夕礼拝

強く、また雄々しくあれ

「強く、また雄々しくあれ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第31章1-29節
・ 新約聖書:ヘブライ人への手紙 第13章1-19節
・ 讃美歌:327、461

新しい指導者が立てられる
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書申命記からみ言葉に聞いています。その結びの部分に入っているわけですが、これまでにも何度もお話してきたように、この申命記というのは、エジプトの地で奴隷とされていたイスラエルの民が、モーセに率いられて脱出し、四十年間の荒れ野の旅を経て、いよいよ神の約束の地であるカナンに入ろうとしている、それを目前にしたモアブの地で、モーセの遺言として語られたものです。モーセ自身はヨルダン川を渡って約束の地に入ることはできず、このモアブの地で死ぬのです。本日の31章の2節でモーセ自身がそのことを語っています。「わたしは今日、既に百二十歳であり、もはや自分の務めを果たすことはできない。主はわたしに対して、『あなたはこのヨルダン川を渡ることができない』と言われた」。百二十歳になったモーセはもう自分の務めを果たすことができなくなっています。ここは以前の口語訳聖書では「もはや出入りすることはできない」となっていました。「出入りする」というのは聖書において、通常の生活を送ることを意味しています。モーセは年老いてそれができなくなっているのです。それゆえに、モーセに代ってイスラエルの民を約束の地カナンへと導いていく新しい指導者が立てられる、それがこの31章のテーマです。そのためにモーセはイスラエルの人々にこう告げるのです。3節「あなたの神、主御自身があなたに先立って渡り、あなたの前からこれらの国々を滅ぼして、それを得させてくださる。主が約束されたとおり、ヨシュアがあなたに先立って渡る」。「あなた」というのはイスラエルの民全体のことです。新しくイスラエルの指導者となるのはヨシュアです。イスラエルの民はこれからヨシュアに率いられて、ヨルダン川を渡り、約束の地カナンに入っていくのです。
 しかしヨシュアが新しい指導者として民の先頭に立つことが語られる前に、この3節でモーセが先ず語っているのは「あなたの神、主御自身があなたに先立って渡り、あなたの前からこれらの国々を滅ぼして、それを得させてくださる」ということです。民の先頭に立って導いて行くヨシュアにさらに先立って、主なる神が先ずヨルダンを渡り、約束の地に先に住んでいる民を滅ぼして、そこをイスラエルの民に与えて下さるのです。ヨシュア自身もこの主なる神に従って歩みつつ民を導いていくのです。ここに、神の民イスラエルの指導者の務めが示されています。神の民の指導者とは、自らが先ず、先立ち行かれる主なる神に従って歩み、そのことによって民全体を導いていく者なのです。
 そのような指導者として立てられるヨシュアにモーセが語った言葉が7節以下です。7、8節でモーセはこう言っています。「強く、また雄々しくあれ。あなたこそ、主が先祖たちに与えると誓われた土地にこの民を導き入れる者である。あなたが彼らにそれを受け継がせる。主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない」。「あなたこそが、約束の地に民を導き入れる者だ」とモーセは告げています。しかし8節の、主があなたと共に歩まれる、あなたを見放すことも見捨てることもない、という言葉は、6節においては民全体に対して語られていました。主なる神は、イスラエルの民全体と共に歩んで下さり、見捨てることなく導いて下さるのです。その恵みの中で、ヨシュアはその先頭に立って民全体を導いて行くのです。

強く、また雄々しくあれ
 この主が共にいて下さるという恵みの約束に基づいて、イスラエルの民全体に対しても、また指導者ヨシュアに対しても、「強く、また雄々しくあれ」、そして「恐れてはならない、おののいてはならない」と語られています。主なる神が共にいて導いて下さる民は、強く、雄々しくあることができる、そして、恐れず、おののかずに歩むことができるのです。これらの言葉、特に「強く、また雄々しくあれ」は、申命記の次のヨシュア記の第1章にも四回出てきます。モーセの死後、ヨシュアが民の指導者として立てられる場面です。また、既に申命記の3章28節にも同じ言葉がありました。戻ってそこを読んでみます。「ヨシュアを任務に就け、彼を力づけ、励ましなさい。彼はこの民の先頭に立って、お前が今見ている土地を、彼らに受け継がせるであろう」。これもヨシュアの任命に関する言葉であるわけですが、ここに「力づけ」とあるのが「強く」と同じ言葉であり、「励まし」とあるのが「雄々しく」と同じ言葉です。つまり、「ヨシュアを任務に就け、強く、雄々しくあれと語りなさい」ということです。この3章28節の訳から、「強く、雄々しくあれ」の意味が鮮明になってきます。「強く」とは、力づけられていること、「雄々しく」とは、励まされていることなのです。もっとも口語訳聖書ではこの3章28節は「彼を励まし、彼を強くせよ」となっていましたから、「強く」の方を「励ます」、「雄々しく」の方を「強くする」と訳すこともできるわけです。つまりこの二つの言葉はほぼ同じ意味です。共にいて下さる主の下で、イスラエルの民は、そしてその指導者として立てられるヨシュアは、力づけられ、励まされて、それによって恐れることなく、おののくことなく困難や苦しみ悲しみに打ち勝っていくことができる、と言われているのです。

