどうして彼らはそういう不信仰に陥ってしまったのでしょうか。

故郷の人々
 そこでの一つの大事なポイントは、この不信仰に陥ったのは主イエスの故郷の人々だったということです。主イエスの故郷、それは小見出しにあるように「ナザレ」という村です。今でこそいわゆる聖地として巡礼者や観光客で賑わっていますが、当時はガリラヤ地方の片田舎の小さな村でした。そこに住んでいる人々は、みんなお互いによく知り合っている、それぞれの家庭の細かいことまでみんな知れ渡っているような世界です。主イエスはその村で、大工であった父ヨセフと母マリアのもとで育ちました。そしておよそ三十歳ぐらいで、家を出て、村も出て、「神の国は近づいた」という福音を宣べ伝え始めたのです。それまではこの村で、父の仕事を継いで大工として働いておられたのです。故郷の人々はその主イエスの幼い時からのことをよく知っています。3節にそういうナザレの人々の声が記されています。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」。これは要するに、自分たちはこのイエスという人をよく知っている、ということです。彼が大工としてこの村で働いていた様子を見ている、彼の家族のこともみんな知っている。ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンは主イエスの兄弟、弟たちです。また姉妹たち、つまり妹たちもいて、おそらくこの時にはみんな結婚してこの群れで所帯を持っていたのでしょう。そういう親族をみんなが知っているのです。また、「マリアの息子で」という言い方には込み入った意味が込められているようにも思われます。一つには、父ヨセフは既に亡くなっていたということでしょう。しかしその場合にも、父親の名前を用いて「誰々の子」と言うのが普通です。母マリアの名がことさらに用いられているのは、主イエスの出生にまつわるある疑惑があったということかもしれません。つまり主イエスは、マリアがまだヨセフと正式に結婚していなかった時の子どもで、父親は誰かはっきりしない、ということです。ナザレの村の人々は、主イエスの出生にはそういう憶測があることまでよく知っていたのです。その故郷の人々が主イエスにつまずいたのです。主イエスの教えを素直に聞き、受け入れ、信じることができなかったのです。主イエスはそういう故郷の人々の様子を見て、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」とおっしゃいました。これは当時の諺だったようです。自分のことを幼い頃からよく知っている故郷の人々や親戚、家族の中では、預言者は預言者として敬われない、ということです。

幼い頃からよく知られているから?
 私たちはこのことを、自分自身の体験として知っているのではないでしょうか。信仰者となった私たちは、周囲の人々、家族や親戚の者たちにみ言葉を伝えていく預言者としての務めを与えられています。しかしそれはなかなか難しいことです。家族伝道はある意味で他人に対する伝道よりも困難であることを感じるのです。それは、家族は自分のことをよく知っているからです。自分の良い点だけでなく、欠点をも家族はみんな見ており、知っているのです。機嫌の良い、やさしい思いでいる時の自分だけでなく、いらいらしている、怒っている、意地悪な思いになっている時の自分の姿も全部見られているのです。そういう相手に、福音を伝えよう、伝道しようとしても、「お前は偉そうなことを言うが、お前自身の生活はそれでクリスチャンと言えるのか」とか「あなたはクリスチャンだと言うけど、クリスチャンってこんなことしてもいいの」などと言われるとぐうの音も出ない、ということがあります。クリスチャンになるとは、聖人君子になることではないし、むしろ弱く罪深い者だからこそ主イエスの救いによりすがって生きているのだ、と私たちは思いますが、それはなかなか伝わりません。やはり自分の欠点のゆえに、自分の言葉をまともに聞いてもらえないという体験を私たちはするのです。そういうことは家族の間でもあるし、牧師の働きにおいてもあります。その教会で小さい頃からずっと育てられてきた人が伝道者となり、その教会の牧師になるというケースは、ないことはありませんが、そこにはやりにくいことも多々あります。教会学校の生徒だった時にいろいろ悪さをして叱られてばかりいた、その先生が長老さんとして目の前にいるというのは、人間の感覚としては確かにやりにくいものです。だから、この主のお言葉を用いて、牧師も自分の母教会では敬われないのだ、なとど言われることもよくあります。

