夕礼拝

神の名

「神の名」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第6章2-13節
・ 新約聖書: 使徒言行録 第4章5-12節
・ 讃美歌 : 83、452

疑問
 月に一度、夕礼拝において出エジプト記を読み進めておりますが、前回までに、モーセが主なる神様によって召され、エジプトで奴隷とされて苦しめられている同胞イスラエルの人々のもとに遣わされたこと、そしてエジプト王ファラオに、イスラエルを解放し、主なる神様に仕えさせるように要求したこと、しかしファラオはその要求を拒み、かえってイスラエルの民への圧迫を強め、彼らはますます苦境に陥ったことを読んできました。本日は、第6章の2節以下を読むのですが、ここを読むと、何だか話が少し戻っているように感じられます。2節から8節にかけて、主なる神様がモーセにお語りになった言葉が記されていますが、そこには、神様が、エジプトで奴隷とされ、重労働に苦しんでいるイスラエルの人々のうめき声を聞いて、彼らの先祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブと結んだご自身の契約を思い起こして下さったこと、それゆえに神様は今やイスラエルの民を奴隷の身分から救い出し、先祖たちに与えると約束しておられた地カナンへと導き入れようとしておられることが語られています。モーセはこれらのことをイスラエルの人々に告げよと命じられたのです。しかしこれと同じことを私たちは既に3章以降において読んできました。3章7~10節で神様はほぼ同じことをモーセに語っておられたのです。なぜまた同じようなことがこの6章で語られるのだろうか、と疑問を覚えます。

神の名
 ここを読んで感じるもう一つの疑問は、2、3節で神様が、「主」というご自分のお名前を初めて知らせると語っておられることです。私たちは、「主」というのは名前ではないではなくて立場あるいは地位ではないか、と思いますが、原文においてはこれは完全な固有名詞、まさに神様のお名前なのです。この言葉は今日では「ヤーウェ」とか「ヤハウェ」と表記されるようになっています。昔の文語訳聖書では「エホバ」でした。この言葉がどのように発音されるべきなのかは、イスラエルの人々の間でも分からなくなっていたのです。何故かというと、イスラエルの人々は、「主の名をみだりに唱えてはならない」という十戒の戒めのゆえに、神様のお名前を口にすることに怖れを覚え、聖書を読む時に、この言葉は全て「主」を意味する別の言葉に読み替えてきたのです。何世代にも渡ってそうしてくるうちに、この神様のお名前は本来どう発音するのかが分からなくなってしまったという、私たちの感覚ではちょっと滑稽なことになったのです。学者たちの最近の考えでは、おそらく「ヤーウェ」ないし「ヤハウェ」と読まれたのであろう、と言われています。しかしそれは日本語としては読みにくいので、前の口語訳聖書からはこれを「主」と訳すようになりました。そういうわけで、この「主」という言葉は神様のお名前なのですが、3節で神様は、私はアブラハム、イサク、ヤコブには「全能の神」としてのみ現れ、「主」という名前を示さなかった、今あなたに初めて「主」という名を教える、と言っておられるのです。しかし、この「主」というお名前を私たちは既に聞いています。例えば6章1節の冒頭に「主はモーセに言われた」とある、この「主」が「ヤーウェ、ヤハウェ」です。3章でモーセに現れたのも「主」です。また創世記にも、至る所に「主」が出てきます。「主」という神様のお名前は、既に多くの箇所で語られてきたのです。それなのに何故、ここで初めてこのお名前が示されたと語られているのでしょうか。

