夕礼拝

姦淫してはならない

「姦淫してはならない」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第5章18節
・ 新約聖書:ペトロの手紙一第3章1-7節
・ 讃美歌:346、505

第七戒を神の言葉としてどう聞くか  
 本日は十戒の第七の戒め「姦淫してはならない」をご一緒に読みます。「姦淫」という言葉は、今日の私たちの社会において、ほとんど死語になっている、古色蒼然たる言葉であると言えるでしょう。しかしそれは、その言葉が意味している事柄がもう古くなっているとかなくなっているということでは全くありません。姦淫とは要するに、夫または妻のある者が、他の男や女と性的な関係を持つことですが、そういうことは今日の社会において、無くなるどころかむしろあまり問題にされなくなっています。そういうことを問題とすること自体が古色蒼然たることになっているのです。しかし十戒は、つまり聖書は、それを厳しく禁じています。「姦淫してはならない」は、時代の変化と共に変わっていく人間が決めた規則ではなくて、変わることのない神の言葉なのです。この第七の戒めを、神の言葉としてどう聞くのかが私たちに問われているのです。  
 クリスチャンの間でも、この戒めの受け止め方にはかなり個人差があると思います。これを当然守るべき戒めとして受け止め、姦淫などということは信仰者においてはあり得ない罪だ、と思っている人も勿論います。しかし姦淫に対して比較的寛容な思いを持っているクリスチャンもいます。人間は弱いものであり、罪がある、だから姦淫をしてよいわけではないが、弱さの中でそういう罪に陥ることはある、それをどこまでも厳しく責めたてるようなことはしない方がよい、という思いです。それには聖書的な裏付けもあります。ヨハネによる福音書の第8章で主イエスは、姦淫の現場で捕えられた女性をどうすべきかと問われた時に、「あなたがたの中で罪のない者がまずこの女に石を投げるがよい」とおっしゃいました。そのお言葉によって皆が立ち去ってしまった後、主イエスも「私もあなたを罪に定めない」とおっしゃいました。マタイによる福音書の21章には、主イエスを信じた徴税人や娼婦たちの方が、祭司長や長老たちよりも先に神の国に入る、というお言葉もあります。これらのことは、主イエスが姦淫の罪を犯した者に対して寛容であられたことを示している、だから第七の戒めも、これによって人を厳しく裁くようなことはすべきでないという主張も聖書に根拠を持っていると言えるのです。それに対して先程の、姦淫はあってはならない重大な罪だという主張は、勿論十戒の言葉をそのまま受け止めているとも言えるのですが、その根本にあるのは、聖書よりもむしろ私たちが受け継いでいる儒教的な道徳観だったりすることもあります。ですから事はそう簡単ではありません。姦淫は罪だ、として今日の社会の風潮を嘆き断罪していればそれで十戒を正しく受け止めているということにはならないのです。大切なことは、「姦淫してはならない」という戒めを、聖書全体の教えの中で、つまり単なる道徳の教えとしてではなくて、神のみ言葉として受け止めることなのです。

