【2023年2月奨励】主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。

  • フィリピの信徒への手紙 第4章4-7節
今月の奨励

牧師 藤掛順一

・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙第4章4-7節

1月の聖句の続き、言い換え

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」という4節を、2月の聖句としました。1月の聖句は「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」(コリントの信徒への手紙二第4章8節)でした。この聖句によって生かされていくことによって私たちは、「常に喜ぶ」ことができる者とされます。つまりこの2月の聖句は、1月の聖句の続きであり言い換えであると言うことができるでしょう。両者は同じことを見つめていると言えるのです。信仰によって私たちは、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、(虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない)」という歩みを与えられ、それによって「常に喜んで生きる」者とされるのです。

私たちの知恵や力や信仰によってではなく

しかしそれは、私たちの強さや努力、精進によって実現することではありません。「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」と言うことができるのは、私たちが何事にも動じない強い人になることによってではなくて、みすぼらしく壊れやすい「土の器」である私たちの中に「並外れて偉大な神の力」が注がれているからでした。その神の力は、「イエスの死」と「イエスの命」、つまり主イエスの十字架と復活において示されており、私たちは洗礼によってその神の力にあずかり、それによって生かされているのです。洗礼を受けた私たちは、主イエスの十字架と復活による神の救いにあずかっており、その「並外れて偉大な神の力」を注がれているので、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」と言うことができるのです(先月の奨励)。同じように「常に喜んで生きる」ことも、私たちが、どんな苦しみや悲しみにおいても喜ぶことができる強靭な精神力を持っているとか、苦しみや悲しみに負けずにいつも喜んでいようと堅く決心することによって実現するものではありません。そんなことは不可能だし、そもそも不自然です。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」というみ言葉は、私たちに不自然な生き方を無理強いしようとしているのではありません。あなたがたは、自然に、無理なく、いつも喜んでいることができる、とこの言葉は告げているのです。それは私たちの中にある何か(知恵や力や信仰)によって実現することではありません。神の力が私たちに働くことによってです。7節がそのことを語っています。「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。「常に喜んでいる」などということは「あらゆる人知を超え」ています。人間の知恵や力はもとより、信仰によってすら、そんなことは不可能です。それを可能にするのは「あらゆる人知を超える神の平和」であり、それが私たちの心と考えとを守ることによってです。そのことを見つめて、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」と言われているのです。だからこのみ言葉を聞いて私たちがなすべきことは、常に喜ぶことができる人になるために修行を積むことではなくて、「あらゆる人知を超える神の平和」が私たちの心と考えとを守る、ということが実現するようにすることです。そのためになすべきことがこの箇所に語られているのです。

キリスト・イエスの中に置かれることによって

「あらゆる人知を超える神の平和」が私たちの心と考えとを守るのは、「キリスト・イエスによって」です。この「よって」は英語では in です。「キリスト・イエスの中で」そのことは起るのです。私たちが主イエス・キリストの「中に」あることによってこそ、神の平和が私たちを守るのです。この「主イエス・キリストの中にある」ことも、私たちの努力によって実現することではありません。私たちは頑張って努力して主イエス・キリストの中に「入る」のではなくて、神の恵みによって、キリストの中に「入れられる」のです。そのことが洗礼において、聖霊のお働きによって起っています。洗礼を受けた私たちは、既にキリストと結び合わされ、「キリストの体」である教会の一員とされているのです。洗礼を受けた者は既に「キリスト・イエスの中で」生きているのであって、「あらゆる人知を超える神の平和」によって心と考えとを守られているのです。「主において常に喜びなさい」という勧めもそのことに基づいています。「主において」の「おいて」も in です。あなたがたは主イエス・キリストの中にいるのだから、常に喜びなさい、と語られているのです。常に喜ぶことも、あらゆる人知を超える神の平和に守られることも、全ては私たちが主イエス・キリストの中に入れられ、主イエスの中で生きていることによります。そしてそれは洗礼において実現するのです。

私たちの心と考え

しかしそれは、洗礼によって自動的に起ることではありません。洗礼を受けたら、私たちの心と考えが言わばリモートコントロールされて、いつも神の平和に守られるようになる、というわけではありません。「心と考え」と言われていることが大事です。神は私たちに「心と考え」を与えて下さっています。それは神が私たちをあやつり人形のようにコントロールしておられるのではなくて、私たちに、自分で考え、思い、決断して生きていく自由ないし主体性を与えて下さっているということです。私の「心と考え」はあくまでも「私の」心と考えなのです。その「私の心と考え」が「キリスト・イエスの中に」置かれることによって、「あらゆる人知を超える神の平和」に守られるようになるのです。それは私たちのあずかり知らないところで自動的に起ることではなくて、私たち自身が、「キリスト・イエスの中に置かれている」ことを自分の心と考えにおいて受け止め、そこに身を置いて生きていくことによってこそ現実となるのです。私たちを洗礼において主イエス・キリストの中に入れて下さるのは神(聖霊)であって、それは私たちの努力によることではありません。しかし私たち自身がその神(聖霊)のみ業を受け止めて、キリストの中に置かれている者として生きていくことがなければ、神の平和によって守られることは実現しないのです。