伝承の痕跡
 これらの疑問に答えるためには、創世記や出エジプト記などが今日の形にまとめられる以前のことに遡らなければなりません。創世記も出エジプト記も、最初から今のような形で書き下ろされたのではなくて、いくつかの別々の話、それを「伝承」と言いますが、それらが組み合わされて今の形になったのです。その痕跡が、神様のお名前に現れていると考えられています。神様のお名前を固有名詞で語ることをせず、「神」という普通名詞で語っていく伝承と、「主、ヤーウェ、ヤハウェ」という固有名詞で語っていく伝承と、大きく分けて二つの別々の伝承があったのです。実際には二つだけではなく、もっと多数の伝承が複雑に絡み合っているのですが、とにかく、一つの話のように見えてももともとは別の物語だったという所がかなりあるのです。創世記の天地創造物語もそうです。創世記の1章1節から2章3節までのところには「主」という言葉は使われておらず、全て「神」となっています。しかし2章4節以下は「主なる神」となっています。この二つはもともとは別の伝承に基づく別の話だったのです。それと同じように、出エジプト記の6章1節までと2節以下は元は別の物語です。1節までの所は神様を「主」というお名前で語る伝承による話です。2節以下は、神様の固有名詞を語らず、「神」という一般名詞で語ってきた伝承に基づく所です。その伝承においては、神様はこれまでご自分のことを「全能の神」としてのみ現して来られたのが、ここに来て初めて、「主、ヤーウェ、ヤハウェ」という固有名詞をお示しになったのです。本日の箇所において、「主」という神様のお名前が初めて示されたと語られているのはこのためなのです。
 3章において既に語られたのと同じことが6章においてもう一度繰り返されていることも、このことによって説明がつきます。3章以降に語られてきた話と、6章2節以下の話とは、どちらも神様がモーセを召してエジプトへと遣わされる話ですが、別の伝承に基づく話なのです。ですから、3、4章と6章とは並行関係にあります。話が戻っているように感じるのはそのためです。同じ話が、別の伝承に基づいてもう一度語り直されているのです。

今ある形において
 さて以上が、本日の箇所を読む時に起ってくる疑問への答えです。これらの疑問に答えるためにはこのように、6章1節までと2節以下はもともとは別の話だったということを指摘しなければなりません。けれどもこのことを理解の前提とした上で私たちは、本日の箇所を、これまで読んできた所の続きとして位置づけて、そこから示されることを読み取っていきたいと思います。もともとは別の話だったとしても、それが今日のように結びつけられて出エジプト記という一つの書物が成り立っていることには意味があるはずですし、今ある形での出エジプト記が何を私たちに語りかけているのかを聞き取っていくことこそが、聖書を正典として、つまり信仰の規範、基準として読むということでしょう。話が戻るような印象を与えることが明らかであるにもかかわらず、出エジプト記がこの6章を語っていることにはどのような意味があるのでしょうか。

全能の神の契約
 神様がモーセにお語りになった言葉が2節以下に記されていますが、先ほど申しましたように2、3節で神様はモーセに「主」というご自分のお名前をお示しになりました。先祖たちには「全能の神」として現れた神が、今や「主」というお名前を示して下さったのです。神が先祖たちに「全能の神」として現れた、それは創世記第17章に語られていることを指しています。創世記第17章1~2節を読んでみます。21頁です。「アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。『わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう』」。イスラエルの民の最初の先祖であるアブラハムは、75歳で、「あなたを大いなる国民とし、祝福の源とする」という神様の約束を受けて、故郷を離れて旅立ちました。それから24年、今や99歳になっていましたが、彼にはまだ子供が与えられていませんでした。当時はアブラムという名だったその彼に神様が現れ、「わたしは全能の神である」と語りかけられたのです。「全能の神」と訳されている言葉の本来の意味ははっきりしないのでして、古代より「全能の」と訳されてきたのに従って日本語でもこう訳されているのですが、文字通り「全能の」、つまり何でもできる、という意味だったのかは不明です。ここで見つめられているのは、何でもできるかどうかよりもむしろ、2節にあるように、神がアブラムとの間に契約を立てて下さる、ということです。その契約の内容が4節以下にこのように語られています。まず4~6節がその前半です。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう」。神様はアブラムにアブラハムという新しい名前を与え、彼が多くの国民の父となると約束して下さったのです。また7、8節が契約の内容の後半です。「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる」。神様は、アブラハムの子孫たちとの間に契約を立て、彼らの神となり、カナンの地を彼らに所有地として与えると約束して下さったのです。全能の神として現れた神は、アブラハムとの間にこの契約を立てて下さったのです。

