夕礼拝

憐れみ深く恵みに富む神

「憐れみ深く恵みに富む神」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第34章1-28節
・ 新約聖書: ヘブライ人への手紙 第12章18-24節
・ 讃美歌 : 297、227

契約の破綻と再締結
 私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書出エジプト記を読み進めています。出エジプト記の32章から34章にかけては、ひとつながりの物語です。奴隷とされていたエジプトから、主なる神様によって救い出され、乳と蜜の流れる約束の地に向けて荒れ野の旅路を歩んでいるイスラエルの民は、シナイ山において主なる神様と契約を結びました。それは人間どうしの商売の契約のような対等な契約ではなくて、主なる神様がイスラエルの神となって下さり、イスラエルは神様の民とされる、そういう特別な関係を神様が恵みによって結んで下さる、というものです。この契約によってイスラエルの民は、神様の民として新たに歩み始めたのです。けれどもその歩みは直ちに挫折に陥ります。モーセと従者ヨシュアが、十戒を記した石の板を契約の印として神様から授けられるために山に登っている間に、麓で待っていたイスラエルの民は、金の子牛の像を造り、それを神として拝み始めたのです。十戒の第一の戒めは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」です。第二の戒めは「あなたはいかなる像も造ってはならない。それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」です。主なる神様の民として守るべき基本的なこれらの戒めを、イスラエルの民は、それが与えられたとたんに破ってしまったのです。その「金の子牛」の話が、32章以下に語られてきたのです。戻って来てこの様子を見たモーセは激しく怒り、十戒を記した石の板を砕きました。それは、主なる神様と民との契約が破綻し、ご破産になったことを表しています。金の子牛という偶像を造り、神として拝んだ罪によって、主なる神様とイスラエルの民との契約の関係は失われてしまったのです。
 33章には、モーセが神様とイスラエルの民との間に立って執り成しをしたことが語られていました。モーセは、罪を犯して神様との契約の関係を失い、もはや神様の民として歩むことができなくなったイスラエルの人々の赦しを、主なる神様に必死に求めたのです。その結果、神様はイスラエルの民を滅ぼすことを思い留まり、再び彼らをご自分の民とし、彼らと共に歩んで下さると宣言して下さったのです。つまりイスラエルの民は、重大な罪を赦され、再び神の民として歩み出すことができるようになったのです。それは、一旦は失われた神様と彼らの間の契約がもう一度結び直されたということです。その契約の再締結が本日読む34章に語られているのです。

契約に基づく責任の意識
 契約の再締結は、十戒を記した二枚の石の板がもう一度与えられる、ということにおいてなされています。1節に、「主はモーセに言われた。『前と同じ石の板を二枚切りなさい。わたしは、あなたが砕いた、前の板に書かれていた言葉を、その板に記そう』」とあります。最初に与えられた石の板は、モーセによって砕かれました。それは先ほど申しましたように、民の罪のために神様との契約がご破算になり、失われたということです。その失われた契約の関係が回復されることの印として、新たな石の板が与えられるのです。その二枚の石の板に書かれていた言葉とは、十戒です。十戒がもう一度与えられることによって、神様とイスラエルの民との契約が再び結ばれたのです。
 このことは、主なる神様とその民との関係を考える上で大変大事なことです。つまり神様とその民との関係は、契約の関係、お互いが約束を交わす、という関係だということです。約束を交わすということは、お互いに守り行うべき義務を負うということです。神様も私たちに対して義務を負って下さる、私たちを守り、養い、導き、救うことを義務として引き受けて下さるのです。そして同時に私たち人間も、神様に対して義務を負う者となるのです。そこで私たちが守り行うべきことが掟、戒めとして与えられます。そのようにお互いがお互いに対して義務を負い、なすべきことをしっかり果していくことによってこそ、神様と私たちとの関係がつながり、私たちは神様の民として歩むことができるのです。ですからその義務、なすべきことを人間がちゃんと行わないならば、この関係はまた破れ、失われてしまうのです。そのように、お互いがお互いに対して責任を負う関係が、聖書が教える神様と私たちの契約の関係なのです。私たちは、神様を信じ、信仰者として生きる上で、この「契約に基づく責任の意識」を大切にしなければなりません。無責任にただ神様に甘えるようなことを信仰と勘違いしてはならないのです。

