夕礼拝

隣人となる

「隣人となる」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第22章1-4節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第10章25-37節
・ 讃美歌:140、483

同胞との関係を築く
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書申命記からみ言葉に聞いておりまして、本日は第22章の始めのところを読みます。毎回申しておりますが、申命記は、これから約束の地に入ろうとしているイスラエルの民に、モーセが遺した言葉として語られており、その12章から26章にかけてが「申命記的律法」と呼ばれている中心部分です。ここに、約束の地における神の民イスラエルの歩むべき生き方が教えられているのです。その中でも本日の箇所、22章1~4節は、同胞との関係の根本を語っている重要な箇所です。「同胞を助けること」という小見出しがつけられています。同胞との間に、お互い助け、助けられる関係を築くべきことが教えられているのです。
 先ず、同胞の牛または羊が迷っているのを見たら、ということが語られています。迷っている家畜を見つけたら必ずその持ち主の所に連れ帰らなければならないのです。その人が近くの人でなかったり、あるいは誰の家畜か分からない場合には、その家畜を自分の家に連れ帰って、同胞が引き取りに来るまで手元に置け、とあります。家畜を手元に置くとは、餌をやり、世話をすることです。手間もかかるし費用もかかります。しかしその家畜を自分のもとで養って、後日その持ち主に返すことが命じられているのです。3節には、「ろばであれ、外套であれ、その他すべて同胞がなくしたものを、あなたが見つけたときは、同じようにしなさい」とあります。生きている家畜だけでなく、同胞がなくしたものを見つけたなら、それを保管しておいて、必ず持ち主に返す、そのようにして同胞との関係、交わりを築いていくべきことが求められているのです。
 ここに語られているのは、同胞の持ち物を守り保つようにという教えです。それが同胞との関係を築くための根本として教えられていることに私たちは違和感を感じるかもしれません。持ち物をどうするかではなくて、もっと人そのものを大事にし、愛することが教えられるべきではないのか、と思うのです。しかしこの教えは、人に対する愛を極めて具体的な事柄として語っています。愛する、というだけでは抽象的であり、具体的には何もしないで終わってしまうようなこともあるわけですが、同胞を愛するとはこのような具体的なことをすることなのだ、ということをこの教えは語っていると言うことができるでしょう。

私たちの生活に当てはめるなら
 この「同胞がなくしたものを見つけたら」ということからはいろいろなことを考えることができます。例えば、家畜にせよ外套にせよ、それをなくすとは、その人の管理が悪いということです。外套をどこかに置き忘れるというのはよくあることかもしれません。私も傘などをよく置き忘れます。年をとってくるとそういうことが増えるのです。しかし牛や羊やろばなどの家畜が迷い出るというのは、ちょっと置き忘れたのとは全く違うことであって、自分の家畜が迷い出てしまわないようにきちんと管理することは、自分の財産をしっかり守るということです。それができないのはその人の欠点です。そして外套なら置き忘れた所から動き回ったり、人に迷惑をかけることはありませんが、家畜はどこに行って何をするか分かりません。他所の人の畑の作物を食い荒らしてしまうかもしれないし、お腹をすかせて気が立っていると人に怪我をさせるかもしれません。またその家畜自身の命も危険にさらされているわけで、持ち主は自分が損失を被るだけでなく、他の人に迷惑をかけ、自分が守るべき動物の命をいたずらに危険にさらしているのです。そのように、自分の家畜を迷い出させてしまうことは無責任な迷惑行為であり、きつい言葉で言えば社会人としての義務を果たしていないと非難されるようなことなのです。迷っている家畜を見つけるとは、同胞のそのような無責任で迷惑な行為、責められるべき失敗や欠点を見つけるということでもあります。しかもその家畜を自分の家に連れ帰ってその人が捜しに来るまで手もとに置くということは、先程も申しましたようにその家畜を自分が養わなければならないということで、それには手間もかかるし費用もかかる。家畜をちゃんと管理することができない無責任な人の落ち度、失敗のために、自分が余計な労力と出費をしなければならないのです。それによってその家畜が自分のものになるわけでもないのにです。ですからはっきり言ってこれは迷惑なことです。どうしてそんなことまでして無責任な人の尻拭いをしてその人を助けなければならないのか、と思うようなことがここには命じられているのです。それと同じようなことは、家畜を飼うことがない私たちの現在の都会での生活においても、いやむむしろより複雑な社会である現代を生きる私たちの方が沢山体験していると言えるでしょう。私たちは今のこの社会において、いろいろな形で、人による迷惑を受けることがあります。迷惑をかけている人の方はそういう自覚が全然なかったりもします。そういう私たちの日常の生活にこの教えを当てはめてみる時に、これはなかなか大変なことだと気づかされます。同胞を愛すると抽象的に言うのは簡単だけれども、具体的にそれをするのはけっこう大変なことなのです。

