「王、祭司、預言者」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:申命記第17章14節‐第18章22節
・ 新約聖書:使徒言行録第3章11-26節
・ 讃美歌:140、517
申命記の中心
私が夕礼拝の説教をする日には旧約聖書申命記からみ言葉に聞いていますが、前回この申命記を読んだ7月末の礼拝においては、16章18節から17章の終りまでを読みました。本日は17章14節から18章の終りまでを読みます。今読み進めているこのあたりは、申命記においてとても大事な、中心的な部分です。そのことについては前回もお話ししましたが、もう一度確認しておきたいと思います。
申命記の中心部分は12章1節から26章15節までの、「申命記的律法」と呼ばれている部分です。これが、列王記下の22章8節に書かれている、ユダの王ヨシヤの時代にエルサレム神殿の修理中に発見された「律法の書」であり、ヨシヤ王はこの申命記的律法に基づいてユダ王国の宗教改革を行なったのだと言われています。申命記は、この「申命記的律法」を中心として構成されており、それをモーセが、これから約束の地に入ろうとしているイスラエルの民に遺言として語った、という設定になっているのです。
この申命記的律法は、おおざっぱに言って、前半と後半に分けられます。前半は16章17節までで、礼拝について、神への捧げ物について、またどのような祭りを行なうべきか、を語っています。つまり宗教、祭儀に関する掟、神との関係についての掟です。それに対して後半は19章以下で、そこには、これもおおざっぱに言ってですが、人間関係のこと、そこに起る様々な問題、例えば殺人が起ったらとか、結婚の問題、家督相続の問題などが語られているのです。つまり人間どうしの関係についての掟です。この前半と後半、神との関係についての掟と人間関係についての掟の間に、16章18節から18章にかけての部分があります。そこに語られているのは、イスラエルの社会にどのような務めが立てられ、民の指導体制がどう整えられるべきか、ということです。16章18節から17章13節までの所には、裁判人が立てられ、正しい裁判が行なわれるべきことが語られていました。本日読む14節以下には王のこと、18章に入ってはレビ人である祭司のこと、そして預言者のことが語られています。裁判人、王、祭司、預言者という務めが立てられることによって、イスラエルは神の民として整えられ、守られ、指導され、導かれていくのです。この務め、制度について語っている部分が、申命記的律法の前半と後半を結びつけている中心部分です。前半の、神との関係における事柄も、後半の、人間どうしの関係における事柄も、これらの務めが適切に立てられ、営まれていくことによってこそ、健全に守られ、保たれていくのです。そういう意味で今読んでいる部分こそが申命記の中心の中心であると言うことが出来るのです。
王
神の民イスラエルにおいて立てられるべき務めの中で、本日は「王、祭司、預言者」について語られていることを読んでいきます。先ず、民を治める者である王についてです。それについては前回既に読みましたが、もう一度振り返っておくと、王は「主が選ばれる者」でなければなりません。人間が好き勝手に王を立ててはならないのです。また立てられた王は馬を増やしてはならないとあります。それは軍備を増強することによって国を守ろうとするな、ということです。また銀や金を大漁に蓄えてはならないとも言われています。イスラエルの王は軍事力や経済力、要するに人間の力によって国を治め、守ろうとする者であってはならないのです。それでは王は何をするべきか、それが17章18、19節です。「彼が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない」。こういうことにおいて王は民の先頭に立ち、民全体がまことの王であられる主なる神に従い、常にそのみ言葉に聞き従っていくようにするのです。そのために王は立てられるのです。申命記の後の、ヨシュア記から列王記にかけての、イスラエルの歴史を語っている書物のことを「申命記的歴史書」と呼びます。それは、申命記のこの考え方を基準として歴史を記述しているからです。そこに沢山の王たちのことが語られていますが、はっきりと、「良い王と悪い王」とに色分けされています。良い王とは、ここに語られているように、律法に従いそれを行なって歩んだ人です。たとえ政治的軍事的に力があり、国を富ませたとしても、神の言葉に従い律法を大切にすることを怠った王は悪い王とされているのです。サムエル記や列王記に語られている良い王と悪い王の判断の基準が本日のこの箇所に示されているのです。