姦淫は重大な罪  
 聖書全体の教えの中でこの戒めを受け止めていく時に示されるのは、姦淫は決して軽く扱われてはならない重大な罪だということです。この第七の戒めは、「殺してはならない」という第六の戒めと「盗んではならない」という第八の戒めの間に置かれています。十戒において、姦淫は殺人や盗みと並ぶ罪として位置づけられているのです。人間は弱いものだからと言って殺人や盗みを見逃しにすることはできないのと同じように、姦淫も見逃しにすることのできない重大な罪なのです。  
 しかし姦淫は何故重大な罪なのでしょうか。聖書はそのことをどのように語っているのでしょうか。それを知るためには、聖書が結婚、夫婦ということをどのように語っているかを知らなければなりません。そのためには創世記第2章18節以下を読まなければなりません。そこには、神によって人間が男と女として造られたこと、そして一人の男と一人の女が結婚して夫婦となることの根本的な意味が語られています。2章18節にこのようにあります。「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』」。これが、人間が男と女として造られた根本的な理由です。「人が独りでいるのは良くない」、つまり人間は独りで、単独で生きるべきものではない、他者との交わりの中でこそ生きるべきものだ、という神のみ心によって、「彼に合う助ける者」として、男に対して女が造られたのです。ここは以前の口語訳聖書では「ふさわしい助け手」となっていました。「ふさわしい」と訳されていた言葉は、「向かい合う、前にある」という意味です。つまり神は男アダムが向かい合って共に生きる相手として女エバを造って下さったのです。それを「ふさわしい助け手」と訳してしまうと、「丁度よい補助者」さらには「便利な助手」のような意味にとられかねません。そうすると、男が主であって女は従、ということになります。しかし聖書が語っているのはそういうことではなくて、男と女は互いに向かい合って共に生きる相手、パートナーなのだ、ということです。それを示すために新共同訳は「彼に合う助ける者」と訳したのです。そして24節には「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」とあります。これが結婚です。一人の男と一人の女が、その両親を離れて、互いに向かい合って共に生きる交わりに入る、それが結婚であり夫婦の関係です。姦淫についても、この根本から考えなければなりません。夫や妻以外の異性と関係を持つことは、この向かい合って共に生きる交わりの破壊です。自分が向かい合うべき相手と向かい合うことをやめてしまうことであり、他の人が向かい合うべき相手との間に割って入り、その関係を破壊することです。それは、人間を男と女として造り、一人の男と一人の女が結ばれて一体となって生きる結婚を定めて下さった神のみ心に背くことです。それゆえに聖書において姦淫は重大な罪なのです。

神との関係においても  
 このように聖書において姦淫は、向かい合って共に生きるべき相手に対する不誠実の罪です。それゆえに姦淫は、神の民であるイスラエルが、主なる神を捨てて他の神々、偶像を拝むようになった罪をも意味する言葉となりました。イスラエルの民は、エジプトにおける奴隷状態から主なる神によって解放され、その民とされました。主なる神は彼らと契約を結び、特別の関係を結んで下さったのです。契約の関係とは、神とイスラエルの民が、互いに向き合って共に生きるということです。神はイスラエルをご自分の民として愛し、彼らと誠実に向き合って歩んで下さる、イスラエルの民も、主なる神と常に向き合って、主なる神のみを見つめ、他の神々、偶像に心を向けることなく共に歩む、それが主なる神とイスラエルの民との契約であり、それは結婚、夫婦の関係と重なり合う関係なのです。ところがイスラエルの民は主なる神をしばしば裏切り、他の神々に心を向け、偶像を拝む罪に陥りました。主は預言者たちを遣わして、あなたがたは姦淫の罪を犯していると何度も警告をなさいました。聖書において姦淫という言葉は、人間の夫婦における裏切り、不誠実を意味すると同時に、神とその民との関係における、つまり信仰における裏切り、不誠実をも意味しているのです。つまり神と民との関係は夫と妻の関係と重なり合うのです。一人の男と一人の女が神の導きによって結び合わされ、夫婦となり、互いに向き合って共に生きる関係に入るのと同じように、神は人間を、ご自分と向き合って共に生きるべき相手としてお造りになったのです。人間はそのように神との間で、また他者の間で、向き合って共に生きるべき者として造られているのです。「人が独りでいるのは良くない」というみ言葉は、人は他の人間と向き合って共に生きるべきものであるということだけでなく、人は神と向き合って、神と共に生きるべきものである、ということでもあるのです。男と女の関係、とりわけ夫婦の関係は、隣人との関係の根本です。人が他者と日常的にどのような交わりに生きているかが最もはっきりと、赤裸々に現れるのが夫婦の関係です。姦淫とは、その隣人との関係の根本において不誠実であることです。自分が向き合うべき相手としっかり向き合って共に生きることをせず、あるいは他の人が向き合うべき相手と向き合って共に生きることを妨げてしまうのです。その姦淫によって私たちは、向き合って共に生きるために神が与えて下さった相手をも、また自分自身をも傷つけ、殺してしまうのです。それゆえに、「殺してはならない」という第六の戒めに続いて「姦淫してはならない」が語られているのです。そして聖書は、この罪の根本に神に対する不誠実があることを見つめています。神と向き合って共に生きようとせず、神を自分の願いを叶えるための手段としてしまう神に対する不誠実が人間の罪の根本です。その神に対する不誠実が、人間どうしの関係における不誠実をも生むのです。  
 ですからこの戒めは、人間の男女の関係を整えようとしているだけではなく、その根本である主なる神との関係を整えようとしているのです。そのことは、先々週の夕礼拝において、第六の戒め「殺してはならない」について、これは以前の口語訳のように、「あなたは殺してはならない」と「あなたは」という言葉を入れて訳すべきだとお話ししたこととつながっています。この第七の戒めも、「あなたは姦淫してはならない」と訳すべきなのです。主なる神は十戒において、単に禁止事項を並べておられるのではなくて、ご自分の民に「あなたは」と語りかけておられるのです。私たちとの間に、「わたしとあなた」という関係、交わりを築こうとしておられるのです。主なる神との間に、「わたしとあなた」という、向かい合って共に生きる関係が築かれていくことによってこそ、私たちの人間どうしの関係、男と女、夫婦の関係も、誠実に向かいあって共に生きる関係となっていくのです。

