主日礼拝

光を信じなさい

「光を信じなさい」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第9章1-6節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第12章27-36a節
・ 讃美歌:3、509

主日礼拝の再開
 4月以降、新型コロナウイルスの感染を避けるために共に集まる礼拝を休止してきましたが、先週は先ず教会員が集う礼拝を、本日からは、ホームページにも礼拝再開を公開して一般の方々をお迎えする礼拝を再開します。ウイルス感染の危険が無くなったわけではありませんから、三回に分けて一回の出席人数を抑え、席も間隔を開けて座っていただいています。感染予防を徹底しつつ、この礼拝を続けていきたいと願っています。

心騒いでおられる主イエス
 礼拝においてヨハネによる福音書から連続してみ言葉に聞いており、今は第12章を読んでいます。既に、主イエスの地上のご生涯の最後の一週間に入っています。あと数日で、主イエスは捕えられ、十字架につけられて殺されるのです。主イエスはそのことをはっきりと自覚しておられました。そのことが、本日の箇所の冒頭のところからも分かります。27節から28節に、「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」という主イエスのお言葉があります。十字架の死を目前にして、主イエスは心騒いでおられるのです。平然と落ち着いてはおれなかった、ある意味動揺しておられたのです。それは二つの思いがあったからです。一つは「父よ、わたしをこの時から救ってください」と父である神に祈り願いたいという思いです。神の独り子であり、まことの神である主イエスにとって、人間によって捕えられ、十字架につけられて殺されるというのは限りない屈辱であり苦しみでした。そのような死からの救いを父なる神に願い求めたいという思いがあったのです。しかしもう一つの思いは「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」ということです。主イエスが人間となってこの世に来られたのは、この時のため、つまり十字架にかかって死ぬためだったのです。それは他ならぬ私たちの救いのためです。私たちは罪のゆえに神との良い関係を失っており、そのままでは滅びるしかありません。その私たちの罪を主イエスが全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちは罪を赦され、滅びから救われたのです。父なる神はその救いを私たちに与えるために、独り子主イエスをこの世に遣わして下さったのです。主イエスはこの父のみ心に忠実に従ってこれまでも歩んできたし、これからの最後の日々も歩もうとしておられるのです。この救いのみ業によってこそ、神の御名の栄光が現されます。罪ある人間を救って下さる神の愛の栄光が、主イエスの十字架の死によって現されるのです。この使命を主イエスはしっかり見つめておられました。それゆえに心騒ぎつつも、「わたしはこの時のために来たのだ」という使命に生きることによって、「この時から救ってください」という思いを乗り越えようとしておられるのです。

父なる神の支え
 この主イエスの祈りに、父なる神がお応えになったことが28節後半に語られています。「すると、天から声が聞こえた。『わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう』」。心騒いでおられる主イエスを、父なる神が力づけ、励まされたのです。「わたしは既に栄光を現した」。主イエスのこれまでの歩みにおいて、そのみ言葉と、み業によって、神は既に栄光が現されたのです。そして神は「再び栄光を現そう」とおっしゃいました。この「再び」は「さらに」とも訳せます。主イエスのみ言葉とみ業によってご自身の栄光を現して下さった神は、この後の主イエスの十字架の死と復活において、その栄光をさらに現そうとしておられるのです。父なる神はこれまでも、これからも、主イエスと共におられ、「御名の栄光を現してください」という主イエスの祈りにしっかり応えて下さるのです。この父なる神の力づけ、励ましによって主イエスは、十字架の死への道を歩み通されたのです。

驚くべき救いの恵み
 私たちがここから知らなければならないのは、主イエスにとっても、十字架の死は大きな苦しみであり、心騒ぐことだったということです。主イエスはご自分が神の独り子であることを知っておられたのだし、父なる神が愛して下さっていることも知っておられた。ご自身も、死んだラザロを復活させる力をお持ちだったのだから、十字架にかかって死んでも三日目に復活することが分かっていたはずだ、だから十字架にかかって死ぬことも平気だったのではないか、と思ってしまうことがあります。しかしそのような捉え方は間違っています。それは、主イエスだって私たちと同じように死ぬことは恐ろしかったのだ、という話ではありません。私たちがここで見つめなければならないのは、神の独り子である主イエスが、人間としてこの世を生き、十字架につけられて殺されるということがいかにあり得ない、驚くべき出来事であるか、ということです。さらに言えば、神に背き逆らい、神の敵となっている私たち罪人のために、神ご自身が人間となり、私たちの罪を代って引き受けて、身代わりとなって死んで下さるということが、いかに理不尽な、考えられないことであるか、です。それは人間どうしの間だったら、そんな馬鹿馬鹿しいことやってられるか、と思うようなことなのです。そういう意味で、主イエスの十字架への歩みは、どうせ復活するんだからそんなに心騒ぐようなことではないのでは、などと言えるものではないのです。そのあり得ない、驚くべき、理不尽な、馬鹿馬鹿しい救いのみ業を、主イエスはご自分の使命として引き受けて下さり、父なる神がその歩みをしっかり支えて下さったのです。父と子の深い信頼関係の中で、この驚くべき救いのみ業が成し遂げられたのです。十字架の死を前にして主イエスが心騒ぎ、父なる神がその主イエスを支えて下さったということから私たちが知らなければならないのは、主イエスも死ぬのは怖かった、というようなことではなくて、主イエスと父なる神が、あり得ない、驚くべき救いのみ業を私たちのために成し遂げて下さった、ということなのです。

