【2023年7月奨励】ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って

  • ガラテヤの信徒への手紙 第2章15-21節
今月の奨励

「ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って」牧師 藤掛順一

ガラテヤの信徒への手紙第2章15〜21節

信仰によってのみ義とされる

 ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、罪人である私たちが義とされ、救われる、それが私たちプロテスタント教会の信仰の根本です。救いは、私たちがどれだけ善い行いをするか、清く正しい人間になるか、によってではなく、イエス・キリストの十字架と復活によって神が実現して下さった罪の赦し、贖いによって、神の恵みとして与えられるのです。救いにあずかるために私たちに求められているのは、善い行いをし、清く正しい人になることではなくて、イエス・キリストを信じること、それだけなのです。聖書の中で、このことを明確に語っている代表的な箇所が、ガラテヤの信徒への手紙です。特にその第2章16節にそれがはっきりと語られています。「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」。律法の実行によってではなく、イエス・キリストへの信仰によって義とされる、ということが強調されています。

パウロが受けた批判

 「律法の実行によってではなく」ということを私たちは大した驚きもなく受け止めているのではないかと思いますが、パウロがこのように語った背後には、大変な戦い、葛藤がありました。ユダヤ人であり、ファリサイ派のエリートだった彼は、「律法の実行こそが神の民の印であり、そこにこそ救いがある」という固い信念を持っていたのです。その彼が「律法の実行によってではなく」と言うようになったのは、まさに天地がひっくり返るような出来事でした。そしてそのことによって彼は、周囲から猛反発を受けたのです。そのことの痕跡が本日の箇所にもあります。17節に「もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない」とあります。ここは難解な箇所ですが、単純に言えば、キリストによって義とされると信じている者が、だから神の律法を無視して罪人であり続けてそれでよいとしてしまうなら、キリストは罪を助長する者ということになるのではないか、ということです。そういう批判をパウロは受けたのです。そのことはローマの信徒への手紙第6章1節の「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」にも現れています。キリストによる罪の赦しが救いなら、救いの恵みがより大きくなるために罪の中に留まっていた方がいい、ということになるではないか、という批判です。同じ6章の15節にも「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか」とあります。これらの批判に対してパウロは、本日の箇所においてと同じく、「決してそうではない」と語っています。「律法の実行によってではなく、キリストによる罪の赦しによって救われる」というのは、決して、「だから罪を犯してよい、罪に留まっていてよい」ということではないのです。

信仰による救いと善い行い

 私たちも同じような疑問を持ちます。善い行いをすることによってでなく、ただキリストを信じる信仰によって義とされ、救われるのだとしたら、善い行いをしても意味がないことになり、誰も努力して善い行いをしようとはしなくなるのではないか、つまりこの教えは罪を助長することにならないか、と思うのです。しかし、決してそうではありません。キリストを信じることによって義とされるという教えは、罪を犯してよい、ということでは決してないのです。

 しかしだとしたら、やはり善い行い、律法の実行も、救いのためには必要だ、ということなのでしょうか。そうではありません。本日の箇所の18節はそのことを語っていると思われます。「もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違反者であると証明することになります」。「自分で打ち壊したもの」、それは「律法の実行によって救われる」というそれまでのユダヤ人の常識です。パウロは「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って」その常識を打ち壊したのです。それなのに、やはり律法の実行も必要だ、というのでは、一旦打ち壊したものを再び建てるようなものです。そんなことはあり得ない。救いのために必要なのは、律法の実行、善い行いではなくて、ただイエス・キリストを信じる信仰のみなのです。

神に対して生きるために律法に対して死んだ

 それはどういうことでしょうか。救いはキリストを信じる信仰によって与えられるのであって、律法の実行、善い行いは必要ない、しかし罪を犯してよいわけではない、というのでは、「一体どっちなんだ。わけが分からない」と思います。でもそれこそがパウロが語っていることなのです。このように語っているパウロが何を見つめ、考えているのかが19節以下に語られています。19節に、「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」とあります。「神に対して生きるために律法に対して死んだ」。それがパウロが体験していることです。そのことはさらにこう言い替えられています。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」。律法の実行による救いを信じていた自分が、キリストと共に十字架につけられて死んだのです。それが「わたしは律法に対して死んだ」ということです。キリストは、律法に違反する者として殺されました。律法に対して生きていたパウロは、それが当然だと思っていましたが、復活して生きておられるキリストと出会ったことによって、全てがひっくり返る体験をしました。もはや律法に対して生きることはできなくなり、律法に対して死んだのです。そのことによって彼は、キリストが自分の内に生きておられること、キリストによる神の愛が自分を生かしていることを知りました。律法に対して生きていた彼が、「神に対して生きている」者となったのです。律法に対して生きていた古い自分はキリストの十字架と共に死んで、復活したキリストがわたしの内に生きておられる。つまり律法によってではなく、神の愛によって生かされている新しい自分とされている。そういう「新しい生」「生まれ変わり」をパウロは体験したのです。

