夕礼拝

時は神のもの

「時は神のもの」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第5章12-15節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙第 第4章8-11節
・ 讃美歌: 206、361

十戒の意義  
 私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書申命記からみ言葉に聞いておりまして、今その第5章の、いわゆるモーセの十戒を読んでいます。十戒は、主なる神がイスラエルの民にお与えになった掟、戒めです。エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民を、神はそのみ力によって解放して下さり、約束の地への荒れ野の旅を今導いて下さっています。その途上で、神はイスラエルの民と契約を結び、彼らをご自分の民とし、ご自分が彼らの神であることを宣言して下さったのです。その契約と共に与えられたのがこの十戒です。十戒は、神によって救われ、神の民とされたイスラエルの人々が、その救いに感謝して、神の民としてどのように生きるべきかを語っているみ言葉です。それは、神の独り子イエス・キリストによる救いにあずかり、新しい神の民とされて生きている私たちにも与えられているみ言葉です。新しいイスラエルであるキリスト教会も、十戒を、救われた者としてどう生きるかを教える道標として大切にしているのです。

土曜日から日曜日へ  
 しかし私たちは、主イエス・キリストによる救いにあずかって生きています。つまり新約聖書の信仰に生きているのです。その私たちは、主イエス・キリストを信じる信仰に基づいて十戒を新しく受け止め直して歩んでいます。そこには、旧約聖書の時代のイスラエルの人々の生活とは違うことも必然的に起って来ます。本日は12節以下の第四の戒め、「安息日を守ってこれを聖別せよ」をご一緒に読むわけですが、この戒めはまさに、新約の信仰において新しく受け止め直されて、旧約の時代とは違う仕方で守られているのです。旧約時代の人々が守っていた安息日は、週の七日目の土曜日でした。旧約における安息日は土曜日であり、旧約聖書のみを聖書としているユダヤ教の人々は今も土曜日を安息日として守っているのです。しかしキリスト教会においては、安息日は週の最初の日である日曜日になりました。教会はその日に集まって礼拝を守っていったのです。それは、この日に主イエス・キリストが復活なさったからです。主イエスが復活なさった日を、教会は「主の日」と呼び、その日に礼拝を守りました。それが、使徒言行録にも記されている最初の教会の姿でした。そのようにして、安息日はキリスト教会によって、週の最後の日である土曜日から、最初の日である日曜日へと移されたのです。そしてこのキリスト教会が守っていた安息日が後に、ローマ帝国がキリスト教に基づく国となっていったことに伴って暦に取り入れられ、ヨーロッパの社会全体に日曜日が休日ということが定着したのです。その暦が明治以降わが国においても取り入れられたために、私たちも今、日曜日は休日という社会を生きているのです。私たちはこの歴史を正しく知っておかなければなりません。つまり、教会が日曜日に礼拝をしているのはその日が休日だからだと考えてはならないのです。教会が日曜日に礼拝を守っていたから、その日が後から休日になったのです。つまり礼拝は、時間の余裕のあるお休みの日だからできる、というものではないのです。教会は、信仰者たちは、主イエス・キリストの復活を記念する日曜日の礼拝を、様々な妨げの中で戦い取り、守り抜いてきたのです。その結果、社会全体がそういうリズムで動くようになっていったのです。そうなるまでにはおよそ三百年の時がかかり、その間多くの殉教者の血が流されました。私たちが今、休日である日曜日にこうして礼拝を守ることができているのは、信仰の先輩たちによって戦い取られたことなのだということを忘れてはならないのです。

安息の意味の転換  
 キリスト教会において安息日はこのように週の最後の日である土曜日から、最初の日である日曜日に移されました。このことは、私たちの信仰生活における「安息」の意味の大きな転換であると言うことができます。週の最後の土曜日が安息日である場合、安息は一週間の歩みの結果として、それまでの歩みへの報い、ご褒美として与えられるものとなります。六日間、十戒に語られている神の戒めを守り、神のみ心に従って歩んだ者に、そのご褒美として安息が与えられる、という構造になるのです。しかしキリスト教会においては、週の最初の日曜日が安息日です。一週間の歩みの最初に安息が与えられているのです。それは私たちが神に従って歩んだことへのご褒美ではありません。私たちが神のみ心に従い、十戒を守って生きる努力をし、実績をあげる前に、神の恵みによって既に安息が与えられているのです。そして残りの六日間、私たちは、神が恵みによって与えて下さった安息に感謝して生きるのです。つまり、安息日が週の最後の日から最初の日に変わったことによって、後の六日間の生活の意味が変わったのです。神による安息を得るために頑張って努力するという六日間から、神が既に与えて下さった安息に感謝して生きる六日間になったのです。ここに、主イエス・キリストによる救いにあずかって生きる新約聖書の信仰の基本的なあり方が象徴的に示されています。主イエス・キリストによる救いは、私たちが努力して善良な立派な人になったことへの報いとして与えられるのではありません。罪人であり、自分でその罪をどうすることもできない私たちのために、主イエスが十字架にかかって死んで下さり、罪の贖い、赦しを成し遂げて下さったのです。私たちは、自分の努力によってではなく、この主イエスによる神の恵みによって罪を赦され、救われるのです。私たちの信仰生活とは、神が主イエスによって既に与えて下さっている救いの恵みに感謝して生きることです。週の始めの日である日曜日が安息日となったことは、主イエス・キリストによる救い、安息が恵みによって与えられ、それに感謝して生きていくというキリスト教会の信仰に相応しいことだったのです。

