夕礼拝

むさぼってはならない

「むさぼってはならない」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第5章21節
・ 新約聖書:ルカによる福音書第12章22-34節
・ 讃美歌:27、440

罪の根本に「むさぼり」がある  
 私が夕礼拝説教を担当する日は、旧約聖書申命記第5章に記されている十戒を読み進めていますが、いよいよ本日は最後の、第十の戒めです。「あなたは隣人の妻を欲してはならない。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲しがってはならない」、とあります。以前の口語訳聖書では「むさぼってはならない」でした。人のものを欲しがる、むさぼりの思いが戒められているのです。  
 この最後の戒めは、これまでに読んできたいろいろな戒めとつながりがあります。例えば第八の戒め「盗んではならない」とは、ほぼ同じことを言っているように感じられます。第八の戒めについて説教した時に、これは本来は人のものを盗むことではなくて、人そのものを誘拐して奴隷にすることを禁じる教えだったと申しました。人間を盗み、自由を奪うことが第八の戒めで、人のものを欲しがり、むさぼることが第十の戒めで見つめられていると言えるかもしれません。またこの第十の戒めは第七の戒め「姦淫してはならない」ともつながりがあります。「隣人の妻を欲してはならない」というのはまさに姦淫の禁止です。姦淫もまた、人のものを欲しがり、むさぼることなのです。ところで、この第十の戒めにおいて、妻が家や畑、男女の奴隷、牛やろばなどと同列に置かれており、夫の所有物として扱われていることにつまずきを覚える人もいるでしょう。こういう所は古代の家族制度における妻の位置づけから来ているのであって、今日の私たちにおいて勿論妻を夫の所有物のように考えることはできません。しかし今日の私たちにおいても、妻は夫の、あるいは夫は妻の、所有物ではないからといって、だから他の誰と関係を持ってもよいということにはなりません。この戒めが語っているのは、夫婦の関係に他の者が介入してそれを破壊する姦淫はむさぼりの罪だということです。それをしっかり聞き取らないと、「たらいの水と共に赤子をも流す」ようなことになってしまうのです。  
 今見てきたように、「むさぼってはならない」という第十の戒めは、十戒の他の戒めと深くつながっています。つまり「むさぼり」は、殺人、姦淫、盗み、偽証などと並ぶもう一つの罪なのではなくて、これらの全ての罪の根本に「むさぼり」があるのです。殺人も姦淫も盗みも偽証も全て、隣人との関係における「むさぼり」から生まれるのです。ですから第十の戒めは、十番目の戒めと言うよりも、十戒全体のしめくくりとして、私たちの心の中の罪の根源、そこから様々な具体的な罪が生まれてくる根っこを見つめており、そこにメスを入れようとしていると言うことができるのです。

アダムとエバのむさぼり  
 私たちが犯す全ての罪の根源には「むさぼり」がある。それは、人のものを欲しがることが罪の始まりだ、ということではなくて、もっと深い意味を持ったことです。私たち人間の心の奥深くに、「むさぼり」の罪があるのです。聖書はそのことを、人間の最初の罪を語っている創世記第3章において描いています。創世記第3章は、最初の人間アダムとエバが、神が食べてはいけないと命じておられた「善悪の知識の木」の実を食べてしまうという罪を犯し、それによってエデンの園、楽園から追放された、という話です。神の命令に背くことが罪の根本であることがここに語られているわけですが、アダムとエバがこの木の実を食べてしまうに至る経緯に、人間の心の奥深くにある「むさぼり」が描かれているのです。彼らは蛇の誘惑によってこの木の実を食べてしまうわけですが、蛇は、これを食べるとあなたがたの目が開け、神のようになれる、と誘惑したのです。つまり蛇は、この実はおいしいよ、と食欲をそそったのではなくて、神の下で、神に従って生きている人間に、あなたがたは目が塞がれているが、目を開けば、もっと自由な、自分の思い通りに生きることが出来る世界がある、神に縛られた、つまらない、不自由な、窮屈な生き方はやめて、自分が神と並ぶ者となって、思い通りに、自分が主人になって生きて行けばよいではないか、と勧めたのです。彼らがいよいよ木の実を食べてしまう場面はこのように描かれています。創世記3章6節です。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」。ここに「目を引き付け」とありますが、その「引き付け」という言葉は、本日の申命記5章21節の「隣人のものを一切欲しがってはならない」の中の「欲しがる」と同じ言葉なのです。つまり「目を引き付け」は「目にむさぼりを起させる」と訳すことが出来るのです。また、「賢くなるように唆していた」の「唆す」は、やはり本日の第十の戒めの「隣人の妻を欲してはならない」の「欲する」と同じ言葉です。つまりそれも、「賢くなることへのむさぼりを起す」と訳すことが出来るのです。これらのことから分かるように、創世記は、「神のようになれる」という誘惑によって木の実を食べてしまった人間の心に「むさぼり」があることを見つめているのです。人間のむさぼりは先ず第一に、神のようになろうとすること、神の下で神に従って生きることを窮屈、不自由と思い、自分が主人になって、自分の思い通りに生きようとすることに現れるのです。人のものを欲しがるより前に、神との関係におけるむさぼりが人間の罪の根本にあるのです。

