「み名によって」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:申命記第5章11節
・ 新約聖書:使徒言行録第4章5-12節
・ 讃美歌: 149、352
第三の戒め
私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書申命記からみ言 葉に聞いておりまして、今その第5章の、いわゆるモーセの十 戒を読んでいます。本日はその11節、「主の名をみだりに唱え てはならない」という第三の戒めを読みます。しかし私たちに は、生活の中でそもそも、主のみ名を唱えるという場面があま りないので、この戒めを自分たちの生活の中でどのように受け 止めたらよいのか、よく分からないというのが正直なところでは ないでしょうか。ですからこの戒めを自分たちに対するみ言葉 として読んでいくためには先ず、イスラエルの民において、名前 というものがどういう意味を持っており、また主のみ名を唱え るとはどういうことだったのかを知る必要があります。
名を呼ぶことの意味
日本語でも「名は体を表す」と言われますが、イスラエルの民にお いては、名前はその人の全人格を代表するものでした。それゆえに、 名前をつける、あるいは名前を呼ぶということは聖書において大きな 意味を持っています。創世記第2章に、神が最初の人間アダムのとこ ろに、動物たちを造って連れて来られ、アダムがその動物たちの名を 呼び、それが動物たちの名前となった、という場面があります。つま り神はアダムに、動物たちに名前をつけさせたのです。それは、神が 動物たちをアダムの、つまり人間の下に置き、支配させておられるこ とを意味しています。人間は、動物たちを始めとする被造物を神のみ 心に従って支配し、管理する使命を与えられている、ということを創 世記は語っています。名前をつけるということもその一環なのです。 つまり相手の名前を呼び、名前をつけることには、相手を自分の支配 下に置くという意味があります。例えば、親が生まれた子どもに名前 をつけることもそうです。それは親の子に対する権威、ある意味では 支配の現れです。親が決めた名前を子は一生背負って行きていくので す。しかしそれは単なる支配、被支配の関係ではありません。親は子 供が幸せな人生を生きていってほしいという願いを込めて名前をつけ るのです。名前をつけることは、親が子を自分の子として受け入れ、 愛することの第一歩でもあります。名前をつけることは、相手を愛す ること、愛の関係を結ぶことでもあるのです。アダムが、神が自分の 体の一部からお造りになった女と出会って、「男(イシュ)から取ら れたものだからこれを女(イシャー)と呼ぼう」と言ったのは、その ような愛の関係が結ばれたことを意味しています。そして聖書には、 神が人に新しい名前を与えるということが語られています。アブラム はアブラハムという名前を神から与えられました。ヤコブはイスラエ ルという名前を与えられました。これらのことは、神が彼らを特別に 愛して下さり、新しい関係を彼らと結んで下さったことを意味してい ます。アブラムはアブラハムとなることによって、神の民の最初の先 祖となりました。その孫であるヤコブに与えられたイスラエルという 名が、彼らの民族の名となりました。つまりイスラエルの民とは、神 によって与えられた新しい名前を背負って生きる民であり、神が愛に よる新しい関係を結んで下さった民なのです。
神の名を知り、呼ぶ
名前はイスラエルにおいてそのように大切な意味を持つものでし た。それゆえに、神の名前を知ることは最大の関心事だったのです。 モーセは、奴隷としてエジプトで苦しめられているイスラエルの民を 救い出すための指導者として神によって立てられた時に、神に、「あ なたのお名前は何というのですか」と問いました。それは名前を知ら なければみんなに神のことを紹介できない、というだけのことではあ りません。神の名前を知ることによってこそ、その神の力を受けるこ とができ、与えられた使命を行うことができる、と彼が考えたという ことでしょう。神の名前を知ることは、その力を受けることと結びつ いているのです。だから神の名前を知った者は、その力を受け、その 力を行使するためにそれを唱えます。み名が唱えられる所でこそ神は 働き、力を発揮して下さるのです。そこに、み名をみだりに唱える、 という問題も生じてきました。み名の力を自分のために利用しようと することが起って来たのです。み名を唱えること自体がいけないので はありません。神はご自分の民がそのみ名を唱えるためにそれを示し て下さったのです。神の民はそのみ名を正しく唱えなければなりませ ん。そのために、申命記第12章5節にはこのように語られていま す。「必ず、あなたたちの神、主がその名を置くために全部族の中か ら選ばれる場所、すなわち主の住いを尋ね、そこへ行きなさい」。こ れは神の名を唱えて礼拝をする場所についての教えであり、それぞれ が勝手な所で礼拝をするのではなくて、神がみ名を置くためにお選び になった場所で礼拝しなさい、ということです。それは場所だけの問 題ではないでしょう。神のみ心に反して、自分勝手な思いでみ名を唱 えるなら、それは「みだりに唱える」ことになるのです。つまりみ名 をみだりに唱えることは、み名に伴う力を、神のみ心に従ってではな く、自分の勝手な思いや都合のために利用しようとするところに起こ るのです。