神の行動開始を告げる
 その神が、今モーセに現れ、「主」という新しいお名前を示して下さいました。このお名前を示すことによって主なる神様がモーセに見つめさせようとしておられるのも、この契約です。本日の箇所、出エジプト記6章の4、5節にこのように語られています。「わたしはまた、彼らと契約を立て、彼らが寄留していた寄留地であるカナンの土地を与えると約束した。わたしはまた、エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、わたしの契約を思い起こした」。かつてアブラハムに現れ、契約を立てて下さった全能の神が、今、エジプトで奴隷とされているイスラエルの人々のうめき声を聞いて、その契約を思い起こして下さったのです。契約を思い起こしたというのは、忘れていたのを思い出したということではなくて、その契約を実現するためにいよいよ行動を起したということです。6節にこうあります。「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」神様は、エジプトの重労働の下からイスラエルの人々を導き出し、奴隷の身分から救い出そうとして、み腕を伸ばし、大いなる審判によって彼らを贖うための行動を開始して下さったのです。この神様の行動によって、あの契約は実現するのです。7節にはそのことが、「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる」と言い表されています。主なる神様がイスラエルをご自分の民として下さり、ご自身がイスラエルの神となって下さる、そのような特別な関係を結んで下さることこそが神様とイスラエルの民との契約です。そしてその契約の具体的な現れとして、イスラエルの民は約束されていた土地であるカナンへと導かれ、そこを与えられるのです。8節にこうあります。「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える」。神様はいよいよ、この契約を実現するための具体的な行動を開始して下さった、それがここでモーセに示された新しいことです。この神様の行動開始が、「主」というお名前が示されることによって告げられているのです。6節以降の、イスラエルの人々にこう言いなさいとモーセに示されたみ言葉の冒頭には「わたしは主である」とあり、また8節のそのみ言葉のしめくくりにも「わたしは主である」とあります。「わたしは主である」という宣言に挟まれて、神様の行動開始が告げられているのです。「主」という具体的なお名前が示されることによって、神様が契約の実現のための行動を具体的に開始して下さったことが告げられているのです。

気落ちしているモーセ
 神様が「主」という新たな、具体的なお名前を示して下さったことにはこのような意味があります。ではその話が、この第6章に置かれているのは何故なのか。前回読んだ第5章には、モーセがイスラエルの民の解放のために、ファラオと交渉を始めたことが語られていました。しかしその結果は散々なものでした。ファラオは、「お前たちは怠け者だからそんなことを言い出すのだ」と要求を一蹴し、それ以来イスラエルの民は、煉瓦造りの原料であるわらを自分で集めなければならなくなり、しかもこれまで通りの数の煉瓦を造ることを要求されたのです。つまりより厳しい条件の下に置かれ、苦しみが増し加わったのです。イスラエルの人々はモーセに、「お前のおかげで我々は前より苦しい思いをするようになった」と抗議しました。モーセ自身も神様に文句を言いました。それが5章22、23節です。「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」。モーセは今や、神様が自分を召してイスラエルの民のもとへ、そしてファラオのもとへ遣わされたことの意味を見失いかけています。奴隷とされて苦しんでいるイスラエルを救って下さる、そのためにお前を遣わすと神様がおっしゃったから、それを信じて歩んできたのに、その神様の命令通りにしたら、救いが訪れるどころか、ますますイスラエルは苦しみの深みに突き落とされ、「お前のせいだ」と自分も攻められている。神様を信じて従ってきた私の歩みはいったい何だったのか、何の意味もない、無駄なことだったのではないのか、そういう疑い、苦しみの中に今モーセはいるのです。このような状況の中で、神様のお名前が新たに示されたのです。それは勿論、モーセを励まし、力付けるためです。主なる神様は今やイスラエルとの契約の実現のために行動を開始しておられる、あなたはそのために召され、使命を与えられて遣わされたのだ、神様が行動して下さるのだから、あなたの働きは無駄になることはないのだ、ということを示すためです。モーセは既に3、4章で、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救おうとする神様のご決意を知らされています。また神様がイスラエルを約束の地カナンへと導こうとしておられることも知らされています。ですから本日の箇所での神様のみ言葉によって特に新しいことを示されたわけではない、とも思われます。けれどもここには、これまでの3~5章にははっきりとは語られていなかったことが新たに示されているのです。それは、このエジプトからの解放のみ業が、神様が先祖たちと結んで下さった契約の成就実現である、ということです。そのことは、モーセが神様に召される前の、2章の24節には語られていました。「神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた」とあります。しかしこの神様のみ心は、モーセにはまだはっきりとした形で示されてはいませんでした。モーセはこの6章に入って、神様がアブラハムとの間に立てて下さっていた契約を、今この時、エジプトの奴隷状態からの解放を通して実現しようとしておられることを、そのために行動を開始しておられることをはっきりと示されたのです。

