「祝福の中に」 伝道師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:創世記 第12章1-3節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第3章6-14節
・ 讃美歌:300、155、441
信仰によって生きる
本日、私たちに与えられているみ言葉はガラテヤの信徒への手紙第3章6節から14節です。その6、7節を続けて読むとこのようになります。「それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです。だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」新共同訳聖書を見ると7節から新しい段落が始まっていますが、その冒頭には「だから」とあり、7節は6節を受けて語られています。6節では創世記15章6節が引用されていました。「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた。」アブラハムが義とされたのは、彼が神さまを信じたことによるのだ、とパウロは言っています。そして「だから」、「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子である」、そのことを知りなさいと、彼はガラテヤ教会の人たちへ語っているのです。「信仰によって生きる人々」とは、信仰を拠り所としている人たちのことです。アブラハムは生まれ故郷を離れてカナンへと旅立ちましたが、それは準備万端整って、将来の見通しが立ったから旅立ったわけではありません。そうではなくこれからどうなるか何も分からないときに旅立ったのです。アブラハムには不安や恐れや迷いがあったに違いありません。彼は何一つ具体的な確かさを手にしていたわけではないのです。ただ神さまの言葉だけがアブラハムに与えられていました。それが本日共に読まれた旧約聖書創世記12章1節から3節のみ言葉です。まだアブラムと呼ばれていたアブラハムに主なる神さまはこのように言われています。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」そして続く4節で「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」と語られています。アブラハムは神さまの言葉を信じて、つまり信仰を拠り所として旅立ったのです。自分の力や経験や知識、あるいは判断や決断を頼みとしたのではなくて、「あなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように」という神さまの約束にただ信頼して歩み始めたのです。このアブラハムのように、信仰を拠り所として生きる人たちこそが「アブラハムの子」であるとパウロは言っているのです。
祝福の中に入れられている
ガラテヤ教会の人たちは信仰によって義とされる、つまり信仰によって救われることを否定していたのではありません。そうではなく彼らは信仰「と」行いによって義とされ救われると考えていたのです。信仰だけでは十分ではなく行いも必要だ、あるいは信仰と同じくらい行いも必要だということです。彼らは、アブラハムが義とされたのは律法の行いによると考えていました。ですから自分たちこそが「アブラハムの子」であると思っていたのです。それに対してパウロは、アブラハムが義とされたのは信仰によるのであり、それゆえ「アブラハムの子」であるとは信仰によって義とされ救われた者である、と創世記のみ言葉を引用して語っているのです。信仰によって生きるとは、信仰を拠り所とするけれど、それだけでなくほかのことも拠り所とするということではありません。ただ信仰のみを拠り所とするのです。もし信仰「と」律法の行いによって義とされるならば、異邦人は律法の行いによらなければ、特に割礼を受けなければ義とされないということになります。割礼を受けるとはユダヤ人になることにほかなりません。割礼を受けた者だけが「アブラハムの子」であるならば、ユダヤ人だけが「アブラハムの子」であり、神さまがアブラハムに与えた祝福の約束を受け継ぐ者だということです。異邦人は異邦人のままで救われるのではなく、割礼を受けてユダヤ人となることによって初めて祝福の約束を受け継ぐことができるのです。しかしパウロは、創世記12章3節のみ言葉を引用してこのように言っています。「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。」ここでパウロは「聖書は、見越して、予告した」という特別な語り方をしています。それによって、神の言葉である聖書がアブラハムにあらかじめ伝えた「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音が、異邦人が信仰によって義とされることにおいて実現した、と言っているのです。「かつて」神さまがアブラハムに与えた約束は、「今」異邦人において実現したのです。「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」とは「アブラハムのゆえに異邦人は皆祝福される」ということですが、それはアブラハムの行いや功績のゆえにということではありません。アブラハムが立派な行いをしたからとか、その功績がとても大きかったからではなく、アブラハムが信仰によって義とされたゆえに異邦人は皆祝福されるだろう、と言われているのです。共に読まれた創世記12章3節で、主はアブラハムに「祝福の源になるように」と言われていました。アブラハムが信仰によって義とされたことこそ「祝福の源」です。