自分が理解できる範囲内で
 私たちの経験においてそういうことは確かにありますが、しかし主イエスのこのお言葉をそういうふうに読んでしまうのは間違いです。主イエスが故郷の人々に受け入れられなかったのは、良い所だけでなく欠点も知られていたからではありません。あのイエスっていう奴は昔は腕白小僧で、うちの娘はよく泣かされたものだ、なんていう話ではないのです。ナザレの人々は会堂で主イエスの教えを聞いた時、2節の後半にあるように「驚いて」、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」と言ったのです。彼らが見つめているのは、主イエスの欠点や昔の悪さではありません。むしろ彼らは主イエスのみ言葉に示されている知恵と、奇跡を行う力に驚いたのです。それは、これまでに至る所で、主イエスのみ言葉を聞き、み業を見た人々に起ったのと同じ反応です。その驚きの中で多くの人々はそこに神様のみ言葉を聞き、神様の救いのみ業を見ました。そして主イエスに従って行く者たちが生まれたのです。あるいは、ヤイロやあの女性のように、主イエスの救いを切に求めてやって来る者たちが生まれたのです。主イエスへの驚き、感嘆はそのように、信仰へと、あるいは少なくとも信仰の端緒へと実を結んでいきました。しかしナザレの人々においてはそういうことが起らなかったのです。主イエスへの驚き、感嘆が、信仰の端緒となるのでなく、彼らはそこで、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう」と問うたのです。主イエスの知恵と力はどこから得られたのか、という問いです。そういう問い自体が問題なのではありません。それは当然生じる大事な問いです。問題はその問いに続いて彼らが、先ほど見たように、「この人は大工ではないか、マリアの息子で云々」と彼らの知っている人間としてのイエスの事実を並べていったことです。つまり彼らは、主イエスについて彼らが知っている事柄の範囲内で、あくまでも一人の人間として扱い、自分たちの理解できる範囲内で処理しようとしたのです。その結果、彼らは主イエスにつまずきました。信じることができませんでした。それは彼らが主イエスを理解できなかったということです。理解できないがゆえに、主イエスを拒んだのです。ですからこれは、私たちの家族が、私たちの短所や欠点を見ているから私たちの語ることを受け入れない、というのとは全く違うことです。ナザレの人々は主イエスを自分の知っていることの範囲内で理解しようとした、その結果理解できなくなり、受け入れることができずにつまずいたのです。

人間の理解を超えた神の恵み
 このようなナザレの人々の姿に対して、例えばあの会堂長ヤイロは、また出血の止まらない病気だった女性はどうだったでしょうか。彼らは主イエスのことを正確に理解していたわけではありません。主イエスに対する彼らの理解や姿勢には問題もあり、不適切なことも多々あります。しかし少なくとも彼らは、主イエスを、自分の理解できる一人の人間としてのみ見つめてはいませんでした。彼らは主イエスのお働きに、人間の、自分の理解を超えた、神様の力、神様の働きを見ていたのです。だからこそ、もう人間の力でどうにもならないという苦しみの中で彼らは主イエスの救いを求めたのです。そこに、彼らとナザレの人々との決定的な違いがあります。主イエスのみ言葉やみ業に驚き、感嘆することから、信仰が生まれていくか、それともつまずき、不信仰に陥っていくのかの分かれ道がそこにあるのです。主イエスのことを、自分の理解できる範囲内で捉え、理解し、処理しようとするなら、つまずくしかないのです。コンピューターが、処理し切れない大量の情報を送られた時にフリーズして動かなくなってしまうようなことが人間にも起るのです。ナザレの人々が陥ったつまずき、不信仰とは、彼らの心が主イエスを処理できずにフリーズしてしまったということだったのです。それに対して、ヤイロやあの女性のように、主イエスのことを自分の知識で理解し、処理しようとするのではなくて、そこに人間の力を超えた神様の恵みの働きを見つめ、その救いを願い求めていくならば、そこには、主イエスのことを本当に知る道が開かれていくのです。それが信仰へと通じる道です。私たちがその道を一歩踏み出すなら、その歩みがどんなに不完全な、問題に満ちた、よろよろとしたものであっても、主イエスは私たちと共に歩んで下さり、私たちの、信仰とは呼べないようなつたない思いを受け止めて、先週読んだ5章34節にあったように、「あなたの信仰があなたを救った」と言って下さり、そしてその信仰を大事に守り育てていって下さるのです。

主イエスを本当に知ることができるのは
 ナザレの人々は、自分が知っているイエス、理解できるイエスのみを見つめようとしたために、主イエスにつまずきました。このことは、主イエスのことを小さい頃から知っていた人々だけの問題ではありません。私たちも、彼らと同じつまずき、不信仰に陥ることがあります。主イエスのことを、自分の心の中で処理し、理解してしまおうとする限り、私たちは主イエスのことをいつまでたっても本当に知ることができず、つまずくしかないのです。ナザレの人々は、ある意味では主イエスのことをとてもよく知っていました。人間としての主イエスの様子については、弟子たちの知らないようなことまでよく知っていたと思います。しかし、主イエスのみ言葉とみ業において示されている神としての知恵と力については、彼らは結局何も知ることができなかったのです。このことは今日、聖書を学問的に研究している学者たちにおいてしばしば起っています。彼らは聖書が書かれた時代の社会的文化的政治的経済的背景などについて私たちよりもずっとよく知っています。そして学問という一見客観的に見える道具を用いて、これはイエスが本当に言った言葉だ、これは後から教会が書き加えたものだ、などという区別を聖書の中に持ち込もうとします。しかしそこでなされていることは結局、その人が自分の思いに合うことだけをイエスの言葉とし、それに合わないことは切り捨てることによって、教会が代々信じ受け継いできた信仰を否定して、自分たちの思想に合う「人間イエス」を仕立て上げようとすることなのです。そのような営みにおいては、主イエスのみ言葉とみ業における神としての知恵と力は全く見失われてしまいます。主イエス・キリストにおいて、人間の理解を超えたまことの神の救いの力が働いていることを信じて、主イエスのみ前にひれ伏してその救いを求める、という姿勢がなければ、主イエスに関する知識をどんなに沢山得たとしても、主イエスを本当に知ることはできずに、結局つまずくしかないのです。

