夕礼拝

アンティオキアへの帰還

説 教 「アンティオキアへの帰還」副牧師 川嶋章弘
旧 約 イザヤ書第42章5-9節
新 約 使徒言行録第14章19-28節

アンティオキアへの帰還
 使徒言行録を読み進めて、本日は、いわゆる「パウロの第一次伝道旅行」の終わり、シリアのアンティオキア教会への帰還を語っている箇所を読みます。そもそもこの「第一次伝道旅行」にパウロとバルナバを派遣したのは、シリアのアンティオキア教会でした。聖書の後ろにある聖書地図11「パウロの第一次および第二次宣教旅行」を見つつ、その歩みを振り返ると、彼らはアンティオキア教会を出発すると、まず船でキプロス島へと向かい、その後、小アジアのパンフィリア地方のペルゲに行きました。ペルゲでは助手として連れて来ていたヨハネの離脱という事件が起こりました。それでもパウロとバルナバはそこから北上して、ピシディア州のアンティオキアに行き、安息日にユダヤ人の会堂でキリストの福音を語りました。その福音を聞いてキリスト者となった者たちも多く与えられましたが、福音に反発したユダヤ人たちに唆された人たちは二人を迫害し、アンティオキア地方から追い出しました。追い出された二人は、東へ約120キロメートルのところにあるイコニオンに行き、そこでもユダヤ人の会堂で説教を語りました。大勢のユダヤ人やギリシア人がキリスト者となり、町の人たちはユダヤ人の側に付く者と、パウロたちの側に付く者とに二分されるほどでした。しかしユダヤ人の側に付いた人たちが二人を辱め、石を投げようとしたので、二人はリカオニア地方のリストラに向かいます。リストラはイコニオンから約40キロメートルしか離れていませんが、イコニオンとは文化的背景も住む人も大きく異なりました。イコニオンが商業都市で、多くのユダヤ人が住んでいたのに対して、リストラはリカオニア語を話すリカオニア族の村で、ユダヤ人はほとんど住んでいませんでした。前回見たように、リストラの土着の人たちがパウロとバルナバを神々と見なし、いけにえを献げようとしたので、パウロは生ける神に立ち帰るよう語りました。それで二人は人々が「自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた」、と前回の箇所の終わりにあります。

デルベへ
 本日の箇所の冒頭19節では、そのリストラに、アンティオキアとイコニオンからユダヤ人たちがやって来て、リストラの人たちを巻き込み、パウロに石を投げつけ、瀕死の重傷を負わせた、と語られています。石を投げつけた人たちはパウロが死んでしまったものと思い、町の外へと引きずり出しましたが、20節によれば、弟子たちがその周りを取り囲むと、パウロは起き上がって、リストラの町に入って行きました。ついさっきまで、二人を神々と見なし、いけにえを献げようとしていたリストラの人たちが、ユダヤ人たちに扇動されたとはいえ、あっという間に、パウロに石を投げつけるようになったのです。それで二人はリストラからデルベへと向かいます。パウロは傷だらけの体を引きずるようにしてデルベへ向かったのではないでしょうか。21節にあるように、パウロとバルナバはデルベでも福音を告げ知らせ、多くの人をキリストの弟子にしました。デルベでもキリスト者が起こされたのです。

来た道を引き返して
 そのデルベから、パウロとバルナバはシリアのアンティオキア教会へと帰ることになります。しかしそれは単に帰ったのではありませんでした。先ほどの聖書地図11を見ると分かりますが、単に帰るだけなら、デルベから東に向かい、パウロの故郷タルソスを経由して、シリアのアンティオキアへ帰るのが最短の道であったはずです。しかし二人はデルベから東に行くのではなく、来た道を引き返して、アンティオキアへと帰ったのです。
 なぜそのような遠回りをしたのでしょうか。それは、21節の後半から、「リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ」と言われている通り、誕生したばかりの教会のメンバーを力づけるためでした。「弟子たちを力づけ」と訳されていますが、原文には「魂」や「心」と訳される言葉があり、ある翻訳では、「弟子たちの心を強め」と訳されています。それは、裏返せば、誕生したばかりの教会のメンバーの心が弱っていた、ということでもあります。パウロとバルナバの伝道によって誕生した教会は、どの教会も大変厳しい状況に置かれていたからです。いずれの町でも二人は迫害されて、いずれの町からも立ち去ることになったことを考えれば、それぞれの町に残された教会のメンバーが、いつ迫害を受けてもおかしくありませんでした。ただでさえ誕生したばかりであるのに、その上、教会を取り巻く状況がこのような厳しい状況であれば、教会のメンバーの心も弱らないはずがありません。そのことをよく分かっていたパウロたちは、困難な状況の中で心を弱らせている教会のメンバーをそのままにして、最短ルートでアンティオキアに帰るのではなく、来た道を引き返して、それぞれの教会を訪ね、教会のメンバーを力づけ、その心を強めたのです。

