説教「神の約束の実現」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 創世記第12章1-9節
新約聖書 使徒言行録第6章8節-7章16節
ステファノ
使徒言行録6章を読み進めていて、前回はその前半を読みました。そこでは最初の教会が、食事の分配を適切に行えなくなった問題に対処するために、七人を選んだことが語られていました。その七人の筆頭に挙げられていたのがステファノという人物です。このステファノが6章7節以下から7章の終わりまでの主人公と言えます。ステファノは、その名前がギリシア語の名前であることから、「ギリシア語を話すユダヤ人」でキリスト者となった人物であったと考えられます。「ギリシア語を話すユダヤ人」については、前回お話ししました。当時、すでにユダヤ人は世界各地に散らばって暮らしていました。ディアスポラのユダヤ人と言われます。その中で、地中海沿岸のギリシア語圏で生まれ育ち、エルサレムに移住してきた人たちが「ギリシア語を話すユダヤ人」です。この人たちは異教の国で生まれ育ち、その国の言葉であるギリシア語を話し、しかしその社会と文化の中にあっても、ユダヤ教の信仰を堅く守っていました。ステファノ自身もかつてそのようなディアスポラのユダヤ人の一人であったのです。
神の言葉をないがしろにしないため
食事の分配をする務めのために選ばれステファノでしたが、8節では、「ステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」と言われています。5章12節では、「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた」と言われていましたから、ステファノが使徒たちと同じような働きを担っていたことが分かります。ステファノも主イエス・キリストによる救いを宣べ伝え、「不思議な業としるし」を行っていたのです。務めの内容が変わったと考えなくてもよいと思います。そもそも彼が選ばれたのは、単に教会内で食事の分配を適切に行うためというより、根本的には教会が「神の言葉をないがしろ」にしないためでした。そうであれば彼が務めを担う中で、神の言葉を語ったとしてもそれほど不思議ではないのです。
親しい人たちへの伝道
8節以下から、ステファノがキリスト者でない「ギリシア語を話すユダヤ人」にも、キリストによる救いを宣べ伝えたことが分かります。8節の「民衆」とはユダヤ人のことですが、とりわけ「ギリシア語を話すユダヤ人」、かつてディアスポラのユダヤ人で、エルサレムに移住した人たちのことです。ステファノはその人たちに福音を宣べ伝え、伝道しました。ペトロはガリラヤの漁師でしたからギリシア語で語りかけることは難しかったと思います。しかしステファノはギリシア語で直接語りかけることができました。だから神様はステファノを「ギリシア語を話すユダヤ人」への伝道に用いられたのです。しかし単に言葉の問題だけではなかったと思います。ステファノ自身がかつてディアスポラのユダヤ人であったからこそ、彼は「ギリシア語を話すユダヤ人」の境遇やその気持ちが手に取るように分かりました。もしかしたらかつて同じ異教の国で共に支え合い、励まし合いながら生活していた親しい人たちがいたかもしれません。伝道する相手と親しい関係にあるからこそ、相手の気持ちが分かるからこそ、神様は彼を「ギリシア語を話すユダヤ人」への伝道に用いられたのではないでしょうか。
そうであるならばステファノと私たちは重なるところがあります。日本に生きる私たちにとって、家族の中から自分だけがキリスト者となることは珍しくありません。あるいは教会の外で、親しくしている人たちのコミュニティの中で、自分だけがキリスト者ということもしばしばです。だからこそ神様は私たちを、最も身近な家族への伝道に、親しい人たちへの伝道に用いられるのです。
親しい人たちからの反発
しかし相手の気持ちが分かるなら、親しい関係にあるなら、その人への伝道は簡単なのか、というとそうではありません。9節でこのように言われています。「ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる『解放された奴隷の会堂』に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した」。「解放された奴隷」というのは、捕虜としてローマへ連れて行かれ、そこで奴隷となっていたユダヤ人で、その後、解放されて、エルサレムへ移住した人たちのことです。いずれにしてもここで挙げられている人たちは、ステファノと同じで、かつてディアスポラのユダヤ人で、エルサレムへ移住した人たちです。ということは、ステファノの伝道に対して最も反発したのは、ほかならぬ「ギリシア語を話すユダヤ人」であったということになります。ステファノは、その境遇が、その気持ちがよく分かる人たちから大きな反発を受けたのです。その反発はエスカレートし、12節によれば、この人たちは「民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて」行きました。ステファノを最高法院の場で裁こうとしたのです。
