夕礼拝

顧みる神

「顧みる神」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 創世記 第16章1―16節
・ 新約聖書; マタイによる福音書 第10章26-31節
・ 讃美歌 ; 324、528
 

信仰の旅路
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書創世記を連続して読んでいます。今読んでいるのは、イスラエルの民の最初の先祖となったアブラハムの物語です。創世記12章から始まるこの物語は、後にアブラハムと呼ばれるようになるアブラムが、神様の呼びかけを受けて故郷を離れて旅立ったことから始まり、その旅路を描いていきます。私たちの人生もしばしば旅路に例えられます。そういう意味でこのアブラムの旅路に、私たちの人生の歩みを重ね合わせて見ることができるでしょう。しかしアブラムの旅は、生まれてから死ぬまでこの世を生きていく人生の旅とは違います。この旅の出発点は、今も申しましたように、神様の呼びかけを受けて旅立ったことです。つまりこの旅は、神様を信じて生きる、信仰の旅です。私たちも、人生のどこかの時点で神様を信じる者となって、新しく旅立ちます。まだ洗礼を受けておられない方々も、このように教会の礼拝に集うことにおいて、ある意味でもう新しい旅を始めていると言えるでしょう。神様の呼びかけを受けて神様と共に歩む、その旅を私たちも歩み始めているのです。アブラムの旅路は、私たちのその信仰の旅路と重なります。その旅路に起ってくる様々な出来事が、この物語に描き出されているのです。

待ち切れなくなったアブラム
 本日の16章において、アブラムの信仰の旅路に起ってきたことは何でしょうか。それは一言で言えば、彼が、神様の約束の実現を待ち切れなくなった、ということです。アブラムに与えられた神様の約束とは何だったでしょうか。何度も振り返っていますが、12章2、3節を読んでみます。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」。彼はこの約束を受けて旅立ったのです。この約束はこれまでに何度も繰り返し与えられています。前回読んだ15章にも、彼の子孫が星の数ほどに多くなり、カナンの地を受け継ぐのだ、と語られていました。アブラムと妻サライは、この神様の約束の実現を待っていたのです。具体的には、子供が生まれることを待っていたのです。彼らには子供が一人もいませんでした。「あなたの子孫は大いなる国民になる」という約束が実現する、その最初の一歩は、一人の子供が生まれることだったのです。旅立った時アブラムは75歳でした。16章3節によれば、本日の箇所の出来事は彼らがカナンの地に住んでから十年後のことでした。アブラムはもう85歳です。妻サライもまた、相当の年になっています。十年間、待っても待っても、子供は生まれない。そのような状況の中で、サライはとうとう待ち切れなくなったのです。彼女はアブラムに一つの計画を持ちかけます。2節「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」。自分の、若い健康な女奴隷ハガルを夫アブラムに与え、彼女によって子供を得よう、というのです。これは今日の常識からすると顰蹙ものですが、この時代にはけっこうあったことのようで、創世記にはもう一箇所これと同じ事例が出てきます。今日に置き換えるならば、人工的に受精させた卵子を別の女性の子宮に着床させて子供を産むいわゆる代理出産がこれに当たるとも言えるでしょう。人工的な工夫で子供を得る、という点で両者は共通するのです。アブラムはこの提案を受け入れ、ハガルは妊娠しました。ところがハガルは、自分が妊娠したことを知ると、主人であるサライを軽んじるようになったと4節にあります。サライにとっては、女奴隷の小娘ハガルは単なる道具に過ぎませんでした。ところが主人の子を宿したとたんにハガルは、一人の女性としてサライの前に自己主張を始めたのです。サライは、奴隷である小娘に主人である自分が馬鹿にされている、軽んじられていると感じるようになりました。このようにして、二人の女性の間に、軽蔑と嫉妬の熾烈な戦いが始まったのです。ドラマなどでよく描かれる世界です。サライは夫アブラムを責めます。5節、「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです」。アブラムは、「これはお前が言い出したことではないか。私は浮気をしてハガルと関係したわけではない。なぜ私を責めるのか」と思ったでしょう。それが男性の論理です。しかし女性の感情にはそういう論理は通用しません。サライはヒステリックにアブラムを責め続ける。そういう女性の感情の前で男はどうすることもできません。6節「アブラムはサライに答えた。『あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。』」。「お前の好きなようにしたらいい」。無責任な答えですが、そうとでも言うしかなかったのでしょう。そこでサライは露骨にハガルをいじめにかかります。今度はハガルが苦しみます。一旦女性としての自尊心に目覚めた彼女は、そのいじめに耐えられなくなり、逃げ出します。彼女はエジプトの出身だから、故郷に向かう南の荒れ野にさまよい出たのです。
 ここに描かれているのは、一つの家庭が、憎しみと対立の修羅場と化してしまったということです。このような対立に勝利者はいません。誰もが皆不幸になっていくのです。中でも、最も弱い立場にあるハガルは、命の危機にまで至っています。このような悲惨なことに至った原因は何でしょうか。それは、サライのあの、女奴隷によって子供を得ようという提案です。アブラムもそれを受け入れたのですから、サライだけの問題ではありません。彼らは二人とも、神様の約束の実現を待ち切れなかったのです。自分たちの工夫でそれを実現しようとしたのです。その結果、このような悲惨な修羅場に陥ってしまったのです。

