夕礼拝

熱情の神

「熱情の神」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第4章1-40節
・ 新約聖書:使徒言行録 第17章22-31節  
・ 讃美歌 342、467

モーセの遺言
 私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書からみ言葉に聞いていますが、本日から申命記に入ります。その第一回ということで、本日は先ず、申命記という書物が旧約聖書の中でどのように位置づけられるのかを見ておきたいと思います。創世記から申命記までの旧約聖書の最初の五つの書物を「モーセ五書」と呼びます。この五つの書物はモーセによって書かれたと言い伝えられてきたからです。それを歴史的事実と考えることには無理がありますが、言えることは、この五つの書が旧約聖書の最初のまとまり、区分をなしている、ということです。この最初の区分は内容的には「律法」と呼ばれています。旧約聖書の区分は三つで、第一がこの「律法」、第二は「預言者」、第三は「その他の書」となります。第一の区分「律法」の最後の書である申命記は、内容的に言っても律法の締めくくりであると言えます。申命記の場面設定は第1章3?5節に語られています。「第四十年の第十一の月の一日に、モーセは主が命じられたとおり、すべてのことをイスラエルの人々に告げた。モーセがヘシュボンに住むアモリ人の王シホンを撃ち、アシュタロトに住むバシャンの王オグをエドレイで撃った後のことであった。モーセは、ヨルダン川の東側にあるモアブ地方で、この律法の説き明かしに当たった」。第四十年とは、エジプトを出てから四十年ということです。今彼らがいるのは、ヨルダン川の東側にあるモアブ地方です。イスラエルの民はエジプトを出て四十年、荒れ野を旅し、立ちはだかる敵を打ち破ってきました。そしていよいよヨルダン川を渡って神様の約束の地カナンに入ろうとしているのです。その時モーセが、神様の律法をもう一度人々に説き明かして聞かせている、それが申命記の舞台設定です。モーセ自身は約束の地に入ることができません。モアブの地で死ななければならないのです。そのことが3章23節以下に語られています。「わたしは、そのとき主に祈り求めた。『わが主なる神よ、あなたは僕であるわたしにあなたの大いなること、力強い働きを示し始められました。あなたのように力ある業をなしうる神が、この天と地のどこにありましょうか。どうか、わたしにも渡って行かせ、ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください。』しかし主は、あなたたちのゆえにわたしに向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった。主はわたしに言われた。『もうよい。この事を二度と口にしてはならない。ピスガの頂上に登り、東西南北を見渡すのだ。お前はこのヨルダン川を渡って行けないのだから、自分の目でよく見ておくがよい。ヨシュアを任務に就け、彼を力づけ、励ましなさい。彼はこの民の先頭に立って、お前が今見ている土地を、彼らに受け継がせるであろう』」。このようにモーセは、約束の地を目前にして、モアブの地で死ぬのです。申命記は、死を目前にしたモーセが、イスラエルの民に最後にもう一度語り聞かせている、言わばモーセの遺言です。モーセの遺言である申命記によって、旧約聖書の第一の区分である律法は締めくくられているのです。

