「天からのパン」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 出エジプト記 第16章1-36節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第6章41-59節
・ 讃美歌 : 297、467
荒れ野の旅
イスラエルの民は、奴隷とされ苦しめられていたエジプトからついに解放され、脱出することができました。エジプト王ファラオはイスラエルの人々をなかなか解放しようとしませんでしたが、主なる神様が数々の災いを行って下さり、また最終的には葦の海において海の水を左右に分けて向こう岸へ渡して下さるという大いなる奇跡によって、イスラエルの民をエジプトの支配から完全に脱出させて下さったのです。しかしこのことによって神様の救いが完成したわけではありません。神様は彼らを、乳と蜜の流れる約束の地へと導き、そこに住わせて下さると約束して下さったのです。エジプトからの脱出によって今度は、その約束の地への旅が始まります。しかしイスラエルの人々はその約束の地がどこにあるのかを知りません。従ってそこへと向かう道をも知りません。神様が、昼は雲の柱、夜は火の柱によって示して下さる道を、日々、一歩一歩歩んでいくしかないのです。しかも神様が彼らを導いていかれたのは、食べ物も水も得ることのできない荒れ野の道でした。先月読んだ15章の終わりのところには、荒れ野を歩み始めたとたんに水を得ることができずに民が苦しんだことが語られていました。ようやく水のある所に着いたと思ったら、その水は苦くて飲むことができませんでした。その水を神様が甘くして下さったことによってようやく飲むことができるようになったのです。荒れ野の旅路とはこのように厳しいものです。荒れ野の中にはところどころにいわゆるオアシスがあります。1節にあるエリムもそういう所です。15章の終わりの27節に、そこには十二の泉があり、七十本のなつめやしが茂っていた、とあります。荒れ野の中でほっと一息つける、英気を養える場所です。しかしいつまでもそこに留まっていることはできません。旅を続けなければならないのです。彼らはエリムを出発し、再び過酷な荒れ野へと歩み出していきました。その歩みの中で、民はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てるようになったのです。
民の不平
彼らはこう言いました。3節です。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」。私たちは、この民がこれとよく似たことを語ったことを既に読みました。14章11節以下です。前には葦の海が立ち塞がり、後ろからはエジプトの戦車部隊が追ってくる、という絶体絶命の危機に直面した時、彼らはモーセに、「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。我々はエジプトで、『ほうっておいてください。自分たちはエジプト人に仕えます。荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです』と言ったではありませんか」と文句を言ったのです。人間危機に直面すると普段は隠されている本音が現れるものです。これらの言葉に、イスラエルの民が心の中にかかえていた思いが赤裸々に現れていると言えるでしょう。それはどんな思いだったのでしょうか。
神の愛を疑う
まず第一に、彼らは、エジプトからの脱出の指導者であるモーセやアロンへの不信を語っています。モーセらが彼らをエジプトから連れ出したのは、荒れ野で死なせるためだったのではないか、と言っているのです。彼らは、危機や苦しみの中で、前途への不安と恐れにかられ、せっかく与えられた救い、奴隷状態からの解放を感謝し喜ぶことができなくなっています。目の前の苦しみに心を奪われて、与えられた恵みを恵みとして受け止めることができなくなっているのです。彼らはモーセとアロンへの不信を語っていますが、それは実はこの救いを与えて下さった主なる神様に対する不信です。そのことは、8節後半でモーセが「あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ」と言っている通りです。彼らは、主なる神様が我々を荒れ野で殺そうとしているのではないか、飢え死にさせるためにエジプトから連れ出したのではないか、と言っているのです。これは、神様が与えて下さった救いを有り難く思わず、かえって迷惑なことと感じている、ということですが、さらに掘り下げて考えるなら、彼らは、主なる神様の自分たちへの愛を疑っているのです。神様が我々を愛していて下さり、我々を救って下さる、ということが本当には信じられないのです。それは彼らの奴隷根性によることです。何世代にも渉って奴隷として苦しめられてきたイスラエルの民は、愛されることに慣れていないのです。愛されるとはどういうことかが分からないのです。愛を信じて忍耐することができず、すぐに疑いの思いに陥ってしまうのです。
奴隷状態をなつかしむ
