主日礼拝

平和の神が共にいる

「平和の神が共にいる」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:イザヤ書第43章1-7節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙第4章8-23節
・ 讃美歌:271、11、461

 今日は、フィリピの信徒への手紙の最後を共に聴きたいと思います。本日の箇所よりも少し前のところにあります、4章1節でパウロは「このように主によってしっかりと立ちなさい」こう言って、この言葉で信仰者としての歩み方は、「主によってしっかり立つことだ」と締めくくっています。しかし、私たちが実際の歩みの中で出会う問題は、大変複雑であって「主によってしっかりと立ちなさい」という、この言葉で一つ一つの事柄に、どのように立ち向かっていったらいいかということは、よく分からないというのが本当のところではないでしょうか。パウロはこのフィリピの信徒への手紙を書きながら、そのように思いまして、この4章では、非常に具体的に、信仰生活の勧めを書いています。

 たとえば、6節のところに「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」こういう勧めをしています。私たちはそれぞれ違った生活や歩みをしていますけれども、思い煩いに悩まされるということは、誰にでもあります。思い煩いというものは、その原因はいろいろ違うけれども、思い煩いは誰でもつらいことです。そしてこれはいわば、牢獄や罠みたいなものであって、そこから逃れようと、もがけばもがくほど、その中に閉じ込められてしまいます。わたしたちにはそれぞれ、そういう経験があるのではないかと思いますが、私も何度かそういう思いをしたことがあります。思い煩うまいと、思い悩むまいと、思えば思うほど、思い煩いや悩みに支配されて、夜も眠ることができない、というようなことが起こってきます。パウロはここで「思い煩うのはやめなさい」と言っているのですけれども、これは命令ではないのです。思い煩うのはいけないから、思い煩わないようにしようと思って、一生懸命努力をして、自分で心を静めて、何かこう精神を修養して、思い煩わないようにしようというのは、これは自分の力に頼っている生き方です。パウロはそういう自分の力に頼る生き方では駄目だ、ということを知っています。それで誰でも、思い煩いにとらえられた時には、もうこれは罠に落ちたようなもので、どうしようもないということをよく知っておりまして、どうしたらいいかということを、ここで大変具体的に伝えようとしています。

 「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」これはとても具体的であります。どんなに思い煩ってどうしようもない、という時でも、ここでパウロが勧めている事はできるんです。神様にお祈りをする。何で困っているのか、どうしてほしいのか、そういうことをちゃんと、神様に言いなさいとパウロはいうんです。思い煩いの原因、それは他人事にはできないことで、自分がそのことをよく知っているから、誰でもそれを、祈りを通して、神様に伝えることはできる。しかし、ここで私たちはいくつかの事を、考えてみたいと思います。それは「求めているものを神に打ち明けなさい」と、こう言われているのですが、ただ、何となしに、ああ、困った、困った、困ったと祈るだけではなくて、なぜ困っているのか、何が問題なのか、そういう事をよく考えて、神様にどうしてほしいかという事を、はっきり言いなさい。これは、私たちがこの牢獄から抜け出る抜け道であります。問題は何か、どうしてほしいか、そういう事をはっきりして、神様の前へ行って、それを祈る。これが祈りにおいてとても大切なことです。

 もう一つの事は「感謝を込めて」と言われています。ここでパウロが言っております事は、一つ一つ具体的な指導です。「感謝を込めて、そして祈りと願いをささげなさい」「感謝を込めて」困って、行き詰まって、悩んでる時にどうして感謝できるか。感謝しなきゃいけないといわれているから、「一生懸命、無理やり感謝します」と思ってそれをやったとしても、それはもう形だけになります。どうやって感謝をするのか。それは今まで、いろいろな時に神様が私たちのために、どういう救いをしてくださったか、ということを思い起こすことです。その一番根本は、罪人である私たちのために、神様が独り子のイエス・キリストを送って、十字架にかけて、贖いをしてくださったという事でありますが、しかし、それだけではなくて、今日まで生きてきたことの中で、何遍か行き詰まりがあって、もうどうしようかと思う事があったけれども、神様がちゃんと道を開いてくださって救われた。そういう経験をもう一遍ここで思い起こして、ああ、神様は、今生きていてくださって、わたしの前にいてくださって、私のことをいつでも心にかけて守っていてくださると、感謝をするのです。私たちの過去の経験というものは、神様から与えられた大事な宝物です。あの時も、こうして救ってくださった。この時も、こういうふうにして神様は道を開いてくださった。そういうことを私たちは心に留めて、確認することです。詩編を読みますと、詩人たちは、そういうことを、一つ一つ思い起こして、そうして現在の悩みに向かって、神様の御助けを祈り求める、そういう姿勢をとっています。パウロはここで、そのことを教えています。これは大変丁寧な指導といえるでしょう。

