主日礼拝

悲しみのただ中で

「悲しみのただ中で」 牧師 関川祐一郎(石巻山城町教会)

・ 旧約聖書:サムエル記下第18章19節-19章1節
・ 新約聖書:マルコによる福音書第14章32-43節
・ 讃美歌: 211、18、474

 本日は横浜指路教会の皆さまとともに礼拝を守ることができる幸いを心から感謝いたします。横浜指路教会の皆さまには東日本大震災直後より、祈りと御言葉による支援を頂いております。本日も石巻山城町教会の礼拝に岩住伝道師を派遣してくださり、同じ時間にお互いの教会を覚えて礼拝する恵みが与えられています。改めてイエス・キリストによって一つとされることの喜びと恵みを覚えるものです。   
 今月で東日本大震災から4年と2カ月が経ちました。ちょうど、昨日から震災以来不通になっていた仙石線が全線復旧しました。これで仙台-石巻間の電車による交通手段が震災前の状態に戻ったことになります。仙石線は途中沿岸部を走る電車でしたので、津波によって線路の大部分が流出してしまったのです。そのため、沿岸部の線路を500メートルほど内陸に引きなおして、復旧しました。昨日はさっそく新しくなったばかりの仙石線に乗って仙台まで出てみました。わたし自身も石巻に来て初めて仙石線に乗車することができました。復旧初日ということで、電車は満員でした。みなさん一様に感慨深い様子でした。     

 わたしが暮らしております石巻は2011年の東日本大震災において、最も大きな被害を受けた町です。地震と津波、そして火災によって3000人以上もの方々命を落としました。震災から丸4年経ちましたが、今なお多くの方々が仮設住宅での暮らしを余儀なくされています。  
 東日本大震災によって多くの方々が愛する家族や友人を突如として失いました。その悲しみはと苦しみは計り知れず大きなものです。時がたち、少しずつ前に進んでいる方々がおられる一方で、未だその悲しみから抜け出せずにおられる方々も大勢おられます。また、更なる課題を抱えている方々もいます。特に原発事故地域に暮らしている方々はこの先、まだまだ長い戦いを強いられることでしょう。苦しみや悲しみは必ずしも、時の経過と比例して薄れていくものではありません。むしろ、時と共により深くなっていく場合もあるのです。  
 先の震災に限らず、わたしたちの歩みには様々なことが起こります。人間関係や仕事で大きな苦悩を抱えることもあるでしょう。わたしたちはそれぞれに神さまが与えてくださった人生の中で時に悲しみ、時に苦しみ、時に喜びつつ歩んでいるのです。生きるということはそういうことなのかもしれません。  
 様々なことが起こるわたしたちの歩みでありますが、その歩みの中でもっとも幸いなことは何でしょうか。   
 聖書がわたしたちにはっきりと語ることは、わたしたち一人一人がイエス・キリストとの出会いが与えられるということです。主イエスはわたしたちの救い主であり、慰め主です。「ハイデルベルク信仰問答」という信仰問答書には、その最初に次のような問いが掲げられています。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」答「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも、死ぬにも、わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。」とあります。   
 イエス・キリストとの出会いを通して、わたしたちがキリストのものとされている、この信仰に生きることこそ、真の幸いであるというのです。   主イエスはわたしたちの罪をたったお一人で引き受けてくださり、罪を贖ってくださったお方です。なぜ、罪のないお方であるにもかかわらず、すべてを引き受けてくださったのか、そこにはわたしたち人間に対する完全な愛があります。その破れのない完全な愛ゆえに、主イエスはいかなるときもわたしたちの傍らから離れることなく共に歩んでくださるのです。喜びのときも、苦しみのときも、悲しみのときも、わたしたちに真に寄り添い続けて下さるお方こそ、わたしたちの救い主なるイエス・キリストです。  
 マーガレット・パワーズという人が書いた詩に「あしあと」という詩があります。原題はfoot printです。ご存じの方も多いと思いますがこの詩はイエス・キリストについて書かれた詩です。わたしたちの歩みの中で、主イエスと共にあるということがどのようなことなのか、見事に表現している詩です。少し長いですが、間を飛ばしながらご紹介したいと思います。  
「ある夜、わたしは夢を見た、わたしは主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。  
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
…主は、ささやかれた。
『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、悲しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた」。    