神殿と律法
ステファノがこの人たちと親しい関係にあったのなら、この人たちもステファノと親しい関係にあったはずです。それなのになぜこの人たちはステファノに反発し、最高法院の場で裁こうとしたのでしょうか。その理由は、一言で言えば、「神殿」と「律法」にあります。11節で彼らは人々を唆してこのように言わせています。「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒瀆する言葉を吐くのを聞いた」。ここでステファノが「モーセと神を冒瀆する言葉」を語ったとは、13節にあるように、「聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようと」しなかったということであり、具体的には14節にあるように「あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう」と語ったことです。「ギリシア語を話すユダヤ人」にとって、神殿を中心とした自分たちの生活が批判され、自分たちが重んじているモーセが伝えた律法と、それに結びついた慣習を変えられてしまうことは、受け入れがたいことであったのです。
神殿と律法を拠り所として
とはいえ「ギリシア語を話すユダヤ人」であれ、「ヘブライ語を話すユダヤ人」であれ、ユダヤ人であれば神殿と律法を重んじていたことに変わりはありません。そうであるならばなぜ、「ギリシア語を話すユダヤ人」の反発が大きかったのでしょうか。ユダヤ地方で生まれ育った「ヘブライ語を話すユダヤ人」にとって、神殿を中心とした生活は身近なものでした。しかしエルサレムから遠く離れた地で暮らすディアスポラのユダヤ人にとって、神殿を中心とした生活は願っても叶わないものであり、憧れであったに違いありません。その憧れがついに叶った。エルサレムに移住できたからです。願っても手に入らなかった生活が、ついに手に入った。だからこそ彼らは神殿を中心とした生活をひときわ重んじたのです。また彼らは異教の地にあって、律法とそれによる慣習を守ることによって自分の信仰を守っていました。だからエルサレム移住後も、彼らは律法による慣習を大切にしたのです。ディアスポラのユダヤ人の中には、異教の国で異なる社会と文化の中で生活していたからこそ、ユダヤ人の伝統をひときわ重んじ、それに固執している者たちがいました。そのような人たちが、念願かなってエルサレムに移住した後に、神殿中心の生活を批判され、律法による慣習を変えられてしまうことに対して猛烈に、過剰なほど反発したのも当然と言えば当然です。これまでの自分たちの歩みが否定されたように感じたからです。彼らは自分たちが神の民であることの目に見える保証を、神殿と律法に求めていました。かつて異教の国にあっても、そしてエルサレムに移住してからも、神殿と律法を拠り所として生きていたのです。
愛する人たちにキリストを紹介したい
「ギリシア語を話すユダヤ人」は、自分たちと同じ境遇にあり、自分たちの気持ちが分かるはずのステファノが神殿と律法を批判したことに対して、裏切られたように感じ、怒りと憎しみを抱かずにはいられなかったのではないでしょうか。だから彼らの行動はエスカレートしていったのです。もちろんステファノは、彼らの気持ちがよく分かったに違いありません。かつてステファノも異教の国で神殿を中心とした生活に憧れ、律法の慣習を重んじて生きていたからです。彼らが神殿と律法をひときわ重んじていることも、それに固執せざるを得ないことも理解できたはずです。しかしそれでもステファノは、神殿と律法を批判せずにはいられませんでした。13節で「一向にやめようとしません」と言われていますが、ステファノは何度も妨害にあいながらも、神殿と律法を批判せずにはいられなかったのです。何故でしょうか。それは、主イエス・キリストによる救いを信じたからです。神殿と律法を拠り所とし、そこに自分が神の民であることの目に見える保証を求めなくてよいことを知らされたからです。だからこそ語らずにはいられませんでした。自分と同じ境遇にある人たちに、親しい人たちに、主イエス・キリストによる救いの良い知らせを、福音を、神の民が本当はどのように生きる者なのかを語らずにはいられなかったのです。それは、ステファノが彼らを愛していたからにほかなりません。
