主日礼拝

ラザロのよみがえり

「ラザロのよみがえり」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 詩編 第28編1-9節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第11章28-44節
・ 讃美歌; 16、324、481

 
ラザロの死と関係の切断
ヨハネによる福音書第11章には、マルタとマリアの兄弟ラザロが、病による死から甦らされるという物語が記されています。本日の箇所は、まさにラザロが主イエスによって甦らされる場面です。
聖書は神の一人子である主イエス・キリストが十字架で死に、三日目に復活したこと、それが、人々の罪の贖いであり、死の力を克服する救いであることを証ししています。しかし、聖書が、キリストの復活以外で、死人の甦りを描く箇所は決して多くはありません。本日の箇所はその代表とも言える箇所です。
「死」ということについて、聖書が見つめている厳しさは、愛する者との関係が断ち切られるということです。この11章の物語は、愛の交わりを語ることから始まっていました。マルタとマリアは、病のラザロを何とかしようと、すぐに、主イエスのもとに使いを送ります。又、5節には、はっきりと「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」とあります。ここには兄弟姉妹の間にある愛の関係、又、主イエスと、この兄弟姉妹との間にある愛の関係が描かれているのです。しかし、ラザロは病によって命を奪い去られてしまいます。病による死によって、この関係が断ち切られてしまうのです。ラザロの姉妹であるマルタとマリアは、このことによって悲しみのどん底へと突き落とされるのです。

マルタとマリア
マルタとマリアという姉妹のことについて、私たちがすぐに思いつくのは、ルカによる福音書10章に記された二人の姿です。イエスが村に入られた時、マルタが主イエスを家に迎え入れるのです。更に、家の中では、マルタは、主イエスをもてなすために、せわしなく働きます。それに対して、マリアの方は主の足もとに座って、その話しに聞き入っていたのです。マルタは、色々なことに気をつかい、活発に行動する性格であったのに対し、マリアの方はおっとりとした性格だったのでしょう。姉妹とはいえ、この二人は正反対の性格をしていました。兄弟ラザロが死んだ時の様子にも二人の性格の違いが表れています。前回お読みした17節~27節の箇所には、村に到着した主イエスをマルタが真っ先に迎えに行ったのに対し、マリアは家の中に座っていたことが記されていました。
主イエスを出迎えたマルタは21節で次のように語っています。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。兄弟の死に際して、主イエスが共にいて下さらなかったことを嘆きつつも、主イエスが神に願えば何でもかなえられることを承知していると言うのです。悲しみの中で尚、主なる神に対する信仰に生きようとしているのです。しかし、この時、マルタは、主イエスの力を頭では理解しようとしていても、この方が、今、実際に死の力に捕らえられたラザロを救い得る方であるとは信じていませんでした。ラザロが生きている時に共にいて下されば助かった、しかし、死んでしまった今はどうすることも出来ないという思いを抱きながら尚、主イエスは偉大な力がある方であると言い聞かせるように語っているのです。マルタは、ラザロの死という悲しみの現実を前に、それを受けとめつつ、自分なりに理解した信仰によって乗り越えようとしているのです。そのようなラザロに対して、主イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と言われるのです。死の力を克服する主イエスに対する真の信仰を示されるのです。
一方、家にいたマリアは、マルタによって、主イエスが呼んでいることを聞かされます。28節には「マルタはこう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、『先生がいらして、あなたをお呼びです』と耳打ちした」とあります。マリアが主イエスを迎えずに、家にいたというのは、深い悲しみに捉えられていたからであって、マリアがマルタよりも不信仰であったというのではありません。そのことは、マリアが、主イエスが呼んでいることを告げられた時、「すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った」ことによっても明らかです。32節には、「マリアはイエスを見るなり足もとにひれ伏し『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』」と言った」とあります。マリアは、主イエスの「足もとにひれ伏した」のです。これは礼拝したというよりもむしろ、主イエスのもとで悲しみのために泣き崩れたと言った方が良いでしょう。

