「安息日の主」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 出エジプト記 第20章8―11節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第12章1-8節
・ 讃美歌 : 205、59
日曜日休日
「安息日を心に留め、これを聖別せよ」。これが、本日ご一緒に読む十戒の第四の戒めです。私たちの住むこの日本の社会は、聖書やキリスト教の教えとは異質な伝統の中にあります。それゆえに日本でキリスト信者として生きることは、一般の人々とは違う、変った人として生きることだ、という現実があります。しかしそのような日本の社会にも、人々が意識していなくても、いくつかのキリスト教的なものが浸透しています。その代表的なものが、一週間は七日であり、日曜日が休日であるという暦です。これは明治になってから、政府が、西洋の先進国に追いつき、対当に交渉ができるようになるために西洋の暦を取り入れたことによって始まったことです。その西洋の暦は、キリスト教の信仰によって培われてきたものであり、その根本にあるものの一つがこの第四の戒めなのです。六日間を働く日とし、七日目には仕事を休む安息日とせよ、という神様のみ言葉がここに語られており、これに基づく暦が、西洋文明と共に日本に入って来たのです。それまでの日本人には、一週間という観念もないし、七日に一日仕事を休むという感覚も全くありませんでした。つまり日本において、七日で一週間、日曜日は休日ということは、自然に生まれてきたものではなくて、ある日突然法律によって定められたことだったのです。ですから、それが人々の生活に定着していくには時間がかかりました。特に日曜日に仕事を休むということは、盆暮れの休みしか知らなかった日本人にはかなり抵抗のあることでした。そういう中で、日曜日休日の浸透のために大きな働きをしたのは、私たちの先輩のキリスト者たちです。私事で恐縮ですが、私の先祖は明治16年に群馬県の桐生で洗礼を受けましたが、自分の経営していた店において、桐生の町で初めて日曜日休業を行い、従業員を連れて教会の礼拝に出席したのです。当時、まだ誰もしていなかった日曜日休業を敢えて行うのは大変なことだったと思います。六日間、他の人たちよりもより多く働くことによって、日曜日の休日を確保するという戦いがあったのです。そういう先輩たちの信仰の拠り所となったのがこの第四の戒めです。「安息日を心に留め、これを聖別せよ」。この神様のみ言葉を実行しようとする熱意によって、初代のキリスト者たちは、周囲の人々の偏見や妨害と戦っていったのです。そういう先輩たちの戦い、努力の結果、日本の社会にも、日曜日休日が定着していったのです。ですから私たちは、この日本において、日曜日が休日となっていることの大きな意味を覚えなければなりません。そしてこのことを覚えることは同時に、私たち日本におけるキリスト信者の責任を思わしめられることでもあります。日本において、日曜日が休日であることの本当の意味を知っているのは私たちキリスト信者だけなのです。多くの人々はその意味を知らずに日曜日を休日として過ごしています。そしてそれゆえに、その日を本当に生かすことができずにいるのです。十戒の第四の戒めを学ぶことによって、先ず私たちが、日曜日休日の本当の意味をしっかりとわきまえ、それを生かしていく模範となる責任があるのです。
安息日から主の日へ
ところで、日曜日休日の話をしてきましたが、十戒における、あるいは旧約聖書における安息日は、本日の箇所の11節にあるように、「七日目」つまり一週間の最後の日である土曜日です。十戒の通りに安息日を守ろうとするなら、土曜日を休日とすることになります。ですから旧約聖書のみを聖書としているユダヤ人たちは今も土曜日を安息日としています。どうして日曜日が休日となったのでしょうか。それは主イエス・キリストの復活によってです。金曜日に十字架につけられて死なれた主イエスは、週の初めの日である日曜日の朝に復活なさいました。キリスト教会はそこに神様による救いの実現を見て、日曜日を「主の日」と呼び、この日に主イエスの復活を覚えて集まり、礼拝を守りました。使徒言行録に既に、主の日に行われた集会の様子が語られています。そのキリスト教が迫害に打ち勝ち、ローマ帝国において公認されるまでに力を持つようになったことによって、日曜日を休日とすることが後から定められたのです。つまり土曜日の安息日はキリスト教会においてある意味で廃止され、主の日である日曜日に取って変わられたのです。そのことについて宗教改革者カルヴァンは、「ジュネーヴ教会信仰問答」の中の第四の戒めについての問答においてこのように語っています。問168「では神はわれわれに、週に一日、あらゆる仕事を禁じられるのですか」。