旧約聖書の中心
 ここで「申命記」という名称の意味も確認しておきたいと思います。今日の私たちには「申命記」という書名の意味は分かりませんが、これは聖書が漢文に訳された時以来の名称です。漢文において「申」という字は、「繰り返す、重ねる、念を入れる」という意味でした。従って「申命」とは、「命令を繰り返す、重ねて命令する」という意味であり、神様の命令、律法をもう一度語り聞かせるという内容を示しているのです。英語では申命記をDeuteronomyと言います。deuteroは「第二の」という意味であり、nomyは「律法、掟」です。ですから英語では「第二の律法」と呼ばれているわけです。  このように申命記は律法の部分の締めくくりであるわけですが、この書は次のヨシュア記から士師記、サムエル記、列王記に至る歴史書の冒頭の書物であると言うことも出来ます。旧約聖書の研究において、ヨシュア、士師、サムエル、列王記のことを「申命記的歴史書」と呼びます。何故そう呼ぶかというと、これらの歴史書は、イスラエルの民の歴史を、申命記に語られている信仰を原理として解釈し、語っているからです。これらの歴史書は、単に過去の歴史的事実を記録しているだけではなくて、それらをある規準によって評価し、「よい」「悪い」という価値判断を下しているのです。例えば「列王記」はイスラエルの代々の王様の事績を語っていますが、そこにはこの王は良い王だった、悪い王だったということがはっきり示されているのです。その「良い、悪い」の規準となっているのが、申命記に語られている律法です。例えば本日読む第4章の15節以下に延々と語られているのは、主なる神こそがただ一人のまことの神なのだから、偶像を造ったり拝んだりしてはならない、ということです。このことが、ヨシュア記以降において、イスラエルの歴史を評価する基本的な視点となっているのです。王についても、主を礼拝し、偶像を破壊した王は良い王、他の神々を拝み、偶像礼拝を行なった王は悪い王、とされています。このように申命記はその後の歴史記述の規準、原理を示していると言えるわけで、「律法」の部分の締めくくりであると同時に、「預言者」と呼ばれる第二の部分の前半の歴史書の導入ともなっているのです。つまり申命記は旧約聖書において、第一の部分と第二の部分を結びつける働きをしています。それゆえにある学者は申命記を「旧約聖書の中心」と呼んでいます。私たちがこれから読み進めていく申命記はこのように大事な書物なのです。

何一つ加えることも、減らすこともなく
 さて前置きはこれくらいにして、本日の箇所、第4章に入っていきたいと思います。その1節にこう語られています。「イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう」。これがモーセの遺言です。「あなたたちはこれから、主なる神が約束して下さっている地に入ろうとしている。そこを本当に獲得していくためには、その地を与えて下さる神の掟と法を忠実に行なわなければならない。その掟と法をもう一度教えるから、しっかり聞いて、それを行ないなさい」というモーセの思いがここに表れています。モーセはさらに2節でこう言っています。「あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい」。主の戒めの言葉、神の言葉、具体的には聖書に、何一つ加えることも減らすこともしてはならない。これは大事な教えです。私たちはしばしば、神様のみ言葉を自分の思いや判断で取捨選択してしまいます。これは受け入れられるが、こちらは今の時代にはあてはまらない、などと言ってみ言葉の一部を切り捨ててしまうのです。あるいは、み言葉にはこれが足りない、と自分の考えをそこに付け加えてしまうことも起ります。そのようにして私たちは、み言葉を自分の思いに合わせて造り変えてしまうことがあるのです。しかしそれでは、神様に従って、信仰をもって生きることにはなりません。神様のみ言葉に、加えることも減らすこともなく聞き従っていくという姿勢が大事だ、とモーセは教えているのです。

知恵と良識ある民
 さらに5節以下に語られていることも大事です。「見よ、わたしがわたしの神、主から命じられたとおり、あなたた ちに掟と法を教えたのは、あなたたちがこれから入って行って得る土地でそれを行うためである。あなたたちはそれを忠実に守りなさい。そうすれば、諸国の民にあなたたちの知恵と良識が示され、彼らがこれらすべての掟を聞くとき、『この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である』 と言うであろう。いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか」。これから約束の地に入り、周囲の諸国の民の中で生きていくことになるあなたがたに主が掟と法を与えて下さっているのは、それを行なうことによって諸国の民にあなたがたの知恵と良識を示すことができるためなのだ、とモーセは言っています。諸国の民はあなたがたのことを「大いなる国民」として一目置くようになる。それはあなたがたが政治的、経済的、軍事的に強大な国になることによってではなくて、知恵があり、賢明な民である、ということにおいてなのだ。そうなるために、主が与えて下さった掟と法を忠実に行ないなさい、というのです。このことによって示されているのは、主なる神様のみ言葉に従って生きること、つまり信仰をもって生きることは決して、自分たちの殻に閉じこもって、自分たちの間でしか通用しない独善的な生活をすることではない、ということです。私たちが主なる神様の民としてみ言葉に忠実に生きる時に、その私たちの歩み、生活は、知恵と良識のある、賢明なものとして周囲の人々にも認められるようになるのです。神様はそのようなみ言葉を与えて下さっているのです。私たちはそのことを信じ、神様に信頼して、だからこそ、み言葉に何一つ加えることも減らすこともなく聞き従って歩みたいのです。神様のみ言葉を、このままでは人々に受け入れられないから、自分がいろいろ付け加えたり、余計なものを取り除いて人々に受け入れられるようにしよう、などと考えるのは大きな間違いです。モーセが8節で確信を持って、「またわたしが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか」と言っているように、神様のみ言葉、掟こそが、人間が考えるどのような掟や教えよりも正しく、良いものなのです。このモーセの確信に私たちも立って、人間の考えや時代の風潮に左右されることなく、み言葉に忠実に従っていきたいのです。私たちがそのように歩むことによってこそ、周囲の人々も、最初はいろいろ抵抗があり、対立が起こることもありますが、最終的には「この人々には本当に知恵があり、良識がある」と思うようになるのです。