み名によって誓う
み名をみだりに、自分勝手に唱えることは、具体的にはどのよ うな場面で起こるのでしょうか。先ず第一に考えられているの は、誓いの場面です。申命記第10章20節にはこのように語ら れています。「あなたの神、主を畏れ、主に仕え、主につき従 ってその御名によって誓いなさい」。主のみ名は誓うことにおい て唱えられるのです。その誓いが偽りであるなら、それは主の み名を汚すことになります。そのことがレビ記第19章12節に このように語られています。「わたしの名を用いて偽り誓って はならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。 わたしは主である」。主の名を用いて偽りの誓いをする、主の名 を唱えて誓いながら嘘をつく、それが、み名をみだりに唱える ことなのです。
このように第三の戒めは、神の名によって誓うことに関わ っています。私たちがこの戒めを自分の生活においてなかなか 実感することができないことの原因はまさにそこにあります。私 たちは、神の名によって誓うということを知らない文化の中で 生きているのです。そこに、私たちの国の一つの大きな問題が あると言えると思います。わが国においては、例えば国会の証 人喚問などにおいて、「良心に従って、真実のみを述べることを誓 う」という誓いがなされます。あるいは政治家が時々「天地神明 にかけて」誓ったりします。しかし私たちはその誓いがまことに虚 しい、形だけのものであると感じています。政治家の誓いの言葉 が真実だとまともに信じている者は殆どいません。それは嘆か わしいことですが、ある意味ではそれは無理もないことなのです。 なぜなら、「良心」にせよ「天地神明」にせよ、その名によって 誓ったことが偽りだった時に、その責任をはっきりと問うよう な、つまりその名をみだりに唱えることを拒み、それに対して 怒って罰を与えるような明確な、確固たる、つまり生きて私た ちと向き合う存在ではないからです。生きた方として私たちと 向き合い、私たちが語った言葉に対する責任を問い、その名 をみだりに唱える者を罰せずにはおかれない、そういう神の名 によって誓うということがなければ、誓いの言葉が真実なものと なることはないのです。「み名をみだりに唱える」ということが問 題となるのは、そういう神の名による誓いがなされているとこ ろでこそなのです。
神に対して責任を負って生きる
しかしそれでは、主なる神の名によって誓い、またこの第三の戒め を与えられて生きてきたイスラエルの民においては、誓いは常に真実 なものであったかというと、そうではありませんでした。マタイによ る福音書の第5章33節以下で主イエスはこのように語っておられま す。「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓 いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられて いる。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。 天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓 ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓って はならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓 ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないか らである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。 それ以上のことは、悪い者から出るのである」。主イエスは、当時の ユダヤ人たちの間でなされていた誓いの現実を見つめつつこれを語 っておられます。彼らは、天にかけて、地にかけて、あるいはエルサ レムにかけて、自分の頭にかけて誓っていたのです。それは、この第 三の戒めに違反しないためです。神のみ名によって誓って、もしそれ が守れないとこの戒めに背くことになってしまう、だから神のみ名以 外のもの、天や地、エルサレムや自分の頭にかけて誓ったのです。