第一の戒め
 さて、この石の板に記されている十戒の中身がこの34章で振り返られています。十戒の言葉は出エジプト記の第20章に記されていますので、そこを見ていただきたいのですが、この34章で繰り返されているのは、その前半の部分、第一から第四の戒めまでです。つまり一枚目の板に記されていることのみがここで再び取り上げられているということです。前半の四つの戒めが、かなりふくらまされ、肉付けされて語られているのです。34章の11節以下がその部分となります。そこには先ず、これから神様が与えて下さる約束の地カナンに入るに際して、今その地に住んでいる諸民族を主が追い出し、そこをイスラエルの民に与えて下さることが語られています。そしてその時、それらの諸民族と契約を結ばないように注意しなさいと語られています。この場合の契約を結ぶというのは、彼らと関係を持ち、共存していくということです。それをしてはならないと命じられているのです。それは何故かということが13以下に語られています。「あなたたちは、彼らの祭壇を引き倒し、石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒しなさい。あなたはほかの神を拝んではならない。主はその名を熱情といい、熱情の神である。その土地の住民と契約を結ばないようにしなさい。彼らがその神々を求めて姦淫を行い、その神々にいけにえをささげるとき、あなたを招き、あなたはそのいけにえを食べるようになる。あなたが彼らの娘を自分の息子にめとると、彼女たちがその神々と姦淫を行い、あなたの息子たちを誘ってその神々と姦淫を行わせるようになる」。つまり、他の諸民族と契約を結ぶなという命令の目的は、彼らが拝んでいる神々を拝むことにならないためです。「あなたはほかの神を拝んではならない」というのがその中心となる命令です。それは、20章の十戒の第一の戒め、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と同じことです。第一の戒めが、このように具体的な民族名をあげて語り直されているのです。16節ではそのことが、姦淫の罪になぞらえられています。主なる神様と契約を結び、主の民として生きるイスラエルが、主以外の神々を拝むことは、姦淫の罪を犯すことと同じなのです。

第二の戒め
 次の17節には「あなたは鋳造の神々を造ってはならない」とあります。これは十戒の第二の戒め「あなたはいかなる像も造ってはならない」の繰り返しです。人間が自分の願いをかなえてくれる偶像の神を造ることが戒められているのです。20章の十戒においては、この第二の戒めの中に、「わたしは熱情の神である」ということが語られていました。以前は「妬む神」と訳されていたこの言葉は、人間が偶像の神々に心を向けることにお怒りになる神のお姿を描いています。その言葉は34章では先ほど読んだ14節にありました。つまり、第一の「ほかの神を拝んではならない」という戒めの中で「熱情の神」ということが見つめられていたのです。第一の戒めと第二の戒めはこのように分ち難く結び合っています。他の神々を拝もうとすることと、偶像の神を造り出すことは切り離せないのです。イスラエルの民が陥ったのもその罪でした。金の子牛の像を作ってそれを神として拝む偶像礼拝に陥ったということは、主なる神様以外のものを神としてしまったということなのです。

