説教 「心も思いも一つに」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 ヨシュア記第7章16-26節
新約聖書 使徒言行録第4章32節-第5章11節
一人も貧しい人がいなかった
教会が誕生し、伝道が始まりました。多くの人が洗礼を受け、キリストの十字架と復活による救いにあずかり、教会のメンバーに加えられました。では誕生したばかりの教会で、教会のメンバーはどのような生活を送っていたのでしょうか。それが、本日の箇所で語られています。
34節に印象深い言葉があります。「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」。誕生したばかりの教会のメンバーの中には、一人も貧しい人がいなかった、そう言われています。もちろんそれは、メンバーが皆それなりに裕福であった、ということではありません。メンバーの中には貧しい人もいたに違いない。それならなぜ「一人も貧しい人がいなかった」のでしょうか。34節の後半からこのように言われています。「土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである」。メンバーの中で、「土地や家を持っている人」が、「それを売っては代金を持ち寄り」、教会に献げました。そのお金を使徒たちが管理し、必要に応じてメンバーに分配しました。だから「一人も貧しい人がいなかった」のです。
そのように言われると、誕生したばかりの教会には貧しい人も裕福な人もいたけれど、裕福な人が自分の財産を売って教会に献げることで、教会は財政的に豊かであったため貧しい人を支えることができた、という印象を受けるかもしれません。しかし外から見れば、誕生したばかりの教会は全体としてとても貧しかったはずです。エルサレムに誕生したこの教会を「エルサレム教会」と呼ぶことがあります。後にパウロは自分が建てた教会に宛てた手紙で、エルサレム教会への献金を募っています。使徒言行録24章17節でも、パウロは「何年ぶりかで」エルサレムに戻ってきた理由として、「同胞に救援金を渡すため」と語っています。エルサレム教会は、客観的に見れば、自分の教会だけでは教会の財政を支えられず、ほかの教会からの援助が必要なほど貧しかったのです。ですから「一人も貧しい人がいなかった」とは、裕福な人の献金によって、皆がそれなりの暮らしが出来ていたということではありません。おそらく皆が貧しかった。しかしその中で、ある人だけが貧しさの中に放っておかれる、ということはなかったのです。メンバーの中で多少なりとも土地や家を持っている者はそれを売って献げたし、そうでない者も自分の献げられる範囲で献げたのだと思います。教会全体はとても貧しかったけれど、メンバー皆が貧しかったけれど、しかし自分の持っている物を分かち合うことで支え合い、誰一人として貧しさのために孤立していなかった。だから「一人も貧しい人がいなかった」、と言われているのです。
原始共産制?
34、35節を先に見ましたが、それを簡潔にまとめているのが32節です。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」。このことから、初代の教会は、そのメンバーが私有財産を持たず、すべての持ち物を共有する「原始共産制」であった、と言われることがあります。しかしそれは間違っています。後で5章1節以下にも目を向けますが、その4節でペトロはアナニアに、「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか」と言っています。つまり自分の土地を売らないで、自分で所有していることもできたし、仮に売っても、その代金を自分で所有し、思い通りに使うことができたのです。そもそも32節でも、「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく」と言われていて、自分の持ち物がなかった、と言われているのではありません。自分の持ち物、私有財産はあった。しかし誰一人として、自分の持ち物を「自分のものだ」と言う者がいなかった、まして「自分のものだから自分の好きなように使うのが当たり前」とは考えなかったのです。「すべてを共有していた」とは、互いに自分の所有を主張し合うことなく、持っている物を分かち合っていた、ということなのです。
自発的に分かち合う群れ
