主日礼拝

福音のために

2026年8月2日(川嶋章弘副牧師)
説教題「福音のために」
イザヤ書 第52章7~10節
コリントの信徒への手紙一 第9章15~27節

権利を用いなかった
 私が主日礼拝を担当するときはコリントの信徒への手紙一を読み進めています。本日と次回で第9章の後半を読みます。本日は15~23節を中心に読みます。
 冒頭15節で、この手紙を書いたパウロは、「しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした」と言っています。「これらの権利」とは、前回の箇所で語られていた、使徒に、また福音を宣べ伝える人たちに与えられている権利のことです。とりわけパウロは、多くの分量を割いて、福音を宣べ伝えている人たちがその福音によって生活する権利を持っていること、つまりその生活を教会によって支えられる権利を持っていることを、切々と主張してきたのです。ですからパウロのこの主張は自分の権利を要求する方向に向かっていくのが自然なように思えます。自分の権利をコリント教会の人たちに認めさせるために、これほど主張したというのであればよく分かるからです。ところがパウロは15節で、自分は権利を用いなかったと語り、「こう書いたのは、自分もそうしたいからではありません」と言っています。パウロが長々と福音伝道者の権利について記してきたのは、自分がその権利を主張し、用いるためではなかったのです。さらに「そうするくらいなら、死んだほうがましです……」とまで言っています。「死んだほうがまし」という言葉は、安易に使うべき言葉ではありませんが、そのような言葉が口をついて出たのは、パウロの気持ちが高ぶっていたからではないでしょうか。続けて「私のこの誇りは誰も奪うことができません」と言っているように、パウロにとって、この権利を用いないことは彼の誇りに関わることであり、生き様に関わることであったのです。

そうせずにはいられないこと
 そう言ってからパウロは、16節でこのように語っています。「もっとも、私が福音を告げ知らせても、それは私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、私には災いです」。気持ちを高ぶらせて「私のこの誇りは誰も奪うことができません」と言ったパウロは、しかし自分が福音を告げ知らせることそれ自体が誇りになるわけではない、と言います。パウロにとって福音を告げ知らせることは誇ることではなく、むしろ「そうせずにはいられないこと」でした。「そうせずにはいられない」と訳された言葉は、「必然性」を意味する言葉で、「必ずそうすることになっている」、「そうしないわけにはいかない」、とも訳せます。パウロは、ほかのことも色々できたけれど、その中から福音伝道者となることを選んだのではありません。ほかのことはできなかった。たとえほかのことをしても、結局、福音を宣べ伝えることになってしまう。宣べ伝えないわけにはいかなくなってしまう。福音を宣べ伝えることをしなければ、伝道をしなければ、「自分が自分でなくなってしまう」のです。16節の後半でパウロは「福音を告げ知らせないなら、私には災いです」と言っていますが、これは、福音を告げ知らせなかったらパウロに災いが下る、というようなことではありません。そうではなくパウロにとっての「災い」とは、自分が自分であり続けられなくなることです。パウロは福音を宣べ伝えずにはいられませんでした。福音を宣べ伝えるとき、彼は本当の自分であり続けることができたのです。

教会は伝道せずにはいられない
 このことはパウロだけに当てはまる特別なことなのでしょうか。あるいは精々、献身伝道者や神学生にだけ当てはまることなのでしょうか。確かにパウロは劇的な経験を経て伝道者とされました。あのダマスコ途上で、復活のキリストに出会い、そして一方的に使徒に任命されたのです。そこにパウロの選択の余地はありませんでした。パウロにとって、福音を宣べ伝えることは、まさに神様が定めてくださったこと、神様が与えてくださった「必然性」、「そうせずにはいられないこと」であったのです。私たちはパウロとまったく同じ経験をするわけではありません。誰もが伝道者になるわけでもありません。その意味でパウロと私たちの間には違いがあります。けれども根本的なところでは、パウロと私たちの間に違いはないと思います。私たちの教会が伝道するのは、また私たち一人ひとりが主イエスのことを人々に伝え、証しするのは、「そうせずにはいられないこと」だからです。「そうしないわけにはいかないこと」だからです。私たちの教会は、ほかのことも色々できるけれど、伝道することを選んだのではありません。伝道は、神様が私たちの教会に与えてくださった第一の使命です。伝道をしなくなったら、教会は教会でなくなります。伝道するとき私たちの教会は教会であり続けることができるのです。