そ ういう誓いならば、もし守れなくても主の名をみだりに唱えることに ならずにすむというわけです。主イエスはそういうユダヤ人たちのあ り方を厳しく批判して、「一切誓いを立ててはならない」とおっし ゃいました。それは、神のみ名以外のものにかけて誓うなら守らなく てもよいというのでは、そもそも誓うこと自体が無意味だ、というこ とです。そして主イエスは、天とは神の玉座であり、地とは神の足台 である、エルサレムは大王の都であるとおっしゃいます。大王とはこ の場合、神ご自身のことです。つまりこれは、何にかけて誓おうと も、それは皆神の前での誓いなのだ、ということです。自分の頭にし ても、あなたは髪の毛一本すら白くも黒くもすることはできない、そ れをなさるのは神だ、だから自分の頭だって神のみ手の内にある、あ なたがたの言葉は、何よって誓おうとも、いや全く誓うことをしなく ても、全て神の前での言葉なのであり、神はあなたがたの言葉の一つ 一つをしっかりと聞いておられるのだ、と言っておられるのです。そ れゆえに、「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさ い」。それは、あなたがたの言葉は、誓おうと誓うまいと、神の前で 然りは然り否は否とする、神に対して責任を負う言葉でなければなら ない、ということです。この主イエスの教えは、「主の名をみだりに 唱えてはならない」という第三の戒めの目指しているところを示して います。この戒めにおいて神は、み名による誓いがなされる時のみの ことではなくて、もっと根本的に、私たちの生き方を、あるいは私た ちが語る言葉を問うておられるのです。私たちが、神の前で、神のま なざしを意識して生きる者となり、私たちの語る言葉が、神の前で の、神に対して責任を負うものとなることをこそ、神は求めておられ るのです。
神を正しく礼拝するための教え
ですからこの第三の戒めを、「神のみ名を下手に唱えるとと んでもないことになるから、出来るだけそのみ名とは関わらない でおいた方がよい」というふうに、「触らぬ神に祟りなし」のよ うに受け止めてしまってはなりません。ユダヤ人たちはまさにそ のようにしてきたのです。聖書に語られている主なる神のみ名は、 「ヤーウェないしヤハウェ」といいますが、ユダヤ人たちは、そ のみ名が聖書に出て来ると、それを発音せずに他の言葉、「主」 という意味である「アドナイ」という言葉に置き換えて発音し てきました。長年そのように神の名を口に出さずに来たために、 それがもともとどのように発音されるべきものだったのかが分から なくなってしまった、という滑稽なことが起りました。一昔前まで はそれは「エホバ」と読まれたのではないかと考えられていまし たが、今ではそれは間違いであったことが分かっており、今日の 学者たちは、おそらく「ヤーウェないしヤハウェ」と発音したの だろうと推測しています。このユダヤ人たちのように神のみ名 を唱えることをやめてしまうのは、第三の戒めの意図とは全く かけ離れています。神がご自分のみ名を民にお示しになったの は、彼らがそれを正しく唱え、み名を崇め、その栄光を現し ていくため、つまり神を正しく礼拝していくためです。この戒め は、神を正しく礼拝することをこそ求めているのです。十戒の前 半、第一から第四の戒めは、神に対して人間がなすべきことを教 えていますが、それは言い換えれば、神を正しく礼拝するために なすべきことです。私たちは、神を正しく礼拝するためには、主 なる神以外のものを神としてはならないし、偶像を造ってそれを 拝んではならないし、神のみ名をみだりに唱えることのないよう にしなければならないし、安息日を礼拝の日として守らなければ ならないのです。
主イエス・キリストのみ名によって
それでは私たちが神のみ名をみだりに唱えるのでなく正しく唱え、 み名を真実に崇める礼拝をささげるとはどのようなことなのでしょう か。そのことを考えるために、本日共に読まれた新約聖書の箇所、使 徒言行録第4章を心に留めたいと思います。ここには、弟子たちに聖 霊が降って力強い伝道が始まり、教会が誕生した、あのペンテコステ の出来事の直後に、ペトロとヨハネによって一つの奇跡が行われた、 それをめぐってユダヤ人たちの議会とペトロとの間になされたやり取 りが語られています。ペトロらによってなされた奇跡とは、生まれつ き足の不自由だった男が癒されたということでした。それが3章の始 めのところに語られています。ペトロたちはこう言って彼を癒したの です。3章6節です。「わたしには金や銀はないが、持っているもの をあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、 歩きなさい」。「ナザレの人イエス・キリストの名」によってこの人 は癒され、立ち上がったのです。