第四の戒め
 18節以下には、イスラエルの民が行うべき祭りについて語られています。「除酵祭」のことが先ず語られています。それについては13章3節以下に語られていました。酵母を入れず、つまり発酵させずに焼いたパンを食べるという祭りです。それが行われるのは「アビブの月」、エジプトの奴隷状態から解放された記念の月です。主の大いなるみ業によってついにエジプトを出ることができた時、急いで出発したので、パンの生地に酵母を入れて発酵させている時間がなかった、ということを記念するためにこの祭りが行われます。その主の大いなるみ業とは、「過越」のみ業です。主の使いが、エジプト中の初子、最初に生まれた男子を、人も家畜も撃ち殺した、しかしイスラエルの民の家は、過越の小羊の血がその戸口に塗られたことによってエジプト人の家とは区別され、主の使いはその家を過越して、何の害も受けなかったのです。この「過越」の出来事によって彼らはエジプトを脱出することができました。それを記念して行われるのが「過越祭」です。19節以下に、「初めに胎を開くものはすべて、わたしのものである」とあります。過越の小羊の血によって命を救われた初子はすべて主のものであって、それらは「贖わねばならない」、つまり他の動物を犠牲として献げることによってその代わりとしなければならないのです。それは「過越祭」との関係での指示です。除酵祭と共に行われる過越祭をきちんと守るようにと教えられているのです。また22節には「七週祭」を守るようにと教えられています。それは「小麦の収穫の初穂の時」に行われる祭です。この除酵祭、過越祭、七週祭が、イスラエルの守るべき三つの大きな祭りなのです。23節に「年に三度、男子はすべて、主なるイスラエルの神、主の御前に出ねばならない」とあるのは、この三つの祭りにおいて、ということです。そしてこのように主なる神の前での祭りについての教えが語られている中に、21節の「あなたは六日の間働き、七日目には仕事をやめねばならない。耕作の時にも、収穫の時にも、仕事をやめねばならない」があるのです。神様の民として歩むイスラエルは、年に三度の大きな祭りを行うだけでなく、毎週の七日目を安息日として、人間の営みを休み、主を礼拝する日を守るのです。これは十戒の第四の戒め「安息日を心に留め、これを聖別せよ」です。その戒めが、年に三度の祭りについての教えと結び合わされて語られているのです。

主の御名の宣言
 このように、34章の11節以下には、十戒の前半の、第一、第二、第四の戒めが拡大された形で語られています。それでは第三の戒め、「主の名をみだりに唱えてはならない」については語られていないのでしょうか。そうではありません。5節以下が第三の戒めと関係すると言うことができます。新たに切り出した二枚の石の板を手にシナイ山に登ったモーセに、主なる神様が現れ、語りかけられたのです。5~7節を読みます。「主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。主は彼の前を通り過ぎて宣言された。『主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者』」。ここでは、主なる神様ご自身が、モーセの前を通り過ぎつつ、その御名を宣言しておられます。主なる神様がモーセの前を通り過ぎつつ、ご自分の名を宣言なさる、そのことは33章の終わりのところにも語られていました。33章19節に「主は言われた。『わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ』」とありました。そしてその続きの20節以下に、「また言われた。『あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。』更に、主は言われた。『見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない』」。主がモーセの前を通り過ぎつつ、み名を宣言される、しかし罪ある人間は神様の顔を見ることはできない、それゆえに神様は岩の裂け目に彼を隠し、彼を手で覆って、神様の顔を正面から見ることのないようにして下さるのです。そのことが、34章5節以下で実現したのです。そしてモーセはその主のみ前にひれ伏して礼拝し、9節にあるように、「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください」と願いました。それに対して主は10節にあるように「見よ、わたしは契約を結ぶ」とおっしゃいました。このようにして、主なる神様はイスラエルの民との契約を再び結んで下さったのです。この契約が最初に結ばれたことは24章に語られていましたが、そこでは動物の犠牲が献げられました。しかしこの契約の再締結は、主なる神様がご自分の御名を宣言して下さり、モーセが主のみ前にひれ伏して礼拝したことによってなされたのです。ここに、「主の名をみだりにとなえてはならない」という十戒の第三の戒めとのつながりがあります。主の名をみだりにとなえないというのは、主の名を呼ばないことではなくて、そのみ名を正しく知り、そのみ前にひれ伏して礼拝することです。そのことによってこそ、神様と民との契約の関係が回復されるのです。