 人生の旅路の中で、突如として降りかかる悲しい出来事、自分ではどうすることもできない苦しさ、それらの経験の中で時にわたしたちは神さまの姿を見失ってしまいます。順調な時にはいつも隣を歩いてくださっていると確信できたのに、困難が降りかかった時、ふと隣を見ると主の姿が見当たらない、後ろを振り返るとそれまで二つ並んでいたはずの足あとが一つしかないのです。主イエスはわたしのことをお見捨てになったのだろうか。わたしを守ってくださらないのだろうか、その思いにとらわれます。しかし、そのときにこそ、主イエスはわたしたちのもっとも近くにいてくださるのです。後ろを振り返った時、その足あとは一つでした。でもそれは主イエスの足あとであったのです。イエス・キリストが苦しみの中にあるわたしたちを背負って歩いてくださっていたのです。  
 主イエスはわたしたちの歩みのすべての局面で共にいてくださるお方です。主イエス御自身が究極的な苦しみと悲しみを負ってくださったからこそ、わたしたちの苦しみをも共にしてくださるのです。 イザヤ書63:9のみ言葉を思い起こします。
「彼らの苦難を常に自分の苦難とし 
御前に仕える御使いによって彼らを救い
愛と憐みをもって彼らを贖い 
昔から常に 
彼らを負い、彼らを担ってくださった」。
主イエスはこのみ言葉の通りに、すべてを担ってくださいました。    

