【2024年5月奨励】「主の霊のおられるところに自由があります。」

  • コリントの信徒への手紙二 第3章12〜18節
今月の奨励

2024年5月の聖句についての奨励(5月1日 昼の聖書研究祈祷会)
「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」(17節)   

コリントの信徒への手紙二第3章12〜18節 牧師 藤掛順一

ペンテコステを迎える5月の聖句
 5月19日が今年のペンテコステ(聖霊降臨日)です。そのことを覚えて5月の聖句を選びました。ペンテコステは弟子たちに聖霊が降り、教会が誕生したことを記念する日です。教会は聖霊のお働きによって生まれ、聖霊のお働きによって今日まで支えられてきました。私たちの教会は今年創立150周年を迎えますが、150年前にこの教会を誕生させて下さったのも、そしてこの150年間、様々な危機や困難の中でこの教会を守り支えてきて下さったのも聖霊なる神です。創立150周年において私たちは、150年間の聖霊のお働きを覚え、感謝すると共に、その聖霊が今度は私たちに注がれて、教会が新たに築かれていくことを祈り求めていくのです。
 その聖霊のお働きを覚えて、コリントの信徒への手紙二の第3章17節の「主の霊のおられるところに自由があります。」を今月の聖句としました。ここには、主の霊つまり聖霊が私たちに自由を与えて下さる、聖霊を受けることによって私たちは自由に生きる者とされる、と語られています。聖霊が私たちに注がれ、働いて下さることによって、私たちは自由な者とされるのです。この5月、私たちは、聖霊が降って教会が生まれたというペンテコステの出来事を覚えると共に、「主の霊のおられるところに自由があります」というパウロの言葉をも受け止め、聖霊によって自由にされた者として歩んでいきたいと思います。そしてこの二つのことの関係をしっかりと捉えたいのです。なぜならば、この二つのことの間にはある緊張関係が感じられるからです。

「一つにされる」ことと「自由な者とされる」ことの緊張関係
 どのような緊張関係でしょうか。聖霊が降って教会が生まれた、教会は聖霊のお働きによって存在し、歩んでいる、というペンテコステの出来事に重きを置いて歩む中で、その教会に連なっている私たちは、一人ひとりが聖霊によって自由に生きる者とされているということを見失ってしまう恐れがあります。教会は聖霊のお働きによって一つの「キリストの体」として築かれており、私たちはその部分、肢体(えだ)、とされています。この聖霊の働きは、私たちをキリストという頭(かしら)のもとに結び合わせ、一つの群れへと結集します。教会は聖霊によって結集された群れであるわけで、そこには私たちを「一つにする」という方向性があるわけです。聖霊によって誕生し、歩んでいる教会において、私たちはバラバラではなく一つとされているのです。このことを強調していく時に、「主の霊のおられるところに自由があります。」というみ言葉が見失われることがあります。「結集されて一つとなる」ことと、「それぞれが自由な者として生かされる」ことでは、方向性が反対であるように感じられるのです。だから「一つにされる」ことを強調する中で「自由な者とされる」ことを見失ってしまいがちなのです。そこに「緊張関係」があるのです。

教会をどう捉えるか
 他方、「主の霊のおられるところに自由があります」というみ言葉に重きを置いて歩む中で、ペンテコステにおける教会の誕生の出来事を見失ってしまう、とうことも起こります。それは私たちが教会をどのようなものとして理解するか、に関わっています。つまり、聖霊によって自由にされていることに重きを置く中で教会を捉えようとすると、聖霊によって自由にされた一人ひとりが、それぞれの自由な意志によって集まることによって教会を築いているのだ、という教会理解に陥る恐れがあるのです。そこでは、教会は聖霊のお働きによって誕生し、結集されているというペンテコステの出来事が見失われて、教会は人間の自由な意志によって成り立っている、ということになります。そうなると、教会に行くのも行かないのも自分の自由だ、行きたいと思ったら行くし、行きたくなければ行かなければよい、ということになります。教会における兄弟姉妹の交わりも、それに参加するかどうかは自分の自由意志による、嫌なら参加しなければよい、ということになります。聖霊によって与えられている自分の自由が教会によって少しでも損なわれることは拒絶する、という思いがそこにはあるのです。しかし教会は、人間が自由な意志によって成り立っている共同体、つまり人間の結社ではありません。教会を生み出したのは人間の意志ではなくて、聖霊のお働きです。その背後には神の選びと召しがあります。神が私たちを選んで下さり、教会へと召し集めて下さっているのです。その神のみ心によって私たちは信仰を与えられ、洗礼を受けて教会に加えられているのです。その神のみ心を私たちの間で目に見える仕方で実現して下さっているのが聖霊です。私たちは自分の自由な意志によって教会に連なっているのではなくて、聖霊によって実現している神のご意志によって教会へと召し集められているのです。ですから、「主の霊のおられるところに自由があります」というみ言葉は、ペンテコステにおける教会の誕生の出来事と切り離して捉えてしまうと、その正しい意味が見失われてしまうのです。それゆえに、一見反対の方向性を持っているように思えるこの二つのことを共に受け止めることが大事です。つまり、両者の関係を正しく捉えることが大事だ、ということです。教会はペンテコステに聖霊が降ったことによって誕生し、聖霊によって私たちは教会へと召し集められ、一つとされている、ということと、「主の霊のおられるところに自由があります」というみ言葉との緊張関係をきちんと受け止めることは、私たちの信仰においてとても大事なのです。