私たちも姦淫の罪を犯している  
 聖書における姦淫の意味をこのように見てくると、私たちはこの第七の戒めが自分への重大な問いかけであることを示されます。問われているのは、私たちが主なる神と、また隣人と、そして最も身近な隣人である自分の妻や夫と、本当に向かい合って共に生きているか、ということなのです。浮気をしていないからこの戒めは自分とは関係ない、とは言えません。さらに主イエスはマタイ福音書5章27節以下でこの戒めととりあげて、「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」とおっしゃいました。「他人の妻」は口語訳聖書では「女」でした。これまで見てきたことに基づけば、相手が未婚か既婚かということは問題ではないでしょう。問われているのは、私たちが隣人と、特に異性の隣人と、どのような関係をもって生きているのかです。その問いの下で私たちは、自分も姦淫の罪を犯していることを示されます。不倫をした人を責め立てたり、そういうことが問われなくなった今日の社会の風潮に眉をひそめているだけでは、この戒めを神の言葉として本当に受け止めたことにはならないのです。

主イエスによる赦しの中で  
 しかしこれも繰り返しお話ししているように、十戒は私たちが神の前で罪を犯していることを示すだけではなくて、主イエス・キリストの十字架によってその罪を赦され、神の子とされた私たちが、その救いに感謝して生きる信仰の生活の道しるべを与えるものでもあります。第七戒によって示される私たちの罪も、主イエス・キリストの十字架の死によって背負われ、赦されているのです。その主イエスによる赦しを語っているのが、先程のヨハネ福音書第8章です。主イエスはあそこで、姦淫の場で捕えられた女を赦しました。しかしそれは、姦淫など大した罪ではないから見逃してやれ、ということではありません。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と主はおっしゃったのです。この女の犯した姦淫の罪は、確かに石で打ち殺されなければならない重大な罪だと主イエスも語っておられるのです。しかし人間は誰一人として、その罪から自由ではない。自分はそんな罪は犯していない、と言って人に石を投げることができる者は一人もいないのです。この主イエスのお言葉によってその場に誰もいなくなった時、主イエスは彼女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」とおっしゃいました。主イエスは、彼女を罪に定め、石で打つことができるただ一人の方です。その主イエスが、「わたしもあなたを罪に定めない」とおっしゃったのです。それは、「あなたの姦淫の罪を私が背負って十字架にかかって死ぬ。あなたの不誠実、裏切りの罪を、自分の命をもって償い、赦しを与えるために私はこの世に来たのだ。あなたはその赦しの中で新しく生きなさい」ということです。私たちは、この主イエスによる赦しの恵みの中で生かされています。その私たちにとって第七の戒めは、自分の罪を示され指摘されるものであると共に、私たちが主イエスによる赦しの恵みによってどのような夫婦の関係、隣人との関係、そして神との関係へと招かれているのかを示す戒めでもあります。主イエスの赦しの恵みの中で新しく生かされることによって、夫婦の間のどのような関係へと私たちは招かれているのか、それを本日共に読まれた新約聖書の箇所、ペトロの手紙一の第3章1-7節から見ていきたいと思います。  