祝福の約束
 このような悲惨の中で、死の危険にさらされたハガルに、主なる神様が出会って下さったことが7節以下に語られています。主の御使いが彼女に出会い、9節でこう語りかけたのです。「主の御使いは言った。『女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。』」。主人のもとに帰り、忍耐してやり直しなさい、というのです。これはハガルにとってはつらいことです。我慢できないから逃げ出してきたのです。けれども、主人のもとに帰るしか、彼女とお腹の子供が生きる道はないのも確かです。身重の体一人で、荒れ野をエジプトまで旅することは不可能なのです。つらくても、サライのもとに戻り、忍耐するしかないのです。そして御使いは、そのための力を彼女に与えました。それは神様の祝福です。10節「主の御使いは更に言った。『わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす』」。アブラムに与えられたのと同じ、子孫が大きな民となるという祝福の約束が彼女と彼女の子どもにも与えられたのです。この民は、彼女の生む子供の名、イシュマエルから取られてイシュマエル人と呼ばれるようになりました。その特色が12節に述べられています。「彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので、人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす」。イシュマエル人は、遊牧民、また砂漠の隊商としてアジアとエジプトの間を行き来する民族でした。農耕民族と常に対立関係にあったことからこのような表現がなされたのでしょう。ハガルはこのイシュマエル人の母となるのだ、という約束が告げられたのです。この祝福の約束がハガルを力づけ、サライのもとに戻って忍耐してやり直すための励ましとなったのです。

顧みる神
 しかしハガルがここで体験した神様の祝福の中心はむしろ別のことにあると思います。別のこととは、御使いが、彼女の生む子供の名前をイシュマエルと名付けなさいと語ったということです。この名前の意味は、「主があなたの悩みをお聞きになられたから」とあるように、「主がお聞きになる」ということです。主なる神様が、彼女の苦しみの思いを、女主人にいじめられて家を飛び出し、一人荒れ野をさまよっている、その苦しみの叫びをしっかり聞いて下さっている、御使いはそのことを、この名前を告げることによって彼女に示したのです。そのことを知らされた時、彼女は13節で、自分に語りかけられた主の御名を呼んで、「あなたこそエル・ロイです」と言いました。それは括弧の中にあるように、「わたしを顧みられる神」という意味です。「顧みる」というのは、もっとはっきり訳せば「見る」です。「わたしを見つめておられる神」と訳してもよいでしょう。彼女の苦しみの叫びをしっかり聞いて下さっている神様は、彼女の全てをじっと見つめておられる神様でもあったのです。彼女の苦しみの叫びを聞いて初めて彼女に気付いたのではなくて、その前から、彼女がまだ苦しんでおらず、むしろ主人サライに対して優越感を持ち、主人を軽んじるふるまいに及んでいたその時から、すでに彼女のことをじっと見つめておられたのです。そのような神様に彼女はここで出会ったのです。いやその神様がここで彼女に出会い、ご自身を示して下さった、と言った方が正確でしょう。この神様との出会いによって彼女は、主人のもとに帰り、もう一度忍耐してやり直す力を与えられたのです。彼女の立場は前と変わりません。サライのいじめもなくならないかもしれません。しかし忍耐して、自分に与えられている場に留まり続けることができるようになったのです。彼女はアブラムとサライのもとに戻り、そこで出産をしました。アブラムは、彼女の生んだ子供をイシュマエルと名付けました。それは、彼と妻サライもまた、「主がお聞きになる」というこの名の意味を感謝して受け入れたということです。アブラムとサライも、このことを通して、エル・ロイ、「わたしを見つめておられる神」との出会いを与えられたのです。