古い契約と律法による「覆い」
 「主の霊のおられるところに自由があります」という17節のみ言葉はどのような文脈の中で語られているのでしょうか。この言葉の前の16節には「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」とあります。その後の18節にも「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて」とあります。つまり主の霊のおられるところにある自由とは、「覆いを除かれる」ことなのです。その「覆い」とは何でしょうか。15節には「このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています」とあります。14節にも「今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです」とあります。つまりこの「覆い」は、「モーセの書」と「古い契約」によるものです。「モーセの書」とは、旧約聖書の最初の五つの書のことで、その部分は「律法」と呼ばれています。その律法は、神がイスラエルの民と結んで下さった「古い契約」において与えられたものです。エジプトの奴隷状態からの解放という救いのみ業を前提として主なる神がイスラエルの民と契約を結び、イスラエルをご自分の民として下さり、イスラエルの神となって下さったのです。その契約によって神の民とされたイスラエルに与えられた掟が律法です。つまり律法は、神がイスラエルを救って下さり、契約によってご自分の民として下さったことの印であり、イスラエルが神の民として結集され、立てられていることの印なのです。しかしその古い契約と律法が「覆い」となってしまっている、とパウロは言っています。それはその契約や律法に問題があったということではなくて、イスラエルの民が、律法を、神が自分たちを神の民として下さった契約の恵みに感謝して生きるためのものではなくて、律法を守ることによって神の民となれる、と捉えてしまうようになったことが原因です。神から律法を与えられ、それを守っていることが自分たちが神の民であることの印だ、と誇るようになり、他の民族を、神の民でない「異邦人」として蔑むようになったのです。しかし神がイスラエルと契約を結び、ご自分の民として下さったのは、イスラエルが優れた民だからではなくて、ただ神の恵みと憐れみによってでした。つまりイスラエルの民は、何の取り柄も資格もない自分たちに神が恵みによって救いを与え、神の民として下さったことを見失って、「自分たちは神の契約の相手であり、律法を与えられた優れた民だ」と誇るようになったのです。それが「彼らの心には覆いが掛かっています」ということです。律法や契約が、神の恵みを見失わせる覆いになってしまっているのです。

キリストによって覆いが取り去られる
 律法(モーセの書)と結びついた古い契約がこのように「覆い」となってしまっている中で、主なる神は独り子イエス・キリストによって「新しい契約」を打ち立てて下さり、その「覆い」を取り除いて下さいました。主イエス・キリストによる新しい契約は、主イエスが私たち人間の罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、そして父なる神が主イエスを復活させて下さったことによって与えられました。主イエスの十字架の死によって神は私たちの罪を赦して下さり、主イエスの復活によって私たちに、神の民として生きる新しい命を与えて下さったのです。そのようにして、主イエスを頭とする新しい神の民を結集して下さったのです。神と人間との間の契約は、神と人間との関係を築き、神の民を生み出します。古い契約によってイスラエルが神の民として立てられたように、主イエス・キリストによる新しい契約によって、キリストの体である教会という新しい神の民が立てられたのです。古い契約においては、律法が「覆い」となって神の恵みが見えなくなり、人間の誇りがそこに入り込んできました。しかし主イエスによる新しい契約においては、その覆いは取り除かれて、主イエスの十字架と復活によって罪人である人間が赦されて救われ、神の民として新しく生かされる、という神の恵みがはっきりと示されたのです。「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」という16節はそのことを語っているのです。