神の恵みを無にせずに生きる

 つまりパウロにとって問題は今や、救われるための条件は何か、律法の実行か、それともキリストを信じる信仰か、ではありません。律法に対して生きていた自分が、今は神に対して生きている、という事実が全てなのです。律法に対して生きていた間は、律法の実行、善い行いこそが救いのために自分が満たすべき条件でした。しかしその古い自分はもう死んで、今や神に対して生きているのです。神が、独り子イエス・キリストの十字架と復活によって実現して下さった罪の赦しによって救われ、復活したキリストが自分の内に生きていて下さるのです。この新しい命は、律法の行い、善い行いによって得られたのではありません。それとは関係なく、独り子イエス・キリストの十字架と復活によって与えられたのです。20節後半はそのことを語っています。「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。神の独り子である主イエスが、自分を愛し、自分のために身を献げて下さった、その事実によって生かされているのです。この事実こそが何より大事です。この事実から離れて生きることはもはやできないのです。そのことを語っているのが21節です。「わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」。キリストが自分のために十字架にかかって死んで下さった、その事実から離れて、「律法の行い、善い行い」による救いを求めることは、キリストの死を無意味なものとしてしまうことであり、神の恵みを無にしてしまうことです。そしてまた、律法の行い、善い行いによって救われるのではないからといって、罪に留まっていてよいとか、罪人のままでいい、というのも、私たちの罪を赦して神の民として新しく生かすために十字架にかかって下さったキリストの死を無意味なものとし、神の恵みを無にすることなのです。

救われるための条件ではなく

 ですから私たちは、救われるための条件は何か、という考え方をやめなければなりません。そのように考えているから、善い行いをすることと、キリストを信じることのどちらが条件なのか、そしてキリストを信じることのみが条件なら、善い行いはしなくてよい、罪に留まっていてよいということか、という話になるのです。私たちの救いは、私たちがどういう条件を満たしたら与えられる、というものではありません。主イエス・キリストは、私たちが救われるための条件を設定なさったのではなくて、私たち罪人を愛して下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。そして父なる神は、その主イエスを復活させて、私たちと出会わせ、キリストを私たちの内に生かして下さっているのです。キリストの十字架と復活によって、古い、罪に支配された私たちは死んで、キリストが内に生きておられる新しい私たちへと生まれ変わっているのです。そのことの印として私たちは洗礼を受けます。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」ということが、洗礼において私たちの現実となっているのです。

 つまり、洗礼も、救われるための条件なのではありません。洗礼を受ける、という条件を満たすことによって救われるのではないのです。洗礼は、神が、独り子イエス・キリストの十字架と復活によって私たちの罪を赦して義として下さったことを、私たちが信じて受け入れ、その救いの恵みにあずかることの印です。私たちが信じたことによってその救いが実現するのではなくて、神がすでに実現して下さっている救いを受け入れることによって、それが私たちの人生において現実となるのです。ですから、「ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、罪人である私たちが義とされ、救われる」ということを誤解しないようにしなければなりません。それは、「イエス・キリストを信じる信仰」が救われるための条件だ、ということではないのです。

キリストの真実によって

 「イエス・キリストを信じる信仰によって」という訳はそういう意味で問題かもしれません。新しく出た「聖書協会共同訳」において、16節は「しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って‥」となっています。20節後半も「私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです」となっています。「信仰」と訳されていた言葉がいずれも「真実」となっているのです。この言葉にはどちらの意味もあります。「相手に対してどこまでも誠実であること」というような意味です。それを「信仰」と捉えれば、キリスト(神の子)を信じる私たちの信仰、という意味になるし、「真実」と捉えれば、キリスト(神の子)が私たちを徹底的に愛して下さり、救いの約束を実現して下さることを意味することになります。私たちの救いは、私たちがキリスト(神の子)に対してどこまでも誠実であることによって得られるのではなくて、「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」によって与えられているのです。つまり「イエス・キリストの真実」こそが私たちを救って下さっているのです。「ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、罪人である私たちが義とされ、救われる」というのは、この事実によって生きることです。私たちがイエス・キリストを信じる信仰者という立派な人になることによって救われるのではありません。洗礼を受けてクリスチャンになることによって救われるのでもありません。神の子イエス・キリストが罪人である私のために身を献げて下さり、十字架にかかって死んで下さった、そのキリストの真実、神の愛こそが私たちを救うのです。私たちはその救いを信じて受け入れ、洗礼を受けることによって、神による救いにあずかり、神の愛、恵みの中を生きていくのです。その神の恵みを無にすることはできません。だから、善い行いによって救われるのではないけれども、罪を犯してよい、罪の中に留まっていてよい、ということはないのです。善い行いなしに罪人を義として下さった神の愛に感謝して、私たちは出来る限り、善い行いに励むのです。

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