答「この戒めは、幾らか特殊な考慮を要します。なぜならば、安息日を守ることは、古い律法の儀式の一部であるからであります。従って、イエス・キリストが来られたことによって、それは廃止されたのであります」。問169「ではこの戒めは全くユダヤ人に属し、旧約聖書の時代のために与えられたものであるというのですね」。答「それが儀式である限りはそうであります」。主イエス・キリストが来られたことによって、旧い、儀式としての安息日はもはや廃止されたのです。「儀式として」というのは、外面的な形式の上での、ということです。旧約聖書の時代、この第四の戒めはしばしば外面的、形式的にのみ理解されてきました。特に主イエスの頃には、安息日はどんな仕事もしてはいけない日となっており、そのための細かい規定が定められ、煮炊きすることも、病人を癒すことも禁じられ、一定の距離を超えて移動することも禁じられていたのです。本日共に読まれた新約聖書の箇所には、そのような形式化された安息日理解によってファリサイ派の人々が主イエスをとがめたことが語られています。主イエスはそれに対して、「人の子は安息日の主なのである」とおっしゃって、ご自分が安息日の律法から自由な方であることをお示しになったのです。この「安息日の主」の復活を記念して、今や日曜日、主の日が私たちの安息日となっているのです。
安息日の戒めの意味
このように主イエス・キリストが来られたことによって、安息日は儀式としては廃止され、主の日に受け継がれましたが、第四の戒めは別の意味で今も生きています。カルヴァンはそのことを先ほどの問答の続きにおいて語っています。問170「それでは、儀式のほかに何かあるのですか」。答「それは三つの理由から定められております」。問171「どのようなことですか」。答「霊的安息を形に表わすため。教会の規律のため。仕え人の慰めのためであります」。安息日を定めた第四の戒めには、なお三つの意味があるというのです。この三つのことを私たちはしっかりとわきまえなければなりません。そのことによってこそ、安息日を受け継ぐ日曜日休日の本当の意味をわきまえ、生かすことができるのです。
霊的安息
三つのことの第一は、「霊的安息を形に表わすため」です。主の日、日曜日は、外面的な安息の日ではなく、むしろ霊的な安息の日なのです。霊的安息とはどのようなものでしょうか。カルヴァンの言葉を続けて聞いてみましょう。問172「その霊的安息とは何ですか」。答「それはわれわれのうちに主がみ業を行なわれるために、われわれ自身のもろもろの業をやめることであります」。霊的安息とは、私たちが、自分の業をやめることです。それは外面的に仕事を休む、ということではなくて、霊において、心の内側において、自分が何かをする、という思いを捨てることです。それは何のためかというと、私たちの内に主がみ業を行なわれるためです。私たちの業をやめ、自分が何かをする、何かが出来る、という思いを捨てることによって、私たちの心の内側に、主なる神様のみ業が行なわれる余地ができるのです。つまり霊的安息とは、私たちの業をやめることによって、神様にみ業を行なっていただくことなのです。私たちはいつも、自分が何をしているか、何が出来ているか、ということを見つめ、気にしながら生きているのではないでしょうか。仕事においては勿論、家庭生活においても、あるいは教会においても、少しでも良い働きをしたい、成果をあげたい、という思いに捕えられています。そういう思いが私たちを疲れさせているのです。自分の働きがうまく行けば行ったで疲れ、うまくいかなければますます疲れ、しかし疲れても疲れても、なお何かをしていなければ安心できない、何かをすること以外に生きるすべを知らない、私たちは、社会においても、教会においても、そのように自分の業に捕われた生き方をしているのではないでしょうか。そこには、本当の安息はありません。たとえ物理的に休みを取っても、本当の意味で休むことが出来ないのです。私たちが本当の意味で休むことができるのは、自分の業、自分が何をするか、何が出来るか、という思いから解放されることによってです。そしてその解放は、神様に自分を開け渡し、神様のみ業を待ち、求めることによってのみ得られるのです。「われわれのうちに主がみ業を行なわれるために、われわれ自身のもろもろの業をやめる」、このことが心の深い所で起ることによってこそ、私たちは霊的安息を得ることができるのです。
第四の戒めが安息日の仕事を禁じているのはこのことのためです。仕事を休むことによって、自分の力で生きることをやめ、神様に自分を委ねるのです。それが目的だったのに、これが儀式となってしまうと、仕事を休むこと自体が一つの立派な信仰的な業であるかのように思われてしまいます。自分はどれだけ安息日にちゃんと仕事を休んでいるか、ということが神様の前で誇ることができる人間の良い業になってしまうのです。つまり、仕事を休むことが一つの仕事になってしまうのです。そういう滑稽なことが、私たちにおいても起ります。いっしょうけんめい日曜日に仕事を休み、礼拝を守りながら、それによって何か立派なことをしているかのように思ってしまうなら、実は少しも霊的安息にあずかってはいないということにもなるのです。