人間関係におけるむさぼり  
 むさぼりの思いによって木の実を食べてしまったアダムとエバはどうなったでしょうか。それが次の7節です。「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」。蛇が言ったように、確かに目が開けたのです。それまで見えなかったことが見えてきたのです。しかしそこで見えてきたのは、「自分たちは裸だ」ということでした。それで彼らは「腰を覆うもの」を作ったのです。これは、それまでお互いに全く隠すことのない交わりに生きていた彼ら夫婦の間に、お互いに隠し合うことが始まった、ということです。神の祝福の下に結ばれていたはずの夫婦の関係に亀裂が入ったのです。また、腰を覆うものを作ったというのは、男と女の肉体的な関係が歪んだものとなったということです。性に関する部分を隠さなければならない、それは男と女の、お互いを見つめる目が「むさぼり」に捕えられたものとなったからです。神との関係におけるむさぼりによって、自分が主人となって生きようとし始めた途端に、人間どうしの関係、その根本である男と女、夫婦の関係も、相手をむさぼりの対象とするようなものになってしまったのです。

嫉妬はむさぼりであり、殺人を生む  
 罪の根本であるむさぼりによって、人間は神に背き敵対する者となり、同時に人間どうしの関係をも破壊してしまう者となった、そのことが、木の実を食べてしまった話に続く創世記第4章にはっきりと語られています。カインとアベルの物語です。カインは弟アベルを殺しました。アベルの捧げ物は神に受け入れられたのに、自分の捧げ物は受け入れられなかったことでカインはアベルに嫉妬したのです。嫉妬とは、人が自分よりもよいものを与えられ、よい境遇にあることへの怒りであり、自分には与えられておらず、人には与えられているよいものへのむさぼりの思いです。その嫉妬は殺人の罪を生むのです。むさぼりとは、「隣人のもの」を嫉妬深い目で見つめ、それを欲しがることです。むさぼりに捕えられると私たちは、自分の持っているものと人が持っているものとを見比べるようになります。そして自分の持っているものの方がよいと思うと満足し、人の方が自分よりよいものを持っていると思うと、どす黒い憎しみが湧いてくるのです。その憎しみは殺人をすら生むのです。第六の戒めに語られている「殺人」も、その根本に「むさぼり」があることが分かるのです。

むさぼりは偶像礼拝  
 このように「むさぼり」はあらゆる罪の根本にある思いです。それは単に人のものが欲しくなるという人間関係における物質的欲望ではなくて、神との関係において、自分が神となり、主人となり、自分の思い通りに生きようとすることです。それゆえに聖書は、単なる道徳の教えとしてではなく、信仰の事柄として、むさぼりとの戦いを促しています。新約聖書においても、コロサイの信徒への手紙第3章5節にこのようにあります。「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」。「貪欲」と「むさぼり」は同じです。ここに「地上的なもの」として並べられていることは全て「貪欲、むさぼり」であり、それらを捨て去りなさいと教えられているのです。それは立派な正しい人間になるために、という道徳の教えではありません。「貪欲は偶像礼拝にほかならない」と語られています。貪欲、むさぼりは、神を求めず、神ならぬものを神として、それを求めて生きることなのです。その神ならぬものとは、物質的な豊かさ、繁栄かもしれません。地位や名誉かもしれません。他人の妻や夫かもしれません。それらのものを求め、むさぼって生きる時、それらのものが私たちの偶像となっており、私たちの思いも行動もそれらに仕えるものとなっているのです。十戒の第一の戒めは「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」でした。第二は「いかなる像も造ってはならない、それに向かってひれ伏したり、それに仕えたりしてはならない」でした。この第一第二の戒めから私たちを引き離し、エジプトの国、奴隷の家から導き出して下さった主なる神との関係を失わせようとするのが、私たちの中の「むさぼり」の思いなのです。