主が共にいて下さらない
 この姉妹は、それぞれに、愛する者の死に直面していました。マルタはこの出来事を受けとめ、自分が理解している信仰によって自らを納得させて、それを乗り越えようとしていました。又、マリアの方は、ただ悲しみの内に涙しつつ、主イエスのもとで泣き崩れました。ここには愛する者を失ったことによって引き起こされる、二つの反応が示されていると言っても良いでしょう。しかし、このようにラザロの死に直面して二つの全く異なる態度を示したマルタとマリアは、主イエスのもとで、同じ言葉を語っていることに目を向けたいと思います。この二人に共通しているのは、21節と、32節に記されている言葉です。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。一方のマルタは、この言葉に続けて、「しかしあなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」と語ります。マリアの方は、「ひれ伏して」、それ以上何も語ることが出来ない程に泣き崩れています。しかし、この「主が共にいてくださったら」、という思いにおいて二人とも同じであったのです。二人とも、愛する兄弟ラザロの死という場面において、主が共にいてくださらなかったという嘆きと絶望を抱いているのです。死の現実の前で、主がそこにおられないことを悔やんでいるのです。つまり、ここで、二人は、主イエスの救いの御業は、命がある間は有効であるけれども、死んでしまった者にまで及ぶものではないと考えているのです。死を越えられない人間の限界の中で、主イエスの救いも又、限定してしまっているのです。それ故、死の力に支配されたまま絶望し、泣き崩れているのです。

主イエスの涙
 マリアと出会われた時の主イエスの反応が35節以下に記されています。「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して言われた『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、ご覧ください』と言った。イエスは涙を流された」。
ここには、主イエスご自身が涙を流されたことが記されています。マリアや人々の悲しみに深く同情されたと読むことも出来ます。確かに主イエスは、私たちの悲しみに思いを寄せていて下さる方です。しかし、私たち人間が悲しみの中にある人に対してするのと同じように、兄弟ラザロをなくした悲しみに同情されたのではありません。この主イエスの涙は、ただ同情して、死を悼んだというようなものではないのです。ここで、主イエスの涙が、主イエスの「どこに葬ったのか」という質問に対して、彼らが「主よ、来て、ご覧下さい」と言ったことによって引き起こされていることに注目したいと思います。「彼ら」と言われているのは、マルタとマリア、それに加えて、「ユダヤ人たち」と呼ばれる人々のことです。ヨハネによる福音書において、この「ユダヤ人たち」というのは、「この世」を現すものです。主イエスは、神の栄光を示し、救いの御業を行って来た。にもかかわらず、この世は、それを見ようとはしない。それどころか、主イエスの眼差しを死の現実に向けようとしているのです。彼らの「主よ、来て、ご覧下さい」という言葉は、「ラザロは、完全に死の力に捕らわれてしまって、もうどうすることも出来ない状態なのだ。ラザロを葬られた墓を見てみよ」と言う主イエスに対する死に支配された世の挑戦とも言える言葉なのです。そして、主イエスは、そのように死の力に支配され、その現実にご自身の目を向けさせようとする人々と、人々をそこまで支配する死の力に悲しみを覚えて涙しているのです。

主イエスの憤りと興奮
更に、主イエスが、マリアとユダヤ人たちが泣いている姿を見て、「心に憤りを覚え」「興奮」したとあることに注目したいと思います。主イエスは先ず憤られたのです。主イエスは、ここで、同情して悲しまれるのではなく、もっと深く、ラザロを襲い、マルタや人々を悲しみに突き落とす死の力と向かい合っておられるのです。死の力が、マルタやマリアから、主イエスに対する信仰をも奪い去り、人々と神様と引き離そうとしていることに憤られているのです。そして、憤りをもって、その力に立ち向かわれるのです。又、ここで、「興奮して」と言われています。これは、「心を騒がせる」とも訳される言葉です。この後、ヨハネによる福音書には度々登場する言葉です。この11章以後、いよいよ十字架に向かって行く主イエスの歩みが始まります。その中の、12:27節で主イエスは十字架に向かう決意を語っています。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救って下さい』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」。十字架の死を前に、主イエスは「心騒ぐ」と言われたのです。つまり、主イエスが、私たちを支配する死の力と向かい合い、それと戦おうとされる時に、この心騒ぐという言葉が用いられるのです。このことからも、ここで、主イエスがラザロを襲う死の力と対峙していることが分かります。人々を根本的に捕らえる死の力に対する憤りと、ご自身が、それに向かって行くことの興奮の中で、主イエスは涙を流されるのです。