恵みを忘れず、心から離すな
 しかしそれは繰り返しますが、私たちがみ言葉に何一つ加えることも減らすこともせずに聞き従って生きることによってこそ実現することです。そのために私たちがしっかりと気をつけておくべきことがあります。それが9節に語られているのです。「ただひたすら注意してあなた自身に十分気をつけ、目で見たことを忘れず、生涯心から離すことなく、子や孫たちにも語り伝えなさい」。これこそが、私たちが気をつけるべきことです。「目で見たことを忘れず、生涯心から離すことなく、子や孫たちにも語り伝え」る。「目で見たこと」とは、イスラエルの民がこれまで体験してきた、主なる神様によるエジプトの奴隷状態からの救い、荒れ野の旅における守りと導きです。申命記の1?3章はそれらのことを振り返って語っています。これらの、主による救いと導きを、神の恵みを、彼らはその目で見てきたのです。それは彼らの親たちが見たり体験したことでもあります。エジプトから出てきた世代の人々は、四十年の荒れ野の旅の中で皆死に絶えており、今は次の世代になっているのです。彼らは親たちが、前の世代の人々が見たり体験した神様の恵みを受け継いでいるのです。その受け継いだことを忘れず、生涯心から離すことなく歩みなさい、そして、あなたがたが親たちからそれを受け継いだように、今度はあなたがたが自分の子や孫たちにそれを語り伝えなさい、と言われているのです。み言葉に忠実に従って生きるために私たちがなすべきことは、主の掟に違反することがないように気をつけることではなくて、主なる神様による救いの恵みを忘れず、それを心から離さず、しっかりと心に刻みつけることです。神様の恵みを忘れ、そこから心が離れてしまうならば、どんなに強い意志をもって努力しても、み言葉に忠実に生きることはできません。そこに生まれるのは、掟によってがんじがらめに縛られた、不自由な、そこから解放されることこそが喜びであるような歩みです。神様の恵みを忘れると、信仰生活はそのように喜びのない、不自由なものとなります。私たちがみ言葉に聞き従って生きるために気をつけなければならない最も大事なことは、神様の恵みを忘れない、ということなのです。