男も女も
 この「強く、また雄々しくあれ」という言葉は以前から私にとって気になる言葉でした。それは一つには、私が中学3年生で信仰告白をした時に、記念の聖書に牧師である父が書いてくれたのがこの言葉だったからです。約束の地にこれから入って行こうとしている民に与えられたこの言葉は、人生をこれから歩んで行こうとしている若者に贈るのに相応しい言葉だと言えるでしょう。それで私は長男が生まれて名前をつける時に、「雄々しい」という字を用いました。そのようにこの言葉に私はある思い入れがあるのですが、しかしこの言葉が気になっていたのにはもう一つの理由があります。それは、これは男性に贈るにはいいけれども、女性に対してはどうなんだろうか、ということです。若い女性に対して「強く、また雄々しくあれ」と言うのはどうでしょうか。まあこのごろは、言われなくても強くて雄々しい女性が増えていますが、しかし例えば洗礼を受けた女性に贈る色紙に「強く、また雄々しくあれ」とはやはり書きにくいでしょう。でもこの言葉は、イスラエルの民全体に対して語られているのであって、男性にだけ語られているのではありません。それでこの言葉が気になっていたのです。しかし先程の3章28節の訳がこの疑問への答えを与えてくれます。日本語で「雄々しい」というのは「男らしい」ということですが、聖書の元の言葉はそういう意味ではなくて、「励まされている、力づけられている」ということであるわけです。だから「雄々しくあれ」という訳にはちょっと問題があります。英語の聖書では「強く、また勇気を持て」というふうに訳されているものが多くあります。つまりこの勧めは、あなたがた神の民には主なる神が必ず共にいて下さるのだから、男も女も、力強く、勇気をもって、恐れおののかずに生きることができる、と語っているのです。

み言葉を聞き続けることによって
 さてこのように、新しい指導者ヨシュアとイスラエルの民に励ましが与えられているわけですが、9節以下には、七年目ごとの負債免除の年の仮庵祭に、全イスラエルの集まるところで、今モーセが語っている律法を読み聞かせなければならない、ということが命じられています。イスラエルの民が、約束の地で、共にいて下さる主の恵みの下で、強く、また雄々しく、恐れおののかずに生きるためには、新しい指導者ヨシュアが立てられるだけではなく、民の一人ひとりが、主なる神の律法の言葉をしっかり聞き、それを心に刻みつけることが必要なのです。律法というのは単なる掟、法律ではありません。それは、主なる神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放して下さり、その恵みの下で彼らと契約を結び、彼らの神となって下さり、彼らを神の民として下さったという救いを告げる言葉であり、その恵みの下にある神の民がどのように生きるべきかを教える言葉です。それが読み聞かせられるというのは、法律の条文が朗読されるようなことではなくて、神の恵みのみ言葉が語られるということなのです。そのみ言葉をしっかり心に刻みつけることによってこそ、主なる神が共にいて下さる恵みが分かるし、それによって強く、雄々しく生きることができるのです。またこの七年ごとの律法の朗読によって、民の中の子供たちが、主の恵みを覚えて感謝し、主を畏れ敬いつつ生きることを学びます。そのようにして、共にいて下さる主への信仰が世代から世代へと継承されていくことによって、イスラエルの民は強く、雄々しく、恐れおののかずに歩むことができるのです。「強く、また雄々しく」あることは、自分の力で頑張って強く生きることによって実現するのではなくて、主なる神のみ言葉を聞き続けることによって、神からの力づけと励ましと導きを常に新たに与えられながら歩むことによってこそ可能となるのです。