この社会を覆うむさぼり  
 そしてこのように私たちと神との関係を失わせる「むさぼり」は、アダムとエバが、またカインがそうだったように、同時に私たちと隣人との関係を歪め、失わせます。むさぼりによって私たちは、隣人を愛するのでなく、むさぼりの目をもって見つめ、嫉妬し、憎むようになるのです。そこに、殺すな、姦淫するな、盗むな、隣人に関して偽証するな、という戒めに背く歩みが生じるのです。私たちが日々共に生きている身近な隣人との関係のみのことではありません。今日の社会は、「隣人」の範囲が以前には考えられなかったくらい広がっています。人もモノもお金も、そして情報も、まさにグローバルに繋がっているのが今日の社会です。ですから今は地球の裏側に住む人も「隣人」です。私たちは今、隣人との関係を考える時に想像力を豊かに働かせなければなりません。そしてそれは同時に、私たちのむさぼりの罪がまさにグローバルに広がっているということです。東西冷戦の終結とそのもたらした経済のグローバル化は、全世界が資本主義化されたということですが、資本主義は元々人間のむさぼり、貪欲の思いを肯定し、それが経済の発展をもたらすという思想に基づくシステムです。それが行き過ぎて発展した結果今日、強い者が弱い者をむさぼり、収奪するということが世界規模で行われています。私たちのこの国の社会も、新自由主義における自己責任、要するに適者生存弱肉強食の考え方によって、富の偏在が起り、貧富の格差が広がり、それが固定化されてきています。この社会全体をむさぼりの思いが覆っているのです。第十の戒めは、十戒全体のしめくくりであり、私たちの心の奥深くにある罪の根源であるむさぼりを問題にしていますが、それはまさに今日の私たちの社会の根本的な問題の指摘となっているのです。

感謝の生活を導く十戒  
 十戒を与えて下さった神は私たちを、このむさぼりとの戦いへと召しておられます。私たちの心の奥深くに巣食うむさぼりと戦うことこそが、神のみ心に従って生きるための戦いであり、同時にこの社会の根本的な問題との戦いでもあるのです。それは大変に厳しい戦いです。私たちはそもそも、自分の心の奥深くにあるむさぼりの思いに気づくことがなかなか出来ません。アダムとエバも、カインも、自分はむさぼりに陥っているなどと思ってはいかなったのです。しかしむさぼりはしっかり彼らを捕え支配し、罪を犯させたのです。先ずは、罪の根源にあるこのむさぼりに気づくことが大切だと言えるでしょう。しかし気づいても、それと戦い、克服することは至難の業であり、私たちにはとうてい出来そうにないとも感じます。資本主義の問題が見えていても、それに代るシステムを見出すことができないのはそのためだとも言えるでしょう。しかしここで私たちが見つめるべきことは、「むさぼってはならない」としめくくりで語っている十戒がイスラエルの民においてどのような意味を持っていたかです。それは、この戒めを守ることが出来れば神の救いにあずかることができ、守れなければ裁かれ滅びる、というものではありませんでした。十戒の最初の4節に「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」とあったように、神はイスラエルの民を、エジプトでの奴隷の苦しみから既に救い出し、解放して下さっているのです。十戒は、その神の救いにあずかった民が、神の民として、神に感謝しつつ歩むための道しるべとして与えられたのです。つまり十戒は救われるための条件ではなくて、救われた者の感謝の生活を導くものなのです。むさぼってはならない、という第十の戒めも、そのようなものとして与えられています。つまり、神はこの第十の戒めにおいて私たちに、むさぼりの思いを克服しなければあなたは救われないぞと言っておられるのではなくて、神の救いにあずかって生きるあなたは、むさぼりから解放されて生きることができる、と約束して下さっているのです。