神の祝福を受ける
それではこの霊的安息にしっかりあずかるためには何が必要なのでしょうか。そのことも、この第四の戒めが教えてくれています。11節に、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」とあります。神様が天地創造において七日目に休まれた、それが安息日の根拠なのです。このことの意味をしっかり捉えなければなりません。さすがの神様も、天地の全てを創造するという大仕事をしたもので疲れ果てて一日休んだ、ということなのでしょうか。そうではありません。このことについてカルヴァンは、先ほどの続きの問177の答において次のように語っています。「神は六日の間にそのすべてのみ業を創造された後、第七日はこれらを見ることにおあてになりました」。七日目に神様が休んだというのは、ご自分の創造された世界を「見る」ためだったというのです。神様が、ご自分の創造なさった世界を見る、それはただ「眺める」ということではありません。創世記1章31節には、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とあります。神様は、第七日を、ご自分の創造のみ業が、そしてそのクライマックスとしてお造りになった人間が、「極めて良い」ものであることを見つめ、それを喜び、祝福して下さる日となさったのです。つまりこの第七日は、神様がこの世界と私たち人間に対して示して下さった大いなる祝福のみ心、つまりこの世界と私たちとを良しとして下さり、肯定して下さり、愛して下さる、そのみ心を示しているのです。このことが、安息日の根拠です。つまり私たちがこの日になすべきことは、神様がこの世界と私たちを造って下さった、そのみ業を見つめ、神様がこの世界と私たちとを祝福し、喜び、肯定して下さっていることを思うことです。私たちが霊的安息にあずかるために不可欠なのはこのことです。神様のみ業を見つめ、そこに示されている神様の祝福、愛に思いを集中すること、それこそ、神様によって創られ、生かされている私たちが基本的になすべきことであり、またそこにこそ霊的安息があるのです。ところが私たちはその神様のみ業から目を反らして、自分の業ばかりを見つめようとします。そのことによって、神様の愛を、祝福を見失い、安息を失っていくのです。
教会の規律とは
そのような私たちのために、一週間に一日与えられている特別な日が安息日であり、私たちにとっての主の日なのです。一週間の歩みの中で、この日は、神様のみ業を見つめ、その祝福を新たにいただく日として過ごす、そのことによって、神様を信じて生きる人間の生活に基本的なリズムが与えられます。先ほどの安息日の戒めの三つの意味の中の第二は「教会の規律のため」でしたが、教会の規律を整えるというのは、主の日に、神様のみ業を見つめ、その祝福をいただく時である礼拝をしっかりと守る、そういう神の民の生活のリズムを確立していくことに他なりません。そして主の日の礼拝を中心とする一週間の生活のリズムが整えられるならば、それ以外の日々、つまりいわゆる週日の生活もまた、神様の祝福、守り、導きの中での歩みとなるのです。そのようにして私たちは、主の日にだけでなく、全ての日々において、本当の安息にあずかりつつ生きることができるようになるのです。
神の真理に教育される
神様のみ業を見つめ、その祝福を新たにいただくために、私たちは主の日に何をするのでしょうか。大自然こそ神様のみ業だから、日曜日には山に入って神様のみ業を見つめよう、と思う人がいるかもしれません。しかしカルヴァンはこう言っています。問179「ではこの日には、どのような命令を守らなければなりませんか」。答「それは、人々が神の真理に教育されるため、公同の祈りをなすため、そして自分の信仰と信心に関する証しをなすため、ともに集まることであります」。神様のみ業を見つめ、その祝福をいただくことは、「共に集まる」ことにおいてこそなされるのです。その集まり、つまり礼拝において行われることは先ず、私たちが「神の真理に教育される」ことです。礼拝において、神様のみ言葉が語られ、聞かれることによって、私たちは、神の真理に教育されるのです。神様のみ言葉によって示される神の真理とは、神様がその独り子である主イエス・キリストを、私たちのために人間としてこの世に遣わして下さり、その主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪の赦しを実現して下さったこと。