福音を伝えずにはいられない
 私たち一人ひとりが主イエス・キリストのことを人々に伝えるのも、「そうせずにはいられないこと」だからです。キリスト者は伝道しなくてはいけないと言われたから、身近な人たちに主イエスのことを伝えるのではありません。そうせずにはいられないからそうする。主イエスのことを伝え、証しし続けることが、自分が自分であり続けることだから、そうするのです。なぜなら私たちの救いは、主イエス・キリストのほかにはないからです。私たちの救いは主イエス・キリストが私たちの罪をすべて背負って、私たちの代わりに十字架で死んでくださり、そして復活されたことにあります。このキリストの十字架と復活による救いが、この福音が私たちを生かしています。この福音によって、私たちは自分が自分であり続けることができています。だから私たちはこの福音を、ほかの人たちに伝えずにはいられません。自分を救い、生かしている福音を、主イエスのことを人々に伝えないわけにはいかないのです。もちろんそれは、日本の社会にあって、TPOを弁えずに伝えればよいということではないでしょう。しかし根本的には、私たち一人ひとりは自分を生かし、自分を自分足らしめている福音を、主イエスのことを伝えずにはいられないのです。

委ねられた務め
 パウロは17節でもこのように言っています。「自分からそうしているなら、報酬を受けるでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、委ねられた務めなのです」。「強いられてする」というのは嫌々ながら行っている、ということではありません。やはりこの言葉も「必然性」を示しています。「強いられてする」というのは、「そうせずにはいられないからする」ということなのです。自分がやりたいから福音を宣べ伝えているならば、報酬を受けるだろう、とパウロは言います。しかし神様が定めてくださったこと、神様が与えてくださった「そうせずにはいられないこと」であるから福音を宣べ伝えているならば、それは神様から「委ねられた務め」だ、と言っているのです。

委ねられた務めとしての奉仕
 このパウロの言葉も、一見、私たちにはあまり関係がないように思えます。しかしこの言葉は、教会における奉仕の本質を見つめているのではないでしょうか。もっとも教会における奉仕は、奉仕であって、報酬を受けるものではない、という違いがあります。その違いはありつつも、私たちの教会における奉仕も、自分がやりたいからやるのではなく、「そうせずにはいられない」からやるのです。あるいはこう言ってもよい。私たちは自分に与えられている奉仕を、神様が与えてくださった「そうせずにはいられないこと」、神様から「委ねられた務め」と信じ、受けとめる必要がある。もちろん私たちが奉仕をするきっかけは色々です。やってみたいと思ったから、自分の賜物が活かされると思ったから、人に誘われたから。しかし私たちはその色々なきっかけを通して、神様が私たちにこの奉仕を、この務めを委ねてくださったと信じ、受け入れるのです。もし奉仕が、「自分がやりたいからやる」というだけであるならば、自分がやりたくなくなったらやめる、ということになります。教会における奉仕は、楽しいことばかりではありません。私たちには弱さ、欠け、罪があり、奉仕においても嫌な思いをしたり、人に嫌な思いをさせたりしてしまいます。色々な問題も起こるし、人間関係で苦しむこともあります。もし自分がやりたいから奉仕するだけならば、私たちは嫌な思いをしたら、その奉仕を担い続けることができなくなります。しかしその奉仕が、神様が自分に委ねてくださった務めであると信じるならば、たとえ困難に直面するときも、なお忍耐してその務めを担っていくことができるのです。もちろんそれは、奉仕を引き受けたからにはやめてはならない、というようなことでは決してありません。色々な事情によって、もうこれ以上担えないときは、その奉仕から離れるのも必要なことです。しかし教会における奉仕は、神様が私たちに与えてくださった「そうせずにはいられないこと」であり、神様が委ねてくださった務めであることを、私たちは大切に受けとめていきたいのです。

福音の喜びに突き動かされて
 パウロはそうせずにはいられないことだから、神様から強いられたから福音を宣べ伝えている、と言いました。そう言われると、パウロは我慢して、しかめっ面をして、自分に委ねられた務めの責任を果たそうとしていたように思えます。しかし福音というのは、そもそも喜びの知らせです。パウロを突き動かしていたのは、自分の責任感よりも、福音が与える喜びです。「神様が御子キリストによって救われるに値しないこの私を救ってくださり、愛してくださっている」という福音の喜びがパウロに、福音を宣べ伝えることを強いていたのです。自分の責任感だけであったなら、多くの苦難に直面する中で、パウロは福音を宣べ伝え続けることはできなかったでしょう。苦難に遥かにまさる福音の喜びに満たされ、突き動かされていたからこそ、パウロは福音を宣べ伝え続けることができたのです。私たち一人ひとりが福音を、主イエスのことを人々に伝え、また教会の奉仕を担っていくのも同じではないでしょうか。自分の責任感よりも、福音の喜びに満たされ、突き動かされているからこそなのです。しかめっ面では、福音の喜びを証しすることはできません。私たちは福音の喜びに満たされ、突き動かされて、神様が委ねてくださった務めを担っていくのです。

