夕礼拝

約束の地に留まる

「約束の地に留まる」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 創世記 第26章1-35節
・ 新約聖書; テモテへの手紙二 第3章14-17節
・ 讃美歌 ; 127、393
 

イサク
 月に一度、私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書、創世記からみ言葉に聞いています。先月は第25章を読みました。そこにはイスラエルの民の最初の先祖であり、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの死が語られていました。アブラハムの死によって、イスラエルの民の歴史は、その息子イサクへと受け継がれていきます。しかしすぐに気付くことは、アブラハムの生涯については、12章から25章にかけて多くのことが語られてきたのに比べて、イサクについてはごく僅かしか語られていないということです。イサクの息子であるヤコブについては、既に25章の後半から語られ始めており、この後にも詳しく語られていきます。しかしアブラハムとヤコブの間に位置するイサクの生涯については、本日ご一緒に読む26章に語られているのみなのです。アブラハム、イサク、ヤコブの三人が、イスラエルの民の父祖としてよく並んで語られますが、その中で最も印象が薄いのがイサクだと言えるでしょう。本日はこのイサクのことを、26章からじっくりと見つめてみたいと思います。

二代目の信仰者
 さて、イサクの生涯を考える上で忘れてはならない前提があります。それは、彼が、信仰の父アブラハムの息子であるということです。つまり彼は二代目の信仰者なのです。アブラハムには他にも腹違いの息子が何人かいましたが、跡を継いだのはイサクでした。跡を継ぐというのは、単に財産を受け継ぐということではありません。彼は、アブラハムの信仰の継承者となったのです。アブラハムの信仰。それは、神様の祝福の約束を信じる信仰です。神様はアブラハムに、あなたの子孫は大いなる国民となり、神様の祝福の担い手となり、すべての民への祝福の源となる、という約束を与えて下さいました。アブラハムはこの神様の祝福の約束を信じて旅立ったのです。しかし彼にはなかなか子供が与えられませんでした。百歳になってようやく与えられたイサクは、アブラハムにとって、神様の祝福の約束の実現の第一歩だったのです。そのようにイサクは、生まれた時から神様の祝福の中に置かれていました。二代目の信仰者というのはそういう者です。イサクは、自分では何の苦労も努力もすることなしに、最初から、神様の祝福の下に生まれてきたのです。神様はそのようにある人を特別な祝福の下に生まれさせるということをなさいます。私自身もそうですが、この国において、両親が、あるいはどちらか片親だけでも、クリスチャンである親のもとに生まれた人は、まさにそういう特別な祝福の下に置かれていると言うことができるのです。私はよくこれを、「宝くじに当たったようなものだ」と言うのですが、この国において、信仰者の家庭に生まれる確率は、まさに宝くじに当たるくらいなのではないでしょうか。この確率をもっと上げて、信仰者の家庭に生まれることがそう珍しいことではなくなるようにしていかなければならないわけですが、それはともかく、信仰者の家庭に生まれた二代目が、神様の特別な祝福を受けていることは確かです。イサクの生涯の出発点には、このように、自分の意志や自覚とは関係なく、気がついたら既に神様の祝福の下に置かれていた、という現実があったのです。
 しかし、そのように神様の祝福の下に生まれたからといって、自動的にその祝福にあずかって生きることができるわけではありません。祝福が与えられてはいても、それを本人が自覚的に受け止めて、その祝福を担う者として生きていくようになるかどうかは別問題です。特にアブラハムに与えられたのは、神様の祝福の「約束」です。それは今現在ここにあるものとしてではなくて、「あなたの子孫は将来このようになる」という約束として与えられていたのです。その祝福を受け継ぐということは、神様の約束を信じる信仰を受け継ぐことです。今はまだ目に見える現実とはなっていない祝福の約束を信じて、そこに希望を置いて生きる者となる、ということです。この信仰の継承は、財産の継承のようなわけにはいきません。「信仰者の二代目」が「二代目の信仰者」になるためには、本人の中でやはり何かが起らなければならないのです。本日の26章は、信仰者アブラハムの二代目として生まれたイサクが、様々な経験を経て、二代目の信仰者へと成長していった経緯を語っていると言うことができます。彼はどのようにして本物の信仰者となったのでしょうか。