このことに驚いて多くの人々が集ま って来ました。ペトロらはその人々に、主イエスこそ神が約束して下 さっていた救い主であり、主イエスの名を信じる信仰がこの人を癒し たのだ、と語りました。しかし神殿の祭司たちは、自分たちが十字架 につけて殺したイエスが救い主だと彼らが宣べ伝えているのに苛立 ち、彼らを捕えて尋問しました。それがこの場面です。その尋問に答 えてペトロは、聖霊に満たされてこう答えています。10節です。 「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが 十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの 人、イエス・キリストの名によるものです」。そしてさらに12節で 彼はこう断言したのです。「ほかのだれによっても、救いは得られま せん。わたしたちが救わ れるべき名は、天下にこの名のほか、人 間には与えられていないのです」。この一連の出来事の中心にあるの は「イエス・キリストの名」です。ペトロやヨハネは、この世の富で ある金銀は持っていないが、イエス・キリストのみ名を持っている、 そのみ名がこの人を癒したのです。ペトロやヨハネは教会の代表で す。教会は、この世的な力は持っていません。生まれたばかりの教会 はこの時、本当に一握りの人々の群れでしかかりませんでした。私た ちは、日本のクリスチャンが人口の1%に満たない少数者であること を嘆いたり不安を覚えたりしていますが、この時のエルサレムにおけ る、あるいはユダヤ全土におけるキリスト信者の数は、私たちよりも もっとずっと少なかったのです。しかしそのようなまさに吹けば飛ぶ ような小さな群れに、イエス・キリストのみ名が与えられ、そのみ名 を唱え、呼び求める礼拝がなされていたのです。そのイエス・キリス トのみ名は、生まれつき足の不自由だった人を立ち上がらせ、神を讃 美する者へと造り変える力を持っています。なぜならイエス・キリス トのみ名は、神ご自身が、私たちの救いのためにこの地上に降りて来 て下さって、人間となり、ご自分のお名前として下さったみ名だから です。そのみ名こそ、天下にただ一つの、私たちが救われるべき名、 救いをもたらす名なのです。旧約聖書の時代には、神はお選びにな った場所にご自分のみ名を置いて下さり、人々はそこで神を礼拝する ことができました。しかし今や神はそのような聖所においてではなく て、独り子イエス・キリストにおいてみ名を現し、主イエス・キリス トのみ名を呼ぶことによって私たちが礼拝をすることができるように して下さったのです。神が遣わして下さった救い主イエス・キリスト を信じて、そのみ名を呼ぶことによって、私たちは、神のみ名を正し く唱え、み名を真実に崇める礼拝をささげることができるのです。
主イエス・キリストのみ名を呼ぶ
主イエス・キリストのみ名を呼んで礼拝する私たちは、その み名の下で生きていきます。主イエスのみ名の下で生きるとは、 私たちの歩みの全て、私たちの語る言葉の全てが、主イエス・キ リストの前での歩みとなり言葉となるということです。私たちの 歩みも言葉も、常に共にいて、私たちを見ておられ言葉を聞い ておられる、主イエス・キリストの前での、主イエス・キリスト に対して責任のある歩みまた言葉となるのです。主イエス・キ リストの前で、主イエス・キリストに対して責任ある生き方を し、そのような言葉を語っていくことによってこそ私たちは、主 の名をみだりに唱えてそれを汚すことなく、み名を真実に崇 めその栄光を現していくことができます。そこにおいてこそ、私た ちの生き方は本当に責任のある生き方となるし、私たちの語 る言葉も空虚な偽りではなく、誠実なものとなっていくのです。 それこそが、「主の名をみだりに唱えてはならない」という第三の 戒めを守って生きることです。私たちはしばしば、主イエス・キ リストのみ名を見失い、共にいて下さる神がわからなくなり、無 責任で空虚な、偽りの歩みと言葉に陥り、み名を汚してしま う者です。しかし、私たちといつも共にいて下さり、歩みを見 守り、私たちの言葉を聞いておられる主イエス・キリストは、そ のような私たちの罪を責めて裁こうとしておられるのではありま せん。むしろその私たちの罪を主イエスは全て背負って、十字 架の苦しみと死とを引き受けて下さり、それによって私たち を赦し、新しく生かし、神の子として生かそうとして下さって いるのです。私たちはこの主イエス・キリストのまなざしの前で 生き、この主イエス・キリストが聞いて下さっていることを覚 えて語っていくのです。私たちが呼び、唱える神のみ名は主イ エス・キリストのみ名です。主イエス・キリストのみ名を呼ぶこ とを許されている、その恵みの中で生きることによってこそ、私 たちは、主の名を正しく唱え、み名を真実に崇めつつ歩むこ とができるのです。