主は近い

それでは、自分が主イエス・キリストの中に置かれていることを受け止めて生きるとはどのように生きることなのでしょうか。そのことが、この箇所の5、6節に語られているのです。5節には「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」とあります。「常に喜びなさい」と並んで、「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」と勧められているのです。「主において」、つまり主イエス・キリストの中で生きているあなたがたは、「広い心」(寛容な心)をもって人々に接することができる、つまり人を愛する者となることができる、ということです。この勧めの根拠として、「主はすぐ近くにおられます」と語られています。つまり、主イエス・キリストの中に置かれていることを受け止めて生きることは、主がすぐ近くにおられると信じて生きることでもあるのです。ここは直訳すれば「主は近い」です。「主はすぐ近くにおられる」と訳すと、場所的、距離的に主がすぐ近くに共にいて下さる、ということになりますが、この言葉はもっと広い意味を持っています。「近い」は距離的な近さだけでなく、時間的な近さをも意味しているのです。主イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)と語られました。神の国、つまり神の恵みのご支配が、主イエスによって決定的に近づき、実現しようとしている、それが「福音」です。「主は近い」とはそういう意味でもあります。パウロが「主は近い」と言っているのは、復活して天に昇られた主イエスがもう一度来て下さり、救いを完成して下さる世の終わりの時は近い、ということでもあるのです。このことを信じ受け止めて生きることが、「主にあって」つまり主イエス・キリストの中に置かれている者として生きることです。「主にあって」、主イエス・キリストの中に置かれていることを受け止めて生きるとは、「主は近い」と信じて、主イエスの再臨による救いの完成を信じて待ち望みつつ生きることなのです。

終末の希望

「再臨が近いと信じる」というのは、「あと何年ぐらいで再臨が起るぞ」と思うことではありません。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(ペトロの手紙二第3章8節)とあるように、私たちの時間感覚で「近い」を捉えることはできません。「主は近い」とは、主イエスがもう一度来て下さり、救いを完成して下さること、つまり終末における救いの完成が必ず実現すると信じて待ち望むことです。この世の目に見える現実においては救いの希望が見えないけれども、その目に見える現実には終わりがあり、最終的に実現するのは神のご支配であり救いなのだと信じることです。そういう終末の希望を見つめている者は、この世の厳しい現実の中でも、「主がすぐ近くに共にいて下さる」という慰めや支えを受けることができるのです。主イエス・キリストの中に置かれていることを受け止めるとはこのように「主は近い」と信じることです。そこに「あらゆる人知を超えた神の平和」による守りが実現するのです。

思い煩いを主に委ねて

しかしその前に6節の勧めがあります。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。自分がキリストの中に置かれていることを受け止めて生きるために私たちがなすべきことがここに語られています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」とあります。それは「心配事などあってはならない」ということではありません。この勧めは「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と結びついています。つまり、自分でどうにかしようと思い煩っているのをやめて、どんなことでも神に打ち明け、願い求めなさい、と言っているのです。人生には、不安なこと、心配なことが沢山あります。それが私たちの自然な現実です。そして私たちは、自分一人でその不安や心配を背負い込んで苦しんでいます。それを分かち合い、支えてもらうことができる友人がいるならそれは幸いなことですが、最も深刻な不安や心配は人には分かってもらえない、自分一人で負うしかないということも事実です。そこに私たちの最も深い「思い煩い」があるのです。しかし私たちは、人には分かってもらえないその苦しみ悲しみも、全てをご存じである神に打ち明け、神に助けを求めることができます。神に委ねて、神がみ業を行って下さることを待つことができるのです。それができるのは、私たちがイエス・キリストの中に置かれているからです。私たちの努力によってではなく、神が恵みによって私たちをキリストの中へと入れて下さったからです。主なる神は、独り子イエス・キリストの十字架と復活によって私たちの罪を赦して下さり、ご自分の民として下さり、復活と永遠の命を約束して下さいました。私たちは洗礼によって主イエスの十字架の死と復活にあずかり、主イエスと結び合わされて神の子とされ、主イエス・キリストの中で新しく生きる者とされています。この救いが既に与えられていることを信じているから、私たちは、感謝を込めて祈りと願いをささげ、自分のあらゆる思い煩い、悩みや苦しみや不安、悲しみを、主イエスの父である神に打ち明け、神による救いを願い求めていくことができるのです。そこに、思い煩いからの解放が与えられます。「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守る」ということがそこに実現していくのです。

祈り求めることの中で救いが分かっていく

このことは、「鶏が先か卵が先か」のようなことです。つまり私たちは、洗礼によって主イエス・キリストの中に既に入れられていることを信じているから、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明け」ることができます。しかし逆に、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明け」ていくことの中でこそ、自分が主イエス・キリストの中に既に入れられていること、「主は近い」ことを実感していくことができるようになるのです。つまり、救いを信じたから祈り求めるのだけれども、祈り求めていく中でこそ救いが分かっていくとも言えるのです。だから私たちは、今体験しているこの世の厳しい現実の中での様々な思い煩いを、神に打ち明け、祈りと願いをささげつつ歩みたいのです。そのことの中でこそ、「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守る」ことを体験していくことができるのです。そこに、「主において常に喜ぶ」ことが自然に、無理なく実現していくのです。

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