祝福を担う者
 イサクが本物の信仰者へと成長したことは、最後の方の28節で、ペリシテ人の王アビメレクが彼のことを「主があなたと共におられることがよく分かったからです」と言っていることから分かります。29節の終わりのところでも彼は、「あなたは確かに、主に祝福された方です」と言っています。異邦人、異教徒であるペリシテ人の王アビメレクが、イサクのことをこのように言っているのです。アビメレクにとってイサクは、この26章に語られているように、場合によっては対立関係にもなる異国人です。そのアビメレクがイサクのことを、「主があなたと共におられる、あなたは主に祝福された方だ」と見たのです。それはイサクが、主なる神様と共に歩み、神様の祝福を自覚的に担う本物の信仰者となったことの証拠です。イサクは、生まれた時に既に与えられていた神様の祝福を、その生涯の歩みの中で、自覚的、意識的に自分のものとして受け止めるようになったのです。祝福の下に生まれたからといって、自動的にその祝福に生きることができるわけではありません。その祝福を自分で担い、持ち運ぶ者となることによってこそ、祝福にあずかって生きることができるのです。

約束の地に留まれ
 イサクは最初から、神様の祝福を自覚的に担っていたのではありませんでした。様々な試練を経て、26章の終わりでそうなったのです。初めからそうではなかったことは、1~11節を読むことによって分かります。1節に「アブラハムの時代にあった飢饉とは別に、この地方にまた飢饉があったので、イサクはゲラルにいるペリシテ人の王アビメレクのところへ行った」とあります。父アブラハムがそうであったようにイサクも、家畜の群れを養う遊牧の生活をしていました。飢饉が起り、牧草がなくなってしまうと、それを求めて遠くまで移動しなければならないのです。そのために彼はゲラル地方に行きました。そこは、ペリシテ人の王アビメレクが支配しているところでした。イサクはもともとは、そこを通ってさらに南のエジプトにまで行こうとしていたのです。アブラハムも同じような状況の中でエジプトに身を寄せたことが、12章10節以下に語られています。ところが、主がイサクに現れて、エジプトに行くことを禁じられたのです。主はこう言われました。2、3節です。「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する」。このみ言葉から分かるように、主がエジプトに行くことを禁じられたのは、イサクを「この土地」に留まらせ、そこに寄留させるためです。「この土地」とは、神様がかつてアブラハムに、「わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える」と約束して下さったカナンの地です。今彼らがいるゲラル地方を含めたカナンの地全体を、あなたの子孫に与える、と神様は約束して下さっていたのです。エジプトに行くことは、その約束の地の外に出ることです。そうではなくて、約束の地に踏み留まって、苦しくてもそこで生きなさい、と主は言われたのです。この命令が意味しているのは、神様の祝福の約束を信じて、そこから逃げ出すことなく、その下にしっかりと留まりなさい、ということです。主は飢饉の中でイサクにこのような試練をお与えになったのです。アブラハムも、様々な試練を通して信仰の成長を与えられていきました。しかしアブラハムとイサクでは、試練の目的が違います。初代の信仰者であるアブラハムの場合には、神様の祝福の約束を信じて、行き先を知らずに旅立ち、試練の中で神様のお示しになる道を歩むことが求められていました。しかし二代目の信仰者であるイサクの場合には、試練の中で、生まれた時に既に与えられていた祝福の約束の下にしっかり留まり続けることが求められたのです。イサクの信仰の成長の鍵は、この「留まる」ということにあったのです。

不信仰
 イサクは神様の命令によって、6節にあるようにゲラルの地に留まって住みました。そこまではよかったのですが、その地で暮らす中で彼はとんでもない失敗をしでかします。7節にあるように、その土地の人々に、妻リベカのことを妹だと嘘をついたのです。それは、リベカが美しかったので、土地の人々がリベカを手に入れようとして自分を殺すかもしれないと恐れたからでした。しかしその嘘はじきにアビメレクに見破られてしまいます。この話が語っているのは、イサクが周囲の人々への恐れにとりつかれて、自分の身を守るために見え透いた嘘をつき、それによってリベカとの夫婦の関係を軽んじた、ということです。それは妻リベカに対する罪であるだけでなく、「あなたの子孫を天の星のように増やす」と言って下さった神様の祝福の約束への信頼を裏切る、神様への不信仰でもあります。  イサクはこのように、神様から与えられた最初の試練において早くもつまずき、父アブラハムから受け継いだ神様の祝福の約束の下にしっかりと踏み留まることができませんでした。しかし神様はそのようなイサクを支えて下さり、妻リベカを守って下さったのです。アビメレクはこのことを通して、全ての民に、イサクとリベカ夫婦に危害を加える者は死刑に処する、という命令を下しました。イサクの不信仰にもかかわらず、神様ご自身が、災いを転じて福として下さったのです。創世記は、彼の父アブラハムが、これと全く同じ失敗を、しかも二度もしたことを語っています。12章10以下と20章です。そのアブラハムの時もそうでしたが、人間の不信仰の尻拭いを神様がして下さって、正しい道に立ち戻らせて下さったのです。

