夕礼拝

私の助け手は報われる

「私の助け手は報われる」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:コヘレトの言葉第8章14節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第10章40-42節
・ 讃美歌:220、520

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」
 この言葉は、これから伝道のために遣わされていく12人の弟子たちに向けて語られたイエス様の言葉です。この10章に入って、弟子たちが遣わされるに当たって、色々な危険や迫害、そして対立が起こることなどがイエス様によって語られ、そこにおける恵みと励ましとを聞いてきました。今日のイエス様の御言葉もまた、弟子たちに対して、そして今の時代に、イエス様に従って歩んでイエス様の弟子とされているわたしたちにも、向けられている、恵みと励ましの言葉です。そして、10章9節10節で、何も持たずに行けと言われた、主の言葉の大事な意図が今日の御言葉には表わされています。そのイエス様のお考えと、恵みと励ましとを本日の御言葉を通して聞いてまいりたいと思います。

 40節をまず、後に置いて、41節から聞いてまいりたいと思います。41節「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」ここで預言者を預言者として受け入れたものが、預言者と同じ報いを受けると言われています。預言者を預言者として受け入れたもの、つまり、預言者を神様の言葉を預かっている遣わされた者として受け止める者、受け入れる者は、その預言者と同じ報いに預かることができるとここでは語られています。12弟子たちは、預言者ではありませんでしたが、彼もまたイエス様からの言葉を預かっていた者たちでした。「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」とイエス様に言われていたように、弟子たちはイエス様から「天の国、つまり神様のご支配が近づいている、だから、神様の方に向きを変えて信じる者となりなさい」という言葉を預かった遣わされた者になっていました。その弟子たちが誰々に受け入れられたとか、受け入れてその人が報われたということなどは、このマタイによる福音書には書かれていません。しかし、旧約聖書の中に、そのような、預言者を受け入れた者の物語が語られていますので、それを見て、イエス様の語る「預言者と同じ報い」とはなんなのかを見ていきたいと思います。