これと結びついているもう一つの思いは、「エジプトにいた方がよかった」という後悔です。エジプトを出て来たばっかりにこんな苦しい目に遭うのだ、ずっとエジプトにいた方が幸せだった、と彼らは言っているのです。それは、神様によって与えられた救い、解放の恵みを有難迷惑に感じ、救われる前の状態をなつかしむという思いです。しかし果して彼らは、エジプトにいた時幸せだったのでしょうか。「あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに」と言っています。本当にそうだったのでしょうか。彼らは奴隷だったのです。エジプト人に鞭で打たれながら過酷な労働を強いられていたのです。食べ物だって十分に与えられていたはずはありません。いつもひもじい思いをしていたのです。そういう苦しみの中からの彼らの叫びを主なる神様が聞いて下さり、そこから解放して下さったのです。自由を与えて下さったのです。しかし今や彼らは、その自由よりも奴隷状態の方がよかったと言っています。自由には、責任が伴います。リスクも伴います。困難や苦しみの中で忍耐して生きることなしには、自由に生きることはできません。そういう意味では、奴隷状態の方が楽なのです。言われた通りにしていればよいのですから、自分に責任はありません。全てを人のせいにすることができるのです。従って人はしばしば、自由を放棄して奴隷状態へと逃げ込もうとするのです。長年奴隷だったイスラエルの民は、自由の厳しさの中で、奴隷だった時をなつかしく思い出しているのです。それが、「あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに」という言葉の背後にある意味だと言えるでしょう。
私たちの信仰の旅路
モーセとアロンに不平を言うこのイスラエルの民の姿には、このように彼らの奴隷根性が現れています。奴隷状態の苦しみから解放されて自由を与えられたのに、その自由の厳しさに耐えられず、むしろ奴隷だった時をなつかしむような情けない姿です。けれども私たちは、彼らの姿を情けないと批判することができるでしょうか。自分は彼らとは違うと言えるでしょうか。むしろこのイスラエルの民の姿には、私たち自身の信仰の姿が示されているのではないでしょうか。
私たちも、神様によって救われ、奴隷状態から解放された者です。生まれつきの私たちは罪の奴隷でした。その罪というのは、神様をも隣人をも、愛するよりも憎んでしまう、傷つけてしまうという私たちの傾向です。私たちは自分が自由な者だと思い、神様に従うことをよしとせず、自分の思い通りに生きようとしています。そういう歩みの中で、実は自由であるどころか罪の奴隷とされていってしまうのです。そのような私たちを罪の奴隷状態から解放するために、神様がその独り子イエス・キリストを遣わして下さいました。主イエスは私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。父なる神様はその主イエスを復活させて下さいました。この主イエス・キリストの十字架と復活によって、神様は私たちの罪を赦して下さったのです。赦されたことによって私たちは、罪の奴隷状態から解放され、神様の恵みの中を新しく生きる者とされたのです。この主イエス・キリストによる救いは、エジプトの奴隷状態からの解放と重なり合います。奴隷状態から解放されただけでは救いが完成しないことも同じです。主イエスによる罪の赦しの恵みにあずかった私たちは、罪の支配から自由になった者として、神様が約束して下さっている救いの完成、つまり復活と永遠の命を目指してこの世の旅路を歩んでいくのです。それが信仰者の人生です。私たちが生きていくこの世は、決して楽な所ではありません。様々な苦しみや悲しみが襲ってきて、私たちの歩みを妨げます。また私たち自身の弱さによってつまずいてしまったり、迷ってしまうこともあります。信仰を持って生きる私たちの人生は、荒れ野を旅していくイスラエルの民の歩みと重なり合うのです。荒れ野のようなこの世を歩む中で、私たちも、救いを与えて下さった神様に不平を言ってしまうことがあります。神様が自分を愛して下さっていることを信じて忍耐することができずに疑いに陥ってしまうことがあります。また信仰による自由に生きることの厳しさに耐えられずに奴隷状態に逃げ込みたくなったりもするのです。つまりイスラエルの民の奴隷根性は、私たちにも共通してあり、私たちも、イスラエルの民と同じように神様に対して恩知らずな不平、つぶやきに陥るものなのです。
天からのパン、マナ