思い悩むな  
 この神の約束を確かなものとするために、神の独り子である主イエス・キリストがこの世に来て下さいました。本日共に読まれた新約聖書の箇所、ルカによる福音書第12章22節以下はそのことを語っています。主イエスはここで、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」と言っておられます。私たちの人生には、様々な心配事があり、悩み苦しみがあります。生きて行くにはあれが必要だ、これが必要だ、それなのにあれがない、これがない、と私たちは思い悩んでいるのです。そのような私たちに主イエスは、「思い悩むな」とおっしゃいます。その根拠は、28節の「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである」ということであり、30節の「それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」ということです。あなたがたの父である神が、あなたがたを愛しておられ、必要なものをちゃんと知っておられ、それを与えて下さる、だから思い悩むな、安心しなさい、と主イエスは言っておられるのです。それは、ただ食べ物や着るものが与えられる、ということではありません。31、32節にはこのようにあります。「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」。父である神は「神の国」をくださるのです。神の国とは、神の恵みのご支配です。神が独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、罪人であり、むさぼりに支配されてしまっている私たちを赦して下さり、私たちを神の子として下さり、天の父として養って下さる、そういう恵みのご支配が主イエスによって打ち立てられるのです。しかも神はその神の国を「喜んで」与えて下さいます。それは私たちが自分の力でむさぼりの罪を克服して清く正しい者になったら与えられるのではなくて、ただ神の恵みと憐れみによって与えて下さるということです。この恵みのゆえに私たちは、この世を生きる上での思い悩みを全て神に委ねて生きることができるのです。

むさぼりとの戦いへと召されている  
 そしてこの神の恵みのご支配に基づいて、33節ではこう勧められています。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」。間違ってはいけません。これは、自分の持ち物を売り払って施すという善い行いによって天に富を積めば、ご褒美として神の国が与えられ、救いにあずかることができる、ということではありません。神は喜んで神の国を下さる、だから思い悩むな、という恵みが先に告げられているのです。神の恵みのご支配の約束の中で、この勧めが語られているのです。「自分の持ち物を売り払って施す」、それは、自分の財産、持っているものへの固執から解放され、むさぼりから解き放たれて生きている者の姿です。主イエスのこの教えは、神の国、神の恵みのご支配を与えられ、神が天の父として必要なものを与え、養って下さることを信じ、その恵みの中で生きる者こそが、むさぼりから解放されて生きることができることを教えているのです。私たちは自分の力でむさぼりと戦い、それを克服することなど出来ません。だから十戒の他の戒めのどれ一つを取っても、自分の力でそれを守って神の前に正しく生きることは出来ないのです。神が求めておられるのはそのようなことではなくて、独り子イエス・キリストの十字架と復活によって神が実現し、喜んで与えようとして下さっている罪の赦しの恵みを、つまり神の国をこそ求めることです。そうすれば、これらのものは加えて与えられる、つまり神が天の父として養い、守り導いて下さるその恵みが示され、思い悩みからの解放が与えられるのです。そしてそこに、むさぼりから解放されて、人のものを欲しがり、妬みつつ生きるのではなくて、自分に与えられるものを隣人と分け合い、隣人を愛し共に生きていくという新しい生き方が生まれるのです。「自分の持ち物を売り払って施す」とは言っても、私たちに出来ることはごく小さなことでしかないでしょう。しかしその小さな一歩が、私たちの心の奥深くに巣食うむさぼりとの戦いの始まりであり、またこの社会を覆っている根本的な問題との戦いの始まりでもあるのです。父である神の愛を信じ、主イエス・キリストによって約束されている神の国を待ち望む群れである教会に招かれている私たちは、このむさぼりとの戦いへと召されています。十戒は、主イエス・キリストによる救いにあずかって神の子とされた私たちが、その恵みに感謝して、自分たちの中にあるむさぼりと戦い、そこから生じる様々な罪と戦って神の子として生きていくための大切な道しるべなのです。

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