 7節「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」そうすれば、必ず平和が来る。必ず解決ができる。そういうことをここで約束をしています。このようにパウロは大変具体的に、フィリピの教会の人たちに、信仰の勧めをしています。しかし、人生にはいろいろな問題があります。その人生の問題の一つ一つをここへ数え上げて、勧めをするわけにいかない。しかし、やっぱり、具体的な指導が必要だ、どうしたらいいか。そこでパウロはこのように言いました。

 9節です。「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」パウロは思い煩う時は「すべてをさらけ出して祈りなさい」と、一つ具体的な例を上げましたが、すべての事をここには書ききれない。そこで彼はどういうふうにして具体的な導きをしたらいいかと考えました。パウロは考えぬいた末、ここで自分自身を人々の前にさらけ出すということをしました。そうして「わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい」とこの短い一言によって、彼はあらゆることに対処する、信仰者としての歩み方を、フィリピの人たちに教えようとしております。「わたしから学んだこと、受けたこと」というのは、これはパウロが自分の口から話したこと、あるいは、手紙に書いたこと、そういうふうにして伝えた福音です。イエス様の救いという大きな恵みを告げる福音そのものを指し示して、これを忘れないようにしなさい。これをちゃんと心に留めておきなさい、と勧めています。これが大事な一つの事です。

 そうして、その次に「わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい」見たことというのは、パウロがフィリピにいる間に、どういう生活をしていたか。みんなの前で生活をしていましたから、フィリピの教会の人々は、パウロがやっていることを全部見ていました。しかし、パウロがフィリピにいた期間というのはそんなに長くはありませんでしたから、全部知らせることはできなかった。それで、パウロが、ほかの教会へ行った時、あるいは、旅行している時、あるいは、エルサレムでどんなことをしたか。全部、そういうことを弟子たちや信徒たちは、お互いに伝えあっていました。ですから、自分では見ないけれども、ほかの信徒の人から聞いた。そのようなパウロの生活ぶり、そういうことを教会の人々は、知っていたわけです。当時の教会はお互いにそういう話を、訪ねて行けば必ずそういう話をしていたそうです。ですから、パウロのことをみんなよく知っている。それをただ、「ああ、パウロという人はこういうような事をしたんだ。」というような話として受け取るのではなくて、それを同じように実行しなさいと、パウロは言っています。あのさまざまの経験をしてきたパウロがです。私たちもパウロの書いた手紙の中で、あるいは、使徒言行録の中で、パウロという人がどんなことをしたかということを、随分いろんなことを知らされています。それを実行しなさいとパウロは言うんです。なかなかわたしたちは「とんでもない。わたしにはムリです。」といってしまいそうです。

 「実行しなさい」とは何でしょうか。それは、パウロをお手本にして、生活をしていきなさいということです。わたしの歩みにこそ、信仰生活とはこういうものだという見本がある、そう言っています。これはちょっと何か、偉ぶった言葉のように、受け取られるかもしれません。というのは、お手本にしなさいと言うと、普通は何も失敗や欠点がない、そういう人が言えることなんです。たとえば、何か習い事していてのその先生が「私を手本にしなさい」と言った時に、もしそういったのに失敗をすれば、それはもうお手本になりません。そういう考え方でこのパウロの言葉を理解すると、パウロが言いたいことの真意をとることはできません。パウロという人は、少しも欠点のない、完璧な生活をしたかというと、そうじゃないんです。時につまずいたり、怒ったり、嘆いたり、人をのろったり、いろんな事をしています。しかし、そういう失敗をしたり、行き詰まったり、嘆いたりする、その自分自身をみんなの前でさらけ出して、そうして、この私を見本にし、お手本にしなさい。こう言っているんです。これはわたしたちが考える普通のお手本と違います。なぜパウロがそういうかと言うと、パウロという人は特別な人ではなかったんです。わたしたちと同じ欠点もあり、腹も立つし、ねたみもする。こういう欠点だらけの人間だ。失敗もするし、つまずきもする。とても、自分たちが近づくこともできないほど、立派な人間だということになると、それは自分からは遠い理想の姿となってしまって、わたしたちも同じようになることができるというような、本当の目標にはならない。ところが、自分と同じような欠点を持った人がお手本ならば、それなら私もそのとおりやっていけるのではないかと、こう思える。しかし同時に、それでは一つもお手本にならないんじゃないかと、ダメな例にしかならず、習っても意味ないんじゃないかと、そういうふうにも思ってもしまいます。