困っている人を助ける
 外套をなくす、ということについても、想像力をふくらませて考える必要があります。私たちの教会でも、特に午前の礼拝にコートを着て来て、帰りに忘れていくようなことがあります。しかし当時の人々においてこのことはそれよりもはるかに重大なことでした。外套は、特に貧しい人たちにおいては、寝具でもあったのです。つまり日々生きていくためになくてはならないものです。それをなくしてしまった人は本当にその日の夜をどう過ごすかにも困るのです。同胞がなくした外套を見つけるということは、そのように困っている人がどこかに居ることに気づかされる、ということなのです。だからそれを手元に保管しておいてなくした人に返すようにするというのは、ただ忘れ物を保管してあげるというよりも、生活に困っている人がいることを同胞として心配し、出来るだけのことをして支えようという気持ちを持つということなのです。この教えはそういうことを求めているのです。
 4節には、同胞がなくしたものを見つけるのとは違うことが語られています。「同胞のろばまたは牛が道に倒れているのを見たら」ということです。その時はその人に力を貸して、必ず助け起こさねばならないと言われています。牛やろばなどの大きな家畜が倒れているのを起こすことは一人ではできません。手助けが必要です。その手助けを拒んではならないということが教えられているのです。つまりこれは、同胞が困っているのを見たら手を差し伸べて助けなさい、ということです。それも、私たちの生活のいろいろな場面に当てはめて考えることができます。電車などの中でお年寄りやお腹が大きくてしんどそうな人を見ることから始まって、私たちも「同胞のろばまたは牛が道に倒れているのを見る」ことがよくあるのです。そういう時にためらわずにさっとその人を助ける行動に出ることができるか、ということが問われているのです。

敵に対しても
 このようにこの教えは、神の民イスラエルにおいて同胞を愛することが具体的になされ、それによって良い共同体が築かれていくことを目指しているわけですが、ここを正しく理解するために、同じようなことを語っている出エジプト記の第23章4、5節をも併せて読んでおく必要があると思います。出エジプト記23章4、5節にはこうあります。「あなたの敵の牛あるいはろばが迷っているのに出会ったならば、必ず彼のもとに連れ戻さなければならない。もし、あなたを憎む者のろばが荷物の下に倒れ伏しているのを見た場合、それを見捨てておいてはならない。必ず彼と共に助け起こさねばならない」。ここに命じられていることは本日の申命記の箇所と基本的に同じです。「荷物の下に倒れ伏している」とあることから、先程の牛やろばが倒れて立ち上がれずにいるというのがどういう状況なのかが分かります。重い荷を背負わされているので倒れ、手助けがなければ立ち上がることができないのです。だからそれを助け起こすことは、家畜を助けると共に、それに負わされたその人の荷物を救うことでもあることが分かるのです。興味深いことは、申命記では「同胞の」となっている所が、この出エジプト記では「あなたの敵の」「あなたを憎む者の」となっていることです。困っている人が敵であり自分を憎んでいる者であっても、手を貸し、助けなければならない、と語られているわけです。これは、申命記の教えは仲の良い親しい人を助けることだけを語っており、出エジプト記の教えは、敵であってもそうせよと語っている、ということではありません。両者をそのように違う教えとして捉えるのではなくて、申命記の教えの意味を出エジプト記の教えによって解釈するべきなのです。つまり申命記が「同胞」と言っているのは、決して自分と親しい、仲の良い人のことだけを意味しているのではありません。同胞の中には敵もおり、自分を憎んでいる者、ということは自分もその人を憎らしいと思っている人もいるのです。そういう人も含めた全ての同胞に対してこのようにしなさい、と申命記も教えているのです。そのことは本日の箇所の1~3節にも当てはめることができます。つまり、自分の敵、憎んでいる者の家畜が迷い出ているのを見つけたら、それをその敵に返し、すぐに返せないなら、その敵が受け取りに来るまで手元に置いて養いなさい、敵が無くして困っているものを見つけたならそれを保管して相手に返しなさい、ということです。同胞への具体的な愛を教えているこの箇所は、自分に敵対する者に対しても同じことをするようにと語っているのです。つまりここには、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」という主イエス・キリストの教えと同じことが語られていると言うことができます。神の民イスラエルにおける同胞との関係の根本はここにこそあるのです。