豊かさという試練
 12~14節には、今度はイサクが畑に蒔いた種が百倍の収穫を生んだことが語られています。13節から14節にかけて、彼は「豊かになり、ますます富み栄えて、多くの羊や牛の群れ、それに多くの召し使いを持つように」なったとあります。そしてそれはイサクが主の祝福を受けたからだ、と12節にあります。神様の祝福によって豊かさが与えられたのです。しかしその豊かさは同時に、信仰における一つの試練でもあります。豊かさの中で、神様の約束を信じてその下にしっかりと留まっていることは、貧しさの中でそうするよりもかえって難しいことだと言わなければならないでしょう。豊かさの中で私たちはしばしば、この世の富を拠り所とするようになります。一旦得た豊かさを失うまいと必死になります。そうして、神様の約束の実現を待ち望む思いを失ってしまうのです。そのようにならないために、神様はイサクに、富と共に一つの問題をお与えになります。それは14節の終わりに語られている、ペリシテ人たちのねたみです。余所から流れてきた寄留者のくせに、急激に豊かになったことへの嫉妬、敵意に彼はさらされるようになったのです。そのためにイサクはこの地を去らなければならなくなります。アビメレクは16節で彼にこう言うのです。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい」。それはイサクにとって、このゲラルの地で築いた富、豊かさを失って、元の遊牧の生活に戻ることを意味しています。神様の祝福によって急激に豊かな富を与えられることと、またそれを一挙に失うということをイサクは体験したのです。この体験も、イサクの信仰の成長に大きな意味を持っていたと思います。彼が今住んでいるこの地、ゲラルの地は、先ほど申しましたように、神様が彼に与えると約束して下さっている約束の地です。「これらの土地をすべてあなたとその子孫に与える」と神様は3節でも言って下さっているのです。しかし現実には、そこは今ペリシテ人の地です。イサクはまだそこに一坪の土地も持っておらず、余所者、寄留者として生きています。神様の祝福によって豊かになればなったで、その地の人々の敵意やねたみにさらされてしまうのです。「あなたと子孫に与える」と言われている約束の地は、現実にはそういう所なのです。神様はイサクに、「そこに踏み留まって生きよ」と命じておられるのです。神様の約束を信じてこの世を生きる信仰者の歩みはそれと同じです。寄留者、余所者として、人々の冷たい視線を浴びながら、しかし神様によって示され、与えられた祝福の約束を信じて、そこに踏み留まって生きる、信仰を持ってこの世を生きるとはそういうことなのです。その歩みの中で、地上の富や豊かさを与えられることもあれば、それを奪い去られてしまうことも起ります。それらの体験を通してイサクは知らされていったのだと思うのです。この世の富や豊かさは自分を本当に支えるものではない、信仰者の歩みを本当に支えるのは、神様の約束のみ言葉のみなのだということをです。そのようにして彼は、神様の約束のみ言葉に本当に信頼して生きる信仰を養われていった、それがイサクの信仰の成長だったのです。

井戸を掘るイサク
 17節以下には、イサクが次々に井戸を掘ったことが語られています。遊牧民にとって、井戸を確保することは、自分たちや家畜の生活を支える基盤を得ることです。その井戸を探し求めなければならないということは、イサクが、「約束の地」におりながら、生活の基盤をまだ得ることができていない、という現実の現れです。しかも、せっかく井戸を掘り当てても、その地の人々との争いが生じたことがここに語られています。最初の井戸は、父アブラハムが以前に掘ったものが埋められてしまっていたのを掘り直したにもかかわらず、ゲラルの羊飼いたちは「この水は我々のものだ」と主張して争いが生じたのです。それでイサクはそこを去り、別の井戸を掘り当てましたが、それについても争いが生じました。それで彼はそこも去って三つ目の井戸を掘ったのです。この話は、イサクが争いを好まない、おとなしい性格の人だったということを言っているのではないと思います。私たちはこのことを、イサクが、神様の約束のみ言葉に本当に信頼して生きる者となったことの現れとして受け止めることができるのではないでしょうか。神様は自分に「この地をあなたとあなたの子孫に与える」と約束して下さった、それゆえに、この地のどこかに必ず、周囲の人々と平和に、争いなく生活できる場を神様が用意していて下さるに違いない、と彼は信じたのです。だから、自分が掘った井戸の権利を力づくで主張し、人との争いに勝って生活の場を確保しようとしなくてもいい、争いが起るうちは、そこはまだ神様が自分のために用意して下さっている場所ではないのだ、と彼は考えたのです。神様の約束への信頼が、彼の生き方にこのような寛容さ、余裕を与え、また地上の財産に固執しない生き方を与えたのです。そのように自分の権利を主張して人と争うのでなく、神様が平和の内に与えて下さる所を求めていった結果、三つ目に堀った井戸については争いが起らず、平和のうちにそれを所有することができたのです。彼はその井戸を「レホボト(広い場所)」と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言いました。それは、主なる神様が我々を導いて、広い場所を与えて下さった、という信仰の告白です。井戸を掘ったのは彼自身ですけれども、神様の約束のみ言葉に本当に信頼して生きるようになった彼は、自分が働いて得たものも、神様の恵みと導きによって与えられたものとして感謝するようになったのです。