私たちの身近な家族や親しい人たちは、神殿と律法を拠り所して生きているわけではありません。あるいはディアスポラのユダヤ人ほどに、重んじ、あるいは固執していることがあるわけではないかもしれません。それでも私たちがその人たちに主イエスを証しし、福音を伝えるとき、共感を得られなかったり、反発を受けたりすることはあります。その理由は色々ですが、その根本には自分の慣れ親しんだ生活が変わることへの恐れがあるのではないでしょうか。たとえその慣習を守ってきた理由が定かでなくても、それを変えることには抵抗を覚えるのです。まもなく正月を迎えますが、日本では少なくない人たちが「しめ縄」を飾ります。「しめ縄」には本来、宗教的な意味が込められているはずですが、多くの人はその意味をよく知らずに飾っています。しかし意味を知らないからといって、飾らなくてもよいかというと、そういうわけでもありません。日本の文化にはこのようなことが多く見られます。そして私たちが主イエスを証しし、福音を伝えるとき、色々な慣習を変えられてしまうことに対する反発に直面するのです。それでもなお私たちは主イエスを証ししていきます。ステファノのように面と向かって批判するわけではありません。しかしあきらめるのでもない。慣習を変えたくない気持ちも分かるけれど、それ以上に、私たちを本当に生かすお方を紹介したいからです。私たちはそのお方を、主イエス・キリストを、言葉によって、あるいは言葉によらずに証ししないわけにはいきません。私たちも家族を、親しい人たちを愛しているからです。
神の言葉を拠り所として
最高法院の場に立たされたステファノが、大祭司から「訴えのとおりか」と尋ねられ、それに答えたのが7章1節から53節までの長い説教です。本日は16節までを見ていきます。彼は旧約時代のアブラハムから語り始めます。一見、訴えとは関係がないように思えるアブラハムから語り始めることに回りくどさを感じるかもしれません。しかしステファノはアブラハムについて語ることを通して、神殿と律法に固執する人たちに対して、神の民がどのように生きる者なのかを伝えようとしているのです。
2節から8節でステファノは、共に読まれた創世記12章から始まるアブラハム物語を簡潔に語っています。ステファノが語ったことは、細かく見ると創世記で語られていることと食い違いがありますが、全体としてアブラハム物語で本質的に見つめられていることを語っています。「栄光の神」が現れ、アブラハムに「あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け」と言われました。その神様の言葉に従って、アブラハムは生まれ故郷を離れて旅立った、と語られています。神の民はアブラハムから始まります。「ギリシア語を話すユダヤ人」は、自分が神の民であることの目に見える保証を神殿に求めていました。しかし神の民の始まりに立つアブラハムは、目に見える土地を離れて、目に見えない神様の言葉に従って旅立ちました。アブラハムに始まる神の民は、そして主イエス・キリストによって神の民とされた私たちも、目に見えるものを拠り所として生きるのではなく、目に見えない神の言葉を拠り所とし、それに従って生きていくのです。
神の約束の実現を信じて
そのように神の言葉に従って旅立ったアブラハムが、たどり着いた土地で、何か財産を与えられたかというと、そうではありませんでした。目に見えるものは何も、「一歩の幅の土地さえも」与えられなかったのです。しかしアブラハムに与えられたものが一つありました。それは、神様の約束です。その約束について5節の後半でこのように言われています。「しかし、そのとき、まだ子供のいなかったアブラハムに対して、『いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる』と約束なさったのです」。アブラハムは「一歩の幅の土地さえも」手に入れていません。子どももいませんでした。創世記によればアブラハムも妻サラも高齢で、人間の力では子どもが与えられる可能性はありませんでした。それにもかかわらずアブラハムはこの神様の約束の実現を信じて生きたのです。神の民は、目に見えるものを拠り所して生きるのではなく、目に見えない神様の約束を信じて生きます。目に見える神殿を拠り所として生きている「ギリシア語を話すユダヤ人」は、アブラハムの生き方から、神の民の生き方から遠く離れてしまっている。ステファノはアブラハムについて語ることを通して、このことを訴えているのです。
神の約束は必ず実現する
6、7節では、アブラハムの子孫、つまりイスラエルの人たちがエジプトで400年の間、奴隷として生きなくてはならないこと、しかし神様がそのイスラエルの人たちをエジプトから脱出させ、救い出すことを、神様がアブラハムに語った、と言われています。ユダヤ人は誰もが、この神様の救いの約束が実現し、出エジプトの救いのみ業が実現したことを知っていました。ですからここでステファノは、神様の約束が必ず実現することを強調しています。「あなたがたは目に見えるものを拠り所としているけれど、目に見えない神様の約束が必ず実現することを知っているはずだ」と訴えているのです。アブラハムは確かに神様の約束を信じて歩みました。しかし創世記を読めば分かるように、アブラハムは神様の約束を信じられず疑ってしまうことがあり、自分の力に頼ってしまうこともありました。それにもかかわらず、神様はそのアブラハムを用いて、救いのみ業を前進してくださったのです。神様はご自分の約束に忠実であられ、それを必ず実現してくださる。このことをステファノは語っているのです。
神の導きを信じて