しかしそれは初代の教会が、そのような制度を持っていたということではありません。教会がメンバーに持っている物を教会に献げなさい、と命じていたのではないのです。あくまでメンバーが自発的に行っていたことです。ですから自分の持っている物をすべて献げなければいけなかったということでもありません。すべて献げた人もいたかもしれませんが、多くの人は献げられる分を献げたのです。36節でバルナバが自分の畑を売って、その代金を教会に献げたことがそれとなく、しかしわざわざ記されています。それはこのバルナバの行為が珍しかったから、特筆すべきことであったからだと思います。多くの人はバルナバのように献げられたわけではなかったのです。あるいはまったく献げられない人もいたに違いありません。生活するだけで精一杯ということもあったでしょう。しかし一部だけ献げる者も、まったく献げることができない者も、そのために教会で肩身の狭い思いをすることはありませんでした。自分の所有を主張しない、それに固執しないということは、ほかの人の所有に固執しないということでもあります。そこでは自分とほかの人の献げものを比べるということは起こりません。自分の所有を主張し合うことなく、自分の持ち物を自発的に分かち合う群れとは、自分のものは自分のもの、自分の好きなように使うのが当たり前という考えに支配されていない群れとは、そういう群れなのです。
私たちの教会の姿が問われている
私たちが本当に目を向けるべきなのはこのことです。この初代の教会の姿を通して私たちの教会の姿が問われているのです。私たちは自分の所有を主張し合うことなく、自分の持ち物を自発的に分かち合う群れとなっているでしょうか。私たちが生きている社会では、自分のものは自分のもの、自分の好きなように使うのが当たり前、常識です。私たちも知らず識らずのうちに、この当たり前に支配されています。そうなると教会でも自分の所有を主張し合うようなことが起こります。自分とほかの人の献げものを比べる、ということが起こります。自分とほかの人の献金や奉仕を比べる、ということも起こるのです。そうであるなら私たちの教会は、初代の教会、誕生したばかりの教会の姿から、遠く離れてしまっていることになります。一体、どうしたら私たちは、自分のものは自分のものだと主張することから、自分の所有に固執することから自由になれるのでしょうか。教会がルールを作ることによってでしょうか。あるいはルールを作らなくても、自分の所有を主張し、それに固執するのはやめなさい、と教えることによってでしょうか。そうではないでしょう。言われてしぶしぶそうするのでは、本当に自由になれているわけではありません。それなら自分の頑張りや努力によってでしょうか。それも違います。私たちの頑張りや努力ほど当てにならないものはありません。特に自分とほかの人を比べることにおいてはそうです。もう人と比べるのをやめようと頑張ってみても、いつのまにか人と比べて落ち込んだり、優越感に浸ったりしているのが私たちではないでしょうか。
心も思いも一つに
32節の冒頭にこうありました。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし…」。「信じた人々の群れ」とは教会のことです。自分の所有を主張し合うことから自由になるためには、教会のメンバーが「心も思いも一つに」することが必要だ、ということです。何によって「心も思いも一つに」するのでしょうか。前回の箇所で、教会のメンバーが「仲間」と言われていることをお話ししました。しかしそれは、気が合うからでも、興味や関心が同じであるからでもなく、同じ信仰を信じ告白しているからだ、とお話ししました。ここでも同じです。同じ信仰を信じ告白することによって、教会のメンバーは「心も思いも一つに」するのです。だからここで教会は「信じた人々の群れ」とも言われています。主イエス・キリストの十字架と復活による救いを信じた人々の群れが教会であり、この信仰によって私たちは「心も思いも一つに」し、自分の持ち物を自分のものだ、と言うことから自由になって、分かち合って生きるようになるのです。
主イエスの復活の証を聞くことによって
しかし私たちは、私たち自身がこの信仰を持っていると考えるべきではありません。この信仰は私たちに与えられるもの、私たちの内に起こされるものだからです。私たちの信仰は罪の力によって揺さぶられ、時には失われたように思えることすらあります。だから私たちは繰り返し信仰を新たにされ、起こされていく必要があるのです。ですからこの箇所で、決定的に重要なのは33節です。このように言われています。「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた」。誕生したばかりの教会の生活を語っている32節と34、35節に挟まれるようにして、このことが語られています。それは、このことにこそ教会のメンバーが同じ信仰を信じる土台、それによって「心も思いも一つに」し、分かち合う生活をする土台がある、ということではないでしょうか。使徒たちは「大いなる力をもって」、つまり聖霊に満たされて主イエスの復活を証ししました。その証を、つまりその説教を聞くことによって、教会のメンバーは、主イエスの十字架と復活を信じる信仰を与えられたのです。日々の歩みの中で信仰が激しく揺さぶられたとしても、十字架と復活による救いを告げられることによって信仰を新たにされて、「心も思いも一つに」し、分かち合って生活することができたのです。