信仰によって私たちは、この「祝福の源」から注がれている豊かな祝福に与っているのです。パウロは9節で、「信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」と言っています。8節では「異邦人」に集中してパウロは語っていましたが、9節では7節と同じように「信仰によって生きる人々」と語っています。「信仰によって生きる人々」とは、信仰のみを拠り所として生きるすべての人、そのように生きるユダヤ人と異邦人を含むすべての人のことだからです。そこではユダヤ人と異邦人の隔てが取り除かれ、ただ信仰によって一つとされているのです。ユダヤ人であれ異邦人であれ、そして私たちであれ、信仰のみを拠り所として生きるすべての人は、「信仰の人アブラハムと共に祝福されてい」るのです。8節で引用されていた創世記12章3節の「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」の「祝福される」は文法的には未来形であり、将来実現することとして語られていました。しかし9節の「信仰の人アブラハムと共に祝福されています」の「祝福されている」は現在形であり、信仰によって生きるすべての人は、すでにアブラハムと共に「祝福されている」という現実の中に入れられているのです。私たちの現実は、信仰によっていつか義とされ祝福されるだろうというようなものではありません。すでに信仰によって義とされ祝福の中に入れられている。これこそ、私たちの現実にほかならないのです。ですから私たちはアブラハムよりもより確かな世界に生きていると言えます。アブラハムに与えられていたのは祝福の約束です。しかし私たちはすでに祝福の中に入れられています。アブラハムは、先が見えない中にあって、ただ神さまの約束を信じて歩み始めました。私たちも先が見えないという思いを抱いています。けれども私たちはアブラハムとは決定的に異なっているのです。私たちは、将来、祝福が与えられるという約束を信じて歩んでいるのではなく、すでに祝福の中に入れられていることを信じて歩んでいるのです。私たちの日々の歩みにおいて、神さまの祝福の中にあるとは思えないときにこそ、私たちがすでに祝福の中にあることを堅く信じたいのです。そこから離れてはならないのです。信仰を拠り所として生きる人とは、神さまの祝福の中に立ち続ける人にほかならないのです。
律法の呪い
信仰によって生きる人々は祝福されている、と語ってきたパウロは10節でこのように言っています。「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです。」「律法の実行に頼る者」とは、律法の行いを拠り所として生きる人のことです。つまりパウロは、信仰を拠り所として生きる人々が祝福されているのに対して、律法の行いを拠り所として生きる人々は呪われている、と言っているのです。律法の行いを拠り所とする、と言われてもピンとこないかもしれません。しかしそれは、生きる根拠が信仰ではなく自分の力や行いや功績にあるということにほかなりません。信仰よりも、自分の力や行いや功績を頼みとして生きようとするのです。「呪われている」と言われると、魔術的なことを思い浮かべるかもしれません。しかしここで「呪われている」と言われているのは、神さまとの関係についてです。つまり「呪われている」とは、神さまとの関係が断たれてしまっていることであり、神さまとの交わりがないことであり、神さまの祝福の外に置かれていることです。ですからそれは、神さまの裁きを意味するのです。このパウロの言葉を聞いて、ガラテヤの人たちは躓きを覚えたに違いありません。律法の行いを拠り所として生きることは、「呪われている」とまで言われなくてはならないことなのだろうか。善い行いを積み重ねることは、祝福されることはあっても呪われることではないはずだ。そのように思っても不思議ではありません。私たちも同じような思いを持つのではないでしょうか。善い行いには意味がないのだろうか。私たちの日々の生活は行いの積み重ねだけれど、そのような行いは大切ではないのだろうか。確かに行いは大切です。行いはどうでも良いということでは決してありません。もし行いがどうでも良いのなら、そこには無秩序しかないでしょう。けれどもここで見つめられているのは「救い」です。私たちの人生の中心であり土台であり根拠である「救い」が見つめられているのです。その救いは、私たちの行いによるのではない、とパウロは言っているのです。このことをパウロは11節で「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです」と言っています。私たちは、行いによって義とされるのではないのです。なぜなら誰一人として律法の行いをすべて守ることなど到底できないからです。むしろ律法は、律法を守れない私たちの違反を明らかにし、神の怒りと裁きをもたらします。神の呪いは、律法の行いを拠り所とすることによってもたらされるのです。この呪いは13節では「律法の呪い」と言われています。私たちは行いを拠り所とするならば「律法の呪い」の支配の下にあることになるのです。自分の人生を神さまのご支配に委ねるのではなく、そのご支配に抵抗して「私の人生は私のもの」だと自分の力で支配しようとするとき、私たちは自分の人生を支配しているように見えて、実は「律法の呪い」に支配されているのです。