何をどう見つめるか
 この「見つめる」という言葉が、実は本日の16章全体を貫いているキーワードです。この話の前半には、先ほど見たように、一つの家庭が軽蔑と嫉妬の修羅場と化したことが語られていますが、そのことを語る創世記の筆には一つの明確な切り口があるのです。それは、「誰が、どのような目で、何を見つめているか」という切り口です。具体的に見ていきたいと思います。まず2節の、サライのアブラムへの提案です。その冒頭には、訳されていませんが、「見なさい」という言葉があるのです。「ごらんなさい、主はわたしに子供を授けてくださいません」というのが直訳です。この「見なさい」は深い意味を持っています。つまりサライはここで、「主はわたしに子供を授けてくださらない」という目に見える現実を見つめており、それを夫アブラムにも見つめさせようとしているのです。「神様の約束は待っていても実現しない、その現実を、目を開いて見なさい」、ということです。そこからあの提案が始まります。つまり自分たちが置かれている状況の中で、何をどう見つめるか、ということが問題なのです。
 また、4節の、ハガルが「自分が身ごもったのを知ると、女主人を軽んじた」というところですが、ここは以前の口語訳聖書ではこうなっていました。「彼女は自分のはらんだのを見て、女主人を見下げるようになった」。ここに「見る」という言葉が二度用いられているのは原文に即したことです。ハガルは、自分が妊娠したことを「見た」のです。そしてサライを軽んじるようになったのですが、そこは原文を直訳すれば、「彼女の目において女主人を軽蔑した」となります。サライがアブラムに訴える5節にも同じ表現がなされており、「彼女はわたしを目において軽蔑します」と言っているのです。つまりハガルは、自分が妊娠したことを見て、自分を自尊心と誇りをもって見るようになり、逆に女主人のことを軽蔑の目をもって見るようになったのです。ですから口語訳の「見下げる」はよく工夫されたよい訳です。サライはハガルの自分を見る目の変化によって、自分が軽んじられ、軽蔑されていると感じたのです。ここでも問題は、自分のことを、また人のことをどのような目で見つめるか、ということです。
 そして6節のアブラムの言葉、「好きなようにするがいい」。これも直訳すれば、「あなたの目においてよいようにしなさい」となります。ハガルはあなたの奴隷なんだから、あなたが見つめたいように彼女を見つめればよい、ということです。サライはそれを受けて、嫉妬と憎しみの目でハガルを見つめ、いじめたのです。ハガルはこのサライの自分を見つめる目から逃げ出したのです。6節の終わりの「彼女はサライのもとから逃げた」は、直訳すれば「彼女の顔から逃げた」となります。口語訳聖書は「顔を避けて逃げた」となっていました。「顔を避けて」とは、目を避けてということです。ハガルはサライの自分を見つめる目に耐えられなかったのです。
 このように、この物語の前半は、人間たちが、何を、どのように見つめたか、ということを軸に展開しているのです。その目によって、あの修羅場が生じたのです。これは私たちの人間関係においてしばしば起ることです。私たちは、人のことを見つめるその目によって人を傷つけます。また人が自分のことを見つめるその目によって傷つけられ、苦しみます。軽蔑や嫉妬、そこから生じる争いや対立などは皆、私たちがお互いに相手のことをどのような目で見つめているか、ということに原因があるのです。本当に見つめるべきものを、本当に見つめるべき仕方で見つめることができないために、私たちの人生の歩みはしばしばこのような修羅場と化すのです。

見つめる神
 このような悲惨な人間の罪の現実の中に、エル・ロイが、わたしを顧みる神、見つめたもう神が、ご自身を示されたのです。神様は、見るべきものを正しい仕方で見つめることができずに悲惨に陥っていく私たちの苦しみをじっと見つめておられます。そして私たちに語りかけて下さるのです。それは、私たちが本当に見つめるべきものを正しい仕方で見つめることができるようになるためです。ハガルはそのことを体験したのです。13節の後半に、「神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか」とあります。よくわからない訳ですが、神様が自分を顧みられた、つまり見つめて下さったことと、自分が神様を見つめたこととが語られているらしいことは分かります。ここは口語訳聖書ではこうなっていました。「ここでも、わたしを見ていられるかたのうしろを拝めたのか」。ハガルは、自分を本当に見つめておられる神様と出会ったのです。それによって、自分が本当に見つめるべき方と出会うことができたのです。その時、間違った仕方で見つめていた他のものから目を離すことができたのです。他のものとは、自分自身の誇り、自尊心、プライドです。それらを見つめることが、人を軽蔑すること、見下げることを生みます。彼女の目は、自分を誇り、その裏返しとして人を蔑む目となっていたのです。その目が、自分を見つめておられる神様との出会いによって、その神様を見つめる目へと変えられたのです。彼女が新しく歩み出す力を与えられたのはそのことによってだったのです。