見て見ぬ振りをしてはならない
 この同胞との関係の根本的なあり方を描き出すために、本日の箇所に三回にわたって語られている言葉があります。それは、「見て、見ない振りをしてはならない」という言葉です。1節に「同胞の牛または羊が迷っているのを見て、見ない振りをしてはならない」とあります。3節の終わりにも「見ない振りをすることは許されない」とあります。4節にも、「同胞のろばまたは牛が道に倒れているのを見て、見ない振りをしてはならない」とあります。「見て見ぬ振りをしてはならない」が、本日のこの箇所の鍵となる言葉なのです。神の民における同胞との関係、交わりの根本は「見て見ぬ振りをしないこと」、つまり人が困っているのを見たら直ちに行動を起し、その人を助けること、しかもそれが自分に敵対する人であっても、ということなのです。人を愛するとはそういうことです。愛するとは、見て見ぬ振りをして放っておかないことです。無視して通り過ぎてしまうのでなく、その人とちゃんと関わることです。しかし私たちはそれがなかなか出来ません。人との関係、交わりにおいて、見て見ぬ振りをして通り過ぎてしまうことがいかに多いことでしょうか。

善いサマリア人
 そういう私たちの現実を描き出している、主イエスがお語りになった話が、本日共に読まれた新約聖書の箇所、ルカによる福音書第10章25節以下の、いわゆる「善いサマリア人」の話です。一人のユダヤ人が、追いはぎに襲われて半殺しにされ、道端に倒れていました。そこを通りかかった祭司もレビ人も、「その人を見ると、道の向こう側を通って行った」、つまり、見て見ぬ振りをして通り過ぎたのです。祭司やレビ人は同胞であるユダヤ人の、しかも宗教的指導者です。出エジプト記や申命記に語られている律法を人々に教える立場の人です。しかし彼らは、同胞の家畜どころか人間が倒れているのを見て、見ない振りをしたのです。そこにあるサマリア人が通りかかった。サマリア人はユダヤ人と同胞ではありません。むしろ敵対関係にあり、普段は口も利かない仲なのです。しかし彼はその人を見て憐れに思い、介抱し、自分のろばに乗せて宿屋に連れて行き、介抱のための費用を払ったのです。彼は見て見ぬ振りをせず、苦しんでいる人を無視することなく関わり、申命記や出エジプト記が教えている通りの、具体的な愛の行為をしたのです。私たちはこの話を読む時、自分が祭司やレビ人のような者だという現実を突きつけられます。主イエスがこの話を語られたのは、ある律法の専門家との会話の中ででした。この人は、永遠の命を受け継ぐには、つまり救いにあずかるには何をしたらよいかを問うたのです。主イエスはそれに対して、律法は何と教えているかと彼に問い返しました。彼は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということと「隣人を自分のように愛しなさい」ということですと答えました。主イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい」とおっしゃったのです。すると彼は自分を正当化しようとして「では、わたしの隣人とはだれですか」と尋ねました。この人は、神が隣人を愛することを求めておられることを知っているのです。しかしそれを具体的に実行できていないのです。そのことを正当化しようとして、「隣人とはだれのことか、自分はだれを愛すればよいのか」と問うているのです。それに対する答えとして主イエスはこの「善いサマリア人」の話をお語りになりました。それは、「あなたは、祭司やレビ人のように、傷つき倒れている人を見て見ぬ振りをして通り過ぎている」という厳しい指摘です。愛することが具体的にできておらず、見て見ぬ振りをしてしまっている者ほど、自分を正当化しようとしてあれこれ理屈をこねるのです。それが私たちの現実の姿なのではないでしょうか。そのような私たちに主イエスは、このサマリア人の姿を示して、「行ってあなたも同じようにしなさい」とおっしゃるのです。

