主日礼拝

命を保つ者

「命を保つ者」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 創世記 第19章23-26節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第17章20-37節
・ 讃美歌:15、141、572

ファリサイ派に対して
 先週の礼拝においては、ルカによる福音書の第17章20、21節を読みました。そこには、ファリサイ派の人々が主イエスに、「神の国はいつ来るのか」と尋ねたこと、それに対する主イエスのお答えが語られていました。本日はその続き、22節以下を読んでいきます。ここは先週の所と内容的につながっています。20節の前に「神の国が来る」という小見出しがありますが、その主題がずっと続いているのです。ですから新たな段落にもなっていません。けれども、主イエスが語っておられる相手は違っています。つまり21節まではファリサイ派の人々に対するお言葉だったのが、22節からは弟子たちに対するお言葉となっているのです。この相手の違いが、語られる内容の違いを生んでいます。基本的に同じ主題が続いているけれども、相手が違うことによって違う語り方がなされているのです。本日は先ずそのことを見ていきたいと思います。
 神の国が来る、神様のご支配がいつか確立する、という期待は、当時のユダヤ人たちが共通して持っていたものです。ファリサイ派の人々はその期待に基づいて、神の国はいつ実現するのか、と問うたのです。それに対して主イエスは、神の国はあなたがたが期待し、思い描いているような仕方では来ない。それは実は既にあなたがたの間にあるのだ、とおっしゃいました。その、あなたがたの間に既にある神の国とは、先週申しましたように、ご自分のこと、主イエス・キリストのことです。主イエスがこの世に来て、神の国の福音を宣べ伝えている、そのことによって神の国は彼らの間に既に実現しているのです。ファリサイ派の人々はそもそも主イエスのことを救い主と信じていないし受け入れてもいません。だからこそ「神の国はいつ来るのか」と問うたわけです。その人々に対してはこのようにお語りになったのです。

弟子たちに対して
 しかし22節からは今度は、弟子たちに対するお言葉です。弟子たちは、主イエスを救い主と信じて従ってきた人々です。また彼らは主イエスによって派遣されて、神の国の福音、つまり主イエスによって神の国、神様のご支配が今や実現している、という喜びの知らせを宣べ伝えてもいたのです。ですからファリサイ派とは、主イエスに対する思いが全く違うのです。その弟子たちに対して語られたお言葉が22節以下です。そこで主イエスはこうおっしゃいました。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」。「人の子の日」とは何のことかですが、「人の子」は主イエスがご自身のことを呼んでおられた言葉です。ですからこれは「主イエスの日」と言い換えることができます。そしてそれは、主イエスのご支配が確立、完成し、誰の目にもそれが明らかになる日、ということです。ということはそれは「神の国が来る日」です。「あなたがたが、神の国の到来、完成を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかしそれを見ることはできないだろう」と主イエスはおっしゃったのです。ですから、「神の国が来る」という主題がなお続いているのです。しかしこれはどうしたことでしょうか。主イエスが来られたことによって、神の国は既に実現しているのではなかったのでしょうか。弟子たちが、その到来を見たいと望むが見ることができない、とはどういうことなのでしょうか。

「既に」と「未だ」
 このことは、弟子たち、つまり主イエスを信じ従っている人々、信仰者にこそ語られるべきことです。主イエス・キリストを信じる信仰者は、主イエスにおいて、神の国、神様のご支配がこの世界に、私たちのところに到来したことを信じています。この世界を、また私たちの人生を、本当に支配し導いているのは主イエスであり、主イエスを遣わして下さった父なる神様であることを私たちは信じているのです。しかしそのように信じるからこそ私たちは、その神様のご支配が、今はまだ完成していないこと、誰の目にもはっきりと見えるものとはなっていないことを感じます。そしてそのご支配が確立、完成する日を見たいと願い、待ち望むのです。つまり主イエスに従う弟子や信仰者にとって神の国は、主イエスにおいて既に実現していると共に、未だ完成していない、目に見える現実とはなっていないのです。この「既に」と「未だ」の間を生きることが、信仰をもってこの世を生きることです。主イエスのことを信じておらず、受け入れようともしないファリサイ派の人々に対しては、主イエスによって「既に」神の国が来たことが語られなければなりませんでした。しかし主イエスを信じ従っている弟子たち、主イエスによる神の国の到来を受け入れている信仰者に対しては、それが「未だ」完成していない現実をしっかりと見つめ、その中でいかに生きるかが語られなければならないのです。