聖霊による自由とは
 つまり16節における「主」は「主イエス・キリスト」のことです。しかし17節に入ると「ここでいう主とは“霊”のことですが」と語られており、主イエスが聖霊に変っています。それは、主イエス・キリストの十字架と復活によって神が実現して下さった新しい契約が、聖霊のお働きによってこそこの世の現実となり、私たちがそれにあずかることができるからでしょう。主イエス・キリストの十字架と復活による新しい契約によって神が打ち立てて下さった、ご自身と私たちとの新しい関係、しかもただ神の恵みによって罪人である私たちに与えられている関係を実現し、私たちを新しい神の民として生かして下さるのが聖霊なのです。そしてこのことを受けて、「主の霊のおられるところに自由があります」と語られているのです。つまりここで見つめられている聖霊によって与えられる自由とは、律法による覆いを取り除かれて、言い換えれば人間の誇りを取り除かれて、主イエスの十字架と復活によって罪人が赦されて神の民とされる、という救いの恵みに生きる者とされることです。つまりこの自由は、主イエス・キリストによる新しい神の民の結集を、主イエスのもとに私たちが一つとされ、キリストの体である教会へと召し集められることを指しているのです。ですから、ペンテコステの出来事によって教会が誕生し、結集されたことと、「主の霊のおられるところに自由があります」というみ言葉の間に、実は緊張関係はないのです。両者は同じ救いを見つめているのです。そこに緊張関係を感じてしまい、片方に重きを置くと他方を見失ってしまうことが起こるのは、私たちが、主の霊によって与えられる自由を正しく捉えることができていないからです。聖霊による自由とは、神の掟である律法を守ることによって神の民となろうとする思い、つまり人間の誇りによって覆いがかけられ、見失われている神の恵みをはっきりと示され、その恵みによって神の民とされている者として生きることです。そこでは、自分がどれだけ良い行いをして神の民らしく生きることができるか、という「自己査定」からの解放が与えられます。それと共に、他の人と自分を比べて、どちらがより立派な信仰者として生きているかを測り、誇ったり落ち込んだりすることからも解放されます。そのようにお互いがお互いのことを「査定」しながら生きている不自由な歩みから、弱い罪人でしかない自分を神がその独り子イエス・キリストの十字架と復活によって赦し、神の民として新しく生かして下さっていることを喜び、感謝して生きるまことの自由へと私たちは解放されるのです。この主イエス・キリストを頭とする新しい神の民である教会に召し集められ、その部分とされて、兄弟姉妹と一つとされて生きるところに、聖霊によって与えられる自由があるのです。

聖霊による自由を大切にしよう
 ですから教会へと結集され、神を礼拝しつつ、兄弟姉妹と一つとされて生きることは、聖霊によって与えられる自由を損なうものでは全くありません。むしろそこにこそ、自己査定や人との比べ合い(つまりは誇り合い)からの解放、自由があるのです。そして同時に私たちは、聖霊によってキリストの体である教会へと召し集められ、一つとされて歩む中で、聖霊が私たちを自由な者として下さっていることを大切にしなければなりません。古い契約による古い神の民において、本来神の恵みの印だったはずの律法が、神の恵を覆い隠すものとなってしまったように、私たちにおいても、主イエス・キリストによる神の救いの恵みが覆われてしまうことが起こります。自分がどれだけ信仰者らしい生活をすることができているか、神の前で「正しい、良い人」となっているか、ということに囚われて、「自分など神の救いに相応しくない」と思ったり、逆に人のことを「あの人は信仰者としての生活ができていない」と批判し、裁いたりするなら、私たちの心にも「覆い」がかかっており、主イエス・キリストの十字架と復活による神の救いの恵みが見えなくなっているのです。教会を結集し、一つの群れとしているのは、立派な信仰者となろうとする人間の努力ではありません。そのことを自分に求めている人はしばしば、他の人にもそれを求めて人を裁くようになります。聖霊は、そのようなことから私たちを自由にするのです。教会とは、この自由に生きている者たちの群れなのです。

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