神に対して身を隠さずに
 見て見ぬ振りをして通り過ぎることなく、人を具体的に愛する者となること、申命記が語っている神の民における同胞との関係の根本はそれであり、主イエス・キリストがご自分に従う信仰者に求めておられることもそれです。私たちはどうすればそのように生きる者となることができるのでしょうか。申命記のこの箇所で、「見ない振りをする」と訳されている言葉は、「身を隠す」という意味でもあります。同胞、隣人が困っており、苦しんでいるのを見る時に、身を隠してはならない、と教えられているのです。誰に対して身を隠すのでしょうか。それはその困っている人に対してでもありますが、根本的には神に対してです。人間に対しては、私たちは身を隠すことができるのです。何だかんだと理屈をつけて、言い訳をして、向こう側を通って行く、つまり具体的な愛の行為から逃げることができるのです。しかし、神に対しては、私たちは身を隠すことはできません。神は、私たちが困っている人を前にして見て見ぬ振りをして向こう側を通って行ってしまったことをご存知です。神の目の前で私たちは身を隠すことはできない。そのことを知ることこそが、私たちが見て見ぬ振りをせずに生きる者となるために先ず必要だと言えるでしょう。神が自分をいつも見つめておられる、そのまなざしの中で生きることが、神を信じ従う神の民として生きることなのです。

主イエスによる救いの恵みの中で
 しかしそれは、神の厳しいまなざしを常に恐れ、何か失敗してしまわないかとビクビクしながら生きるようなことではありません。神が私たちを見つめておられる、そのまなざしは、独り子イエス・キリストを通して注がれています。神が独り子主イエスを私たちの救い主として遣わして下さった、そのみ心は、この「善いサマリア人」の姿において示されています。追いはぎに襲われて半殺しにされて倒れている人を見て、彼はそれが自分に敵対しているユダヤ人であることを知りながら、「憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」のです。それこそがまさに、主イエスが私たちのためにして下さったことです。私たちは神に敵対している罪人であるのに、主イエスはその私たちが死を待つばかりとなっているのを見て、見ない振りをすることなく、私たちと関わり、救いのみ業を行なって下さったのです。しかも、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることまでして下さったのです。私たちはこの話の中で、自分自身の姿を、祭司やレビ人の中に見出すと共に、追いはぎに襲われて死にそうになって倒れている旅人にも見出すのです。その私たちを、主イエスは愛のまなざしによって見つめ、私たちのための救いのみ業を、まさに自腹を切ってして下さったのです。私たちを見つめておられる神のまなざしは、この主イエスを通して注がれています。それは、私たち罪人を決して見捨てることなく、見て見ぬ振りをして通り過ぎることなく、徹底的に関わって下さり、罪の赦しを与え、私たちを新しく生かし、そして永遠の命を与えて下さろうとしているまなざしなのです。その愛と慈しみのまなざしによって神は私たちを見つめつつ、「行ってあなたも同じようにしなさい」と励まして下さっているのです。私たちは、主イエスの救いに基づくこの神の励ましを受けているから、あの律法の専門家のように「わたしの隣人とはだれか」と理屈を言って人の前を見て見ぬ振りをして通り過ぎるのではなくて、出会う人々を具体的に愛し、その隣人となって生きていくことができるのです。主イエスが敵であった私たちを愛して下さったように、私たちも自分に敵対していたり、迷惑をかける人をも受け入れ、その人を助けて生きていくのです。罪人である私たちは、そのことを決して十分に完全にすることなどできません。なお、見て見ぬ振りをしてしまうようなことがあるし、人の苦しみ悲しみに十分に気づくことができず、それに寄り添うがことができないことも多々あります。しかし主イエスはそのような私たちを赦して下さり、常に新たに、「行ってあなたも私と同じように人を愛しなさい」と語りかけ、遣わして下さるのです。

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