本当に見つめるべきもの
 アブラムとサライがあのような悲惨に陥った原因もそこにあります。彼らは、本当に見つめるべきものから目をそらしてしまったのです。自分たちを顧み、見つめていて下さる神様から目をそらし、子供が生まれないという自分たちの目に見える現実のみを見つめて焦り、自分たちの工夫で事態を打開しようと小細工をしてしまったのです。その結果があの修羅場でした。しかし彼らが本当に見つめるべき現実は別にあります。それは、神様が彼らと契約を結んで下さったという現実です。そのことが、前回読んだ15章に語られていました。その時に申しましたが、契約を結んで下さったということは、神様がご自身を、約束の言葉に拘束される者として下さったということです。もしもこの約束が実行されなかったら、契約の儀式において引き裂かれた動物と同じように自分も引き裂かれてよい、そういう関係を、神様はアブラムとの間に結んで下さったのです。この神様をこそ、彼らは目を離さずに見つめ続けるべきだったのです。けれども、彼らが神様から目をそらし、契約の恵みを見失ってしまった時にも、神様は決して目をそらさずに、彼らを見つめて下さっていたのです。顧み続けて下さっていたのです。そして、荒れ野でハガルに出会って下さることを通して、アブラムとサライをも、本当に見つめるべきものを正しく見つめていくことができるように、導いて下さったのです。

神のまなざしの中で
 先ほどの13節の、「神がわたしを顧みられた後も」というところを、口語訳は「わたしを見ていられるかたのうしろを」と訳していました。ここは時間的に「後も」と読むよりも、「うしろを」と読んだ方がよいと思います。ハガルは自分を見つめておられる神様を見たのです。拝んだのです。しかし罪人である人間は神様を正面から見ることはできません。旧約聖書は、神様を正面から見た者は死ぬしかない、と教えています。聖なる神様と、汚れた罪人である人間の間には、そういう隔絶があるのです。だから人間が神様を見ることができるのは後ろからでしかないのです。しかし、私たちにおいてはもはやそうではありません。私たちは、神様を正面から見ることができます。それは私たちが清い者だからではありません。神様が遣わして下さった独り子イエス・キリストが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで、罪を赦し、清めて下さったからです。主イエスの十字架と復活によって、神様は私たちの罪を赦し、新しい契約を結んで下さったのです。神様は今主イエス・キリストにおいて、私たちを愛と赦しの恵みをもって見つめていて下さいます。主イエスこそ、神様が今私たちを顧み、見つめていて下さるそのまなざしなのです。私たちはこの主イエスにおける神様のまなざしの中で、神様を見つめ返すことができます。それが私たちの信仰です。この主イエスにおける神様のまなざしの中で生きるときに、本日共に読まれた新約聖書の言葉が私たちの現実となるのです。マタイによる福音書10章28節にこうあります。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。本当に恐れるべき方をこそ恐れなさい、ということです。本当に恐れをもって見つめるべき方、それは魂も体も地獄で滅ぼすことのできる神様です。しかしその神様は、あなたがたの父なのだ、と言われています。そしてその父である神様が、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えていて下さる、私たちのことを本当に顧み、愛のまなざしをもって見つめ、守り、導いて下さる、だから、恐れるな、と言われているのです。主イエス・キリストを通して、私たちの父となって下さった神様を見つめる時、私たちは、本当に恐れるべき方を知らされます。そしてその本当に恐れるべき方が、赦しの恵みをもって私たちを見つめ、顧みて下さっていることを示されます。それこそが、私たちが本当に見つめるべきことです。それを見つめることによって私たちは、この世の目に見える現実の中で、恐れずに歩むことができるようになるのです。この世界の目に見える現実は、私たちを不安にし、焦らせ、神様の約束を疑わせるようなことで満ちています。しかし、見つめるべき本当の現実は、主イエス・キリストの十字架と復活によって神様の救いの恵みが既に確立している、ということです。私たちをいつも見つめていて下さる神様のまなざしの中で、本当に見つめるべきものを見つめる目を開かれながら、信仰の旅路を歩んでいきたいのです。

関連記事

TOP