説 教 「約束の福音」 副牧師 川嶋章弘
旧 約 詩編第16編1-11節
新 約 使徒言行録第13章13-41節
パンフィリア州のペルゲへ
使徒言行録第13章を読み進めています。13章からいわゆる「パウロの第一次伝道(宣教)旅行」が始まりました。聖霊によってアンティオキア教会から送り出されたバルナバとサウロ(パウロ)は、キプロス島での伝道を終えると、本日の箇所の冒頭13節にあるように、「パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲ」に向かいました。聖書の後ろに聖書地図があり、その11「パウロの第一次および第二次宣教旅行」を見ると、緑色の線が第一次伝道旅行の行程です。それを見ると分かるように、キプロス島の西側にあるパフォスから船出したパウロたちは、パンフィリア州の港町アタリアに着くと、そこから少し内陸にあるペルゲに進んだのです。
ヨハネの離脱
ところがそこで助手として同行していたヨハネが、エルサレムに帰ってしまいます。その理由は何も記されていませんが、後にこのことがパウロとバルナバの衝突に発展します。そのことについては、その箇所を読むときにお話ししますが、このヨハネの離脱について、パウロとバルナバの受けとめ方が違っていたことは確かです。伝道の旅はまだ始まったばかりです。そこでパウロたちは、一つの躓きに直面したと言ってよい。伝道に派遣されたメンバーの一人が離脱するのは決して小さなことではありません。しかもそのことに対する受けとめ方の違いは、パウロとバルナバの間に少なからずわだかまりを生じさせたに違いありません。人間的な思いからすれば、パウロもバルナバもこれ以上この伝道の旅を続けるのは難しいと思ったかもしれない。しかし使徒言行録は、「ヨハネは一行と分かれてエルサレムに帰ってしまった」と記した後、すぐに続けて「パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した」と記します。ヨハネの離脱にもかかわらず、彼らはペルゲから約160キロメートル北上して、ピシディア州のアンティオキアに進みました。13、14節を読む限りでは、ヨハネの離脱があっても、何事もなかったかのように伝道の旅が進んだ印象を受けます。しかし後に起こったことを考えれば、そんなことはないはずです。二人の間にわだかまりがあったに違いない。しかしそれでも彼らは人間的な思いにとらわれるのではなく、聖霊の主導のもとに歩みました。自分たちの感情に振り回されるのではなく、聖霊なる神様が「前もって二人に決めておいた仕事」を、その務めを担うことに誠実であり続けようとしたのです。
聖霊の主導のもとに歩む
聖霊の主導のもとに歩み、聖霊の導きに信頼して歩むとは、このように生きることです。私たちも聖霊の導きに信頼して、それを祈り求めて歩んでいます。しかしそれでいて、なんらかの躓きに直面すると、平たく言えば、嫌なことがあると、自分の感情に振り回されて、自分に与えられている務めを放り出してしまいたくなります。しかもこのことは、教会においてこそ起こりやすい。仕事であれば少々嫌なことがあっても、生活の糧を得るためには我慢しなくてはならないと思い直します。しかし教会では、我慢したって給料が得られるわけではありません。それなら嫌な思いをしてまで奉仕をしたくない、交わりを持ちたくないと思うのです。けれども私たちは、教会においてこそ、たとえ嫌な思いをしたとしても、神様が自分に与えてくださった務めを担うことに誠実であり続けたい。もちろんそれは嫌なことがあっても、ひたすら我慢しなくてはならないということではありません。しかし自分の感情に振り回され、支配されそうになるとき、私たちは聖霊の主導のもとに歩むことに心を向けて、聖霊の導きに信頼して、それを祈り求めて歩んでいきたいのです。そのことによって、ヨハネの離脱にもかかわらず、パウロとバルナバが、聖霊の主導のもとにピシディア州のアンティオキアに向かったのと同じような歩みが、私たちと私たちの教会に起こされていくのです。
ユダヤ人の会堂におけるパウロの説教
さてパウロたちはピシディア州のアンティオキアに到着すると、安息日にユダヤ人の会堂に入りました。キプロス島でもそうであったように、まずユダヤ人の会堂に行くのは、パウロの伝道の基本的な戦略でした。その安息日の会堂で、「律法と預言者の書が朗読された後」、会堂長たちが遣わした人がパウロたちに、「兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と言いました。そこでパウロが語った説教が、16節から41節まで記されています。その冒頭で、「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください」とあるように、この説教は、「イスラエルの人たち」、つまりユダヤ人と、「神を畏れる方々」、つまり異邦人で唯一の神を信じている人たちに向けて語られたのです。これまで使徒言行録は、ペトロの説教やステファノの説教を記してきました。しかしこのパウロの説教は、ユダヤ人の会堂で、しかも異教社会のユダヤ人の会堂で語られた説教としては最初で最後の記録です。その意味でも、とても興味深い説教なのです。