惑わされるな
 「人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」というところは、前の口語訳聖書では「人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう」となっていました。この方が意味がよく通じます。主イエスのご支配、つまり神の国の実現を一日だけでもこの目で見たいと願うが、それを見ることができない、そういう時を、今まさに私たちは歩んでいるのです。この世の様々な悲惨な現実を前にして私たちは、神様の、主イエスのご支配、その救いはいったいどこにあるのかと嘆き、神の国の実現を一目でも見たいと願います。それは主イエスにおける神の国の到来を信じていればこその嘆きであり、願いです。そのような時を歩んでいる私たちに、主イエスがここで「気をつけるように」と言っておられるみ言葉が23節です。「『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない」。神の国、神様のご支配を見ることができない状況の中で、「見よ、あそこだ」「見よ、ここだ」と言う人々が現れる。その人々は、ここにこそ神の国が見える、あそこにそれを実現する人がいる、と言って、人々を自分のところに集めようとするのです。「人の子の日」と言われているように、神の国は人の子主イエスがもう一度この世に来られることによって、つまりいわゆるキリストの再臨において目に見えるものとなり、完成します。その再臨の主イエスがここにいる、あの人がそうだ、という人々が現れるのです。現に今も、「私は再臨のメシアだ」と言っているカルト教団の教祖がいます。そういうものはこれまでにも繰り返し現れたし、これからも現れるでしょう。主イエスはここで、そういう話を信じるな、そういう人についていくな、と言っておられます。「ここに再臨のキリストがいる」「あそこに神の国が実現している」という教えは、ことごとくインチキなのです。そういう教えに惑わされて「出て行ってはならない」とあります。それは、正しい教えから離れ去ってはならない、主イエスの教えにしっかりと留まっていなさい、ということです。私たちの信仰において大切なことは、「既に」と「未だ」の間の緊張関係にしっかり留まり、そこから出て行かないことです。「既に」を否定してしまったらファリサイ派と同じになってしまいます。また「未だ」を否定して「既に」のみを語る、つまり「ここに神の国が実現している」と言う人々のところに出て行ってしまうと、この世の現実を正しく把握することができなくなり、責任ある生き方ができなくなるのです。

人の子が現れるときには
 24節は、「見よ、あそこだ」「見よ、ここだ」という話が全てインチキであることの根拠を語っています。「稲妻がひらめいて大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである」。人の子が現れる、つまり主イエスの再臨によってついに神の国が完成するその時には、「稲妻がひらめいて大空の端から端へと輝くように」それが実現する。つまり一瞬にして、しかも誰もがはっきりと見ることができる仕方でそれは起るのです。だから、人の子が現れたのに、多くの人がそれを知らずにいて、「実はあそこに」とか「実はあの人が」などと教えてもらわなければならないということはないのです。神の国の完成においては、「実は」という話は全部インチキです。そういう話が全く必要ないくらいはっきりとした仕方で神の国は完成しあらわになるのです。信仰者はそのことを信じて待ち望みつつ、主イエスの教えにしっかりと留まって歩むのです。

しかし先ず
 そのように信仰者は、主イエスの再臨によるこの世の終わりに完成する神の国を待ち望みつつ歩みます。しかしそれは何だか雲をつかむような話であり、はるかに遠い将来に望みを置くことであって、この世の現実の中を実際に生きていくためにはあまり頼りにならないものにより頼むという話に感じられるかもしれません。しかし主イエスはここで、弟子たちの、そして私たちの目を、そのようなはるか遠くの、世の終わりに起る事柄ばかりに向けさせようとはしておられません。むしろ私たちの目をそこから引き離して、この地上において実際に起る、私たちにとっては既に起った、一つの出来事へと向けさせておられるのです。それが25節です。「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている」。原文においてはこの文章の冒頭に「しかし先ず」という言葉があります。人の子が稲妻のように現れ、神の国が完成する、そのようにしてこの世が終わることが語られましたが、しかし先ずその前に起らなければならないことがある。世の終わりを思うよりも先にしっかりと見つめなければならないことがあるのです。それは、人の子主イエスが多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥される、ということです。「排斥されることになっている」とあります。それは、神様のみ心によって必ずそうならなければならない、という意味です。神様の独り子である主イエスが、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されるということが先ず起らなければならない、神様はそのことによってこそ、神の国を、ご自分のご支配を確立しようとしておられるのだ、だからそこにこそあなたがたの目を向けなさい、と主イエスは言っておられるのです。