恩知らずの罪
 しかし31章の14節以下には、いよいよモーセの死ぬ日が近づき、モーセとヨシュアの二人が臨在の幕屋の中に立って主の言葉を受けたことが語られていますが、そこで与えられた主のみ言葉は、イスラエルの民はこれからの歩みにおいて、律法を心に刻みつけ、それを忘れないで主を畏れ敬いつつ歩むことができないであろう、という予告でした。16節に「あなたは間もなく先祖と共に眠る。するとこの民は直ちに、入って行く土地で、その中の外国の神々を求めて姦淫を行い、わたしを捨てて、わたしが民と結んだ契約を破るであろう」とあります。また20節にもこうあります。「わたしがその先祖に誓った乳と蜜の流れる土地に彼を導き入れるとき、彼は食べて満ち足り、肥え太り、他の神々に向かい、これに仕え、わたしを侮ってわたしの契約を破るであろう」。約束の地、乳と蜜の流れる肥沃なカナンの地へと入って行くイスラエルの民は、そこで豊かになり、その豊かさの中で、エジプトから解放し、この地を与えて下さった主なる神を忘れ、他の神々、人間の願いを叶え、豊かさと繁栄を約束する、人間が造り出した偶像の神々を拝むようになるのです。神よりも自分の豊かさを第一とするようになり、み言葉に聞き従うよりも自分の平安や喜びを大切にするようになるのです。この恩知らずこそ人間の罪です。イスラエルの民だけではなく、私たちは皆そういう罪に陥っているのではないでしょうか。神の恵みによって救いにあずかり、神の民、主が共にいて下さる者となった私たちが、その神を忘れ、自分のことしか考えない忘恩の罪に陥っていく、そのことを神はよくご存知なのです。

み顔を隠す神
 そのような民の罪に対して主なる神はどうなさるのでしょうか。17、18節にこうあります。「その日、この民に対してわたしの怒りは燃え、わたしは彼らを捨て、わたしの顔を隠す。民は焼き尽くされることになり、多くの災いと苦難に襲われる。その日民は、『これらの災いに襲われるのは、わたしのうちに神がおられないからではないか』と言う。わたしはそれでも、その日、必ずわたしの顔を隠す。彼らが他の神々に向かうことにより行ったすべての悪のゆえである」。主の恵みを忘れ、他の神々を拝むようになるイスラエルに対して主はお怒りになるのです。そして「彼らを捨て、わたしの顔を隠す」のです。イスラエルの民は神に捨てられてしまい、神がみ顔を隠されるのでみ顔が見えなくなり、神を見失ってしまうのです。それによって様々な災いと苦難が彼らを襲う。その苦しみの中で彼らは「これらの災いに襲われるのは、わたしのうちに神がおられないからではないか」と言うようになるのです。「わたしのうちに神がおられない」、それは絶望の言葉です。主なる神が共にいて下さるならば、そのことを信じることができるならば、苦しみ悲しみにおいても、それに打ち負かされてしまうことなく、忍耐して戦っていくことができるのです。しかし神に見捨てられた、もはや神が共におられない、と思う時、そこには恐れ、おののき、絶望しかないのです。この絶望はしかし身勝手なものです。彼らの方が先に、主なる神を捨て、他の神々に顔を向けたのです。だから主も彼らを捨て、彼らと共におられなくなるのです。それは文句を言えるようなことではありません。しかしこの身勝手な思いこそ、やはり私たちの思いなのではないでしょうか。私たちは自分から神に従うことをやめ、自分の思いによって生きていこうとします。神を捨ててしまうのです。ところがそのように歩む中で、苦しみ、災いがふりかかってくると、自分には神の恵みがない、神は私を見捨ててしまった、と嘆く。この身勝手さこそ、私たちの神に対する罪の根本であると言わなければならないでしょう。

悔い改めを待っておられる神
 しかしここで見つめるべき大事なことは、「わたしのうちに神がおられない」というのは真実ではない、ということです。確かに神はお怒りになり、「わたしは彼らを捨てる」と言っておられます。しかしそこで神がなさっていることは、「み顔を隠す」ということです。「隠す」というのは、本当はそこにあるものを見えなくすることです。み顔は、本当は民の間にあるのです。神はそこにおられるのです。「主はあなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない」というみ言葉は決して偽りではないのです。しかし、共におられる神が、民の罪のゆえに、そのみ顔を隠してしまわれることはあるのです。民に神のみ顔を見えなくしてしまうことがあるのです。神が顔を隠されるのは、民が自らの罪を悔い改めて、主のみもとに帰って来ることを願っておられるからです。しかしみ顔を見失った民は「わたしのうちに神がおられない」と思ってしまう。18節の「わたしはそれでも、その日、必ずわたしの顔を隠す」という言葉は、「わたしのうちに神がおられない」という民の嘆きを聞いた神が、憐れみから思わずみ顔を現してしまいそうになるが、それをじっとこらえてみ顔を隠し続ける、という感じを表しているように思えます。神は本当はご自分を民に表して、「私はここにいる、あなたと共にいる。あなたを見捨てることは決してしない」と語りかけたいのです。しかし、神を捨て、神との契約を破って他の神々を求めてしまっている民に対してそれをすることはできない。それは彼らの罪をそのままに認め、助長することになってしまうからです。だから神は心を鬼にしてみ顔を隠しておられ、民の悔い改めを待っておられる、今後そのようなことが、イスラエルの民と主なる神との間に起っていくことが、ここに語られているのです。