レビ人である祭司
18章に入るとレビ人である祭司のことが語られています。レビ人はイスラエルの部族の一つですが、他の部族と違って、土地の代りに祭司としての職を与えられ、受け継いでいました。祭司は、聖所や後には神殿において、民が犠牲を捧げて神を礼拝する、その礼拝を司る者です。またその礼拝、祭儀に付属する様々な働きがありました。イスラエルの民が荒れ野を旅していた時には、十戒を記した石の板が収められた「契約の箱」が「臨在の幕屋」の中に置かれ、そこが礼拝の場でした。神の示しによって民が移動する時には、幕屋も分解されて持ち運ばれていきましたが、その時、契約の箱を担ぎ、分解した幕屋のパーツを持ち運ぶのも彼らレビ人の役割でした。そのように広く礼拝のために仕える働きがレビ人に与えられていたのです。しかし本日の箇所に語られているのは、彼らの働きのことではなくて、彼らがどのように生活を支えられていくか、ということです。レビ人である祭司は、人々が神に捧げる動物や穀物の献げ物によって生活を支えられていくのです。自分たちの土地を持たず、つまり生活の糧を得るための手段を持たないレビ人を、他の部族の者たちが、神への献げ物によって支え、養っていくのです。礼拝を司る人々の生活を民全体がそのように支えていくことによって、イスラエルは神の民として、神への礼拝を重んじつつ歩んでいくのです。神との関係を大切にし、神との交わりに生きる者は、神のみ前に出る礼拝を大切にします。そしてそこで神への捧げ物を精一杯献げるのです。その捧げ物によって、礼拝のために専ら仕える祭司たちの生活が支えられ、その祭司たちの働きがしっかりなされることによって礼拝がさらに充実していくのです。つまりここに教えられているのは、神の民の礼拝は祭司たちだけが守っているのではなくて、民全員で整え、支え、守っていくべきものだ、ということです。しかしイスラエルにおいても、現実にはそのことは十分になされてはいなかったようです。レビ人である祭司たちは苦しい生活を強いられることが多かったのです。だから、例えば14章27節以下にはこのように教えられています。「あなたの町の中に住むレビ人を見捨ててはならない。レビ人にはあなたのうちに嗣業の割り当てがないからである。三年目ごとに、その年の収穫物の十分の一を取り分け、町の中に蓄えておき、あなたのうちに嗣業の割り当てのないレビ人や、町の中にいる寄留者、孤児、寡婦がそれを食べて満ち足りることができるようにしなさい」。レビ人は、寄留者、孤児、寡婦という社会的弱者と同列に置かれています。他の部族の人々が、自分たちの生活のことで精一杯で、礼拝を司るレビ人を支えることができない、という現実があったのです。
信仰の継承者
レビ人である祭司たちはそのように貧しい生活を強いられた面があったようですが、しかし彼らはまさにイスラエルにおいて信仰の伝統を守った人たちでもありました。先ほど読んだ17章18節には、律法の書の原本を持っているのはレビ人である祭司だと語られていました。また31章9節にはこうあります。「モーセはこの律法を書き記すと、それを主の契約の箱を担ぐレビ人である祭司およびイスラエルの全長老に与えた」。さらにその先の24節以下にはこうあります。「モーセは、この律法の言葉を余すところなく書物に書き終えると、主の契約の箱を担ぐレビ人に命じた。『この律法の書を取り、あなたたちの神、主の契約の箱の傍らに置き、あなたに対する証言としてそこにあるようにしなさい』」。律法の書はレビ人である祭司のもとに保管され、それがヨシヤ王の宗教改革の指導原理となったのです。レビ人である祭司はヨシヤ王の宗教改革を支えた人々でした。イスラエルの歴史において、貧しさに耐えながら、ともすれば忘れ去れてしまいがちな神の民としての信仰を継承していったのがこのレビ人である祭司たちだった、という面もあるのです。神の民が神の民として歩むためには、そのような人々が必要なのです。
占いや魔術の禁止
この祭司たちに関する教えの続きとして、18章9~14節が語られています。そこには「異教の習慣への警告」という小見出しがあります。それは要するに「占いや魔術」の禁止です。イスラエルにおいては、一切の占いや魔術は、厭うべきこととして禁じられていたのです。それは、占いや魔術は、主なる神以外の何らかの力がこの世界や私たちの人生を支配し、影響を及ぼしている、ということを前提としているものだからです。それは、天地の造り主であり、ただ一人全てを支配し、守り導いておられる主なる神を信じる聖書の信仰とは根本的に相容れないものです。主なる神を信じ、主なる神を礼拝して生きる者は、「星占いによる今週の運勢」などから始まって、姓名判断とか、風水とか、霊能者のお告げとか、そういうものに左右されることがないように戦っていくのです。そのためには、私たちの礼拝の生活がしっかりと確立していなければなりません。だから、礼拝を司る祭司が立てられ、礼拝がしっかりとなされていくことの関連でこのことが語られているのです。主なる神への礼拝がしっかりとささげられているなら、占いや魔術に陥ることはないのです。そのようなものを必要としない、主の確かな守りと支えの中を生きることができるからです。