十字架における勝利
 そして、主イエスは、まさに、これから向かう十字架において、この死の力と戦われたのです。十字架で死ぬということは、神から呪われた者となることを意味していました。主イエスが、十字架の死を引き受けるというのは、神の一人子である主イエスが、神との関係が絶たれた場所に身をおいて下さったということなのです。それは、父なる神と子なるキリストの間にあった真の愛の交わりが絶たれることに他なりません。死によって愛の関係が断ち切られることの本当の厳しさを私たちに代わって経験されたのは主イエスなのです。そして、主イエスは、その死から復活されることによって、死の力を滅ぼして下さっているのです。私たちは、確かに肉体の死を経験します。そこにおいて愛する者との関係が断ち切られてしまうと感じます。それだけではなく神様にさえ見放されていると感じることがあります。しかし、罪のために神との愛の関係が断ち切られるという、根本的な死の現実は、主イエスが引き受けて下さっているが故に、もはや死は私たちを支配するものではないのです。主イエスの御業によって、死の現実は、根本的に取り除かれているのです。つまり、主イエスは、私たちの死において共にいて下さらないのではなく、死においてこそ共にいて下さり、そこから救い出して下さるのです。
 主イエスの復活の命に与るというのは、この世で死ななくなるとか、死んでしまった命が再び蘇生するということではありません。罪の中にある人間が、神によって赦されて、主イエスの復活の命に与って、ただ恵によって、地上の死を貫いて、なお神との関係を保たれつつ生かされるということなのです。

世の反応
36節、37節には、涙を見た人々の反応が記されています。「ご覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言う者がおり、又、もう一方では、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロを死なないようには出来なかったのか」と言う者がいたのです。ここには、世が全く主イエスを理解していない様が現されています。ここで、まず、主イエスのラザロに対する愛が語られています。しかし、愛するということが過去形で、「愛しておられた」と言われているのです。実際主イエスは、今もラザロを愛しておられるのです。死の中にあるラザロを愛し、関わりをもとうとされているのです。しかし、人々は、主イエスの愛は、ラザロの死によって過去のものとなってしまったと思いこんでいるのです。そして、主イエスの涙が、ラザロとの関係が切り離されてしまったことによる悲しみの涙だと勘違いしているのです。又、人々は、盲人の目を開けたこの人も、ラザロを死なないようにすることは出来なかったと言っています。この人々は、地上の生のみに目を向けていました。ですから、主イエスを、この世で生きている者に対してだけ偉大な業、奇跡的な癒しの業を行う者としてしかみていないのです。つまり、この世を歩む中で、困った時や苦難に直面する時に頼るべき人としか捉えていないのです。
それは、この人々、この世が、今、地上で生きている生のみを見つめているからです。その背後には、自らの繁栄を求める思いがあります。本当の死の克服、神との関係の回復よりも、地上で自らの命が長らえることを求めているのです。主イエスも、自らの繁栄のために奇跡を行う者でしかないのです。
主イエスは、このような人々の反応に対して、再び憤ります。そして、墓に来られて、墓の石を取りのけるように言うのです。この時、墓には重い石で蓋がしてありました。遺体が腐って匂いを発するのを留めておくためです。実際、主イエスの言葉を聞いたマルタは、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言うのです。「臭い物に蓋をする」という言葉があります。悪臭があるものを納めてある容器に蓋をすることで、悪臭を外に漏らさないようにすることから、悪事が外に漏れないように、安易な一時しのぎの手段をとることです。死の力の虜になった肉体が、朽ちて悪臭を放っているのに対して、人間が対処しうるのは、せいぜい、石の蓋をかぶせるような安易な一時しのぎの手段でしかありません。しかし、十字架において、悪臭を放つ死の力と向かい合われた主イエスは、その力を根本的に取り去ろうとするのです。

ラザロのよみがえり
主イエスは、墓の前で、「ラザロ出て来なさい」、この主イエスの呼びかけに答えるようにしてラザロは出てくるのです。44節には、その時の情景が次のように記されています。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、『ほどいてやって、行かせなさい』と言われた」。ここには、ラザロが甦る場面がリアルに描かれています。この描き方は、主イエスの復活についての聖書の記述とは大きく異なります。聖書が主イエスの復活を描く時、主イエスが墓から出てくる情景等は一切記されていません。主イエスが起きあがって墓から出てきたというような記述はないのです。ただ、十字架で死に墓に葬られたこと。墓が空であったこと、弟子たちに現れたことだけが記されるのです。つまり、ラザロの甦りは、主イエスの復活とは根本的に異なるのです。主イエスの復活は、それを信じる者に永遠の命を約束するものです。しかし、ラザロの甦りはそのようなものではありません。なぜならここで甦らされたラザロは、その後再び、彼は地上の生の終わりとしての死を迎えたからです。もし、ラザロの身に起こったことが、主イエスによる救いの出来事であるならば、それはまさに一時しのぎの手段でしかありません。
主イエスはラザロを甦らせる前に、40節で、「もし、信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われます。更に、人々が石を取りのけると、天を仰いでから、「父よ、わたしの願いを聞き入れて下さって感謝します。わたしの願いをいつも聞いて下さることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」と言われるのです。ここから分かることは、ラザロの甦りは、死の力を滅ぼして、ラザロに「永遠の命」を与えることが目的なのではなく、あくまで、それを見る人に、神の栄光を現して、人々を信じるものとさせることにあるのです。なぜなら、25節で、「わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と言われているように、主イエスを、神のもとから来た神の子として信じ、この方にこそ救いがあると信じることこそ復活の命を受けて生きることだからです。

