説教 「大胆に神の言葉を語る」 副牧師 川嶋章弘
旧約聖書 詩編第2編1-12節
新約聖書 使徒言行録第4章23-31節
逮捕と釈放
使徒言行録4章を読み進めています。本日の箇所は3章1節から語られてきた一連の出来事の最後の部分になります。ペトロとヨハネが神殿の門の前で生まれながら足の不自由な男を癒したことをきっかけとして、ペトロは神殿で民衆に向かって説教を語りました。十字架に架けられて死なれ、神様が死者の中から復活させられた主イエス・キリストによる救いを語ったのです。その説教を聞いて、多くの人たちが信じ、教会のメンバーに加わりました。誕生したばかりの教会の伝道は順調に進んでいたのです。ところがキリスト教会の存在感が増したことで、ユダヤ教の宗教指導者による教会に対する妨害が起こりました。4章1節から22節ではそのことが語られていました。彼らはペトロとヨハネを逮捕して、ユダヤ教の最高法院で裁判にかけました。最高法院が出した結論は、18節にあるように、ペトロとヨハネに、「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令」することでした。教会に対して、福音を語ってはならない、主イエスの十字架と復活による救いを宣べ伝えてはならない、と命じたのです。この命令に対して二人は20節にあるように、「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられない」と言いました。十字架と復活による救いの良い知らせを語らずにはいられないと言ったのです。そこで最高法院の議員たちは、さらに二人を脅した上で釈放しました。本日の箇所は、二人が釈放された後、伝道に対する最初の妨害に対して、教会がどのように向き合ったのかを語っています。妨害に遭い、福音を語ることを禁じられても、なお伝道していく教会の姿が語られているのです。
仲間のところへ帰る
冒頭23節に、「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した」とあります。ペトロとヨハネには帰る場所がありました。「仲間のところ」、それが彼らの帰る場所です。「仲間のところ」とは教会にほかなりません。ここでは教会のメンバーが「仲間」と呼ばれているのです。私たちの教会では、教会のメンバーを「仲間」と呼ぶ習慣はあまり無いかもしれません。しかし教会によっては、より積極的に、より自然に「仲間」と呼んでいます。祈りの中でも、「教会の仲間がこの会に集えたことに感謝します」という祈りをよく聞きます。それは単に親近感のある呼び方というより、この23節がそうであるように、聖書的な呼び方なのです。「仲間」と訳された言葉は、直訳すれば「彼らのもの」という言葉です。私たちにとって教会のメンバーは、「自分のもの」と言って良いほどの存在なのです。この「自分のもの」という表現は、本来身内や家族を言い表すときに用いられますから、教会のメンバーは身内や家族と同じぐらいの、いえ、それ以上の存在であることが見つめられています。私たちが教会のメンバーであるとは、「自分のもの」と言って良いほどの、身内や家族以上の存在である「仲間」が与えられているということであり、その「仲間」と共に生きているということなのです。
その「仲間のところ」が、つまり教会が、私たちにとって帰る場所だ、ということも大切です。私たちは教会を「行く場所」だと考えがちです。確かに私たちの実感としては、教会は一週間に一回だけ行き、礼拝に出席するだけであれば、二時間ほど滞在する場所ということになります。しかしキリスト者の歩みは、本来、主の日の教会の礼拝からこの世へと遣わされ、平日の歩みを終えて、主の日に教会へ帰り、再び、礼拝からこの世へと遣わされていく歩みです。たとえ教会にいる時間が短かったしても、私たちは主の日に教会へ帰り、礼拝を守り、そして教会から再びこの世へと遣わされていくのです。
伝道の報告
私たちは主の日毎に教会へ帰り、「仲間のところ」へ帰って、何をするのでしょうか。なによりも共に神様のみ前に集います。しかしここでは、ペトロとヨハネが、「釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話し」た、と語られていました。言ってみれば、伝道の報告をしたのです。最高法院でどんな尋問を受けたのか、その尋問に対して自分たちがどのように答えたのか、そして最終的に、「福音を語ってはならない」と命令されたこと、そのすべてを語ったのではないでしょうか。それだけでなく、自分たちが感じた恐れや喜びも話したかもしれません。13節には「ペトロとヨハネの大胆な態度を見」て、と語られていましたが、だからといって二人に恐れがなかったわけではないでしょう。最高法院の場に立たされることに大きな不安と恐れがあったはずです。同時に、かつて主イエスが立たされた場に、今、自分が立たされていることへの喜びと感謝もあったのではないでしょうか。二人は自分たちが感じた気持ちもすべて仲間と共有したのです。私たちは主の日毎に教会の仲間のところへ帰り、挨拶を交わし、色々なことを話します。世間話をすることもあるし、健康や天候の話をすることもあります。しかしなによりも、礼拝から遣わされて、それぞれがキリスト者として生きる中で直面した困難を、陥った恐れや不安を、与えられた恵みや喜びを分かち合っていきたいと思います。主の日毎に仲間のところへ帰り、それぞれの小さな伝道の報告を共有していきたいのです。それが、伝道する教会の姿にほかならないのです。