主イエス・キリストによる救い
 主なる神はご自分の民といつも共にいて下さる、民を決して見放したり見捨てたりはなさらない、しかし、民の罪のゆえに心を鬼にしてみ顔を隠し、「わたしのうちに神がおられない」という思いを民に与えることによって悔い改めを待っておられる、そのような神の思いの延長上に、独り子イエス・キリストの十字架の死があります。「わたしは必ずあなたと共にいる。見放すことも見捨てることもしない」というみ心と、人間の罪に対して怒り、み顔を隠されるみ心との狭間に、神の独り子イエス・キリストの十字架が立っているのです。主イエス・キリストが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、その十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫んで、神に見捨てられる苦しみ、絶望を味わって下さったことによって、神は、私たちの罪をうやむやにすることなく、それと厳しく対決しつつ、なお私たちを見捨てることなく共にいて下さる、その救いの恵みを実現して下さったのです。

キリストの教会に連なって、強く、また雄々しく
 この救いの恵みを受けて歩んでいる新しい神の民が主イエス・キリストの教会です。本日共に読まれた新約聖書の箇所、ヘブライ人への手紙第13章は、主イエス・キリストによって実現したこの恵みのもとに歩んでいる者たちのことを語っています。その5、6節にこのようにあります。「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました。だから、わたしたちは、はばからずに次にように言うことができます。『主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう』」。「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」という言葉は、本日の申命記31章の「主はあなたを見放すことも、見捨てられることもない」の引用です。その恵みのゆえに、「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」と言うことができる、つまり、強く、雄々しく、恐れおののかずに生きることができるのです。「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」という恵みを実現して下さったのが主イエス・キリストです。そのことが8節に語られています。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」。主イエス・キリストが、きのうも今日も、また永遠に変わることなく、私たちと共にいて下さるのです。そのイエス・キリストは私たちのために何をして下さったのでしょうか。11、12節にこうあります。「なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです」。民の罪を背負ってそれを贖う犠牲の動物の体が外で焼かれたように、主イエス・キリストも、私たちの全ての罪を背負って十字架の上で死んで、私たちのための贖いとなって下さったのです。その主イエス・キリストが、きのうも今日も、また永遠に変わることなく、私たちと共にいて下さるのです。それゆえに私たちは、強く、また雄々しく生きることができるのです。それは、人がうらやむような立派な、華々しい生き方をすることではありません。むしろ13節には「だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか」とあります。私たちも、主イエスが私たちのために受けて下さった辱めを担って、宿営の外に出ていくのです。つまり人々が行きたがらないようなみすぼらしい道、見栄えのしない歩みを、主イエスに従って歩むのです。本当に、強く、また雄々しく生きるとはそういうことです。そしてその歩みは、14節にあるように「わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を捜し求めているのです」というものになります。この地上の、目に見える事柄に心を奪われてしまうのでなく、来るべき都を捜し求めて生きる、つまり世の終わりに神によって与えられる救いの完成を待ち望んで生きるのです。きのうも今日も、永遠に変わることのない主イエス・キリストと共に歩むことによって、そのような希望が与えられ、この希望によって、この世の事柄に捕われてしまわない歩みが与えられます。それが、この13章の始めのところに語られている、兄弟として愛し合い、旅人をもてなし、捕われている人、虐待されている人を思いやり、結婚と夫婦の関係を尊び、金銭に執着しないという生き方なのです。この手紙が書かれた時代において、強く、また雄々しく生きるとはこのようなことでした。私たちも、主イエス・キリストが必ず共にいて下さるという恵みのみ言葉を、主の日の礼拝において繰り返し聞き続けることによって力を与えられながら、今のこの時代、この世の中において、恐れずおののかずに、神の民として、神と隣人とを愛して歩んでいきたいのです。

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