本日の16章には、そのように不平を言っているイスラエルの民に、主なる神様が天からのパンであるマナを与え、彼らの飢えを満たし、養って下さったことが語られています。神様が与えて下さった食料はマナだけではなく、夕方にはうずらの群れが飛んで来てその肉を食べることができたことも12、13節に語られています。しかしそれについては一言のみで、この16章でもっぱら語られているのは、朝、地表に降りる霜のように与えられたマナのことです。15節に「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである」とあります。神様が、荒れ野を歩むイスラエルの民を養うために与えて下さった主食がこのマナなのです。それはどんなものだったのか。14節には「地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた」とあり、21節には「日が高くなると、それは溶けてしまった」とあります。そして31節には「それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした」とあります。民数記の11章にもこのマナのことが語られており、そこには「マナは、コエンドロの種のようで、一見、琥珀の類のようであった」とあり、「臼で粉にひくか、鉢ですりつぶし、鍋で煮て、菓子にした。それは、こくのあるクリームのような味であった」とあります。このマナはある木につく虫の分泌物で、この地域に見られる現象であることが確かめられています。またマナという呼び名は、15節において、それを見た民が「これは一体何だろう」と言った、その言葉が原語で「マン・フー」であることから来ていると言われます。これらのことは周辺的な知識として知っておいたらよいでしょう。しかし私たちが見つめるべき中心的なことは、食物がなくて不平を言っているイスラエルの民を、神様がこのマナによって養い、飢えることなく歩み続けることができるようにして下さった、ということです。最後の方の35節に、「イスラエルの人々は、人の住んでいる土地に着くまで四十年にわたってこのマナを食べた。すなわち、カナン地方の境に到着するまで彼らはこのマナを食べた」とあります。マナは一度や二度ではなく、イスラエルの民の四十年にわたる荒れ野の旅路において毎日与えられ続けたのです。荒れ野を旅していくイスラエルの民を、神様が天からのパンであるマナによって日々養い、生かして下さったのです。その神様の恵みをこそ私たちは見つめるべきなのです。
その日その日に
このマナは不思議な仕方で人々を養いました。16~18節を読んでみます。「主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。』」イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた」。一人一日一オメルのマナによって民は養われたのです。家族の数に従って必要な分だけを集めることが命じられています。そこにおいて不思議なことが起りました。「ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた」のです。これは、集めたものを量ってみたら、それぞれ自分の家族全員が一オメルずつ食べる分になっていた、という奇跡です。元気で力があり、多く集めることができる者はより腹を満たし、体力がなくて、あるいは家族が多くて十分に集めることができなかった者はひもじい思いをする、ということがなかったのです。それは、人間が自分の力で集めたものによって腹を満たしたのでなく、神様が恵みによって民一人一人を日々養って下さったということを示す奇跡です。さらに20節には、翌日の分まで集めて取っておいたものは虫が付いて臭くなり、食べることができなかった、ということが語られています。つまり、マナは毎日、その日の分を集めなければならないのです。それは、その日その日を神様の恵みによって養われていく、ということです。翌日の分まで取っておこうとすることは、神様の恵みではなくて、自分の力で集めた蓄えに頼り、それによって安心を得ようとすることです。マナはそのように用いることはできませんでした。神様の恵みは、毎日、その日の分だけ、しかも一人に一オメルが与えられるのです。信仰者として生きるとは、その日暮しをすることです。私たちは日々、その日の恵みを求めて神様に祈りつつ生きるのです。「主の祈り」の「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」はそのことを示しています。今日必要な糧を今日与えたまえと、毎日祈り続けるのです。主の祈りは、日曜日にだけ一週間分まとめて祈るようには出来ていないのです。
安息日には
マナについての不思議な奇跡はさらに続きます。22節以下には、週の六日目には二倍の量、一人当たり二オメルを集めたとあります。それは翌日の七日目の分も、ということです。週の七日目は主が定められた安息日です。その日は、人間の営みを休むのです。それは単なる休日ではなくて、その一日を神様にお献げするのです。マナを集めたり料理をすることも人間の営みの一つとして休まなければなりません。そのために、六日目には翌日の分まで集め、調理しておくのです。でも、マナは翌日まで取っておけなかったのではなかったでしょうか。翌朝になったら虫が付き、臭くなってもう食べられなかったと先ほど読んだばかりです。ところが、24節「彼らはモーセの命じたとおり、朝まで残しておいたが、臭くならず、虫も付かなかった」のです。六日目に集めた分だけは、翌日まで取っておくことができたのです。そして27節には、七日目にもマナを集めようとして出て行った人たちがいたが、何も見つからなかったとあります。安息日には、マナは与えられないのです。