 しかし、そこに実は、このパウロが言おうとしている、非常に大事なことがあります。それは何かというと、そういう欠点だらけ、失敗だらけ、つまずいて、行き詰まって、もうどうにもならないようになって、不平を言ったり、のろったり、そうしているこの私を、今日まで見捨ないで、ずうっと導いて生きてはたらいてくださっている主がおられた。かつて、そうして、もう駄目だと思う時でも、神様の前へ行って、正直に自分のことを告白して「どうか、助けてください」そうお願いをした時に、必ず神様は道を開いてくださった。今私がこうしてここにいるのは、そういうふうにして、イエス様が私を救ってくださったから、ここにたっているんではないか。私の失敗も、つまずきも全部、これらを通して主が御業を現してくださった。それが、見本なのだとパウロは言いたいのです。パウロはここで二つの見本を出しています。一つは失敗だらけ、弱さに満ちた自分、それがひとつの見本です。しかし、そのわたしを救ってくださるイエス様の御業が、私に現れている。それにゆだねて生きている。それがもう一つの見本となる姿なのです。そこにこそ、わたしたちがこれから、いろんな困難に出会って、それを乗り越えていく信仰の道がある。そういうことを彼はここで語っているのです。

 実際のパウロがそうでありまして、たとえば、あのコリントの信徒への手紙二の初めのところで、パウロはもう爆発するような喜びの言葉を書いております。ここは口語訳聖書の方が感じがでているので、そちらで読んでみます。コリント二1:3「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神」ここで、パウロは、心から讃美をしておりますが、実は、この手紙を書く前、彼はコリントの教会のことで非常に悩んで、「もうコリントの人たちから見捨てられた。もう自分は駄目だ。」と、もうすっかり、希望を失って、「コリントの教会との関係はここで終わりになってしまうかもしれない」と、そういうような思いを持っていたんです。しかし、その中から、思いもかけず、神様が教会の中で生きて働いてくださり、和解を与えてくださった。彼の絶望と悩みが深かっただけに、この神様が与えてくださったその救いを、本当に、心から喜んで、この手紙の最初で讃美しているんです。ですから、私たちが行き詰まったり、悩んだりするということは信仰にとって邪魔ものではないんです。本当はそのわたしたちが行き詰まったり、悩んだりする、そこにこそ、キリストの救いの恵み、父なる神様の愛、聖霊なる神様の生きた働き、それらが現れる。わたしたちが弱くなっている時、つまずいてしまった場所、つまづきが起きているその関係、そここそ、大事な時や場所、大切にしなければならない関係なのです。そのことを忘れないようにして、先ほど言いましたように、神様の前へ行って、そして自分の心をさらけ出して、神様にお祈りをしなさいと、そういうところへ話は続いていくのです。

 パウロは11節のところでこう言っています。ここには牢獄に入れられているパウロに、フィリピの教会から、慰問の品を送ってくれた、そのことに対する感謝の言葉が書かれてあるのですが、その感謝は、ただ、ありがたかった、嬉しかったというだけで終わっていません。そこにもう一つ深い主の御業を見ています。そしてこれを機会に、彼は自分がどういうふうにして生きているのか、むしろ、生かされているかと、そういうことをここでパウロは告白をしています。11節ですが「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」「すべてが可能だ」そういう道があるんですよ。贈り物に対する感謝の中で、彼は送ってくださった人たちが、私と同じように、そういう道を歩み、その術を身に付けてほしいと、そう願っているわけです。決してパウロは、修行や悟りの結果、ものに動じないと、そういう自分の強さに到達した、そのような術を得たというのではありません。先ほど申しましたように、パウロはいっつも弱い。風に吹かれる葦のように弱い、動揺するんです。しかし、いついかなる場合にも、対処する秘訣を授かっている。それは自分一人で対処するということではなくて、イエス様に「困りました。助けてください」と言うことができる。『「私を強めてくださる方」がいる』それで『「私はすべてが可能」なんだ』とパウロが言ったのです。これが鍵なんです。