信仰がなければ奇跡は無意味
 主イエスは故郷であるナザレにおいて、このようなつまずき、不信仰に直面されました。そしてそこでは、ほとんど奇跡を行うことができなかったとあります。不信仰な人々の間では、奇跡を行うことができなかったのです。これは、主イエスといえども、人々が信仰を持っていなければ、つまり主イエスを信じその奇跡を期待するという思いがなければ、奇跡の力を発揮できない、ということではありません。主イエスはこれまでにも、敵対する人々の前で癒しや悪霊の追放のみ業をしてこられたのです。人々が信じていなければ奇跡が行えない、などということはないのです。ですからここに語られているのは、主イエスの力にも限界があるという話ではなくて、主イエスの力あるみ業は、それを見聞きする人間の側に信仰がなければ意味がない、ということでしょう。主イエスが私たちに求めておられるのは信じること、信仰です。しかし主イエスが求めておられるのは、先ほども申しましたように、力強い完璧な信仰などではなくて、主イエスにおいて神様の救いの力、恵みの力が働いていると信じて、その救いを願い求めるということだけです。それだけの思いがあれば、主イエスはそれに応えて下さり、私たちと共に歩み出して下さり、私たちとの交わりを築いていって下さるのです。そして私たちの欠け多い不十分な思いをまことの信仰へと高め、導いていって下さるのです。奇跡はそこにおいてこそ意味を持つものです。ところが故郷ナザレの人々は、そんな不十分な思いすら持つことがありませんでした。それは彼らが主イエスのことを、自分の知っている知識の範囲内で理解し、捉えようとしたのです。人間を超えた神の恵みのみ業が主イエスにおいてなされていることを認めなかったのです。そういう人々の前では、どんなに大きな奇跡を行っても意味がないのです。

私たちのための示唆
 主イエスはこの時、故郷にお帰りになるのに、弟子たちを伴っていかれたと1節にあります。その結果弟子たちは、主イエスが故郷の人々に受け入れられないことを目の当たりにしました。主イエスはそのことを見せるために、わざと彼らを故郷に連れて行かれたのかもしれません。主イエスがここで体験したのと同じことを、弟子たち自身がこの後体験していったのです。彼らは復活した主イエスによって、福音を宣べ伝える使命を与えられて派遣されていきます。しかしその伝道の歩みは決して平坦ではなく、福音を語っても受け入れられず、拒まれ、人々が主イエスにつまずいていくことを体験していったのです。私たちも同じことを、家族に、また周囲の人々に伝道しようとする時に体験します。そしてがっかりしたり、もうこんな目に遭うのはまっぴらだと思ったりするのです。そういう私たちに、この箇所は大事な示唆を与えてくれます。第一には、主イエスご自身でさえこのように拒まれたのだから、私たちが主イエスのことを宣べ伝える中で、相手の人が、さらには家族や親戚の者たちが、それを簡単に受け入れないのはむしろ当たり前だ、ということです。むしろそのように拒まれる方が自然なのであって、それで落ち込んだり動揺する必要はないのです。そして第二に知っておくべきことは、伝道しても人々が主イエスにつまずくのは、私たちの説明の仕方が悪いからでも、また私たちにいろいろ欠点があるからでもなくて、根本的には、主イエスという方ご自身が、人間の知識や常識の中で理解し、処理してしまうことのできない方だからなのです。主イエスにおいて、人間の知識や常識を超えた神様の救いの恵みが実現しています。その恵みは主イエスの十字架の苦しみと死、そして復活において、つまり主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかり死んで下さったこと、そして復活して新しい命の先駆けとなって下さったことにおいて実現しているのです。それは人間の知識を超えたことであり、理解し、処理してしまえることではありません。しかし神様によるこの救いの恵みを求めていくのでなければ、私たちは、主イエスのことを本当に理解することも信じることもできずにつまずくしかないのです。ですから主イエスによる救いを宣べ伝える伝道は、人間の力によってはできません。聖霊なる神様が、主イエスにおいて実現した神様の救いの恵みを求める思いを与えて下さらなければ、このつまずきを乗り越えて信じることはできないのです。そしてそのことは先ず第一に、私たち自身に起こらなければなりません。先ず私たち自身がつまずきを乗り越え、主イエスの十字架と復活において、人間の知識や常識を超えた神様の救いの恵みが実現していることを本当に信じる者へと、聖霊によって変えられていくことを祈り求めたいのです。それによってこそ私たちは、故郷の人々や親戚、家族の間で、主イエスの救いを証ししていく者となることができるのです。

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