ガラテヤの人たちは、救われるためには信仰に加えて律法の行いが必要であるという教えに惑わされていました。しかしパウロにとって、信仰による救いは、信仰「と」律法による救いと決して両立するものではありません。パウロはその理由を12節でこのように言っています。「律法は、信仰をよりどころとしていません。」「よりどころとする」とは「由来する」とも訳せます。つまりパウロは、律法は信仰に由来しない、と言っているのです。ですから、信仰に由来しない律法の行いを信仰に付け加えることは、信仰のみによる救いを破壊してしまうことになるのです。さらにパウロは「『律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる』のです」と言っています。これはレビ記18章5節のみ言葉を少し変えて引用していて、もともとは「わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる」と言われています。しかしパウロによれば「律法の定めを果たす者」、つまり律法の行いを拠り所とする者は、その行いによって祝福を得るのではなく、むしろ呪いを得ることになるのだと言うのです。そのような者は祝福の中を歩むのではなく、「律法の呪い」の支配の下に生きるのです。
キリストの贖い
かつて私たちは神さまに背き、神さまを主人として生きるのではなく、自分を主人として生きていました。自分の力で人生をコントロールしようとしていたのです。完璧にコントロールすることはできないとしても、大体はなんとかできている、と思っていたのです。そのとき私たちは自分の人生に神さまが関わっていないかのように生きていました。関わっていたとしても自分にとって都合の良いときにだけ神さまに登場してもらっていたのです。そこには神さまとの正しい交わり、人格的な交わりはありません。自分の行いを頼みとしていた私たちはその行いに縛られていたのです。まさに「律法の呪い」の支配の下にあったのです。ほかならぬパウロ自身が、もともと律法の行いを拠り所として生きてきました。しかし彼は復活したキリストと出会うことによって、信仰を拠り所として生きる者へと変えられたのです。私たちも、キリストによって、しかも十字架につけられたキリストによって、この「律法の呪い」の支配から解放されました。13節に「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」とあります。「贖い出す」という言葉は、「市場(いちば)」という言葉と関わりがあり、もともとは市場で「買う」こと、あるいは「買い戻す」ことを意味します。つまりキリストが私たちを「律法の呪い」から贖い出したとは、「律法の呪い」の支配の下にある私たちを買い戻してくださったということなのです。市場で買い物をするにはお金を払う必要があります。キリストは私たちを買い戻すためになにを支払ったのでしょうか。このことが「わたしたちのために呪いとなって」という言葉に示されています。「呪いとなった」とは、キリストが呪われたものとなり死なれたということです。キリストが律法に呪われて死ぬことによって、「律法の呪い」の支配の下にあった私たちが自由にされたのです。キリストは私たちのために呪われたものとなってくださり、神の裁きを受けてくださり、十字架で死んでくださいました。私たちはもはや行いに縛られることはありません。かつて私たちは、自分の行いによって誇ってみたり蔑んでみたりしました。自分と隣人の行いを比べて隣人を批判し傷つけました。私たちは行いに縛られていた時、人を裁き、また人に裁かれ、恐れと不安に満ちて生きていたのです。しかし私たちはすでにそのような行いの支配から解き放たれているのです。キリストが十字架で死なれ私たちを贖い出してくださったのは「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるため」であったと14節にあります。キリストの十字架における贖いの死によって、アブラハムに与えられた祝福が、異邦人に及び、そして私たちに及んだのです。私たちが「アブラハムの子」とされ、アブラハムと共に祝福されているのは、キリストが私たちの代わりに十字架で死んでくださったからです。そのことによって私たちは神さまがアブラハムに約束した祝福の中に入れられているのです。そしてそれは、私たちが「約束された“霊”を信仰によって受ける」ことによってです。キリストの十字架の死による救いを信じることによって私たちは聖霊を受けるのです。
祝福を運ぶ
私たちは受難節を歩んでいます。来週の主の日、棕櫚の日から受難週が始まります。しかし私たちは新型ウイルスの脅威の中、不安と恐れを抱きつつ受難節を過ごし、また受難週を迎えようとしています。このことに振り回されてはならないなどと言えません。振り回されて当然だからです。初めてのことであり、予想していなかったことであり、日々刻々と状況は変わっていくからです。世界中で多くの方が感染し、また亡くなられていることに心を痛めています。様々な制約の中で日々の生活を送らなくてはなりません。私たちがなすべきことについて、それを成し遂げる知恵と勇気を与えてくださいと祈ります。また私たちが為す術がないことについて、そのことを神さまに委ねる勇気を与えてくださいと祈ります。そのような日々を私たちは現在進行形で歩んでいます。しかし同時に私たちは忘れてはならないことがあります。私たちキリスト者だけが忘れてはならないことがあるのです。神さまがアブラハムに与えた祝福の約束は、主イエス・キリストの十字架における贖いの死によってすでに実現したのです。私たちはすでにこの祝福の中に入れられています。不安や恐れに振り回される日々であったとしても、私たちはこの祝福の中を歩んでいるのです。私たちはこのことに堅く立ち続けたいのです。私たちには使命があります。この礼拝に集えた方も、それぞれのところで祈りつつ過ごしている方も、すでに祝福の中に入れられた者として、この世界に神さまの祝福を運んでいくのです。不安と混乱に満ちた世界にキリストの救いを証しし、福音を告げ知らせていくのです。