 主イエスはわたしたちのためにどれほどの苦しみと悲しみを負ってくださったのでしょうか。今日はマルコによる福音書を共にお読みしました。そこにはいよいよ十字架へと向かわれる、主イエスの姿が語られています。主イエスは何の恐れも苦しみもなく、十字架の死を引き受けられたのではありません。そこには激しいほどの悲しみ、そして苦しみがあったのです。  
 主イエスは最後の祈りのためにペトロ、ヨハネ、ヤコブという3人の弟子たちを伴ってゲツセマネという場所に向かいました。  
 なぜ、主イエスは3人の弟子たちを伴ったのか。主イエス御自身、自らの苦しみ、悲しみを少しでも共にしてほしかったのでしょう。このときいかに主イエスが悲しみと恐れの中にいたのかが33節の言葉から分かります。 「そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」。  
 弟子たちに対して何も隠すことなく「死ぬばかりに悲しい」正直な胸の内を吐露する主イエス、まさに悲しみの極地におられました。主イエスの悲しみは何に対する悲しみだったのでしょう。それはこの先待ち受けている「死」に対する恐れと悲しみです。真の人として、わたしたちのもとにやってきてくださったからこそ、わたしたちと同じように、痛み、悲しみ、苦しまれるのです。その悲しみは、主イエスがすべての人の罪をたった一人で背負わなければならなかった悲しみです。主イエスが負わなければならないのは、主イエス御自身の罪ゆえの裁きとしての「死」ではありません。わたしたち人間の罪ゆえの神さまの裁きを主イエスは受けなければならなかったのです。   
 この激しい悲しみと苦しさの中で、主イエスは地面にひれ伏して祈られました。  
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。できることならこの杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。  
 この祈りは悲しみと苦しみのただ中で、心の奥から紡ぎだされた祈りの言葉です。「アッバ」とは主イエスが話されていたアラム語の言葉で「お父ちゃん」「パパ」といったニュアンスを持つ言葉です。父なる神と主イエスの間の堅く結ばれた信頼関係が示されます。父なる神は独り子である主イエスを心から愛しておりました。それと同じように神さまは私たちをも愛してくださっているのです。その愛ゆえに私たちの罪を赦す大きな決意をしてくださいました。そのためには主イエスの十字架が必要なのです。神さまはけじめ深いお方です。人間が犯した罪を、決してなかったことにはされません。その罪は贖いによって赦されなければならないのです。   
 十字架の死を目前にして、何とかこの悲しみから解放されたかった。だからこそ、この杯、つまりこれから待ち受ける苦難を取り除いてくださいと祈りました。  
 しかしその一方で神から遣わされたメシアとして神の御心を引き受けなければなりませんでした。この二つの間で激しい葛藤、そして祈りの戦いがあったのです。主イエスはその恐れから逃げ出すこともできたはずです。しかし、そうはなさらなかった。最後は神さまにすべてを委ねられました。「御心に適うことが行われますように」と祈ったのです。この祈りはわたしたちの救いのための祈りです。罪なきお方が、罪びとのためにすべてをささげられる、わたし達の目から見れば、何とも理不尽に思います。しかし、これが神の御心であり。救いでありました。  
 さて、この主イエスのそばで弟子たちは主イエスの傍らで起きて目を覚ましていることができませんでした。主イエスが「祈っていなさい」と言われたにもかかわらず、三度にわたって、目を覚ましていることができなかったのです。ここに弟子たちの信仰の弱さがあります。目の前で悲しみもだえながら、必死に祈る主イエスの祈りに、自分たちの祈りを重ね合わせることのできない信仰的な弱さです。三度目に弟子たちのもとに戻った主イエスはこう語られます。
「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」。主イエスは「もうこれでいい」と言われます。弟子たちのその弱さ、それはわたしたちの弱さでもあります、それらをもすべて主イエスは引き受けてくださり、主イエスはここから大いなる決意をもって、十字架へと向かって行かれるのです。  
 この先、主イエスに待ち受けているのは更なる苦しみです。人々から罵られ、痛めつけられ、十字架刑という壮絶な死が待っています。主イエスの死はあたかも暗黒がすべてを包み込んだかに思えるほどの出来事でありました。神の子、メシアの死、誰が予想しえたでしょうか。しかし、神さまはその闇の中に希望の光をお与えになりました。主イエスは十字架の死後三日目に復活されたからです。ここにすべてを覆す主イエスの勝利があります。わたしたちの罪、罪ゆえの死、そして主イエス御自身の悲しみや苦しみに対する完全な勝利が、主イエスの復活によって現れたのです。絶望の先に、「確かな希望」が示されたのです。  

 東日本大震災後、世間では希望や絆といった言葉が良く聞かれるようになりました。多くの人々が悲しみの中で人間同士のつながりを求め、何とか希望を見いだしたいと願いました。そうした中で聖書は確かな希望をわたしたちに伝えます。  
 それはイエス・キリストが十字架の死と復活を通して与えてくださった「永遠の命」への希望です。聖書が伝える希望は私たちが生み出すものではありません。それは神さまが与えて下さるものです。そうであるからこそ、それは何が起ころうとも、決して消えてしまったり、取り去られたりするものではありません。パウロはローマの信徒への手紙5:5で次のように語っています。 「希望はわたしたちを欺くことはありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。  
 私たち人間が造り出すものはいつの日か必ず朽ちて行きます。しかし、神さまが与えてくださるものは永遠なのです。神さまが注いでくださる愛は決して揺らぐことはありません。神さま自ら私たち人間を愛すると決意してくださった以上、最後まで私たちを愛し抜いてくださるのです。  
 その愛の現れがイエス・キリストです。主イエスは十字架を前にした悲しみのただ中で、そこから逃げ出すことなく、神さまの御心にすべてを委ねてくださったのです。そしてこのことによって、わたしたちの罪の救いと希望が与えられました。  
 わたしたちの歩みには避けがたい苦難、悲しみが襲います。しかしそのときにこそ、イエス・キリストがそれらの苦しみや悲しみを共に負い、歩んでくださる、この恵みに生きる者でありたいと思います。イエス・キリストのもとにこそ、真の平和、慰め、救い、そして希望があることを心に留めて歩んで参りましょう。

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