信じる気持ちを強く持つこと?
 22節には、二人が「弟子たちを力づけ、『私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない』と言って、信仰に踏みとどまるように励ました」とあります。原文の順序に従えば、「弟子たちを力づけ」に続けて、まず「信仰に踏みとどまるように励ました」と語られています。いつ迫害されるか分からない、命の危険に晒されて心の弱っていた教会の人たちに、二人は「信仰に踏みとどまるように励ました」のです。しかしそれは、そのような困難な状況にあっても、教会の人たちが神様を信じるという自分の気持ちを強くするよう励ました、ということではありません。私たちは「信仰に踏みとどまりなさい」と言われると、自分の心の持ちようであると思いがちです。困難な状況にあっても、自分の信じる気持ちを強く持つことであり、自分が神様を、主イエス・キリストをしっかり信じることであると思いがちなのです。しかし私たちの信じる気持ちというのは、ちょっとしたことで揺らぐものです。今、私たちはキリスト者だからといって迫害を受けることはありません。しかし迫害を受けなくても、私たちの人生には多くの苦しみや悲しみがあります。病があり老いがあり、そして死があります。様々な後悔があり、葛藤があり、人間関係の破れもあります。災害や戦争に直面することもあります。そのような困難な現実に直面するとき、私たちの信じる気持ちは揺らぎます。時にはもう自分は神様を信じられない、とすら思います。そこまで深刻な事態に直面しなくても、日々の忙しさに翻弄されたり、少し嫌なことがあったり、風邪を引いたりするだけでも、私たちの信じる気持ちは揺らいでしまうのです。信仰に踏みとどまることが、私たちの信じる気持ちを強く持つことであるならば、私たちには到底、そんなことはできないし、そんなことを言われても、困難な状況の中で弱った心は強められることはありません。むしろ私たちはいつも自分の信じる気持ちが揺らいでいないかどうかを、びくびくしながら、怯えながら点検しなくてはならなくなるのです。

「救いの事実」に留まり続ける
 しかし「信仰に踏みとどまる」とは、私たちの信じる気持ちを強くすることではありません。私たちの信仰は、私たちの気持ちの持ちようではないからです。大切なことは、私たちがどれだけ神様を信じているかではなく、神様が私たちのために何をしてくださったかです。パウロたちは、どの町でも、神様が御子イエス・キリストによって私たちのために成し遂げてくださった救いのみ業を語りました。御子イエス・キリストが私たちの罪をすべて背負って、私たちの代わりに十字架で死んでくださり、復活させられたことによって、神様が私たちの罪の赦しを、救いを実現してくださり、その救いを世の終わりに完成してくださることを語ったのです。これがキリストの福音です。私たちが信仰に踏みとどまるとは、神様が御子キリストによって実現してくださったこの福音に踏みとどまることです。この福音の「確かさ」に踏みとどまることなのです。私たちの信じる気持ちがどれだけ揺らいだとしても、神様が御子キリストの十字架と復活によって実現してくださった救いは決して揺らぐことがありません。私たちがすでにその救いにあずかり、世の終わりの復活と永遠の命の約束を与えられていることは決して揺らぐことがないのです。困難に直面して心が弱ってしまうときも、決して揺らぐことのない神様の救いと約束が自分に与えられているという事実に、神様が私たちのために成し遂げてくださった「救いの事実」に留まり続ける。それが、信仰に踏みとどまる、ということにほかならないのです。そしてこの救いの事実に踏みとどまることによってこそ、私たちの弱った心は強められていくのです。

多くの苦しみを経なくてはならない?
 22節には、パウロたちが語った言葉として、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」とあります。「神の国に入る」とは、世の終わりに救いの完成にあずかることです。しかしこの翻訳は、あまり適切な翻訳ではないように思います。このように訳すと、私たちが多くの苦しみを味わわないと、神の国に入ることができないように、救いの完成にあずかれないように読めるからです。そうなると私たちは、自分が神の国に入るためには、もっと苦しまなくてはならないと考えて、苦しみを求めて生きてしまうかもしれません。あるいは隣人が、大した苦しみも経験せずに生きているように思えるとき、この人が神の国に入るためには、もっと苦しまなくてはならない、と心の中で裁いたりしてしまうかもしれません。しかし聖書は、私たちが苦しみを求めて生きるような自虐的な生き方を求めてはいません。自分と隣人の苦しみを比べて裁き合うことを勧めるはずもありません。どれだけ苦しんだかによって、私たちが神の国に入れたり、入れなかったりするなら、結局、私たちの救いは、自分の苦しみの量にかかっている、ということになる。それでは救いが自分の信じる気持ちにかかっているのと何にも変わらないのです。けれども原文を見れば、そのようなことが言われているのではないことが分かります。「○○しなくてはならない」と訳されている言葉は、英語の助動詞mustに当たり、「〇〇すべきだ」とか「〇〇することになっている」という意味の言葉です。問題はこの言葉がどの文章にくっついているかです。聖書協会共同訳では、「多くの苦しみを経る」にかかっています。しかし原文では、「神の国に入る」にかかっているのです。