神の導きによる歴史
パウロはまず、イスラエルの民の歴史から語り始めます。17節では、イスラエルの民の神が、パウロ自身を含むユダヤ人の先祖を選び出し、エジプトの地に寄留している間も、その民を強大なものとし、彼らをそこから導き出してくださった、と語られています。族長への選びと出エジプトの出来事が語られているのです。さらに18節では、エジプトから導き出された後、四十年の荒れ野の旅において、不平不満ばかり言っていたイスラエルの民を、神様が憐れみによって耐え忍んでくださったことが語られています。「耐え忍んだ」は、別の写本では「養った」となっていて、そちらも味わい深い訳です。神様は荒れ野の四十年において、民の背きに耐え忍ぶだけでなく、その民をあのマナによって養ってくださったからです。19節では、カナンの地において、神様がその地をイスラエルの民に相続させたことが語られています。そして20節にあるように、神様は、その後、サムエルの時代までは、その時々に「士師」と呼ばれる指導者を立て、イスラエルの民を導いてくださったのです。このように17節から20節は、大まかに言えば創世記から士師記までをカバーしています。そこで強調されているのは、神様こそがイスラエルの民を導いてくださったということです。だからパウロはここで、一貫して神様を主語として語ります。ほかならぬ神様が、族長たちを選び、その民をエジプトから導き出し、荒れ野で民の行いに耐え忍ぶと共に、民を養い、カナンの地で民にその土地を相続させ、その後、士師たちを立ててくださった、と語るのです。旧約聖書の創世記から士師記を読むと、有名な人物が、いわばカリスマを持った人物がたくさん登場します。それにもかかわらずパウロは、誰一人として、その名を挙げていません。アブラハムやイサクやヤコブ、そしてモーセやヨシュアも、あるいはギデオンやサムソンも出て来ないのです。それはその人たちが重要でない、ということではありません。しかしパウロは何よりも神様こそが神の民イスラエルを導き、その歴史を支配しておられることを見つめています。神様がイスラエルの民に与えてくださった恵みの数々を見つめているのです。イスラエルの歴史は英雄たちの歴史ではありません。神様の導きによる歴史、神様の恵みの積み重ねの歴史であり、神様の主導のもとにある歴史にほかならないのです。
神の御名こそがたたえられる
このパウロの歴史の捉え方は、キリスト教会の、つまり私たちの歴史の捉え方、と言ってもよいでしょう。私たちの教会にも152年の歴史があり、その創立者と言ってもよいヘボンを始めとして、信仰の先達の尊い働きがあって今の教会があります。私たちはそのことを忘れてはなりませんし、その方々の信仰の遺産をしっかり受け継いでいきたいと思います。また今、教会に連なるメンバーも、それぞれに異なる賜物を与えられ、色々な形で教会に仕えている大切な一人ひとりです。しかしそうであっても、私たちの教会の歴史は、神様の導きによる歴史であり、神様の主導のもとにある歴史です。信仰の先達も私たちも、その歴史の中で、不思議なことに神様によって用いられたのです。ですから私たちの名前が残る必要などまったくない。そうではなく私たちの教会を導いてくださる神様の御名こそがたたえられなくてはなりません。私たちは神様の恵みの積み重ねの歴史をこそ受け継ぎ、語り継いでいくのです。
ダビデの子孫から救い主イエスを送る
21節以下では、神様がイスラエルの民にサウルを与え、そのサウルを退けてダビデを王としたことが語られています。ここではサウルとダビデの名前が登場しますが、焦点はダビデにあります。しかしそれはダビデを英雄として語ろうとしているのではありません。23節にこのようにあります。「神は約束に従って、このダビデの子孫から、イスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」。つまり焦点がダビデにあるのは、その子孫から、イスラエルに救い主イエスが送られたからにほかなりません。「約束に従って」と言われていますが、その約束とは、サムエル記下7章で預言者ナタンを通して告げられた、「ダビデの王国はとこしえに続く」という約束です。この約束は、その後、王国が滅亡しても破棄されることなく、ダビデの子孫から、救い主イエスが送られることによって実現したのです。
パウロの説教を聞いていた人たちは、ここに至って戸惑いを覚えたのではないでしょうか。22節までは、つまりダビデがイスラエルの王として立てられたことまでは、会堂に集っていたユダヤ人たちはよく知っていたはずです。しかし神様がダビデの子孫から救い主イエスを送ってくださった、などということは聞いたことがなかったのです。ここでパウロは、救い主イエスの到来が、イスラエルの民の歴史と切り離せないことを見つめています。会堂に集っていたユダヤ人には思いも寄らないことでしたが、イスラエルの民の歴史を導いてきた神様は、その歴史の先で、イスラエルの民への約束の実現として、救い主イエスを遣わされました。しかもユダヤ人だけの救い主としてではなく、すべての人の救い主として遣わされたのです。
神の導きの歴史の頂点にある十字架と復活