聖別する  
 このように、私たちにとって安息日とは日曜日、主の日であるわけですが、その日を「守ってこれを聖別する」とはどのようなことなのでしょうか。「聖別する」という言葉は、普段使われる日本語ではありません。以前の口語訳聖書ではここは、「安息日を覚えてこれを聖とせよ」となっていました。「聖とする、聖なるものとする」というのがこの言葉の意味です。新共同訳がそれを「聖別する」と訳したのは、聖書において「聖とする、聖なるものとする」とは、聖なるものとして他のものから分ける、別にする、ということだからです。聖なるものとは、一般のものから区別されたものなのです。そしてその区別は、人間が、これは聖なるものだと思って区別するのではなくて、神がなさることです。神が、これは私のものだとおっしゃって他のものから区別なさるのです。聖書において「聖なるもの」とは、人間が、これは神秘的な有り難いものだと感じているもののことではなくて、神がご自分のものとしておられるもの、神のものです。ですから「安息日を聖別する」というのも、神がこの日をご自分のものとして他の日とは区別しておられる、ということであり、その神のみ心に従って人間も、この日が神のものであることを認め、神のものとしてこの日を用いていく、ということなのです。

仕事をしてはならない  
 この日には「いかなる仕事もしてはならない」と命じられていることの意味はそこにあります。この日は神のものであり、神のものとして用いる、それがこの日を聖別することであり、そのためには人間の営みをやめなければならないのです。「仕事をしてはならない」というのは、人間の、自分のための営みをやめて、神のために、神との交わりのためにこの日を用いなさいということです。それが「安息日を聖別する」ということなのです。ところがイスラエルの民は、「いかなる仕事もしてはならない」という表面的な教えを守ることを、第四の戒めの最大の眼目としていきました。そのために彼らは、安息日にしてもよいこと、つまり「仕事」には当らないことと、「仕事」と見なされるためにしてはならないこととを細かく厳密に区別した規則を作っていったのです。火をつけて炊事をすることは仕事に当るからしてはならないとか、スイッチを押すことも仕事だからしてはならない、というふうにです。そのために、イスラエルを旅行した人は気づくように、今でも、ユダヤ人の安息日つまり土曜日には、ホテルのエレベーターが「自動各階止り」になるのです。スイッチを押さなくても、待っていれば目的の階で降りることができるためです。また、安息日に移動してもよい距離、が定められて、それ以上の遠出をしてはならないとか、穀物の脱穀をしてはならない、命に係らない病気の治療行為をしてはならない、などの細かい規定があったのです。主イエスが、それらの規則を破ったと非難された話が聖書にはしばしば出てきます。主イエスは、敢えて安息日に、病気で苦しんでいた人を癒したり、麦の穂をつんで手で脱穀して食べたりなさったのです。そういう主イエスのお姿から教えられることは、「いかなる仕事もしてはならない」という戒めを、表面的な事柄においてではなく、その本質において捉えなければならないということです。この戒めが求めているのは、これは仕事に当るからしてはならない、こちらは仕事ではないからしてもよい、という区別を考えることではなくて、神がご自分のものとしておられるこの日には人間の業を休むこと、つまり人間が主となり自分のために行なっている人間の営みをこの日にはやめて、神を主とし、神のみ心を覚え、それに従う一日を過す、ということなのです。それによって、私たちの上に神の主権が、神こそ私たちの主人であることが確立するのです。