神の国に入ることになっている
 原文に忠実に訳すならば、「私たちは神の国に入らなくてはならない。多くの苦しみを経るとしても」となります。パウロたちは、「多くの苦しみを経るとしても、私たちは神の国に入らなくてはならない、入ることになっている」、と語ったのです。そしてそうであるならば、この言葉は、まさに「信仰に踏みとどまる」ことを語っていることになります。私たちは自分の人生に多くの苦しみを求めなくてはいけないのでは決してありません。苦しみは少ないほうが良いし、そのことを祈り求めてよいのです。しかしそれでも、私たちは知っています。私たちの人生には多くの苦しみがあることを知っています。「多くの苦しみを経るとしても」という言葉は、この私たちの人生の現実をしっかり認識している言葉です。しかし私たちはこのことを認識して、それで終わりなのではありません。このことより遥かに大切なことを認識しなくてはならないのです。それが、私たちは神の国に入ることに「なっている」ということです。すでにキリストの十字架と復活による救いにあずかった私たちは、世の終わりに救いの完成にあずかり、復活と永遠の命にあずかることに「なっている」。このことこそが私たちにとって決定的なことなのです。神様の御心は、私たちが多くの苦しみを経ることにあるのではありません。そうではなく、多くの苦しみを経るとしても、救いの完成にあずかることにこそあります。信仰に踏みとどまるとは、この神の御心に踏みとどまり、この神の約束に希望を置いて生きることです。確かに私たちの人生には多くの苦しみが避けられません。しかしその多くの苦しみの中で、将来、世の終わりに、神の国に入ることに「なっている」ことに、復活と永遠の命を与えれることに「なっている」ことに希望を置いて生きるとき、私たちは多くの苦しみにも忍耐して、絶望することなく生きることができるのです。

教会の制度を整える
 それが、私たちキリスト者の歩みですが、その歩みは、自分一人で歩み通せるような楽な歩みではないでしょう。しかし私たちキリスト者は自分一人で孤独に歩むのではなく教会に連なって歩みます。そして教会は、連なるメンバーが多くの苦しみを経るとしても、神の国に入ることになっている歩みを、歩み通すことができるよう導き、支え、励ましていきます。そのために必要なのが「教会の制度」です。だからパウロはデルベから来た道を引き返して訪ねた教会で、単に「信仰に踏みとどまるように励ました」だけではなく、教会の制度も整えたのです。そのことが23節でこのように語られています。「また、弟子たちのために教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に委ねた」。パウロたちは、それぞれの教会に連なる者たちのために、それぞれの教会で長老たちを任命しました。この「長老たち」というのは、私たちの教会における「長老」とイコールではないでしょう。当時は、牧師(宣教長老)と長老(治会長老)という区別があったわけではありません。ですからこの「長老たち」は、私たちの教会で言えば、牧師と長老たち、つまり長老会にあたると言えます。要するに教会の指導者たちのことです。パウロたちは、困難な状況の中で、心が弱っているキリスト者たちが信仰に踏みとどまり、多くの苦しみを経て、神の国に入ることになっている歩みを、歩み続けていくために、教会に指導者を立てることによって教会の制度を整えたのです。
 ですから長老会の大切な務めは、教会に連なるメンバーが、信仰に踏みとどまって歩み続けることができるよう導き、支えることです。それは、長老会が教会の人たちの要望を聞き、そのお世話をする、ということではありません。そういうこともあるかもしれませんが、それが本質ではありません。そうではなく長老会は、教会が神様のみ心を求め、そのみ心に従って歩んでいくために力を尽くします。神様のみ心に従って歩む教会であればこそ、そこに連なる人たちは、苦しみに遭うときも、自分たちが救いの完成にあずかることに神様のみ心があることを示され、そのみ心に信頼して、支えられて、歩み続けていくことができるのです。

