主日礼拝

主の杯を飲む者

2026年3月8日 
説教題「主の杯を飲む者」

詩篇 第22編1ー32節
マタイによる福音書 第20章17~28節

第三回受難予告
 マタイによる福音書第20章17節以下には、主イエス・キリストが、ご自分がこれから受ける苦しみと死についてお語りになった、いわゆる「受難予告」が記されています。主イエスは三度にわたって受難予告をなさいましたが、本日の箇所は三度目、最後の受難予告です。マタイ福音書において、この三度にわたる受難予告は、語られた場所においても、また内容においても、次第に深まりを見せています。第一回の受難予告は16章21節以下でした。それはフィリポ・カイサリア地方、つまりガリラヤ湖の北、ヨルダン川の源流の地域でのことでした。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と、主イエスへの信仰を告白した直後に、第一回の受難予告が語られたのです。第二回は17章22節以下でした。これは「一行がガリラヤに集まったとき」となっています。そして本日の第三回は、17節にあるように、「エルサレムへ上って行く途中」です。つまり語られた場所が、北から南へと移ってきている。つまり受難の地であるエルサレムに次第に近づいているのです。また語られた内容も、この第三回が最も詳しくなっています。「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する」とあります。「引き渡す、引き渡される」という言葉に注目したいと思います。この言葉は第二回の受難予告から語られていましたが、ここでは二度繰り返されています。主イエスが祭司長たちや律法学者たちに引き渡されるというのは、「逮捕される」ということですし、彼らが主イエスを異邦人に引き渡す、というのは、ローマの総督ピラトに引き渡され、その下で十字架につけられる、ということです。しかしこの言葉の最も深い意味は、父なる神によって死へと引き渡される、ということです。ローマの信徒への手紙第8章32節ではそういう意味でこの言葉が使われています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。パウロは、主イエスの十字架の死は、神が私たちのためにその御子をさえ惜しまず死に引き渡して下さったという出来事だったのだと語っているのです。「引き渡す」という言葉はこのように、主イエスの受難の根本的な意味を語っています。その言葉がこの第三回受難予告には二度繰り返されているのです。
 さらに、主イエスが十字架につけられることがこの第三回において初めて語られています。それまでの二回は「殺される」でした。具体的には十字架につけられて殺されるのだ、ということが示されたのです。このことは「異邦人に引き渡される」ということと繋がっています。十字架刑は、異邦人であるローマ人が、最も身分の低い者たちを処刑するやり方です。この時よりも数十年前にローマで、「スパルタカスの反乱」という大規模な奴隷の反乱が起りました。それが鎮圧された時、有名なアッピア街道沿いに、ずらりと十字架が並んだと記録されています。十字架は、ローマが、奴隷などを処刑するやり方なのです。それは、苦しめながらじわじわと死に至らせるという、情け容赦のない残酷な死刑です。主イエスは異邦人であるローマ人に引き渡され、そのような残酷な仕方で殺される、そのことがこの第三回において初めて語られたのです。

受難と復活の予告
 ところで、先ほどから「受難予告」と言っていますが、主イエスが予告なさったのは「受難」だけではありません。第一回の時から一貫して、「三日目に復活する」ことも語られています。ですから正確には「受難と復活の予告」なのです。しかし、これを聞いた弟子たちの多くは、「受難」のみに反応しています。第一回の時には、ペトロが主イエスをわきへ連れ出して、「そんなことを言うものではありません」と諌めたとあります。第二回においては、弟子たちが「非常に悲しんだ」とあります。「受難と復活」が予告されたのに、弟子たちの耳には「受難」しか残らず、「復活」の方は何を言っているのかよく分からなかったのでしょう。