26節以下で、パウロはまさにイスラエルの民の歴史の先に、そのクライマックスに、主イエスの十字架と復活が実現したことを語っています。26節でパウロは改めて会堂に集っていた人たちに呼びかけ、「この救いの言葉は私たちに送られました」と語りました。神様がイスラエルの民に約束していた「救いの言葉」を実現するために、救い主イエスは遣わされたのです。ところが人々はそのイエスを認めず、十字架につけて殺しました。28節には「死刑に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを殺すようにピラトに求めました」とあります。人々は、神様が遣わしたイエスを何の罪もないのに十字架につけて殺したのです。それは、とんでもないことです。しかしパウロは、そのとんでもないことが神様の主導のもとに起こったことを語ります。だから27節の後半では、「安息日ごとに読まれる預言者の言葉を」、人々が「イエスを裁くことによって実現させた」と言われ、29節では「こうして、イエスについて書いてあることがすべて実現した」と言われているのです。イスラエルの民を導いてきた神様の導きは、神様によって遣わされたイエスが十字架で殺されたことによって失われたのではありません。彼らに与えられていた神様の約束が破棄されたのでもありません。いえ、それどころか、そのようにご自身の遣わしたイエスが十字架で殺されることによって、神様はイスラエルの民に与えられていた約束を実現してくださったのです。
29節の後半には「人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました」とあります。それは単に人々がイエスを、十字架から降ろしたことを言っているのではありません。旧約聖書には、「木に掛けられた者は神に呪われた者」(申命記21:23)と記されています。主イエスの十字架の死とは、何一つ罪を犯されなかった方が、神様の怒りと呪いを受けて死なれた死です。このことが神様の主導のもとに起こりました。そして神様はそのイエスを死んだままにはしておかれず、30節にあるように、死者の中から復活させてくださったのです。このように神様はイスラエルの民を導かれ、その歴史の先で、救い主イエスを遣わし、そのイエスを十字架につけて殺し、しかしその死から復活させることによって、イスラエルの民に与えた約束を実現してくださいました。神様の導きの歴史、神様の恵みの積み重ねの歴史の頂点に、主イエスの十字架と復活が起こったのです。
朽ち果てることがない
このことこそ32節にある「約束の福音」です。復活されたキリストに出会った弟子たちは、そしてパウロも、この「先祖に与えられた約束の福音」を告げ知らせたのです。この「約束の福音」について、33節では「つまり、神はイエスを復活させて、私たち子孫のためにその約束を果たしてくださった」と言われています。神様は十字架で死なれたイエスを復活させることによって、イスラエルの民に与えた約束を果たし、実現してくださったのです。33節以下では、幾つかの旧約聖書の御言葉を引用されていますが、パウロが強調しているのは、34節にある「神がイエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったこと」です。だから36、37節では、ダビデが死んで朽ち果てたのに対し、神様が十字架の死から復活させた主イエス・キリストは、朽ち果てることがなかった、と言われています。それは、主イエス・キリストが復活させられて、新しい命、永遠の命を生きておられるということであり、復活の主イエスが、今も生きて働かれ続けている、ということにほかならないのです。
罪を赦され、義とされる
この主イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちに何が与えられたのでしょうか。それが38節以下に語られています。「兄弟たち、この方による罪の赦しが告げ知らされたことを知っていただきたい。そして、モーセの律法では義とされえなかったあらゆることから解放され、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」。キリストが私たちの代わりに、私たちの罪をすべて背負って十字架で死んでくださり、私たちが受けるべき神様の怒りと呪いを受けてくださったことによって、私たちの罪は赦されました。それは、私たちが義とされ、救われた、ということです。「義」とは神様との正しい関係を意味します。私たちの罪によって破壊されていた私たちと神様との関係が、キリストの十字架と復活によって回復させられたのです。この罪の赦しにあずかり、義とされ、救われるのは、私たちが善い行いを積み重ねることによってでも、何か条件をクリアすることによってでもありません。「モーセの律法では義とされえなかったあらゆることから解放され」とあるように、私たちは律法によっては、つまり自分の行いによっては、決して義とされることも、救われることもないのです。そうではなく「信じる者は皆、この方によって義とされる」とあるように、私たちは主イエス・キリストを信じることによって、ただそれだけで、その十字架と復活による罪の赦しにあずかり、義とされ救われるのです。
主イエス・キリストを信じるとは?