主イエスの苦しみと死とによって
 神の国の到来、完成を信じて待ち望みつつ歩むことが私たちの信仰です。しかしそれは、まさに雲をつかむような、希望とは言えないぐらいはるか遠くの希望を見つめて生きることではなくて、この地上で既に起ったこと、神様の独り子であられる主イエスが罪にまみれたこの世に一人の人間として来て下さり、多くの苦しみを身に負って歩んで下さり、そして人々から排斥されて十字架にかけられ、処刑されたことをこそ見つめて生きることなのです。主イエスは多くの苦しみを受け、排斥されて十字架にかけられ殺される、その歩みにおいて、私たちの罪を全てご自分の身に背負い、その赦しのための犠牲となって下さいました。主イエスの苦しみと死とによって、私たちの罪を赦し、神の子として下さる神様の恵みのご支配が実現したのです。私たちは、この主イエスの苦しみと十字架の死にこそ、神の国の到来の確かな現れを見ます。私たちが神の国の到来を信じ、そこに希望を置いて生きることができるのは、はるか遠くのキリストの再臨を見つめることによってではなくて、キリストが私たちのために多くの苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さったことを見つめることによってなのです。キリストは私たちと同じ人間としてこの世を歩んで下さり、私たちが体験する苦しみや悲しみを味わって下さり、また私たちがいつか必ず迎えることになる死の苦しみをも引き受けて下さいました。そのことを見つめることによって私たちは、この世の悲惨な現実、苦しみや悲しみが支配しているような目に見える事態の中で、なお神の国を、神様の恵みのご支配を信じて生きることができるのです。そしてこのキリストの苦しみと死とを見つめることを通して、そのキリストを父なる神様が復活させて下さったことを信じ、そして今や天に昇り父なる神の右に座しておられるキリストが、もう一度来て下さり、そのご支配を目に見える仕方で完成して下さることを信じて、そこに究極の希望を置いて生きることができるようになるのです。

神の国を見つめて生きる
 26節以下には、このキリストの苦しみと死とを見つめつつ、そこに神の国の到来があることを信じ、そしてそれが世の終わりにキリストの再臨によって完成することを待ち望みつつ生きる信仰者の生き方、そこにおいて何を大事にして歩むべきかが教えられています。先ず、ノアのことが語られています。創世記第6章から9章にかけて語られている、洪水と、ノアの箱舟の話です。27節に「ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった」とあります。人の子が現れる時にもそれと同じことが起るというのです。この話は何を語っているのでしょうか。洪水がある日突然始まったように、キリストの再臨もある日突然起る、ということでしょうか。いやむしろ見つめるべきことは、ノアが大きな箱舟を造っているのを見ながら、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた、ということではないでしょうか。ノアが箱舟を造っているのは、人間の罪に対する神の怒りによる滅びが迫っている、という警告です。しかしその警告を見ながら、人々はそれに目を留めようとせず、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりという目に見える現実的な自分の生活にのみかまけていたのです。28節以下のロトの話、つまりソドムの滅亡の話も同じです。ソドムの人々の罪のゆえにこの町は滅ぼされようとしている、ロトはそのことを嫁いでいる娘たちに伝え、共に逃げ出すことを勧めますが、娘婿たちはそれを冗談だと思って聞き流し、「食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたり」という日々の営みを続けたのです。そのために彼らは滅ぼされてしまった。それは彼らが、迫っている滅びと、そこから救われるために必要な悔い改めへの招きを真剣に受け止めなかったからです。それは私たちの事柄として言えば、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とによる罪の赦しの恵みが示され、そのことによって「神の国は既にあなたがたの間にある」と宣言されているのに、その神の恵みのご支配に即して生きることよりも、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりという目に見える地上の生活のみに目を向けている、ということです。あなたがたはこのような歩みに陥らないように、主イエスによって既に到来している神の国を信じ、今はまだそれが目に見える現実とはなっていないこの世の現実の中で、主イエス・キリストにおける神のご支配を信仰の目で見つめつつ生きなさい、と主イエスは言っておられるのです。