死に至る病
ゼーレン・キェルケゴールは『死に至る病』の序文の中で、ラザロの復活の出来事について次のように語りました。「キリストが墓へ歩み寄って、声高く『ラザロ、出てきなさい』(11:43)と呼ばれるとき、この病が死に至るものでないことは、もちろん確かなことである。しかし、たとえキリストがそのことばを口にされなかったとしても『復活であり、命』(11:25)であるキリストが墓に歩み寄られるというそのことだけで、この病が死に至らないことを意味していはしないであろうか。キリストが現にそこにいますということがこの病が死に至らないことを意味していはしないであろうか!」
 主イエスが「ラザロ、出てきなさい」と叫ばれて、ラザロを甦らせた時、確かに、主イエスが死を克服される方であることが示されている。しかし、主イエスが、もし、ここで、ラザロを甦らせなくても、「復活であり、命である」主イエスが、私たちの死の直中に来られたこと、十字架において、神との断絶を経験されたということにおいて、真の意味で死が克服されているというのです。

神の栄光を現す
主イエスは、人間の求めに答えるような形で、奇跡を行う者として世に来られたのではありません。ただご自身の十字架と復活によって真の救い、死の力からの解放をもたらすために来られたのです。ラザロの出来事は、一見すると、人間の求めに答えて主イエスが行った奇跡行為のようにも思えます。しかし、この出来事は、それ自体に意味があるのではありません。死の力の前で、心騒がせ、絶望する人々に対して、主イエスの十字架と復活による死の力の勝利を前もって現しているのです。そのことによって、神の栄光を現して、主イエスが死の力に向かい合い、それを根本的に打ち破って下さる方であることを証ししているのです。ですから、主イエスの十字架と復活の出来事なしに、この奇跡だけを取り出してみても、それは何の意味もありません。主イエスの十字架と復活に対する信仰に生きる時、このラザロの甦りの出来事も、主イエスの死の力に対する勝利を現すものとして受け入れられるのです。この御業も、主イエスの十字架と復活によって、私たちに神の愛が示され、神と共にいるものとされていることを映し出しているのです。

おわりに
私たちは、この世を歩む中で、度々、愛する者の死を経験し悲しみの内にうずくまります。又、自らを襲う死を思う時、私たちは心を騒がせます。そのような肉体の死に直面する時に、そこで主イエスが共にいて下さらないとの嘆きを発します。そして、マルタやマリアのように、時に、自ら乗り越えようとし、又、泣き崩れます。しかし、主イエスこそ、その死の力の直中に、憤りを覚え、心騒ぐと語り、涙を流しながら入っていって下さった方であることを知らされたいと思います。 私たちは決して、ラザロと同じように、一度死んで、再び蘇生するのではありません。肉体の死が克服されて、この世で永遠に生きるのではありません。主イエスによってもたらされる救いの御業はそのようなことではないのです。しかし、確かなことは、主イエスが十字架で死に、復活されたがために、私たちには確かに死の力に対する勝利が与えられているのです。主イエスの救いによって、神と私たちの関係は保たれ、私たちも、復活の命に生きる者とされているのです。それはどのような形で起こるのか私たちには分かりません。しかし、死の力に対する主イエスの勝利の確かさの故に、私たちは、この世で肉体の死を経験するにしても、絶望することなく、十字架と復活によって現されている神の栄光を見つめつつ、希望をもって歩むのです。
世を生きる私たちは、この世の生を救いの目的として歩んでしまうことがあります。そこで自らの繁栄を求めてしまうのです。しかし、そこに真の救いはありません。そうではなく、主イエスを神の下から来た方として受け入れ、この方の十字架と復活によって現されている栄光をのみ求めていくのです。それは、私たちの思う範囲で信仰を捉え、自分の栄光を求めていく歩みとは異なります。神の救いの御業を知らされて、神にのみ栄光を帰して歩むのです。そのような中で、確かに復活の命に生き始めるのです。

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