自由を敢えて用いない
 18節でパウロはこのように言っています。「では、私の報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときに無償でそれを提供し、宣教者としての私の権利を用いないということです」。ここで、福音伝道者、宣教者としての権利を用いないことが、パウロの報酬であり、誇りであり、生き様であることが語られています。しかしこのことから、すべての福音伝道者は、その権利を用いず、無償で福音を告げ知らせるべきだ、と考えるべきではありません。そうであるなら、前回の箇所で、パウロが多くの分量を割いて、福音を宣べ伝える人たちがその福音によって生活する権利を持っていることを主張することはなかったはずです。ですからここでパウロが語っていることの中心は、無償で福音を告げ知らせたことではなく、自分に与えられている権利を、自由を用いなかったことにあるのです。
 それゆえパウロは19節から、自分に与えられている自由と、その自由を敢えて用いないことについて語り始めます。「私は誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました」。「誰に対しても自由な者」と訳されていますが、必ずしも人に限定する必要はありません。誰に対しても、どんなことに対しても、つまりすべてのことに対して自由である、と言われているのです。パウロだけがそうなのではありません。私たちキリスト者は、主イエス・キリストの十字架と復活による救いにあずかり、これをしなくてはいけない、あれをしなくてはいけないということから解放され、あるいは人と比べて、人の目を気にして生きることからも解放され、本当の自由を与えられました。キリスト者は何にも誰にも縛られず、何でもできる自由な者なのです。もっともコリント教会の人たちも、自分は自由であり何でもできる、と主張していました。その点ではパウロとコリント教会の人たちに違いはありません。ところがパウロは、自分は自由であり何でもできるけれど、すべての人の奴隷になった、と言います。コリント教会の人たちは、そう言われて驚いたかもしれません。よく分からなかったかもしれません。私たちも、自由であることと奴隷となることは、まったく正反対なこと、矛盾していることのように思えます。しかしパウロは、自分は自由であり何でもできるけれど、すべての人の奴隷となり、すべての人に仕えた、と語るのです。

ユダヤ人のように、異邦人のように、弱い人に
 それは具体的にどういうことであったのでしょうか。まず20節では、「ユダヤ人には、ユダヤ人のようになりました」、「律法の下にある人にはは、私自身はそうではありませんが、律法の下にある人のようになりました」と言われています。「律法の下にある人」とはユダヤ人のことでしょう。パウロはユダヤ人のように、律法の下にある人のようになった、と言っているのです。もともとユダヤ人であったパウロが、そのように言うことができたのは、パウロがキリストによる救いによって「ユダヤ人」という民族から完全に自由になり、律法を守らなくては救われないという律法の下にある生き方からも完全に自由になっていたからです。だからこそユダヤ人のようになり、ユダヤ人に仕えることができたのです。私たちもキリストによる救いによって、民族や人種、国籍にとらわれない自由が与えられています。だからこそ私たちは日本の社会にあって、日本人のようになれるし、日本人に仕えることができるのです。
 また21節では「律法を持たない人には、律法を持たない人のようになりました」と言われています。律法を持たない人とは異邦人のことです。しかし律法を持たない人のようになるとは、律法を捨ててしまうことではありません。だからパウロは「私は神の律法を持たないのではなく、キリストの律法の内にある」と言います。それは、キリストによって救われた者が、その救いの恵みに感謝して生きるための道しるべとして、神様が与えてくださった律法を大切にして生きるということです。パウロは十戒を中心とする律法を道しるべとして救いの恵みに感謝して生きる中で、異邦人のようになり、異邦人に仕えたのです。
 さらに22節では「弱い人には、弱い人になりました」とあります。「弱い人」とは、8章からの文脈を考えれば、教会の中における「弱い人」のことです。パウロは偶像に献げた肉を食べても、何の問題もないと考えていました。その知識と自由を持っていたのです。しかしコリント教会には、偶像に献げた肉を食べることに躓いてしまう人がいました。だからパウロは自分の自由を用いるのではなく、むしろその自由を制限して、偶像に献げた肉を食べないことにしました。パウロが弱い人になったとは、パウロ自身が弱い人になったということではなく、そのような弱い人を受け入れ、その人たちと同じ立場に立とうとした、ということなのです。