ゼベダイの子らの母の願い
 けれども中には、主イエスがお語りになった「復活」を、よく分からないながらも聞き取り、それに反応した人たちがいました。そのことが20節以下に語られています。それはゼベダイの息子たち、ここには名前は出てきていませんが、ヤコブとヨハネです。彼らがと言うよりも、彼らの母親が、人の子は三日目に復活する、という主イエスのお言葉に反応したのです。二人の息子ヤコブとヨハネを連れて主イエスのもとに来た彼女に主イエスが「何が望みか」とお尋ねになると、彼女は、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と願ったのです。つまり彼女は「人の子は三日目に復活する」というお言葉に、主イエスが「王座にお着きになる」ことを聞き取ったのです。引き渡され、殺されるが三日目に復活する、それは主イエスが、敵対するすべての力に、死の力にすらも勝利して王座に着き、支配する者となる、ということだと彼女は、そしてヤコブとヨハネは考えたのです。つまり主イエスの勝利の時がいよいよ近づいている、その時に、自分の二人の息子たちが、主イエスの王座の右と左に座れるように、つまり誰よりも主イエスのみ側近くでそのご支配の栄光に共にあずかれるようにして下さい、と彼女は願い求めたのです。

主イエスの栄光にあずかりたいという願い
 他の弟子たちが主イエスの受難予告に心を奪われて恐れたり悲しんだりしている中で、復活が、つまり主イエスの勝利と支配の実現が語られたことに気づいて、その栄光にあずかることを願った彼らの洞察は鋭かったと言えます。16章でペトロが告白したように主イエスがメシアつまり救い主であり、生ける神の子であるならば、その主イエスは最終的に、敵対する全ての力に勝利して支配なさるはずだし、死の力にも打ち勝つはずです。主イエスが受難で終わってしまうはずはないのです。だから主イエスが復活して栄光の座に着くときに、その右と左においてその栄光にあずかることを願うのは決して的外れなことではありません。しかし彼らの願いは、他の弟子たちを出し抜いて高い地位につこうということだったので、24節にあるように他の十人の弟子たちは腹を立てました。またこの母親は、大の大人になった息子たちの出世のためになお奔走している、過保護で子離れできていない母親という感じがします。だから主イエスは、「そんなことを願うものではない」とおっしゃってもよかったように思います。しかし主イエスは彼らの願いを退けるのではなくて、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」とおっしゃいました。そして彼らに、「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問いかけました。「確かに私は復活して王座に着く。しかしそのために飲もうとしている杯がある。私の栄光に共にあずかるためには、その杯を共に飲まなければならない。あなたがたはそのことができるか」と問うたのです。主イエスが飲もうとしている杯、それは、捕えられ、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられて殺されるという苦しみの杯です。主イエスは逮捕される直前、ゲツセマネという所で、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈りました。これから受けようとしている十字架の死は、主イエスにとっても、できるなら受けたくない大きな苦しみだったのです。しかしその苦しみの杯を飲まなければ、復活の栄光に至ることはできないのです。つまり主イエスは彼らに、あなたがたは、自分がとてつもなく大きな苦しみを受けることを求めている、そのことが分かっていない、とおっしゃったのです。

主の杯を飲む者となったヤコブとヨハネ
 主イエスのこの問いにヤコブとヨハネは、「できます」と答えました。あなたが飲もうとしている杯を私たちも飲みます、あなたのお受けになる苦しみを、私たちも共に受けます、と断言したのです。私たちは、彼らがこの後どうなったかを知っています。彼らは主イエスが捕えられた時、その場から逃げ去ってしまいました。主イエスと共に苦しみを受けるどころか、我が身かわいさに主イエスを見捨てたのです。そのことを知っている私たちは、ここを読むと、「おいおい、そんな出来もしないことを安請け合いするなよ」と思います。主イエスも、そのことは全てお見通しだったはずです。だから彼らの思い上がりをたしなめるようなことをおっしゃってもよかったはずです。ところが主イエスは彼らにこうおっしゃっいました。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」。主イエスは、「あなたがたは確かに、私の杯を飲む者となる」と宣言なさったのです。主イエスのこのお言葉は、最終的にはその通りになりました。ヤコブとヨハネは、主イエスの十字架の時には、今申しましたように逃げ去ってしまいましたが、復活した主イエスが彼らをもう一度みもとに集めて下さり、そして聖霊が彼らに降って力を与えて下さったことによって、彼らは使徒として、主イエスによる神の救いの恵みを宣べ伝える者として立てられたのです。そして、使徒言行録12章のはじめのところには、ヤコブがヘロデ王によって剣で切り殺されて殉教の死を遂げたことが語られています。ヤコブはまさに主イエスの苦しみの杯を飲む者となったのです。ヨハネの方はかなり長生きしたと言い伝えられています。しかし彼はその長い人生を、使徒として、主イエスを宣べ伝える者として、様々な苦しみを受けつつ生きたのです。ヤコブもヨハネも、形は違っても、主の杯を飲む者となったのです。