 つい私たちは自分の中に解決を求めようとします。自分の力、自分の知恵、自分の努力、そういうもので人生を切り抜けていこうとします。もちろん、それは何もせず、動かず、無気力になりなさいということを勧めたいのではありません。しかし、自分の力で頑張って生きてきたけど、本当に行き詰まった時に、自分の中に本当に頼るべきものがないということが分かった時に、どうしたらよいでしょう。どうもできないんです。自分の力ではどうにならないことを前にしているから、どうにもできないんです。では、わたしたちは、そこでもう絶望しっぱなしとなるだけでしょうか。

 そうではなくて「私を強めてくださる方のお陰で、私にはすべてが可能です」そう言い切る道が、ちゃんと備えられているということを思い出す。そういうふうにして、ずうっと生きてきたパウロが、どうか、私を見本にしてください。私が歩いてきたように、倒れる時には倒れ、つまずく時にはつまずいてもいいから、そこからイエス様の名を呼んで、すべてを神様の前で告白をして、素直に助けを求めなさい。そういう勧めをここでしているんです。これはむずかしい話しではないんです。ただこの一つのこと、これができれば、あなたはすべてのことを超えていくことができる。こういう言葉をもってパウロは、その教会に対する手紙を終わろうとしています。

 私たちはパウロの時代から遠くはなれており、世の中は随分変わりました。しかし、本当に一人の人間として生きていく時、いろいろな問題というものは同じではないかと思います。思い煩いに悩む時があります。抜け出ようとしてどうしようもない。そして絶望して、もう自分を捨ててしまいたい、生きるのをやめたいとそうまでも思ってしまう。しかしわたしたちが、そのような絶望で終わらないために、イエス様がクリスマスの日にこの世に生まれてくださったんです。そして、わたしたちが絶望して自分を殺してしまわないために、イエス様が代わりに十字架にかかり絶望してくださり、わたしたちのかわりに死んでくださったんです。わたしたちが自分で自分を殺したくなる、終わりにしたくなる、そのようなわたしたちの自殺衝動にかられた手の攻撃を、かわりに受けてくださり、殺されてくださったんです。そのわたしたちを救ってくださったイエス様の所に、いつでもどこにいても、祈りを持って前にでていく、このことを忘れない。どんな困難、絶望の中でも、イエス様の名を呼んで、助けを求める。地獄のどん底にもイエス様はおられる。もう遅いということはない。こんな状態になったから、もう駄目だ、イエス様の前にたてないなんてことは絶対にない。そんなことはない。いつでも、どこでも、ひざまずいて、イエス様の前にわたしたちは立てる。なぜならば、イエス様がいつでも、わたしたちの前にいてくださるからです。インマヌエルの主として共にいてくださるからです。

 私はこのことで困っております。どうか、助けてください。どうしてほしいかということをちゃんと言う。その時に、もう一度、今までイエス様が私のために何をしてくださったか、どんな救いを与えてくださったかということを、もう一遍はっきりと思い出し、感謝をしながら、祈り、願う。これが私たちの信仰者の強さなんです。弱いように見えて、強くあることができる。なぜならば、パウロが言うように、わたしたちは弱い時にこそ強いからです。弱い時にこそ、生きてわたしたちの目の前にたっていてくださるイエス様によって救われ、強められるからです。

 パウロはこの手紙の最後で、その事を私たちに教えてくれました。私たちも残された2015年の歩み、そしてこれから続く一生の歩みを、生きて働いてくださる主に救われながら、歩んでまいりたいと思います。その主が、永遠にわたしたちと共にいてくださいます。そこにわたしたちの平和があります。

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