福音のために
 このようにパウロがユダヤ人のようになり、律法を持たない人のようになり、弱い人となったのは、ユダヤ人にも異邦人にも弱い人にも仕えたのは、何のためなのでしょうか。それはユダヤ人を得るためであり、異邦人を得るためであり、弱い人を得るためです。19節の言葉で言えば「より多くの人を得るため」であり、22節の言葉で言えば、「ともかく、何人かでも救うためです」。一人でも多くの人がキリストの十字架と復活による救いにあずかるために、パウロはユダヤ人に仕え、異邦人に仕え、弱い人に仕え、すべての人に仕えたのです。このことが23節では、このように言われています。「福音のために、私はすべてのことをしています」。パウロはキリストによって自由であり、何でもできました。同じように私たちもキリストによって自由であり、何でもできます。しかし私たちがその自由と権利を用いるとしたら、それは「福音のため」です。また私たちがその自由と権利を敢えて用いないとしたら、それも「福音のため」です。福音の喜びに生かされる人が一人でも多く与えられるためなのです。とりわけここでは、福音のために、キリストによって与えられている自由や権利を敢えて用いないことが見つめられています。私たちは与えられている自由を敢えて用いないで、相手と同じ目線になって、相手に届く言葉や振る舞いで福音を届け、キリストによる救いの喜びを証ししていくのです。

福音に共にあずかる
 それは、私たちが相手に一方的に福音を届けて終わることではありません。改めて23節全体をお読みすると、このように言われています。「福音のために、私はすべてのことをしています。福音に共にあずかる者となるためです」。そのように福音を届けていくことを通して、私たち自身も福音に共にあずかります。福音のために、福音の喜びを一人でも多くの人に届けるために歩むことを通して、私たちも福音の喜びにあずかっていくのです。福音の喜びは私たちを、その喜びを証しすることへと突き動かし、神様が委ねてくださった務めを担うことへと導きます。しかしそれで終わりではありません。福音の喜びを証しすることを通して、神様が委ねてくださった務めを担うことを通して、私たちは福音に共にあずかるのです。神様が独り子イエス・キリストによって、救われるに値しないこの私を救ってくださり、愛してくださり、大切にしてくださっているという福音の喜びにあずかることができるのは、私たちがそれを独り占めすることによってではなく、人々に伝えることによってなのです。福音の喜びに生かされることと、福音の喜びを伝えることは、別々のことではなく一つのことです。福音の喜びに生かされているからこそ、その喜びを伝えるのだし、福音の喜びを伝えるからこそ、その喜びに生かされることができるのです。

キリストの十字架を見つめることによって
 私たちは、すべてのキリスト者は、福音のために生きます。キリストのために生きるのです。しかし私たちは、今の自分の日々の生活を思い浮かべて、自分が福音のために、キリストのために生きているとは言えない、と思わないわけにはいきません。それとは程遠い生き方をしているように思えるからです。けれどもそこで私たちが見つめるべきなのは、自分が今、どのように生きているかではありません。そうではなく神の独り子イエス・キリストが、私たちの罪をすべて背負って、私たちの代わりに十字架で死んでくださったことを見つめるのです。まことの神である方が、あらゆる自由と権利を捨てて、徹底的にへりくだってくださり、弱くなってくださり、みすぼらしい姿で十字架で死んでくださいました。それほどまでに私たちに徹底的に仕えてくださり、私たちを徹底的に愛してくださったのです。そのことを見つめることによってこそ、私たちは福音の喜びに生きる者へと変えられていきます。その福音の喜びを証しし、人々に届ける者へと変えられていくのです。福音のために、キリストのために生きるのとは程遠い生き方をしているように思える私たちが、それぞれの遣わされているところで、福音のために、キリストのために生きる者へと変えられていくのです。

聖餐において福音の喜びにあずかる
 私たちはどこで、キリストの十字架を見つめるのでしょうか。み言葉の説教と、これから共にあずかる聖餐においてです。聖餐のパンと杯にあずかることを通して私たちは、キリストが十字架でご自分の肉を裂き、血を流して、救われるに値しない私たちを救ってくださった、その救いの恵みを、その救いの喜びを体全体で味わい、体験するのです。繰り返し聖餐にあずかり、救いの喜びにあずかることを通して、私たちは福音のために、キリストのために生きる者へと変えられていきます。少しずつであっても確かに変えられていくのです。与えられている自由や権利を敢えて用いないで相手に仕え、相手に届く言葉や振る舞いで福音を届け、キリストによる救いの喜びを証ししていきます。そのことを通して何よりも私たち自身が、福音の喜びにあずかって生きるのです。私たちは福音の喜びに満たされ、突き動かされて、それぞれに神様から委ねられた務めを担って歩んでいくのです。

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