憐れみ深く恵みに富む神
 そこで告げられた主なる神様の御名、それは「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」です。主なる神様は、憐れみ深く恵みに富んでおられ、忍耐強く、慈しみとまことに満ちておられる。その恵みによって幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦して下さる、と告げられています。しかしまた一方で、「罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う」方でもあられると告げられています。主なる神様は、人間の罪に対しては罰をお与えになる、その罪を子や孫の代までお問いになる、そういう厳しい方である、しかし同時に憐れみ深く恵みに富んでおられ、罪と背きと過ちを赦して下さる方でもあるのです。ここに語られていることは、20章の十戒においては、第二の戒め「あなたはいかなる像も造ってはならない」の中に出てきます。20章5、6節にこうありました。「あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」。偶像を造り、それを拝む者には、その罪を子孫に三代、四代までも問うが、主を愛し、戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与えて下さると言われていたのです。そういう主のみ名がこの34章に改めて示されていることは意味深いことです。つまりイスラエルの民は32章において、偶像を造り、それを拝むという罪に陥ったのです。第二の戒めを破り、その罪を三代、四代までも問われざるを得ない者となったのです。しかしモーセの執り成しにより、主なる神様は彼らを赦し、もう一度契約を結び直して下さったのです。憐れみ深く恵みに富んでおられる主が、彼らの罪と背きと過ちを赦し、イスラエルをもう一度神の民として下さったのです。その主なる神様がここで、ご自分のみ名を告げ、罪を問うのは三代、四代までだが、慈しみは幾千代にも及ぶ、と宣言して下さったのです。つまり、罪と背きと過ちを赦して下さる主の憐れみと恵み、慈しみとまこととは、罪に対する怒りや罰よりも、何百倍も大きいのだと告げて下さったのです。この主のみ名の宣言は、従って罪の赦しの宣言であり、イスラエルを新たにご自分の民とし、彼らと共に歩んで下さるという主の恵みの宣言でもあるのです。この主のみ名の宣言に答えて、モーセは9節にあるように、「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください」と語ることができたのです。

主イエス・キリストによる新しい契約
 このようにして主なる神様は、イスラエルの民との契約を再び結び直して下さいました。イスラエルは罪を赦されて、神様の民としてもう一度歩み出すことができたのです。主なる神様とイスラエルの契約のこの再締結は、主イエス・キリストによって私たちに与えられている新しい契約、新約聖書の福音を指し示しています。まことの神様を礼拝し、従うのでなく、自分の思いや願いをかなえてくれる金の子牛の像を造り、それを神として拝んでしまう罪は私たちをも捉えています。私たちはその罪によって神様の祝福を失い、神様の民としてその守りと養い、導きの下に生きることができなくなっています。その私たちの救いのために、主なる神様は独り子イエス・キリストを執り成し手、救い主として遣わして下さり、主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。この主イエス・キリストこそ、「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」方です。「罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者」という神の怒りと罰よりも、罪を赦して下さる神の憐れみと慈しみは数千倍も大きいことは、神様の独り子イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったことによってこそはっきりと分かるのです。私たちはこの主イエス・キリストの十字架の苦しみと死、そして復活によって神様が私たちと結んで下さった新しい契約にあずかり、罪を赦されて新しい神の民とされ、憐れみ深く恵みに富む神のみ名を呼びつつ、罪人でありながら大胆に神に近づき、神と共に歩むことができるのです。

十戒を再び
 「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」方である主イエス・キリストを信じ、そのみ名を呼びつつ生きる私たちの歩みにおいて、十戒の石の板はもう一度新たに神様から与えられ、私たちの生活の大切な指針となります。他の何者をも神とせず、主イエスの父である神のみを神として礼拝し、自分のために偶像の神々を造ることなく、主イエスご自身が宣言して下さった憐れみ深く恵みに富む神のみ名を心からの信頼をもって呼びつつ、私たちの安息日である主の日、主イエス・キリストの復活の記念日の礼拝を大切に守りつつ、神様と隣人とを愛して生きる、そういう神の民としての歩みが、十戒によって整えられ、与えられていくのです。

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