そして父なる神様はその主イエスを復活させて下さることによって、主イエスを信じる私たちにも、死に打ち勝つ新しい命、永遠の命を与えることを約束して下さった、ということです。主イエス・キリストにおいて成し遂げられたこの救いのみ業こそ、私たちが礼拝において見つめる神様のみ業、神の真理です。私たちは礼拝において、み言葉によってこの神の真理に教育され、それによって神様の祝福を新たにいただくのです。教育されるというのは、ただ知識を与えられることではありません。その真理によって変えられていくということです。主イエス・キリストにおける神様の救いのみ業を本当に見つめるなら、私たちは神様の祝福にあずかり、それによって本当の安息を与えられて、新しく生かされていくのです。自分の業に捕われ、自分が何をしているか、何が出来ているかを気にして生きることから解放されて、本当の安息を与えられるのは、自然を見つめることによってではなくて、主イエス・キリストによって神様が成し遂げて下さった救いのみ業を告げるみ言葉を聞き、そのみ言葉によって教育されることによってなのです。
公同の祈り
共に集まる礼拝において行われる第二のこととして、「公同の祈りをなす」があげられています。共に祈るということですが、これは礼拝とは別の祈祷会のことを言っているのではありません。礼拝こそが「公同の祈り」なのです。私たちはこの礼拝で、兄弟姉妹と共に、神様に祈るのです。公同の、というのは、それが個人の業ではなく、教会としての共同の祈りだということです。自分の業をやめて神様のみ業を受けることは、この公同の祈りの場に集うことによって実現します。一人で、自分の勝手な祈りを好きなように祈っているだけのところには、本当の安息は与えられません。本当の安息にあずかるためには、み言葉によって教育され、古い自分を打ち砕かれ、新しくされ、そのみ言葉に導かれて祈ることが必要なのです。そのような祈りができるところにこそ、本当の安息が与えられるのです。
信仰の証し
そして私たちが礼拝において行う第三のことは「自分の信仰と信心に関する証しをなす」ということです。それは、信仰者として自分がどんなことをすることが出来ているか、という自分の業を証しすることではありません。そうではなくて、主イエス・キリストにおける神様の救いのみ業によって与えられている安息を証しすることです。証し、伝道は信仰者の務めですが、それは、ただでさえ忙しくて安息のない日々の生活に、もう一つ証し、伝道という業も加えられてますます忙しくなる、ということではありません。私たちは信仰においてむしろ、そういう日々の忙しい生活の中に、自分の業をやめて神様の恵みのみ業を見つめ、その祝福をいただく安息の時を持つことができるようになるのです。私たちが証しし、宣べ伝えていくのは、そこで与えられる安息です。休日はあっても本当の安息を見出すことができないでいる世の人々に、ここに、この礼拝にこそ、本当の安息がある、と告げ、その礼拝へと人々を招くことが私たちの伝道なのです。
慰めを与える者として生きる
「霊的安息を形に表わすため」、「教会の規律のため」、と並んで、安息日の戒めの第三の意味は、「仕え人の慰めのため」でした。それは10節にあるように、安息日には、息子、娘という家族はもとより、男女の奴隷たちにも、また家畜にも、さらにはあなたの町の門の中に寄留する人々、つまり私たちの感覚で言えば外国人や旅行者たちにも、同じように休みを与えなければならない、ということから来ています。あなたが神様によって与えられている安息、慰めに、あなたの周囲の人々をも、またあなたの下にいる人々をもあずからせなさい、ということです。それも、何か難しいことを求められているのではありません。私たちが本当の霊的安息を与えられるならば、私たちの周囲の人々にも、それは自然に伝わっていくものだと思います。本当に安息を得ている人は、他の人をも安心させ、慰め、あの人と一緒にいると安心する、ということになるのです。逆に私たちが自分の業ばかりを見つめ、自分が何をしているか、何が出来ているか、ということを気にしながら生きているなら、私たちは周囲の人々に常にプレッシャーを与え、自分も疲れ、人々をも疲れさせる者となるのです。私たちは、家庭において、社会において、そして教会においても、周囲の人々に安息を、平安と慰めを与えることができる者として生きていきたいと心から願います。そのためには、先ず私たち自身が、主の日の礼拝において、霊的安息をしっかりと受けることが大切なのです。私たちが主の日、日曜日を礼拝の日として守るのは、そうしなければ救われないとか、そうしないことが罪だからではありません。十字架の死と復活によって神様の救いのみ業を成し遂げて下さった主イエス・キリストが、安息日の主として、私たちに霊的安息を与えるために、礼拝へと招いて下さっているのです。