神の恵みが注がれることによって
33節の後半で、「皆、人々から非常に好意を持たれていた」とも言われていました。33節に教会のメンバーが同じ信仰を信じる土台、それによって「心も思いも一つに」し、分かち合って生活する土台が見つめられているならば、この一文は文脈に合わないように思えます。周りの人が好意を持ってくれたから、教会のメンバーが同じ信仰を信じることができたとか、「心も思いも一つに」することができた、というのはおかしなことだからです。実は、ほかの訳を見ると、多くは新共同訳とは違う訳し方をしています。たとえば聖書協会共同訳ではこのように訳されています。「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しした。そして、神の恵みが一同に豊かに注がれた」。「恵み」と訳された言葉は、確かに「好意」と訳すこともできる言葉です。しかしここで見つめられているのは、教会の外の人たち、周りの人たちが教会に好意を持ったことではなく、神の恵みが「一同に」、つまり教会全体に豊かに注がれたことではないでしょうか。主イエスの十字架と復活による救いが告げられ、神の恵みが豊かに注がれることによってこそ、教会のメンバーは同じ信仰を起こされ、「心も思いも一つに」して、分かち合って生活することができたのです。そこに、自分の所有を主張し合うこれまでの生活とはまったく違う新しい生活が始まりました。自分たちの力でも周りからの評価でもなく、神の恵みこそがこの新しい生活を生み出す力なのです。
新しい生活が始まらなくてはおかしい
このことは裏返して言えば、主イエスの十字架と復活による救いを告げ知らされ、神の恵みを豊かに注がれて生きる私たちは、これまでとは違う新しい生活をするようになる、ということです。主イエスの十字架と復活を信じて生きるとは、「イエスさまは2000年ほど前に十字架で死なれたけれど、神さまが復活させてくださった」という知識を持つことではありません。そうではなく復活して今も生きておられる主イエスと結ばれて、主イエスの復活の命、新しい命に生き始めることです。それが洗礼を受けることであり、教会のメンバーとなることです。そうであるならばそこには新しい生活が始まらなくてはおかしい。神の恵みによって罪を赦され、主イエスと一つとされて新しい命に生き始めている私たちに、「自分のものは自分のもの」という生活とはまったく異なる、分かち合う生活が始まっていなくてはおかしいのです。もしそうなっていないとしたら、私たちは自分自身に問いかけなくてはなりません。十字架と復活を知識として知っているだけで終わってしまっていないか。本当に罪の赦しの恵みの中で、救いの恵みの中で生きているか。そのように問う必要があるのです。
アナニアの罪とは
5章1節以下では、アナニアとサフィラのことが語られています。この夫妻は、主イエスと一つとされた新しい生活をすることができなかった、と言うことができます。私たちが新しい生活をすることができていないとしたら、アナニアとサフィラの姿に自分たちの姿を見なくてはならないのです。とはいえアナニアとサフィラは、自分のものは自分のものだと主張し、分かち合おうとしなかったのではありません。1、2節にあるように、アナニアは、妻サフィラと相談して自分の土地を売りました。2節には「代金をごまかし、その一部を持って来て」とあります。そのように言われると、土地を売って得た額より、ずっと少ない額を持ってきたような印象を受けますが、原文にはそのようなニュアンスはありません。逆に土地を売って得た額のほんの一部を自分たちのために取っておいて、残りの大部分を教会に献げたのかもしれません。いずれにしても、取っておいた額と献げた額の比率が見つめられているのではありません。アナニアは自分のものを自分のものだと主張し、分かち合おうとしなかったのではなく、自分の土地を売ってその代金を教会に献げたのです。それにもかかわらずペトロは3、4節でこのように言います。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」。アナニアは自分の土地を売らなくても良かった。売っても、その代金を自分の思い通りにして良かった。たとえば生活が苦しいのであれば、その代金を自分たちの生活のために使って良かった。教会に献げなくてはならない、とは誰も言わなかったのです。そうであるならアナニアの罪はどこにあるのでしょうか。何故アナニアは死ななくてはならなかったのでしょうか。アナニアの罪、それは彼が、土地を売って得た代金の「すべて」です、と言って献げたことにあります。土地を売って得た代金の「一部」です、と言って献げれば何の問題もありませんでした。彼の罪は偽って、嘘をついて献げたことにあるのです。
神を欺く