平和を造り出す者
 26節以下には、アビメレクがイサクと契約を交わすために来たことが語られています。アビメレクは、最初に見たように、イサクに「主が共におられる」ことを、また彼が確かに「主に祝福された」人であることを見たのです。それは、井戸のことをめぐるイサクの生き方を見てのことでしょう。あの寛大さ、度量の大きさ、余裕、自分の財産に執着しないあり方、そして自分が得たものも神様が与えて下さったものとして感謝する心、それは本当に神様と共にある、神様に祝福された人の姿だ、要するにイサクの信仰は本物だ、ということを彼は感じ取ったのです。信仰が本物になる時、私たちは、こせこせした、みみっちい思いから解放されます。自分が堀った井戸、自分が苦労して手に入れたものは何がなんでも自分のものとして確保しなければ、という思いから解放されるのです。信仰が本物になるとは、神様の約束のみ言葉に信頼して生きるようになることです。そこには、このような寛大さが、やたらに怒って人と争うのではない、平和を造り出す者としての歩みが与えられるのです。信仰者がそのように平和を造り出す者として歩むのを見る時に、世の人々は、「主があなたと共におられることがよく分かった、あなたは確かに主に祝福された方だ」と感じるのです。

祝福を担う者
 アビメレクはイサクとの間に、お互いに危害を加えない、という契約を交わすために来ました。そこには彼の、イサクを敵にまわすよりも今のうちによい関係を築いておいた方がいい、という打算が働いています。しかしイサクは、以前自分を追い出しておきながら今度は契約を結ぼうとしてきたアビメレクを迎え入れて祝宴を設け、翌朝、誓いを交わして安らかに送り出しました。イサクが担っている神様の祝福がこうしてアビメレクにも及んだのです。イサクは神様の約束のみ言葉に信頼して生きる者へと成長したことによって、神様の祝福を担い、証しし、それを周囲の人々にももたらしていく者となったのです。

留まるべきところに留まる
 26章はこのように、イサクの信仰の成長の物語です。ここから私たちは、信仰が成長し、本物となっていくために何が必要なのかを教えられます。それは、留まるべきところにしっかりと踏み留まって生きることです。イサクは信仰者の二代目として、神様の祝福の約束の下に生まれました。そして様々な試練の中で、神様の約束によって示されている地にしっかりと踏み留まって生きることの中で、本物の信仰者へと成長していったのです。

テモテへの勧め
 新約聖書において、これと同じことを語っているのが、本日共に読まれた、テモテへの手紙二の第3章14節以下です。これはパウロが、自分の子と呼んでいる若い伝道者テモテに宛てて書いた手紙です。テモテは、祖母と母とが信仰者である、信仰者の家庭に育った二代目のクリスチャンです。彼は若い時から、祖母や母から信仰の薫陶を受け、聖書に親しんできたのです。そのテモテにパウロは、「だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません」と語りかけています。なぜなら、様々な試練の中で、最初に学んだことから、その確信から離れてしまう者が多いからです。しかしそこにしっかり踏み留まることによって、信仰は成長し、本物となっていくのです。

神の約束のみ言葉に留まる
 テモテが幼い頃から学び、確信してきたこと、それは聖書が教えている、主イエス・キリストの福音です。神様の独り子であられる主イエスが、人間となって、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったこと、そして復活して新しい命の先駆けとなって下さったこと、この主イエスを信じる者には、罪の赦しと、永遠の命の約束が与えられている、それがイエス・キリストの福音です。私たちも毎週の礼拝において、その福音を、神様の約束のみ言葉を、聖書から聞いています。その約束のみ言葉をいただいて、それぞれに与えられている生活の場に戻り、そこにしっかりと留まって、そこで襲ってくる様々な試練の中で、神様のみ言葉に信頼して生きていきたいのです。そのようにして、神様の祝福を担い、それを証しし、周囲の人々に祝福をもたらし、平和を造り出す、本物の信仰者となりたいのです。そのことにおいては、初代とか二代目とかの違いはありません。イサクが与えられた信仰の成長を、私たちの誰もが皆、与えられていくのです。

関連記事

TOP