・預言者エリヤを受け入れたやもめの物語
 預言者を受け入れ、水とパンを与えた人の物語が、旧約聖書の列王記上17章に描かれています。それは、あの預言者エリヤとひとりのやもめの話です。その当時、イスラエル全土に雨が降らないために大飢饉が起こっていました。そしてイスラエル全土だけでなく、異邦人が多く住む土地シドンをもその大飢饉は襲っていました。 そのシドンに住むひとりのやもめと、預言者エリヤが出会います。そして、エリヤはやもめに向かってこう言いました。「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」。エリヤは飢饉のために、喉も身体も渇ききっていたのです。そして彼女が水を取りに行こうとすると、エリヤはさらに声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言いました。そこで、そのやもめの彼女は、「はいそうですか、ではパンを持って来ます」とは簡単にはいえませんでした。実は、そのやもめも、大飢饉の中で飢えていて、他人に食べ物を上げることができないほどに貧しくなっていたのです。彼女は水ならなんとかと思って、取りに行こうとしていたのですが、そこでエリヤが「パンも」といったので、彼女はエリヤにこう言いました。「わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶(かめ)の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪(たきぎ)を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」、彼女には一人息子がいて、今、最後のパンを焼いてそれを二人で食べて、後は死ぬしかないと彼女は思っていたのです。彼女は、人になにか分け与える余裕などなかったのです。しかし、エリヤは彼女に向かって「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶(かめ)の油はなくならない。」彼女は、その主の御言葉を信じて、行って言われた通りにすると、彼女もエリヤも、彼女も息子も、幾日も食べるものに事欠かなかった、御言葉通り壷の粉は尽きることなく、瓶(かめ)の油もなくならなかったと聖書には書いています。
 エリヤを受け入れたやもめは、エリヤと同じように、飢えることがないようにパンが与えられ続けました。そして、さらにこの後、その息子が病死するのですが、エリヤによってその息子は蘇らされます。この息子の蘇りに示されているのは、預言者を受け入れたこの家族は、死なずに天に上げられたエリヤにも与えられた、死をも乗り越える恵みに、この家族も同様に与ることができるということです。預言者を受け入れ、神様の御言葉を信じ、水とパンを分け与えた彼女は、エリヤと同じように、飢えることも渇くこともないように水とパンを与え続けられ、そして死をも乗り越える恵みにも預かっていたのです。
 これが、41節に語られている「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け」るということの、内容です。この当時の弟子たちの言葉を信じて、この何も持っていない弟子たちを受け入れ、水やパンを分け与えた人々は、必ず、このやもめに与えられたような報い、恵みに与ることができるとイエス様は弟子たちに教えたのです。わたしたちも、現代のイエス様の弟子たちです。わたしたちも、この世に遣わされている、イエス様の弟子たちであります。そのわたしたちを受け入れてくれる人、わたしたちに水やパン与えてくれる人、言い換えればわたしたちに対して何らかの形で支えてくれている人もまた、必ずわたしたちと「同じ報い」「恵みの報い」に与ることができるということです。そのようなわたしたちを受け入れてくれる隣人を、神様が必ず、わたしたちが預かっている「イエス様がわたしたちの救い主」であるという御言葉、「救うためにイエス様はこの世にきて十字架で死んでくださった」という御言葉、「神様の恵みの支配はもうすでに始まっている」という言葉を、信じて、受け入れてくれる日が来るということを、この41節の言葉を通して約束してくださっているのです。
 なぜ、それほどまでの事を、神様はしてくださるのか。その根拠が、40節に書かれているのです。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」ここでまず注目したいのは、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ」るという言葉です。「わたしたちを受け入れる人は、=イエス様を受け入れることになる」ということは、「わたしたちは、イエス様と同じである=であると」イエス様は見ていてくださっているということです。イエス様は、わたしたちのことを、本当に自分自身の一部としてくださっています。それはわたしたちが神様を信じて洗礼を受けた時、イエス様と一つになり、イエス様の身体の一部にされていることと関係があります。「あなたは、わたしであるから、あなたを受け入れた人は、わたしを受け入れたことになるのだ」とイエス様は言っておられるのです。イエス様は、わたしたちへの支えや施しをご自分のものとして受けてくださる、わたしたちへの愛を、御自身への愛として受けてくださる、だから、その支えや愛を与えてくれた人を必ず報いると言われているのです。
 わたしたちを受け入れてくれる人は、イエス様を受け入れ、そして、イエス様を遣わされた父なる神様をも受け入れる。これは、驚くべきことです。この受け入れるという言葉は、全部現在形で書かれています。だから、わたしたちを受け入れる人は、もうその時、イエス様を受け入れる者となり父なる神様を受け入れる者となるということです。わたしたちの隣人や家族が、わたしたちのことを受け入れてくれた時、また支えてくれた時、そのことに関して、イエス様はそれを御自身にしてくれたこととしてくださり、その隣人や家族を報いてくださるということです。これはなんという恵みでしょうか。
 イエス様は、本当に、多くの人々に、群衆に、わたしたちの隣人や家族に、御自身の恵みをお渡しになりたいと思われているのです。そのために、貧しくなって、この世にイエス様はこられたのです。イエス様は、多くの人にも、わたしたちの隣人にも、報いを与えたいと思われています。その出来事が、ヨハネによる福音書4章にはっきりと描かれています。この話は、42節の「小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」という言葉と繋がりのある話です。