受け継いだ恵みを語り継ぐ
 そしてもう一つここで言われているのは、その恵みを子や孫に語り伝えなさい、ということです。私たちに与えられている神様の恵みは、親たちから、前の世代の人々から伝えられ、受け継いだものです。受け継いだ恵みは次の世代の者たちに語り伝えていかなければなりません。受け継いだ恵みは、それを語り伝えることによってこそ本当に自分のものとなり、その恵みにあずかることができるのです。言い換えれば、神様のみ言葉の力は、それを語り伝えていくことによってこそ示されるのです。神様のみ言葉は、私一人を救うのではなくて、私の家族をも、子供たちや孫たちをも、神様の民としていく力を持っています。このみ言葉の力を信じて、次の世代の人々にそれを宣べ伝えていきたいのです。それは大変難しいことだと私たちは感じます。しかし神様はそのような私たちに約束のみ言葉を与えて下さっています。それが10節です。「あなたがホレブであなたの神、主の御前に立った日、主はわたしに言われた。『民をわたしのもとに集めなさい。わたしの言葉を彼らに聞かせ、彼らが地上に生きる限り、わたしを畏れることを学び、またそれを子らに教えることができるようにしよう』」。私たちがみ言葉をしっかりと聞き、主を畏れ敬うことを学んでいくなら、私たちは、神様の恵みのみ言葉を子供たちに、次の世代の人々に語り伝えることができる者へと、神様によって変えられていくのです。

偶像礼拝を避ける
 主を畏れ敬うことを学ぶ、イスラエルの民に主の掟、律法が与えられたのはそのためです。その律法の中心は十戒です。次の第5章には、十戒が改めて語られています。本日の第4章においては、十戒の第二の戒めである、「偶像を造り、拝んではならない」ということが先取りされて詳しく語られています。それが15節以下です。このことは、申命記が、主なる神を畏れ敬うことを学ぶ上で最も大事なこととして、偶像礼拝を退けることを位置づけていることを示しています。神を目に見える像に表し、それを拝むことこそが、主なる神様に対する最も大きな罪であり、神様と民との関係を破壊する行為なのです。逆に言えば、主を畏れ敬って生きることは、偶像礼拝を避けることなのです。そこに、主を畏れ敬うとはどのようなことなのかが示されています。そのことを見ていきたいと思います。15節には、偶像礼拝の禁止の根拠がこのように示されています。「あなたたちは自らよく注意しなさい。主がホレブで火の中から語られた日、あなたたちは何の形も見なかった」。ホレブというのは、十戒が与えられたあのシナイ山です。そこでイスラエルの民は、主が火の中から語られるのを聞いたのです。その時に人々は、主なる神の姿を見ることはありませんでした。主は、み言葉によって彼らに語りかけたが、目に見える形はお示しにならなかったのです。このことが、神を目に見える像として造ってはならないことの理由とされています。つまりこの教えは、主なる神がどのような仕方でご自身をお示しになったか、それに基づいて礼拝はなされるべきなのであって、それ以外の、人間が考えたり造り出したやり方で神を拝んではならない、ということです。主なる神は私たちに、目に見える像によってではなくみ言葉によってご自身を現し、交わりを持とうとしておられるのです。そのみ心に従うことこそが主を畏れ敬うことです。つまり、神を畏れ敬うというのは、私たちが自分で、こうしたら神を畏れ敬うことになるだろうと考えたことをすることではなくて、神様ご自身が私たちとどのような関係を持とうとしておられるのか、そのみ心に従うことなのです。そのみ心を求めることなしに、自分の思いによって、こうすれば神を畏れ敬い仕えることができる、と決めてしまうならば、それは私たちが自分の思いによって神を造り上げてしまうことなのであり、そこに偶像礼拝が生まれるのです。偶像礼拝とは、何かの像を拝み手を合わせるかどうか、ということ以前に、神がご自身をお示しになった、そのみ心に従って礼拝するのか、それとも自分の思いや考えによって造り上げた神を拝むのか、という問題なのであり、一言で言えば、神を本当に畏れ敬おうとしているのか、ということなのです。本日共に読まれた新約聖書の箇所、使徒言行録17章22節以下は、パウロがアテネの町で語った説教ですが、そこには、この偶像礼拝の姿がはっきりと示されています。アテネの人々は、様々な神々の偶像を造って拝み、まだ自分たちが知らないでいる神もおられるかもしれないと思って、「知られざる神に」という祭壇まで造って拝んでいたのです。そのことは、人間が自分で考え出した神を拝む偶像礼拝においては、どんなに多くの神々を拝んでいても、まだ何か足りないのではないか、という不安がどこまでもつきまとうことを示しているのです。