預言者
15節以下には、神がイスラエルの民の中から預言者を立てて下さることが語られています。「わたしのような預言者」とあります。この「わたし」とはモーセです。モーセのような預言者が将来民の中から神によって立てられる、その人に聞き従わなければならない、と語られているのです。その後の所には、神はなぜそのように預言者を通して民を教え導くこととされたのかが語られています。それはむしろ民が「ホレブで」求めたことでした。ホレブとは、主が十戒を授けて下さったあのシナイ山のことです。民はあの時、神と直接顔を合わせることを恐れたのです。罪ある人間が神と直接顔を合わせたら生きてはいられない、死ぬ他はないからです。それで主なる神はモーセを、神と民との間に立ち、み言葉を授けられてそれを民に伝える者として立て、そういう預言者の働きを用いて民を導くこととされたのです。つまり預言者は、神のみ言葉を受けてそれを民に伝える人です。その預言者に聞き従うことが神に聞き従うことなのです。預言者によって語られる神の言葉をしっかり聞いて従うことによってこそイスラエルは神の民として歩むことができる、ということがここに教えられているのです。
同時にここに語られているのは、本当に主によって立てられた預言者と、そうでない、主に命じられていないのに預言者と自称して語っている偽りの預言者をしっかり見分けなければならないということです。預言者だと自称する者の言葉を鵜呑みにせずしっかりと見分けつつ、真実な預言者の言葉に聞き従う、これはなかなか難しいことですが、神の民が神の民として歩むために不可欠なことであり、私たちにおいても必要なことなのです。
神の民の秩序
このようにここには、王、祭司、預言者が神によって立てられ、その人々による指導の体制が築かれることによって、イスラエルが神の民として整えられ、歩んでいくことが見つめられています。神の民は、それぞれが勝手な思いで寄り集まっている烏合の衆であってはならないのです。神によってこれらの、それぞれの役割を担う指導者が立てられ、指導体制が整えられることによって、神の民は秩序ある群れとして歩んでいくのです。その秩序の中でこそ、一人一人の民が主なる神の守りと導きを受け、祝福の内に生きることができるのです。このことは、主イエス・キリストの元に集められた新しい神の民、新しいイスラエルである教会においても同じです。教会も、それぞれが勝手な思いで寄り集まっているのでは神の民として歩ことができません。そこには相応しい秩序が、指導の体制が整えられていかなければならないのです。
まことの預言者キリスト
しかしそれは、教会でも誰かが王、祭司、預言者となって、その人々が指導していけばよい、という話ではありません。本日共に読まれた新約聖書の箇所は使徒言行録の3章11節以下ですが、ここにはペトロが語った説教が記されています。その22節以下でペトロは、申命記18章15節以下の、主がお立てになる預言者に聞き従わなければならない、という言葉を引用しています。ここでペトロが「わたしのような預言者」として見つめているのは主イエス・キリストのことです。主イエスこそ、モーセが語った、民の中から立てられるモーセのような預言者、神の言葉を民に伝える方、神の民が彼にこそ聞き従わなければならない方なのです。つまり、新しいイスラエルである教会にとってまことの預言者は主イエス・キリストです。私たちは、誰かある指導者にと言うよりも、主イエス・キリストのみ言葉にこそしっかり耳を傾け、聞き従わなければならないのです。
まことの祭司キリスト
祭司についても同じことが言えます。私たちの中の誰かが祭司となると言うよりも、主イエス・キリストこそが私たちのためのまことの祭司となって下さった方なのです。そのことを集中的に語っているのがヘブライ人への手紙です。その7章24、25節を読みます(409頁)。「しかし、イエスは永遠に生きておられるので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります」。主イエスこそが祭司職を持っておられ、人々のために執り成しておられると語られています。神と人間の間の執り成しをすることこそ祭司の務めです。旧約の時代の祭司は動物の犠牲を捧げることによってその執り成しをしましたが、神の独り子であられる主イエスは、十字架にかかってご自分の命を捧げて下さることによって、私たちのための完全な執り成しをして下さり、復活して永遠に生きておられる方として、今も父なる神の前で永遠の執り成しをして下さっているのです。この主イエス・キリストこそが、まことの祭司として私たちの礼拝を支えて下さっているのです。