・シカルの井戸の出来事
 ヨハネによる福音書4章でイエス様は、シカルというサマリアの町の一人の婦人に、「水を飲ませてください」と懇願されます。イエス様は旅に疲れ、シカルの町の井戸のそばに座っておられたとここには書かれています。イエス様は、その一人の婦人に、あのエリヤのように「水を飲ませてください」とお頼みになられました。そのイエス様に、この女性は水を汲んで、飲ませてあげたとは、ここには書かれていないのですが、飲まないままイエス様は、「『水を飲ませてください』といったのが、だれであるかを知っていたならば、あなた方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えただろう」とおっしゃられました。また「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」とも言われました。この言葉から、イエス様が「水を飲ませてください」と言われた目的が、この女性から水を飲ませてもらって自分の渇きを癒やすことではなくて、本当はこの女性の魂の渇き、渇きからくる苦しみを癒やす、永遠の命に至る水を与えて救うためだったということがわかります。
 イエス様は、この救いの恵み、永遠の命に至る水を与えるために、貧しくなられました。イエス様は、彼女と出会うために貧しくなられたのです。イエス様は本当に貧しくなって、施しを受けられることを望まれたのです。それは、出会うためであり、永遠の命に至る水という恵みを与えたかったからです。その女性に永遠の命を与えるために、そしてわたしたちにもその永遠の命を与えるために、イエス様は十字架上で究極に貧しくなられ、死なれたのです。それは今日共に読んだ、コヘレトの言葉が書いていることです。「善人でありながら/悪人の業の報いを受ける者があり/悪人でありながら/善人の業の報いを受ける者がある。」何一つ罪も汚れもない善なる方が悪人の受ける報いを受け死に、罪と汚れに満ちた悪人である私たちが、その善なる方が受ける報い、永遠の命という報いを受けたのです。
 その恵みにわたしたちはすでに与っています。その恵みに与ったわたしたちを受け入れてくれた人、支えてくれた人を、イエス様は受け入れてくださり、報いを与えられるという、さらなる驚くべき約束を今日伝えてくださいました。だから、わたしたちは、わたしたちが他の人から報いを受けるほどに貧しくなることが薦められているのです。そうでないと、わたしたちは、隣人に支えられるということがなくなるからです。貧しさの中で他者と出会うということがなくなるからです。わたしたちは、病になるから、医者との出会いが生まれます。孤独であるから友や愛する人との出会いが生まれます。このように貧しいからこそ、出会いが与えられるのです。そしてその時、わたしたちと出会った人たちが主から報われるという機会が生まれるのです。
 イエス様が、弟子たちやわたしたちに、何も持って行くな、つまり貧しくあれと言われたのは、このためなのです。イエス様とひとつになっているわたしたちが、誰かに受け入れられた時、水いっぱいだけの施しを受けたとすれば、その人は主から報われる。それは貧しくなられたイエス様を受け入れたことになり、あの水を飲ませてくださいと望んでくださったイエス様に水を献げたことになると、イエス様はこの所でおっしゃってくださっているからです。
 これはなんという驚くべき恵みでしょうか。わたしたちが貧しい中で、わたしたちを受け入れくれた人、支えてくれた人を、イエス様は御自身を受け入れたことにしてくださって、さらに必ず報いてくださると、言われている。これは、なんと広い、なんと大きな、なんと深い憐れみと恵みでしょうか。
 自分を受け入れてくれた人々が、自分と同じ主からの恵みに与ることができる。それは、まさにエリヤが受けた神様からの恵み、つまり飢えることのないパンと水という恵み、死を乗り越える恵みを与えられるということです。「本当に、あなたと同じ恵みに与るように、わたしが必ず報いる」とイエス様がここで、約束してくださっているのです。「あなたを受け入れたものは、わたしを受けいれてくれる。だから、わたしがもっている永遠の命に彼らにも与える。」イエス様はいってくださっています。そしてイエス様は続けて言われます。「だからあなたがたは、貧しくなりなさい」と。
 ですから、わたしたちは、この世を生きる時に、貧しくありたいのです。この貧しいというのは、ただ金銭的に貧しくなるということではありません。これはあの山上の説教の時にイエス様が語られていた、「貧しさ」です。何にも、誰にも、自分にも頼ることができないような、そのような信頼を置けるようなものが何一つない、その面で物乞いをしなければならないほどに心が貧しいという、あの貧しさです。その貧しさに生きるものは、主を頼ることを知り、本当の幸いを得るということが山上の説教で語られていました。ですから、わたしたちの貧しさというのは、主に全てを委ねて生きる貧しさです。貧しいからこそ、主の言葉に信頼して、明日の食べ物のこと、着るもののことを心配せずに生きることができる。そのような幸いに生きている。傍から見れば、「この人は、明日食べるものも保証されていないし、自分でそれを確保しようと必死にもなっていない、ほんとに大丈夫か。」「毎日その日暮らしで生きているんじゃないのか、貯蓄も備蓄もできないほど貧しいじゃないのか」と、そう思われるかもしれない。実際にそのように生きていた弟子たちは、何も持っていなかっただろうし、替えの下着すらもっていませんでした。見るからに貧しくなっていました。しかし、彼らは、イエス様の言葉を信じて、自分を受け入れて、自分に対して食べ物を与えてくださる人が現れる。そしてそのように、自分を受け入れてくれる人が、自分と同じように、主の恵みによって報われるということを、信じて生きていました。聖書には、遣わされた弟子たちが主のもとに戻ってくることがこの後書かれます。何も持たなかった弟子たちが、死なずに、飢えずに、渇かずに、主のもとに戻ってこられたということは、施してくれる人が現れたということです。つまり彼らは施しを受けたので、その報いを受ける人、主の恵みに与る人々と本当に出会うことができたということです。
 わたしたちもまた、その主の言葉を信じて、貧しくなって生きたいと思います。「わたしを支えてくれた人、わたしを受け入れてくれた人が、神様に受け入れられるのだ。わたしたちを支えてくれた人が、神様から本当の恵みの報いを受けるのだ。」「そして神様を受け入れるものに必ずなるのだ」とそう信じて、この世を歩みたいのです。
 わたしたちが貧しくなる時、わたしたちは隣人に支えられる、逆を言えば、わたしたちが富んでいれば、わたしたちの周りの人は、水一杯を施すこともなければ、支える必要なんてないと思うということです。わたしたちが富んでいるというのは、金銭的な事柄だけではありません。自分の力、自分の能力、自分の功績、自分の社会的地位、それらなんでも、自分を誇示することのできるようなものに、頼っているのならば、そのような意味で、富んでいるのです。そうならば、その人は、主を隣人に受け入れてもらえるチャンスを棒に振っているのです。誰にも頼らない、誰のお世話にもなりたくない、自分の力で生きる、そう思っているなら、家族にも隣人にお世話になるのは迷惑だろうから、できるだけ自分でできることはしようとするならば、その時、その人は、伝道の機会を自分の手でなくしているのです。