その偽りによってアナニアは、ペトロを始めとする使徒たちや教会の仲間を欺いただけではありません。「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と言われているように、アナニアは何よりも神を欺いたのです。9節でもペトロはサフィラに、「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか」と言っています。この二人は偽ることによって神を欺き、聖霊を欺き、聖霊を試したのです。
旧約聖書ヨシュア記7章16節以下が共に読まれました。ヨシュア記7章では、アカンという人物が主なる神に献げるべきものの一部を盗み取り、ごまかして自分のものにしたため、神の怒りを受けて死んだことが語られています。アナニアとアカンでは違いもあります。アナニアはすべてを献げなくて良かったのに対し、アカンはすべてを献げる必要がありました。しかし二人とも偽って、ごまかして献げたという点では同じです。このアカンの出来事も、偽って、ごまかして献げることが、なによりも神を欺くことであり、神の怒りを受けることだ、ということを示しているのです。
神への畏れ
そうだとしても私たちは、アナニアとサフィラの死は、あまりに重すぎる罰なのではないかと思います。私たちの感覚からすれば、何も献げない人より、ちゃんと献げたアナニアは、ちょっと嘘をついていたとしても、むしろ褒められても良いように思えます。少なくとも、死ななくてはいけないほどのことではない。二人が死ななくてはならなかったのは、あまりにひど過ぎる。神は横暴だとすら思うのです。しかしそのように思うとき、私たちは失っているものがあります。そしてそれはアナニアとサフィラが失っていたものでもあります。それは、神への畏れです。神への畏れを失っているから神を欺きます。少々嘘をついても、献げないより献げたほうが良いなどと平気で嘯きます。そのとき私たちは神の前にへりくだるのではなく、神の上に立とうとしているのです。しかし私たちは神への畏れを失ってはなりません。神は私たちを裁き、滅ぼすことのできるお方です。神への畏れを失い、神を欺くなら、私たちは、また私たちの教会は滅ぼされても仕方がないのです。本日の箇所の最後に「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」とあります。このアナニアとサフィラの出来事は、教会とそのメンバーが神への畏れを決して失ってはいけないことを示しているのです。
不思議なことに罪を赦されて
それなら何故私たちは、アナニアのように「倒れて息が絶えて」しまうことがないのでしょうか。私たちがアナニアよりはマシだからでしょうか。そんなことはありません。私たちはアナニアと同じか、むしろアナニアより悪いかもしれません。しばしば神への畏れを失います。神の前にへりくだるのではなく、神の上に立とうとします。神はこんなことをすべきではないと神を正そうとすらします。何より私たちは神を欺いてしまうこともあるのです。そのような私たちが滅ぼされず、生かされているのは、何故なのでしょうか。それは分かりません。アナニアとサフィラが死んで、私たちが生かされている理由は私たちには分かりません。不思議なことに私たちは罪を赦され生かされているのです。私たちはこのことをこそしっかり受けとめていきたい。神を畏れて生きるとき、私たちは自分が不思議なことに罪を赦され生かされていることに気づかされます。滅ぼされても仕方がないはずなのに、救われるに値するものは何もないのに、どういうわけか救われ、生かされていることに気づかされるのです。
罪の赦しの恵みに本当に生かされて
それは、神を畏れて生きるときにこそ、私たちが本当に罪の赦しの恵みに気づき、その恵みの中で生きることができる、ということにほかなりません。このアナニアとサフィラの出来事は、神への畏れが失われるとき、主イエスと一つとされた新しい生活をすることができないことを示しているのです。神への畏れがないと、私たちは「自分のものは自分のもの」と言い始めます。神への畏れなしに、神の前にへりくだることなしに、私たちは「心も思いも一つに」できないのです。神を畏れて生きることと、罪の赦しの恵みの中で生きることは一つのことです。神を畏れるからこそ、私たちは主イエスの十字架と復活による罪の赦しの恵みをより味わうことができます。また罪の赦しの恵みの中で生きるからこそ、私たちはその恵みを与えてくださる神を畏れることができるのです。神を畏れることによって私たちは、神の恵みを豊かに受けて、同じ信仰を与えられ、「心も思いも一つに」されて、新しい生活をすることが、分かち合って生きることができるのです。神の恵みによって、自分のものは自分のもの、自分の好きなように使うのが当たり前という考えからの解放が、私たちにすでに与えられています。だから私たちは神を畏れつつ、罪の赦しの恵みに本当に生かされて、その恵みに感謝して、自分のものを分かち合う生活を、主イエスと一つとされた新しい生活を生き始めるのです。「一人も貧しい人がいなかった」と言える教会を築いていくのです。