熱情の神
 24節には、偶像礼拝を避けなければならない理由がこのように語られています。「あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである」。「熱情の神」という言葉は、以前の口語訳聖書では「ねたむ神」となっていました。主なる神が、偶像への礼拝に対しては焼き尽くす火のように怒りを燃えあがらせ、また私たちが主以外の偶像や、19節にあるような太陽、月、星などの被造物を拝むことに対してはねたみを覚えられる、という記述は私たちにとってつまずきの多いものかもしれません。怒るとかねたむというのは、罪人である人間のすることで神様には相応しくないと思うのです。しかしこの怒りやねたみは、主なる神が私たちのことを本気で愛しておられることのしるしです。本当に愛しているからこそ、相手が他の者に心を向けることに対して怒りやねたみを覚えるのです。そういう意味でこの「熱情の神」という訳はなかなかよいと思います。主なる神が私たちのことを、熱情をもって、本気で愛して下さっているのです。それゆえに、私たちがその愛を受け止めずに自分の思いによって神を何かの造に造ったり、被造物に過ぎないものを神としてしまうことに対しては、その熱情は怒りに変わるのです。ですからこれは、偶像を拝んだりしたら神の怒りが怖いぞ、と言っているのではありません。そういうことではなくて、主が熱情をもって、本気でこの私を愛して下さっていることを知ることによってこそ偶像礼拝から解放されるのだ、ということが語られているのです。熱情の神が、熱情をもって本気でこの私を愛し、恵みの内に置いて下さっている、そのことを知るなら、私たちは、自分のちっぽけな考えや知識によってあの神この神を造り出して拝むのではなくて、自分を本当に愛して下さっているただ一人の神の下に、安心して留まることができます。そこには、まだ何か足りないのではないかという不安はありません。熱情の神が自分を捉え、決して離すことなく共にいて導いて下さる、その熱情に身を委ねることができるのです。32節以下に語られているのは、熱情の神と出会った者の言葉です。「あなたに先立つ遠い昔、神が地上に人間を創造された最初の時代にさかのぼり、また天の果てから果てまで尋ねてみるがよい。これほど大いなることがかつて起こったであろうか。あるいは、そのようなことを聞いたことがあろうか。火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きている、あなたと同じような民があったであろうか。あるいは、あなたたちの神、主がエジプトにおいてあなたの目の前でなさったように、さまざまな試みとしるしと奇跡を行い、戦いと力ある御手と伸ばした御腕と大いなる恐るべき行為をもって、あえて一つの国民を他の国民の中から選び出し、御自身のものとされた神があったであろうか。あなたは、主こそ神であり、ほかに神はいないということを示され、知るに至った。主はあなたを訓練するために、天から御声を聞かせ、地上に大いなる御自分の火を示された。あなたは火の中からその言葉を聞いた。主はあなたの先祖を愛されたがゆえに、その後の子孫を選び、御自ら大いなる力をもって、あなたをエジプトから導き出された。神はあなたよりも強大な国々をあなたの前から追い払い、あなたを導いて、今日のように彼らの土地をあなたの嗣業の土地としてくださった」。モーセが語っているこの神の恵みの熱情を私たちは、その神の独り子イエス・キリストの十字架の死と復活において示され、与えられています。主イエスにおいて実現した救いの出来事は、イスラエルの民のエジプトからの解放、荒れ野の導きに優る、驚くべきみ業です。神の独り子が私たち罪人のために、命を犠牲にして赦しを与えて下さったのです。この主イエス・キリストによる神の恵みの熱情が私たちに与えられているのです。私たちはそれを決して忘れないように、生涯、心から離さずに歩みたいのです。そしてこの神様の愛、熱情を、家族に、子供や孫たちに語り伝えていきたいのです。主イエスによって示されている主なる神の熱情によって生かされていくことこそが、主を畏れ敬って生きることです。その熱情を伝えているみ言葉に何一つ加えることも減らすこともなく、私たちも熱情をもってそれを宣べ伝えつつ、主の民として歩みたいのです。

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