この世の支配者の追放
 この天からの声を、周囲にいた人々は理解できなかったと29節にあります。30節で主イエスは「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ」と言っておられます。その「あなたがた」とは、この福音書を読んでいる教会の信者たちであり、私たちです。主イエスを神の子、救い主と信じる者には、父なる神のこのみ声が分かるのです。父なる神と子なる主イエスの深い信頼関係の中で、主イエスの十字架の死による驚くべき救いが与えられたことを、私たちは感謝をもって受け止めることができるのです。そしてそこには、主イエスの十字架の死が、私たちにとって、また全ての人間にとって、どのような意味を持っているのかが見えて来ます。それが語られているのが31、32節です。「今こそ、この世が裁かれる時、今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。このお言葉は、次の33節に「イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである」とあるように、主イエスの十字架の死の意味、それによって何が実現するのかを語っています。主イエスが十字架にかかって死ぬことによって、この世が裁かれ、この世の支配者が追放されるのです。それは、この世を本当に支配しているのは誰かが明らかになる、ということです。この世の支配者は今、権力をもって私たちを支配しています。その支配者は人間であるかもしれないし、人間がその営みの中で作り出したお金や地位や名誉かもしれません。あるいは世の中を漠然と支配していて、人々をある方向へと押し流していく空気、雰囲気のようなものかもしれません。さらに、私たちの人生は最終的に死の力に支配されています。死の支配を免れることは誰も出来ません。様々な病気や老いの苦しみは、人生の最終的な支配者である死からの使いであると言えます。新型コロナウイルスも、死の力によって私たちの生活の中に送り込まれたゲリラのような存在です。これらの「この世の支配者」の下に私たちは、この世は置かれているのです。しかし主イエスの十字架の死は、私たちを、この世を、本当に支配しているのは主イエスであり、主イエスの父である神なのだ、ということを証ししています。神が、その独り子を与えて下さるほどに、この世を、私たちを愛して下さっていることが主イエスの十字架の死によって示されたのです。神の独り子である主イエスが私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さるという驚くべきみ業によって、罪人である私たちをご自分のもとに引き寄せ、救いの恵みの中に入れて下さったのです。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」というお言葉は、この十字架の死による救いへと主イエスが全ての人を招いて下さっていることを示しています。まことの支配者である主イエスのもとに引き寄せられ、その恵みのご支配の下に置かれる時、「この世の支配者」は追放され、その支配から私たちは解放されるのです。主イエスの十字架による救いにあずかる時、私たちは人間や、人間が作り出したものの支配からも、世の中の空気や雰囲気に押し流されることからも、そして死の力からも自由になることができるのです。死の支配からの解放は、十字架の上で死んだ主イエスを父なる神が復活させて下さったことによって与えられています。独り子をお与えになったほどに世を愛された父なる神は、独り子を信じる者が一人も滅びることなく永遠の命を得るために、復活して永遠の命を生きておられる主イエスのもとに私たちを引き寄せて下さっているのです。まことの支配者である主イエスと父なる神のもとで、私たちは死の支配からも自由になることができるのです。

人の子は上げられる
 主イエスとその父である神こそがこの世を本当に支配しておられる方である、そのことが明らかにされることこそが救いであり、それは同時にこの世が神によって裁かれることでもあります。神の裁きとは、様々な力が支配しているように見えるこの世に、神のご支配があらわになり、確立することです。それこそが救いです。神の支配の確立によって、私たちの救いも実現するのです。そのために、独り子主イエスは「地上から上げられる」のです。それは十字架につけられることを意味していると同時に、十字架の死から復活して父なる神のもとに上げられることでもあります。主イエスがそのように「上げられる」時に、すべての人をご自分のもとに引き寄せて下さり、主イエスと父なる神のご支配の下に置いて下さる、そういう驚くべき救いを神は私たちに与えて下さるのです。
 私たちには、この救いがなかなか分かりません。主イエスの十字架の死によって神のご支配が、救いが実現するなどということはあり得ない、と思うのです。そういう思いからの問いが34節になされています。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか」。このように問うた群衆は、「人の子が上げられる」という主イエスのお言葉に、自分たちが考えているメシア、救い主の姿とは違うものを感じ取っています。彼らがイメージしているメシア、救い主は、「永遠にいつもおられる」方です。それはこの地上に、自分たちのもとにいつもいてくれて、自分たちの願いをかなえてくれる、具体的にはローマの支配からの解放、民族の独立を実現してくれる、ということです。自分たちが願っている救いをもたらしてくれるメシア、救い主を彼らは期待しているのです。しかし主イエスは、人の子は上げられるとおっしゃいました。上げられる時にこそすべての人を引き寄せるのだとおっしゃったのです。十字架の死と復活によってこそ、人の子主イエスのメシアとしての救いが実現するのです。その救いの実現に向けて、主イエスは今、心騒がせつつ、しかし父なる神から与えられた使命をしっかり見つめて歩んでおられます。父なる神も、その主イエスを力強く支えておられるのです。