全ての時は神のもの  
 それは、一週間の内の一日だけ、安息日だけは神を主とする時を持ちなさい、そうすれば後の六日間は人間が、自分が主となって歩むことができる、ということではありません。週に一日安息日が守られることは、その一週間の全体が主なる神様の下にあり、主なる神様が与えて下さっている日々なのだということを意味しているのです。一週間の内の一日を安息日として、人間の営みを離れて神が主であられることを覚える日として過すことによって私たちは、私たちの生きる一週間の全体が本来神のものであり、神によって与えられている時であることを覚えていくのです。宗教改革者カルヴァンが書いた『ジュネーヴ教会信仰問答』は問167において、第四の戒めについて次のように語っています。「七日目に休むために、週のうち六日間働くことを神は命じているのですか」という問いに対する答えです。「いいえ、単にそういうことではありません。神は六日間働くことを許し、七日目は神がこれを留保し、この日に働くことを許しません」。つまり、もともと週の七日全部が神のものであるが、神はその内の六日間は人間に働くことを許して下さっているので、私たちはこの神の許しの下で、ウイークデーは自分と家族の生活のために働くことができるのです。しかし安息日だけは、神がご自分のものとして留保しておられる、働くことを許してはおられない、そのことによって、週の全体が神のものであることが示されているのです。またこの信仰問答は、神が六日間で天地を造り、七日目に安息なさったことの意味を、神がお造りになった世界を、つまりご自分のみ業を見つめて熟慮なさったのだと語り、人間もそれに倣って、安息日に神のみ業を見つめて熟慮し瞑想する、つまりその恵みを味わう時を持つのだと語っています。その上で、「神の御業を常に瞑想すべきですか。それとも週に一度で十分ですか」という問いに対して「毎日すべきです。しかし、わたしたちの弱さのために、特別に、それに当てられた日が定められています」と答えています。私たちは本来毎日、神の恵みのみ業を見つめ、感謝しつつ生きるべき者ですが、しかし弱さのゆえにそこから目を離して、自分のこと、自分の抱えている労苦や悩みや苦しみばかりを見つめていってしまいます。そのような私たちのために、週に一日、神の恵みのみ業を見つめるべき日が定められているのです。この日をしっかり守ることによって私たちは、この世界と自分自身が神によって造られ、神の恵みのご支配の下にあることを確認し、その恵みに支えられて一週間を歩んでいく力を与えられるのです。私たちには、その安息日が、週の最初の日曜日、主イエス・キリストの復活の日として与えられています。私たちがこの日に見つめていく神の恵みのご支配とは、独り子イエス・キリストの十字架の死と復活によって罪人である私たちを赦し、救いを与えて下さっている神の恵みです。この世界と私たちの人生は、この主イエス・キリストによる救いの恵みによって支えられている、そのことを私たちは主の日の礼拝において示され、その恵みに力づけられて一週間の歩みを始めるのです。それによって、残りの六日間の歩みも、主イエス・キリストによる神の恵みによって守られ、支えられたものとなります。第四の戒めはこのように、神の民の一週間の生活全体が神の恵みのご支配の下で営まれていくために、安息日を守ることを求めているのです。

礼拝への招き  
 それゆえに私たちはこの戒めを律法主義的に捉えるべきではありません。これは、日曜日にはこういうことはしてはいけない、という禁止の命令であるよりも、私たちの人生の全ての時は神のものであることを確認し、その神の恵み、主イエスによる救いの下で、神を主として生きることへの招きなのです。そのために与えられているのが主の日の礼拝です。私たちにとってこの第四の戒めは、仕事を休めという命令であるよりもむしろ、主の日の礼拝への招きです。人間の業、営みを休むことは、神の前に跪き、礼拝するにおいてこそ実現するのです。私たちは、神の前に跪き、み言葉を聞く礼拝に集うことにおいてこそ、自分の業、人間の営みを本当に休んで安らぎを得ることができます。本当の休み、安息は、ただ仕事を休んで休日を取れば得られるのではありません。神の恵みのみ言葉を聞き、神を礼拝することによってこそ、私たちは安息を与えられるのだし、その安息に支えられて一週間の日々を生きることができるのです。ですから私たちはこの戒めを、日曜日には仕事を休んで礼拝を「しなければならない」と受け止めるべきではありません。この戒めは私たちを、礼拝においてこそ与えられる神の下での本当の休み、安息へと招いているのです。この招きは、時間に余裕があったら受けてもよい、などという暢気なものではありません。あらゆる妨げを乗り越えて応えていく価値のある招きです。この招きに応えることによってこそ、この世における人間の営みの中で様々な不安や苦しみ、嘆きに捕えられてしまっている私たちが、神の恵みのご支配を確認し、本当の平安、安息を与えられて生きることができるのです。私たちの信仰の先達たちは、この安息への招きを真剣に受け止め、主イエスの復活の日である日曜日を礼拝の日として確保するために命を捧げてきました。それは彼らが、そこにこそ本当の平安と安息があることを知っていたからなのです。