9節以下ではヨセフについて語られています。ヨセフもまた神様の救いの約束が実現するために用いられました。ヨセフ自身はそのことを知っていたわけではありません。それどころか兄たちに妬まれて、エジプトへ売られ、奴隷としての生活を強いられ、多くの苦難を経験しました。しかし9節後半から言われているように、異教の国エジプトにあっても、「神はヨセフを離れず、あらゆる苦難から助け出して」くださいました。そして神様の導きによって、ヨセフはエジプトの大臣に任命され、大飢饉からエジプトの住民を、父ヤコブと兄弟を、また親族を救ったのです。ヨセフ自身は知るよしもありませんが、この出来事の先に、出エジプトの救いのみ業があります。ヨセフ自身は知らなくても、神様はこの救いのみ業の実現のためにヨセフを用いてくださったのです。ディアスポラのユダヤ人にとって、ヨセフは特別な存在であったと思います。ヨセフも故郷から離れ異教の国で生きた、いわばディアスポラの先駆者であったからです。そのヨセフは、自分には先行きが見えなくても、たとえ苦難の中にあっても、神様の導きを信じて歩みました。しかしヨセフを特別な存在だと思っていたディアスポラのユダヤ人は、神様の導きを信じて歩むよりも、目に見えるものを拠り所として歩んでいたのです。ステファノは、ヨセフについて語ることを通して、彼らの生き方が、ヨセフの生き方からも遠く離れていることを訴えているのです。
すでに救いが実現し、将来完成することを信じて
私たちも主イエス・キリストの十字架と復活によって救われ、神の民とされています。その私たちにも一つの約束が与えられています。将来、世の終わりに復活と永遠の命にあずかるという約束です。キリストによる救いも、その救いによって与えられているこの約束も私たちの目には見えません。しかし私たちはキリストの十字架と復活によって私たちの救いが実現したことを信じ、将来、その救いが完成し、復活と永遠の命の約束が実現することを信じて、この地上の生涯を歩んでいきます。目に見えるものを拠り所とするのではなく、財産や土地を拠り所とするのでもなく、目に見えない神様の言葉を拠り所とし、神様の約束と導きを信じて歩んでいくのです。
今、私たちはアドヴェントを迎えています。アドヴェントに私たちは、2000年ほど前に、すでに主イエス・キリストがこの世に来てくださり、その十字架と復活によって救いを実現してくださったことに心を向けます。それと同時に、キリストが将来、再びこの世に来てくださり、その救いを完成してくださることに心を向けます。アドヴェントに私たちは、目に見えるイルミネーションや、クリスマスプレゼントに心を向けるのではありません。それらは私たちに本当の希望を与えることはないでしょう。アドヴェントに私たちは、御子キリストの第一の到来によって実現した目に見えない救いを信じ、第二の到来によってその救いが完成することを待ち望みます。私たちの本当の希望は、御子キリストの第二の到来による救いの完成にこそあります。その救いの完成において、神様が復活と永遠の命を約束してくださっていることを信じ、私たちはなお苦しみや悲しみに溢れているこの世界にあって、神様の導きを信じ、絶望することなく、希望を持って歩んでいくのです。そのような生き方こそが、アブラハムの生き方であり、ヨセフの生き方であり、ステファノが示す神の民の生き方にほかなりません。そしてそのように生きることによってこそ私たちは、愛する家族に、親しい人たちに、主イエス・キリストを証しし、神の導きを信じて生きる歩みに与えられる慰めと希望を証ししていくことができるのです。
聖餐にあずかりつつ
神様はアブラハムに救いの約束を与えてくださいましたが、それだけではなくしるしをも与えてくださいました。それが8節で「神はアブラハムと割礼による契約を結ばれました」と言われている「割礼」です。「割礼」は、イスラエルの民にとって、神の民とされていることのしるしでした。そしてそれは、私たちの信仰においては「洗礼」に当たります。私たちがキリストの十字架と復活による救いにあずかり、神の民とされていることのしるし、その保証が「洗礼」です。そして洗礼を受けた者があずかるのが、この後、執り行われる聖餐です。聖餐において私たちは、キリストの体であるパンと、キリストが流された血である、ぶどう汁にあずかることによって、目に見えない救いを体全体で味わいます。目に見えない救いをしばしば信じられず、疑ってしまう私たちが、聖餐にあずかることを通して、目に見えない救いを信じる信仰を確かなものとされ、将来、世の終わりの復活と永遠の命の約束を信じる信仰をも確かなものとされるのです。
私たちはキリストの十字架と復活によって救いにあずかり、神の民とされ、そのしるしとして洗礼を受けました。そして聖餐にあずかりつつ、目に見えない救いを信じ、目に見えない神様の導きと約束を信じて歩んでいくのです。その歩みは、絶望しない歩み、慰めと希望に満ちた歩みです。そのように歩む私たちが用いられて、私たちの愛する人たちに、キリストによって神の民とされて生きる喜びが証しされていくのです。