しかし主イエス・キリストを信じるとは、主イエスの十字架と復活によって私たちの罪が赦され、私たちが義とされ救われたという知識を持つことではありません。そうではなく木に掛けられたイエスは、自分の代わりであると認め、本当は自分が神の怒りと呪いを受けるべき罪人であったにもかかわらず、その自分の代わりに主イエスが死んでくださったことを認めることです。主イエスの十字架の死がほかならぬ自分のためであったことを受け入れることが、主イエスを信じることなのです。そのことによって私たちは罪の赦しにあずかり、義とされ救われます。そしてその救いは、私たちの地上の数十年の生涯にだけ関わるのではありません。パウロはここでキリストが復活して、もはや朽ち果てることがないことを強調しています。同じようにキリストによって義とされ救われた私たちも、朽ち果てることがない者とされるのです。それは、もちろん不老不死になるということではありません。私たちは誰もが地上の生涯を終えて、死を迎えます。しかしそれがすべての終わりではない。私たちは世の終わりに、復活と永遠の命にあずかり、朽ち果てることがない者とされるのです。主イエス・キリストを信じるとは、このことを信じることです。ほかならぬ自分に、死を超えた、復活と永遠の命の希望が、世の終わりに朽ち果てることがない者とされる希望が与えられていることを信じることにほかならないのです。
神の恵みの積み重ねの歴史
パウロは、神様がイスラエルの民の歴史を導き、その歴史の先で、救い主イエスを送ってくださり、その十字架の死と復活によって、イスラエルの民に与えられた「約束の福音」を実現してくださったことを語りました。神様の壮大な導きの歴史を語ったのです。私たちも、パウロと共に、この神様の壮大な導きの歴史に目を向けていきます。しかしそこで私たちは、神様の導きを信じていればすべてうまくいく、というような安易な歴史を思い浮かべるのではありません。私たちは神様の導きの歴史に目を向けるとき、私たち人間の罪の歴史に目を向けないわけにはいきません。私たち人間の歴史は、神様に対する反逆の歴史、背きの歴史でした。私たちは神様に対して背き続け、神様を悲しませ続けてきたのです。それでも神様は、私たちの罪を耐え忍んでくださり、多くの恵みを積み重ねてきてくださり、その頂点として、独り子イエス・キリストを十字架につけて、私たちの救いを実現してくださったのです。神様の恵みの積み重ねの歴史は、安価な恵みの歴史、安っぽい恵みの歴史ではありません。独り子の命を犠牲にするほどの計り知れない恵みの歴史です。私たち人間が罪を積み重ね続けてきたにもかかわらず、神様は耐え忍んで、恵みを積み重ね続けてくださり、遂には独り子の命まで与えてくださった歴史なのです。この神様の恵みの積み重ねの歴史に目を向け、その中に生かされていることに気づかされることを通して、私たちは神様の導きに信頼して生きるよう変えられていきます。パウロとバルナバがそうであったように、私たちは聖霊なる神様の主導のもとで、聖霊の導きに信頼し、それを祈り求めて歩んでいく者とされるのです。
聖餐
この後、聖餐にあずかります。聖餐において私たちは、神様の導きの歴史のクライマックス、その頂点において、独り子イエス・キリストが十字架で死んでくださり、私たちの救いを実現してくださったことを想い起こします。それは単に知識として思い出すのではありません。神様の呪いを受けるしかなかった自分のために、主イエスが十字架で肉を裂き、血を流してくださったことによって、私たちが罪を赦され、義とされた、その救いの恵みを、パンと杯にあずかることを通して体全体で味わいます。イスラエルの民の歴史を導き、その先に救い主イエスを遣わし、その十字架と復活によって救いを実現してくださった、神様の恵みの積み重ねの歴史が自分にも及んでいることを、その歴史の中に自分も入れられていることを確かに味わうのです。41節に預言者の言葉として、「人が詳しく説明しても あなたがたには到底信じられない業」とあります。聖餐において私たちは、まさに人が詳しく説明しても到底信じられない御業の恵みを、神様の独り子の十字架と復活による救いという到底信じられない、驚くべき救いの恵みを味わいます。そのことを通して、復活されたキリストがもはや朽ち果てることがないように、私たちも死の先で、世の終わりに復活と永遠の命にあずかり、朽ち果てることのない者とされることへの希望を確かにされるのです。聖餐に養われつつ生きる私たちは、躓きや困難に直面するときも、忍耐して、絶望することなく、世の終わりに至る神様の導きの歴史の中で、神様の恵みの積み重ねの歴史の中で用いられて歩んでいくのです。