命を失う者
 31節には、「その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない」とあります。家財道具や自分の大切なものを取りに行くな、ということです。それが32節では、ソドムの滅亡におけるロトの妻の話と結びつけられています。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、創世記19章23節以下の話です。ソドムから逃げていく時に、ロトの妻は後ろを振り向いたために塩の柱となってしまった、それは、ソドムに遺してきた家族や財産、あるいは自分の生まれ育った町への愛着、これまでの生活の思い出へのこだわりによることでしょう。神様による救いにあずかること、神の国にひたすら目を向けて前を向いて走って行くのでなく、自分の過去の歩みに捕われて後ろ向きになり、前進することができなくなってしまうことが戒められているのです。それは、神様の恵みではなくて自分の持っているものによって生きようとすることです。そのことが33節では、「自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである」と言われています。私たちは、自分の命を自分で生かそうとします。食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりという人間の営みは全てそのためになされています。そこにおいて私たちは、自分の持っている財産や能力や人間関係を用いて何事かを成し遂げようとするし、あるいは自分が成し遂げてきた業績にこだわり、それにしがみつこうとします。しかしそのようにして自分で自分の命を生かそうとすることは、洪水が迫っているのに箱舟を無視すること、滅亡が迫っているのにソドムに留まること、そして滅んでいく町を振り返って塩の柱になってしまうことであり、命を失うことにつながるのです。

命を保つ者
 「それを失う者は、かえって保つ」。それは主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とにおいて神の国が実現していることを信じ、その主イエスに従っていくことです。そのことによって私たちは、人の子と同じように、「今の時代の者たちから排斥される」のです。「今の時代」という言葉が用いられているのは、私たちがそこに、自分が生きている今のこの時代を重ね合わせることができるように、ということでしょう。主イエスの十字架に神の国の実現を見つめて生きる者は、いつの時代にあっても、それぞれの時代においてなされている、食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりという人間の営みの中には自分を本当に生かすものがないことを意識しつつ歩むのです。そのために、今の時代の人々から排斥されることが起ります。しかし主イエスの十字架の死によって実現している神の国を信仰によって見つめる者こそが、主イエスの復活によって神様が与えて下さっている肉体の死を超えた永遠の命を保つ者なのです。

自分の救いのために
 34、35節及び後から付け加えられたと思われるために今は本文から外されている36節には、二人の男ないし女が共にいても、人の子の日、神の国の完成の時には、その一人だけが救いにあずかる、ということが語られています。これは、救われるのは二人に一人、五十パーセントだ、ということではありません。神の国の完成にあずかる、救いにあずかることは、誰かと一緒に、自分もついでに、というものではない、一人一人が、自分の救いのために、命を保つ者となるためにしっかりと自覚を持って歩まなければならないということです。主イエスは私たち一人一人に、箱舟をただ眺めているのではなくてそれに乗り込むようにと招き、またソドムの町を出て、後ろを振り返らずに走ることを求めておられるのです。それこそが、神の国、神様のご支配を信じる信仰において、「既に」と「未だ」の間の時を生きている私たちに求められている姿勢なのです。
 最後の37節には、「主よ、それはどこで起こるのですか」という弟子たちの問いに対して主イエスが、「死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ」とお答えになったことが語られています。弟子たちが何を問うているのか分かりにくいですが、流れから言ってこれは、神の国の実現をどこで知ることができるのか、ということでしょう。神の国についてそのように問うのは、「見よ、ここだ」「見よ、あそこだ」と言うのと同じように不適切なことです。ですから主イエスのお答えは、死体があればそこには自然にはげ鷹が集まって来る、という当時の諺を用いて、条件が整えば自然にそれは実現するのだから、「どこで」などと問う必要はない、と弟子たちの問いを退けておられるのだ、と説明されたりします。しかし、これは私の勝手な読み方なのですが、この37節は次の18章とつなげて読むことができるのではないか、という気がしています。そのことは来週お話ししたいと思います。本日の箇所において私たちが受け止めるべきことは、神の国の「既に」と「未だ」の緊張関係の中にしっかり留まり、主イエスにおいて既に実現している神の国を信仰によって見つめつつ、それがまだ目に見える現実とはなっていない今のこの時代の中で、命を保つ者となるために、一人一人が前を向いてしっかりと歩んでいこう、ということなのです。

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