主イエスの足跡に従って  
 ここの1-6節には、妻に対する教えが語られていて、その中心は「夫に従いなさい」ということです。その言葉だけを読むと、聖書は妻を夫に従わせようとしている、男女差別だ、と感じられてしまうかもしれませんが、そこには、「夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです」とあります。つまりこれは、信仰者でない夫を持つ、信仰者である妻に対する教えなのです。そしてここに語られているのは、妻が従順に従っていれば信仰者でない夫もそのうち信仰を持つようになる、ということではありません。この教えは、信仰者である妻に、夫と誠実に向き合って生きることを教えているのです。はいはいと従順に言うことを聞きつつ、心は少しも相手と向き合っておらず、共に生きようとしていないような生き方ではなく、信仰を持っていない夫と誠実に向き合って共に生きるのです。その歩みは、1節に「同じように」とあるように、その前の2章18節以下に語られている、「召し使いたち」つまり奴隷の身分で信仰を持って生きている人々と同じ歩みとなります。奴隷たちに対しては、「主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」と教えられています。無慈悲な主人の下にある奴隷は、19節にあるように「不当な苦しみを受ける」のです。しかしその苦しみを、神がそうお望みなのだとわきまえて耐え忍びつつ主人に従いなさいと教えられています。なぜそのようにするのか。その理由が21節です。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。主イエス・キリストは、私たちの罪の赦しのために十字架の苦しみを受けて下さったのです。主イエスご自身は何の罪もない方なのですから、その苦しみは不当な苦しみです。主イエスは不当な苦しみを耐え忍んで、私たちの罪の赦しを実現して下さったのです。信仰者はこの主イエスの足跡に続いて行く者です。奴隷である信仰者には、無慈悲な主人にも従うことによって主イエスの足跡に続くようにと勧められているのです。そして同じように、妻である信仰者には、信じていない夫と誠実に向き合って生きることによって主イエスの足跡に続いていくことが勧められているのです。「夫に従いなさい」という勧めはそういう意味です。それは、夫と共にキリストの救いにあずかることを祈り求めつつ、忍耐をもって常に誠実に相手と共に生きることです。ただ言うことを聞いて服従するのではなくて、信じていない夫と共に生きるところに生じる苦しみを、キリストの苦しみの足跡に従って忍耐しつつ、夫と向き合って生きるのです。  
 そして7節には夫に対する教えがあります。そこには「妻を自分より弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい」とあります。これは、信仰者でない妻を持つ信仰者である夫に対する教えです。「妻を自分より弱いものだとわきまえて」とあるのは、当時の社会において夫は妻よりも優位な立場にあり、妻の立場は弱かったことを反映しています。自分より弱い立場にいる妻を思いやるようにと教えられているのです。具体的には、「生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬せよ」ということです。妻もいつかは自分と共にキリストの命の恵みを受け継ぐ者つまり信仰者となることを祈り求めつつ、忍耐をもって誠実に妻と向き合い、尊敬をもって共に生きるのです。そして大事なことは、この夫に対する教えの冒頭にも、「同じように」とあることです。それは妻に対する教えと同じように、さらには召し使い、奴隷に対する教えと同じように、ということです。つまり妻も夫も共に、主イエス・キリストの足跡に従って歩むべきことが教えられているのです。夫が妻と本当に向き合って共に生きることも、妻が夫と本当に向き合って共に生きることも、どちらも、私たちのために十字架の死を引き受けて下さった主イエス・キリストの苦しみと忍耐の足跡に従っていくことの中でこそ実現するのです。私たちは、夫として、妻として、しばしば相手に対する忍耐を失い、不誠実に陥っていく者です。たとえ浮気はしなくても、誠実に相手と向き合うことから逃げてしまったり、はいはいと表面的にだけ従いながら心の中では舌を出しているような歪んだ関係に陥ってしまいがちな者です。私たちのそのような罪を赦し、新しく生かすために、主イエス・キリストは十字架の苦しみと死とを引き受けて下さいました。その主イエスの救いの恵みの中で私たちは、主イエスの苦しみと忍耐の足跡に従って、妻に対して、夫に対して、隣人に対して、そして何よりも先ず主なる神に対して、誠実に向き合い、共に生きる者でありたいのです。第七の戒めはそのような歩みへと私たちを促しているのです。

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