まことの王キリスト
王についても同じです。私たちの中の誰かが王になるのではなくて、主イエス・キリストこそが私たちのまことの王となって下さったのです。ヨハネによる福音書の18章36、37節を読みます(205頁)。「イエスはお答えになった。『わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。』そこでピラトが、『それでは、やはり王なのか』と言うと、イエスはお答えになった。『わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く』」。ピラトによる主イエスの裁判の場面です。この緊迫したやりとりのテーマは、イエスは王であるのか、です。主イエスは「わたしの国は」と言っておられます。それはご自分が神の民の王であられるということです。ピラトは地上の政治的な王のことを考えており、「それではやはり王なのか」と問うています。主イエスは「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と答えます。主イエスは、ピラトが考えているような意味での王ではないが、しかしやはり王であられるのです。そして逆にピラトに、あなたは私が、真理に属する者たちの王であることを受け入れるのか、と問いかけられておられるのです。主イエス・キリストこそ神の民の王です。教会は、王である主イエス・キリストに従い、仕えるのです。
王、祭司、預言者として遣わされる私たち
このように私たちにおいては、王も祭司も預言者も、主イエス・キリストです。神は独り子主イエスを私たちを治める王として、私たちのために執り成しをして下さる祭司として、私たちにみ言葉を語って下さる預言者として遣わして下さり、私たちをこの主イエスのもとに召し集めることによって神の民として下さっているのです。そして主イエスのもとに召し集められ、神の民とされた私たちは、今度は私たち自身が、神によって預言者、祭司、王として立てられ、この世へと遣わされているのです。預言者である主イエスによって神の言葉を与えられ、それによって救われた私たちは、その神の言葉、福音を世の人々に語り伝えていく伝道の務めを与えられています。ペトロの手紙一の3章15節にはこうあります(432頁)。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」。主イエスを信じる私たちの信仰と、それによる希望について説明を求める人に、それはこういう信仰であり希望である、と語っていくこと、それは私たちも預言者としての務めを果たすということです。また同じペトロの手紙一の2章5節にこうあります(429頁)。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」。私たちも聖なる祭司として立てられ、家族や友人たちのために、さらに世界中の人々のために執り成しの祈りを捧げていくのです。王についても同じことが言えます。私たちがこの世の王になって人々を支配するわけではありません。しかし私たちは、この世界をお造りになり、今も支配しておられる主なる神と、その独り子であり私たちの王となって下さった救い主イエス・キリストの元で生きています。それによって私たちは、父なる神と主イエスの王としてのご支配、罪と死に対する勝利にあずかっています。この世のどんな力も、まことの王である主イエスのご支配から私たちを引き離すことはできないのです。だから私たちには占いも魔術も一切必要ないのです。ローマの信徒への手紙の第8章37節以下を読みます(285頁)。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。この信仰によって私たちは、地上のどんな王よりも堂々と生きることができるのです。
私たちのまことの王、祭司、預言者となって下さった主イエス・キリストによって救われ、キリストの体である教会に連なる者とされた私たちは、今この世において神の民として選ばれ、立てられています。主イエスの王、祭司、預言者としての救いのみ業が、今度は私たちを通して世の人々にも及んでいくのです。そのために主は教会を、私たちを、用いて下さるのです。