神による訓練
これらのことは何を語っているのでしょうか。それは、主なる神様はマナによってイスラエルの民を養い生かして下さるだけでなく、これを用いて彼らを神様の民として訓練しておられる、ということです。食べ物のない荒れ野を、日々与えられるマナを食べて歩んでいくことを通してイスラエルの民は、神様が毎日、恵みによって自分たちを養い、生かして下さることを体験していきます。それによって彼らは、神様の民は自分の力で蓄えたもの、自分が持っているものに依り頼んで生きるのではなくて、ただ神様の恵みによってこそ養われ、生きるのだ、ということを学んでいったのです。また、安息日にはマナが与えられず、前の日に二日分を集める、という体験を通して彼らは、週の七日目に人間の働きを休み、その日を神様にお献げする、という神様の民の生活のリズムを与えられていったのです。週に一日はマナが与えられないというのは大変不安なことです。その日の食べ物に困り飢えてしまうのではないか、という恐怖があります。私たちも同じ不安を抱きます。今日のこの日曜日、人間の営みを休んでこの一日を神様に献げてしまったら、その分だけ働きが減り、収入が減り、生活が苦しくなるのではないか、あるいは自分のやりたいことができなくなって生活が貧しくなってしまうのではないか、という不安です。しかし神様は安息日の分のマナをこのように与えて下さることによって、週の七日目を神様にお献げして生きる神の民の生活が、神様の恵みによってしっかりと支えられ、守られることを体験させて下さったのです。このようにしてイスラエルの民は、天からのパンであるマナによって養われつつ荒れ野を旅する中で、神の民として鍛えられていったのです。神様に愛されていることが分からず、苦しみを体験するとすぐにその愛を疑い、神は私を滅ぼそうとしている、などと口走る奴隷根性の抜けない者が、天からのパンを日々味わいつつ歩むことによって、神様の愛を実感していったのです。また忍耐を必要とする自由の厳しさに耐えられず、奴隷だった時をなつかしみ、そこに逃げ込もうとしていた者が、神様に信頼して、苦しみに耐えて従っていくことを学んでいったのです。荒れ野はイスラエルの民にとってそのような信仰の訓練の場となりました。そのために与えられたのがマナだったのです。
命のパン、主イエス
先ほど共に読んだ新約聖書の箇所は、ヨハネによる福音書第6章41節以下です。48節以下に主イエス・キリストのこういうお言葉が記されています。「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」。主イエスはイスラエルの民が荒れ野で食べたマナについて述べ、先祖たちはマナを食べたが結局死んでしまった。しかし私こそ天から降って来た生きたパン、命のパンであり、このパンを食べる者は永遠に生きるのだとおっしゃったのです。私たちに今与えられているのは、マナではなくて主イエスという命のパンです。そのパンを食べるとはどういうことでしょうか。52節で「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と問うたユダヤ人たちに対して主イエスは、「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」とおっしゃいました。主イエスの肉を食べ、血を飲む、それは主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかり、肉を裂き血を流して私たちの罪の赦しを実現して下さったことを信じ、その救いにあずかるということです。この信仰によって私たちは、天から降って来た生きたパン、命のパンである主イエスを食べるのです。聖餐のパンと杯はそのことを指し示しています。洗礼を受け、聖餐にあずかりつつ生きる信仰者は、天からのパンである主イエスによって養われつつ、この世の荒れ野を旅していくのです。その旅において私たちも神様の民として鍛えられていきます。主イエス・キリストという命のパンを味わいつつ生きることによって私たちは、神様がその独り子を与えて下さるほどに私たちを愛して下さっている、その神様の愛を知らされ、その愛に信頼して生きる者とされるのです。またその歩みの中で、週に一日を神様に献げ、神様を礼拝しつつ生きることによって、神様の民としての生活のリズムを整えられていきます。神様を礼拝しつつ生きることは、生活が貧しくなったり、自由を失うことではなくて、そこでこそ神様が与えて下さる命のパンによって養われ、罪から解放された本当の自由に生きることができることを体験していくのです。その自由に生きることは、困難や苦しみの中で忍耐しなければならないという厳しいことでもあります。しかし、私たちのために十字架の苦しみと死とを引き受けて下さった主イエス・キリストが共にいて下さるその歩みは、罪に支配されていたかつての歩みとは比べものにならない、喜びと慰めと励ましの中での歩みであり、主イエスの復活にあずかって私たちも永遠の命を与えられる、その約束の地へと向かう希望ある歩みなのです。