教会はキリストのもの
 興味深いことに、パウロたちは長老たちを立てると、その長老たちに教会を委ねたのではありませんでした。「彼らをその信ずる主に委ねた」と言われています。長老たちと教会を、パウロたちが信じる主イエス・キリストに委ねたのです。それは、教会が長老のものでも、あるいは牧師のものでもなく、主イエス・キリストのものであることを示しています。だから教会も長老も主イエスに委ねられたのです。26節で、パウロとバルナバが「神の恵みに委ねられて」シリアのアンティオキア教会から送り出された、と記されています。そのようにして神の恵みに委ねられた二人が、今度は、それぞれの教会で立てた長老たちを主に委ね、神の恵みに委ねました。牧師、長老が、主イエス・キリストに、神の恵みに委ねられることによってこそ、教会はキリストのものとなり、神様のみ心によって支配されるようになるのです。

伝道報告
 そのようにしてパウロたちは、デルベから来た道を引き返し、それぞれの町の教会を訪ね、自分たちの伝道によって誕生したばかりの教会のメンバーを力づけつつ、アンティオキア教会へと帰還しました。27節にはこのように語られています。「到着すると教会の人々を集めて、神が彼らと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した」。二人はアンティオキア教会へ帰還すると、教会の人たちを集めて、「伝道報告」をしたのです。その「伝道報告」で、二人が報告したのは二つのことでした。

神が共にいて行われた
 第一に、「神が彼らと共にいて行われたすべてのこと」を報告しました。彼らは、自分たちはこんな苦労があった、こんな大変な目にあった、と語ったのではありません。ペルゲで助手のヨハネが離脱したことや、ピシディア州のアンティオキアで迫害を受け、その地方から追い出されたことや、イコニオンで石を投げつけられそうになったこと、リストラでは実際、石を投げつけられて瀕死の重傷を負い、傷だらけの体でデルベへ向かったこと。そのような自分たちが味わった苦労は、一切報告しませんでした。それだけではありません。自分たちの働きによって多くの人がキリスト者になった、と報告したのでもなかったのです。自分たちが何をしたかを報告したのではない。そうではなく神様が自分たちと共にいて、すべてのことを行ってくださった、と報告したのです。神の恵みに委ねられて送り出された二人と、神様は共にいてくださり、み業を行ってくださいました。伝道は神様のみ業にほかならないのです。もちろんだからといってパウロとバルナバが何もしなかった、ということではありません。神様は、ご自身の伝道のみ業のために、この二人を豊かに用いてくださったのです。私たちの教会も伝道していきます。より一層力強く伝道していきたいと願っています。しかし私たちは、伝道は神様のみ業だ、ということを決して忘れてはなりません。私たちはその神様のみ業に用いられていくのです。神様が私たちと共にいてくださり、私たちを豊かに用いて伝道のみ業を進めてくださる。そのことに信頼して、私たちの教会は伝道していくのです。

信仰の門を開いてくださる
 第二に、二人は神様が「異邦人に信仰の門を開いてくださった」ことを報告しました。「門」というのは出入りするためにありますが、とりわけ門を閉めて、人を入らせないためにあります。私たちは自分の力でこの「信仰の門」を開いて、入ることはできません。自分の力で信仰に入り、信仰を持つことはできないのです。「信仰に踏みとどまりなさい」と言われると、私たちは自分が獲得した信仰に踏みとどまることだと勘違いしがちです。しかし私たちは自分の力で信仰を持ったのではありません。ただ一方的に神様が「信仰の門」を開いてくださり、私たちにキリストによる救いを信じる信仰を与えてくださいました。私たち一人ひとりの「信仰の門」を開いてくださり、信仰を与えてくださり、キリスト者としてくださったのです。私たちが条件をクリアーしたから、門が開かれたのでは決してありません。神様が一方的な恵みによって、救われるに値しない私たちのために、門を開いてくださったのです。そうであれば私たちは、たとえ困難な状況に直面しても、神様が御子キリストによって門を開いてくださり、与えてくださった信仰に踏みとどまります。私たちがすでに御子キリストの十字架と復活による救いにあずかり、世の終わりの復活と永遠の命の約束を与えられている、という「救いの事実」に留まり続けるのです。私たちの地上の生涯には多くの苦しみがあるに違いない。しかし神様は私たちに、多くの苦しみを経るとしても、世の終わりに神の国に入ることになっている、救いの完成にあずかり、復活と永遠の命にあずかることになっている、と約束してくださっています。私たちは教会に連なり、教会に導かれ支えられながら、この神様の御心に信頼して、希望を置いて歩んでいきます。多くの苦しみに直面するとしても、忍耐して、絶望することなく、神の国に入ることになっている歩みを、歩み通していくのです。そのように歩む私たちを用いて、神様は伝道のみ業を確かに前進させてくださり、さらに多くの方々の「信仰の門」を開いてくださり、キリストの十字架と復活による救いを信じる信仰を与えてくださるのです。

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