光のあるうちに
 この主イエスが今私たちに語りかけておられるみ言葉が35、36節です。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」。「光」とは主イエスです。この福音書は1章9節で「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と語っていました。それは主イエスのことです。また8章12節には「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」という主イエスのお言葉がありました。その光が、「いましばらく、あなたがたの間にある」とここでは語られています。それは主イエスがあと数日で十字架につけられて殺されるということです。主イエスが捕えられ、殺されたら、光はかき消され、暗闇に覆われてしまう。そうなる前に、まだ光のあるうちに、つまり主イエスが生きておられるうちに、光である主イエスを信じて光の子となりなさい、という勧めとしてこの言葉は読むことができます。主イエスの十字架の数日前というこの時点での直接的な意味はそうなります。しかしこのお言葉は、主イエスの復活の後を生きている私たちに対する語りかけでもあります。主イエスは私たちにも、「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」と語りかけておられるのです。

闇は光に勝たなかった
 「暗闇に追いつかれないように」という言葉は、暗闇が私たちを追いかけて来て捕えようとしている、という感じです。この「追いつく」はこの福音書の1章5節に「暗闇は光を理解しなかった」とあった、その「理解する」と同じ言葉です。「追いつく」と「理解する」では全く違う言葉に感じられますが、本来の意味は「打ち勝つ、支配する」です。新しい聖書協会共同訳では、1章5節は「闇は光に勝たなかった」であり、12章35節は「闇に捕らえられることがないように」です。主イエスは、全ての人を照らすまことの光としてこの世に来られました。暗闇は光である主イエスに勝つことはできません。主イエスの十字架と復活によって、「この世の支配者」である暗闇は追放され、まことの光である主イエスのご支配が確立したのです。主イエスの十字架と復活によって主イエスのもとに引き寄せられ、その救いにあずかっている信仰者は、暗闇の支配から解放され、光の下で生きているのです。

暗闇に追いつかれないように
 しかし主イエスによるこの救いは、まだ完成してはいません。主イエスと父なる神のご支配は、今この世において、目に見える現実となってはいないのです。それが目に見える現実になるのは、この世の終わりに主イエスがもう一度来て下さり、すべての者をお裁きになる時です。その時に、主イエスと父なる神のご支配が全ての者の上に確立するのです。「今こそ、この世が裁かれる時、今、この世の支配者が追放される」という神による裁きは、主イエスの十字架によって既に決定的に始まっていますが、世の終わりに主イエスがもう一度来られる時になされる最終的な裁きにおいて完成するのです。その時までは、神のご支配は隠されており、この世の目に見える現実においては、「この世の支配者」である暗闇がなお力を振っています。その中で私たちは、主イエスの十字架によって始まっている神のご支配を信じて、暗闇の力と戦っていくのです。暗闇は私たちを支配しようといつも狙っています。その意味で、「暗闇に追いつかれないように」という訳にも意味があります。主イエスの光のもとへと引き寄せられたはずの私たちが、暗闇に追いつかれ、その支配の下へと逆戻りしてしまうことも起るのです。そして暗闇に支配されてしまうと、「暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない」とあるように、歩むべき道を見失い、この世を支配している様々な力に引きずり回され、ついには死に支配される絶望へと陥ってしまうのです。

光の子となるため
 そうならないために、主イエスはここで私たちに、「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」と語りかけて下さっています。まことの光である主イエスによる救いが、主イエスの十字架と復活によって、既に与えられているのです。私たちはその光に既に照らされているのです。主イエスが求めておられるのは、その光を信じることです。暗闇の力、罪の力、この世の支配者と私たちが自分の力で戦って勝利することが求められているのではありません。その戦いは、主イエスと父なる神が既に戦って下さり、十字架の死と復活によって決定的な勝利を得て下さっているのです。しかし最後の勝利までの戦いはなお続きます。私たちは、十字架と復活の主イエスのもとに引き寄せられ、洗礼によって主イエスと結び合わされ、光の子とされて、なお残る戦いに加わっていくのです。光である主イエスを信じて歩むなら、暗闇は私たちに追いつくことはできません。闇はまことの光である主イエスに打ち勝つことはできないのです。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じて生きる、そのためにこの礼拝があります。まことの光である主イエスを信じる光の子となるために、再開されたこの礼拝を大切に守っていきましょう。

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