炎のランナー  
 皆さんは「炎のランナー」という映画を見たことがあるでしょうか。これは1924年のパリ・オリンピックにおける実話を元にした映画です。イギリスの陸上競技男子百メートルの選手だったエリック・リデルという人がいました。彼は中国で伝道していた宣教師の息子で、自分も海外伝道者になるために準備をしていました。同時に彼は大変な俊足の持ち主でした。彼はその賜物を用いてオリンピックで走ることによって神の栄光を表すことができると信じて、海外伝道の計画を延期して練習に打ち込み、遂に百メートルの選手の地位に選ばれました。ところがオリンピックにおいてその男子百メートルの予選が日曜日に行なわれることになりました。彼は、安息日にレースをすることはできないと、出場を辞退しました。それは彼にとって、それまでの苦しい練習の全てが、また海外伝道の計画を延期したことが無駄になることでした。しかし彼は、安息日を守ることの方を選んだのです。この映画の最も感動的なシーンは、百メートルの予選が行なわれている日曜日、彼がある教会の説教壇に立ち、会衆の前で聖書を朗読する場面です。そこで彼が読んだのは、イザヤ書第40章でした。その最後のところをここでも読みたいと思います。イザヤ書40章27節以下です。  
「ヤコブよ、なぜ言うのか  
 イスラエルよ、なぜ断言するのか  
 わたしの道は主に隠されている、と  
 わたしの裁きは神に忘れられた、と。  
 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。  
 主は、とこしえにいます神  
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。  
 倦むことなく、疲れることなく  
 その英知は究めがたい。  
 疲れた者に力を与え  
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。  
 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが  
 主に望みをおく人は新たな力を得  
 鷲のように翼を張って上る。  
 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」  
 このみ言葉によって示されていることは、彼エリック・リデルにとって、安息日を守って生きることは、厳しい戒めや掟にがんじがらめに縛られて不自由に生きることではなかった、ということです。むしろそれは、全てのものの造り主であられる主なる神に望みを置いて生きることであり、その主の支えによって新たな力を得、走っても弱ることなく、歩いても疲れない力強い人生を生きることだったのです。その翌日彼は、友人の好意によって、本来の種目ではなかった四百メートルレースに出場し、世界新記録で金メダルを取りました。その走りはまさに、走っても走っても弱ることのない見事なものであったと言われます。エリック・リデルはその後、宣教師となって中国に渡り、キリストの福音の伝道に生涯を捧げました。そして太平洋戦争中に日本軍の捕虜となり、1945年、日本軍の捕虜収容所で43歳で死んだのです。  
 第四の戒めは、全ての人がこのエリック・リデルのように全てを投げ打って安息日を守れと言っているのではないし、安息日に例えば試合をする人を裁いて罪に定めようとしているのでもありません。この戒めが私たちに示そうとしているのは、一週間の内の一日を神のものとして聖別して生きることの幸い、祝福です。人生の全ての時が神のものとなり、全てのものの造り主である神に望みを置くことによって新たな力を与えられ、鷲のように翼を張って上り、走っても弱ることなく、歩いても疲れない、そういう歩みがそこには与えられていくのです。

運勢からの解放  
 全ての時は神のものであることを覚えて生きることによって与えられるもう一つの祝福があります。昔から人間は、自分たちが生きている日々の中に、「良い日」と「悪い日」の区別をつけようとしてきました。運勢が良い日と悪い日ということです。そこから、この日はこういうことをするのに良い日だとか、この日にはこういうことはしない方がよいということが、つまり大安とか仏滅とか友引というようなことが生まれたのです。そういうことは様々な形で世界各地にありました。本日共に読まれた新約聖書の箇所、ガラテヤの信徒への手紙第4章8節以下には、ガラテヤの教会の中に、日や月や時節や年などによる運勢に左右されている人々がいたことを示しています。それに対してパウロは、あなたがたは神を知っているはずではないか、いやむしろ、神に知られている者ではないか、それなのになぜ、無力で頼りにならない日とか月とかの奴隷に再びなろうとするのか、私があなたがたにイエス・キリストの福音を苦労して宣べ伝えたことが無駄になってしまったのではないかと心配だ、と激しい口調で語っています。良い日とか悪い日、日によって運勢が良かったり悪かったりなどということはないのです。それは、そんなことは科学的に証明できない、という話ではなくて、私たちの全ての日々は神のものだ、という信仰から来る確信です。神は、独り子イエス・キリストを遣わして、十字架の死と復活によって私たちの罪を赦し、私たちを神の子として新しく生かし、神の民として下さっています。私たちはその神を知っているのです。いやむしろその神が私たちを知っていて下さり、私たちの人生の全ての日々を恵みのご支配の下に置いて下さっているのです。だから、この日は運勢が悪いとか、何かをするのに良くない日などというものはないのです。「安息日を守ってこれを聖別せよ」という第四の戒めは、私たちの人生の全ての時が、主イエスの父である神のものであり、神の恵みの下に置かれていることを語ることによって私たちを、運勢などに左右されることなく、神の恵みに感謝しつつ主イエス・キリストと共に生きる幸い、祝福へと招いているのです。

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