苦しみを経て栄光へ?
 主イエスのお言葉はこのように、彼ら二人の将来の歩みを見越したものでした。しかし彼ら二人がここで「できます」と言ったのは、主イエスが予告なさった受難において飲もうとしておられる苦しみの杯を自分たちも飲むことができる、ということです。彼らはそれによって自分たちも、主イエスの栄光にあずかる者となるのだ、と意気込んでいたのです。彼らが思っていることと、主イエスが見つめておられることの間には大きな落差、隔たりがありました。それはそのまま、私たちにもあてはまることなのではないでしょうか。私たちもこの二人の弟子と同じように、主イエス・キリストに従って、主イエスの飲む杯を自分たちも飲んで、その苦しみを忍耐して背負って、それによって主イエスの復活の栄光にあずかることが信仰だ、と思っているのではないでしょうか。救われて主イエスの栄光と勝利にあずかるためには、苦しみの杯を飲み干し、忍耐して主イエスに従っていくことが必要だ、と私たちも思っているのではないでしょうか。自分がそのようにできる、とは思っていないかもしれません。それとは遠くかけ離れた生き方しかできない自分だけれども、しかし苦しみの杯を飲んで主イエスに従っていくことを目指して、少しでも努力していくことが、信仰をもって生きることだと思っているのではないでしょうか。
主イエスが一人で飲み干した絶望の杯
 しかし主イエスはその私たちに、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」とおっしゃるのです。苦しみをも忍耐して栄光にあずかることが信仰だとあなたがたは思っているけれども、私が受けた苦しみがどのようなものなのか、それにあずかるとはどういうことなのかを、あなたがたは分かっていない。主イエスが十字架の死においてお受けになった苦しみは、「この苦しみを忍耐すればその先には栄光がある」などというものではありませんでした。本日は共に読まれる旧約聖書の箇所として詩編第22編を選びました。その冒頭に、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」とあります。これは主イエスが十字架の上で叫んだ言葉です。神の独り子であられる主イエスが、父であり、自分をお遣わしになった方である神に見捨てられてしまった、という苦しみの中で死んでいかれたのです。この詩編はさらに、「なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」と語っています。このような、神に見捨てられた嘆き悲しみ、絶望の内に、主イエスは死なれたのです。それは、「この苦しみを経ることによって栄光に至ることができる」などという生やさしいものではなくて、栄光への出口などまるで見えない絶望の中での死です。主イエスご自身ですら、あのゲツセマネで、「この杯を過ぎ去らせてください」と願わずにはおれない苦しみです。ヤコブとヨハネも、他の全ての弟子たちも、この苦しみに直面したことによって、主イエスを見捨てて逃げ去ってしまったのです。弟子たちの筆頭であり、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰を告白し、「たとえみんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言っていたペトロですら、三度にわたって主イエスのことを「知らない」と言ってしまったのです。それは、彼らの心が弱かった、主イエスにどこまでも従っていくという信仰が不確かだった、ということではなくて、このような絶望の中での死という苦しみの杯を飲み干せる者は私たちの中には一人もいない、ということです。主イエス・キリストは、私たちの中の誰も、どんなに信仰が深く、主イエスに従っていく決意が強い人であっても決して飲むことのできない杯を、一人で飲み干されたのです。それが主イエスの十字架の死でした。主イエスの死は、神に見捨てられた罪人としての、神から遠く離れ、もはや救いの望みはない、どんなに叫んでも呻いても神に届くことはない、という死でした。神の独り子が、神に背いた罪人の絶望の死を引き受けて下さったのです。