人間の現実
 つまりここには、信仰の歩みにおいて気落ちしてしまっているモーセを、神様が励まし、支えて下さっているその恵みが語られているわけですが、しかし同時に、モーセの直面している現実が決して甘いものではないことも見つめられています。9節にはこのようにあります。「モーセは、そのとおりイスラエルの人々に語ったが、彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった」。神様が先祖と結んで下さった契約をいよいよ実現しようと行動を開始しておられる、ということをモーセは民に告げたわけですが、イスラエルの人々はエジプトから課せられている厳しい重労働のために意欲を失っており、モーセの言葉に耳を傾けようとしないのです。ここに人間の厳しい現実が描かれています。苦しみによって心が畏縮し、希望を失っている中で、神様の救いを告げるみ言葉が語られても届かない、心に響かない、ということが起るのです。神様による救いを告げる言葉が語られれば、苦しみの中にある人に届き、慰めを与え、新たな力を与えるということは、決して当然ではありません。むしろそれは一つの奇跡です。神様の力のみがそれを可能にするのです。またモーセ自身も12節でこう言っています。「御覧のとおり、イスラエルの人々でさえわたしに聞こうとしないのに、どうしてファラオが唇に割礼のないわたしの言うことを聞くでしょうか」。同胞を説得することも出来ないモーセは、自分の言葉に全く自信を持つことができないのです。神様の言葉を、人々にちゃんと伝え、人々の心を動かすことができないのです。このように、イスラエルの人々も、モーセも、苦しみの中にあります。気落ちし、希望を見失い、自信もなく、自分の弱さを嘆くばかりなのです。それが目に見える現実なのです。

神の具体的な名
 しかしその人間の現実の中に、「わたしは主である」という神様のみ言葉が響いています。神様が、新たに、具体的に、ご自分のお名前を明らかにし、示して下さったのです。契約の実現のために具体的に行動を開始して下さったことを告げて下さったのです。出エジプト記第6章が語っているのはこのことです。そしてそれは、新約聖書が私たちに告げている福音、良い知らせ、喜びの訪れ、救いの知らせとつながるものです。新約聖書が私たちに語っているのは、神様が、私たちとの間に新しい契約を立てるために、私たちを罪の支配から解放し、本当の自由を与えるために、神様が私たちの神となって下さり、私たちが神様の民とされて生きることができるために、具体的に行動を開始し、さらにそれを成し遂げて下さったということです。その神様の具体的な救いのみ業を成し遂げて下さった方こそ、主イエス・キリストです。神様がモーセに、主、ヤーウェ、ヤハウェという具体的なお名前を示して下さったように、私たちに示されている具体的なお名前が、イエス・キリストなのです。

わたしたちが救われるべき名
 本日は共に読まれる新約聖書の箇所として、使徒言行録第4章5節以下を選びました。使徒ペトロが、大祭司や議員、長老、律法学者たちの前でイエス・キリストこそ救い主であられると大胆に語った場面です。その12節で彼はこう言っています。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。イエス・キリストのみ名こそ、私たちの救いのために与えられている唯一の、具体的な、神様のお名前です。私たちは時として不安を覚えるかもしれません。世の中にあまたの宗教があり、救いを与えてくれるという神が他にもいろいろある。その中で、イエス・キリストのみを「わたしたちが救われるべき名」として信じてよいのだろうか。それは救いを余りにも狭く限定し過ぎることではないのか。けれどもそれは違うのです。神様は、「わたしたちが救われるべき名」として、独り子イエス・キリストのお名前を示して下さいました。それは、神様の救いが、そのための行動が、抽象的一般的なものではなくて、具体的だということです。私たちの救いのために行動して下さっている神様は、普通名詞で「神」とのみ呼ばれるような、他の様々な神々とも共通する最大公約数的な、ということは結局人間が考えた神なのではなくて、私たち罪人の救いのために一人の人間となってこの世に生まれて下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さった、そのようにして具体的に救いのみ業を成し遂げて下さった主イエス・キリストなのです。他の誰によっても、この具体的な救いは得られません。私たちを具体的に救って下さる神は、主イエス・キリストという具体的なお名前を示して下さったのです。出エジプト記第6章はそれと同じことを語っています。それゆえにここは、「出エジプトにおける福音」とも言い得る箇所なのです。

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