 わたしは、今日の御言葉を受けて、妻、息子、そしてわたしを受け入れてくれた、まだクリスチャンではない妻の実家の人々も報われるということを信じることができ、彼らもまた主からの永遠の命を頂くことになるんだという希望を見出しました。イエス様は必ず報いてくださる。だから、本当にこの地上を生きている間に、妻の家族がイエス様からの報いが差し出されているということを知って欲しい。そして、その永遠に渇くことのない水を飲んで欲しい、命に至る道を歩んで欲しいという、強い思いが生まれました。わたしの実家の兄たちもそうです。彼らもまた、貧しいわたしを受け入れてくれている。そして、彼らは、クリスチャンである父も母もその他の兄弟も受け入れてくれている。冷たい水一杯以上のことをわたしは受けている。だから、主が必ず、彼らを報いてくださる。そしてイエス様が、40節で言われているように、わたしを受け入れてくれた彼らは、イエス様も、父なる神様をも、受け入れている。それを、彼らは公にはしていない。公にして欲しい。洗礼を受け、その同じ主から頂く、恵み、希望、永遠の命を持つ者となってほしい。そう思えるようになったのです。これを聞くまでは、自分で家族にどうにかこうにか伝道しなきゃいけないとか、わたしは一番近い関係である家族にすら伝道をちゃんとできていないと頭を悩ませたり、嘆いたりしていました。そのわたしは、どこか、上から目線のところがあったのかもしれません。「自分の持っているものを持っていない人に渡さないと」とか、「自分の持ち物を受け入れてもらうためにうまくプレゼンしないとわかってくれない」とか、そう傲慢に思っていたと思います。しかし、イエス様が「そうではないということ」を、この言葉を通して、わたしに教えてくださいました。「あなたがまず、何も持たなくなること、自分の力や財産を頼るようなこと止めて生き、そして主を頼りながら、また他者を頼って生きる時に、わたしは彼らに受け入れられていくのだ」とイエス様はわたしにも今日の御言葉を通して教えて下さいました。

 イエス様は、42節で「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」といっておられます。ですからわたしたちは小さな者でいいのです。大きな者になって、権威をもって、イエス様のことを宣べ伝えるのではないのです。この「小さな者」という言葉は、「若い」という言葉の意味を持っています。小さくて若いということは、それは「子ども」「赤ちゃん」のようなということです。わたしたちは、幼な子が両親にすべてを委ねるように父なる神様に頼り、父なる神様に頼りながら生きる。そして、何も持っていない子どもであるわたしたちが、お腹をすかせていた時に、素直にお菓子をもっている隣の子どもにお菓子を求めるのです。そうすれば、その隣の子にわたしたちの父が代わりに恵みをくれるのです。お菓子とは比べ物にならないほどの恵み、永遠の命という恵みを差し出すと父なる神様は言われているのです。だから、わたしたちは、父を信頼して、父に委ねて、父の言葉に従って、小さくなって、貧しくなって、今日から、小さな友達、家族に素直に頼りながら、歩んでまいりたいと思います。

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