主イエスの杯を飲む者とするために
 このことによって、私たちのための神の救いが実現しました。主イエスがこの絶望の中での死を味わって下さったことによって、私たちが受けるどのような苦しみも、どのような絶望も、そしてどのような死も、そこに神の子であり救い主である主イエス・キリストがいて下さるものとなったのです。私たちは、主イエスの飲んだ苦しみの杯を共に飲むことはできません。しかし主イエスがお一人でその杯を飲み干して下さったおかげで、私たちが受けるどのような苦しみも死も、主イエスと共にあずかる、主イエスの杯となったのです。私たちはその苦しみの杯を、主イエスと共に飲むことができるようになったのです。ヤコブもヨハネも、他の全ての弟子たちも、このようにして、主イエスの杯を飲む者とされたのです。主イエス・キリストは、私たち全ての者を、主の杯を飲む者とするために、お一人で、十字架の死の杯を飲み干して下さったのです。私たちは今、このことを特に覚えるレント、受難節の日々を歩んでいるのです。

復活させられた主イエス
 十字架につけられて殺される人の子は、三日目に復活する、と主イエスは予告なさいました。この「復活する」という言葉は正確に訳すならば「復活させられる」です。主イエスが自分で死の力を打ち破って復活するのではありません。父なる神が、死の力に勝利して、主イエスを復活させて下さるのです。復活して王座に着くことは、父なる神から主イエスに与えられる恵みなのです。つまり主イエスご自身も、苦しみを耐え忍んだことによって復活の栄光を獲得したのではありません。主イエスは、十字架の上で、栄光への出口の見えない絶望の中で死んだのです。その主イエスを父なる神が復活させ、栄光を与え、王座に着かせて下さったのです。詩編22編は、神に見捨てられた絶望の叫びで始まりますが、最終的には神への賛美でしめくくられています。それは、苦しみを忍耐したことによって救いを獲得し、神を賛美することができるようになった、ということではないでしょう。賛美は、復活の栄光と同じく、神が与えて下さるものです。自分の力で獲得するものではないのです。「わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」というみ言葉はそのことを語っているのです。私たちが主イエスの復活の栄光にあずかる者となることは、苦しみを忍耐して従っていくことによって私たちが獲得することではありません。主イエスを復活させて下さった父なる神が、その恵みによって私たちを、主の復活の栄光にあずかる者として下さるのです。
主の杯を飲む者
 ですから私たちの信仰、聖書の信仰は、自分の努力や忍耐によって苦しみの杯を飲み、それによって栄光を獲得する、というものではありません。苦しみの杯は、主イエス・キリストがお一人で飲み干して下さったのです。罪人である私たちの絶望の死を主イエスが引き受けて下さったのです。その主イエスの苦しみと死とによって自分の罪が赦されたことを信じるのが私たちの信仰です。それを信じる時に、私たちがこの人生において味わうどのような苦しみも、またどのような絶望も、そして死も、主イエス・キリストが共にいて下さる主の杯となり、私たちはそれを主イエスと共に飲むことができるようになるのです。そして主イエスと共にその杯を飲む時、主イエスを復活させて下さった父なる神が、そのみ力によって私たちをも、肉体の死を超えて新しく生かして下さる恵みを信じることができるようになるのです。主イエス・キリストの十字架と復活はそのようにして、私たちの救いの出来事となります。洗礼を受けることによって私たちは、キリストの十字架と復活による救いにあずかり、聖餐において、主イエスの体であるパンと、主イエスが十字架の上で流して下さった血である杯をいただいて、主の慈しみと愛を味わい、慰めと力づけを与えられながら、それぞれに与えられている苦しみの杯を、主の杯として、主イエスと共に飲みつつ生きていくのです。

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