伝道は個人の業ではない
もっともそれは、伝道が私たち一人ひとりの個人の業である、ということではありません。3章1節から記されていた出来事は、一貫してペトロだけでなく、ペトロとヨハネの働きとして語られていました。ペトロだけが話しているからといって、ヨハネはいてもいなくても良い存在ではありません。ペトロとヨハネの働きであるところに、教会の伝道が個人の業ではないことが見つめられているのです。さらにペトロとヨハネの働きを支えていたのは、ほかの仲間の祈りでした。二人が逮捕されたことは、ほかの仲間も目の当たりにしていたはずです。彼ら彼女たちは二人が釈放されるまでの間、二人のために祈り続けていたと思います。ペトロとヨハネも最高法院の場に立たされたとき、仲間たちが自分たちのことを覚えて祈ってくれていると確信していたに違いありません。仲間の祈りは、彼らにとって大きな慰めであり支えであったに違いないのです。このように伝道は一人だけで無理して頑張って行うのではありません。教会の仲間と共に協力して行います。たとえ礼拝から遣わされた先で、学校や職場や家庭で、教会の仲間が一人もいないとしても、キリスト者すらいないとしても、自分の力だけで歩むのではなく、教会の仲間の祈りに支えられて歩みます。仲間の祈りに支えられてこそ、私たちは遣わされた先で、色々な形でキリストを証しし、伝道の業に仕えていくことができるのです。
祈りによって伝道の業に仕える
そうであれば、具体的な働きを担うことだけが伝道ではない、ということでもあります。ペトロとヨハネが逮捕されたとき、ほかの仲間は何か行動を起こせたわけではありませんでした。ユダヤ教の最高法院という半ば公の、巨大な権力に対してなすすべがなかったからです。しかし彼ら彼女たちにできることが一つだけありました。それが二人のために祈ることです。そしてそれが、二人の働きを支えるために仲間ができる最大のことであったのです。私たちの仲間にも、病やご高齢による弱りのために、あるいはこの世の務めの忙しさのために、伝道のための具体的な奉仕を担えない方が少なくありません。しかしその方々は伝道できないのかというと、そんなことは決してありません。何もできなくても、ほかの仲間の働きを覚えて祈ることによって、伝道の業に仕えることができるからです。そのような祈りこそが教会の伝道を支えています。教会の仲間の祈りによってこそ、私たちの教会は伝道する教会であり続けることができるのです。
「仲間」と呼ぶことは虚しい?
これまで「教会の仲間」と繰り返し申してきました。聖書に「仲間」と書いてあるからです。しかし教会のメンバーが皆、自分の仲間なのだろうか、仲間と言えるだろうか、と思われるかもしれません。仲間と思える人もいるけれど、そう思えない人もいる、というのが私たちの正直な思いかもしれません。あるいは教会の仲間と言うけれど、教会の外のほうが仲間と呼べる人がたくさんいる、と思われるかもしれません。確かに「教会の仲間」が、仲の良い人、気が合う人、共通の趣味を持っている人を意味するなら、教会のメンバーを「仲間」と呼ぶことは虚しいだけかもしれません。教会には気が合わない人もいるし、仲の良くない人もいるかもしれないし、趣味や関心がまったく異なる人もいるからです。そうであるなら、なぜ私たちは仲間であると言えるのでしょうか。
信仰の告白
このことが24節以下から示されます。24節に「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った」とあります。ペトロとヨハネの伝道報告を聞き、分かち合うと、教会のメンバーは皆「心を一つに」して、神様に向かって声を上げたのです。本日の箇所の小見出しに「信者たちの祈り」とあるので、ここで教会のメンバーが皆で祈った、と受けとめてしまいがちです。それが間違っているわけではありませんが、28節までは、むしろ信仰の告白と受けとめたほうが良いように思います。ここで教会のメンバーは皆「心を一つに」して、神様に向かって自分たちの信仰を、つまり教会の信仰を告白しているのです。
その冒頭で、「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」と告白しています。神様に「主よ」と呼びかけ、神様が天地の造り主、つまりこの世界の造り主であられ、この世界にあるすべてのものの造り主であられる、と告白しています。神様は創造主であり、この世界とそこに生きるすべてのものは、私たち人間も含めて、神様によって造られた被造物です。そして神様は、この世界をお造りになっただけで後は放ったらかしにされたのではなく、この世界を導き、保ち、支配し続けてくださっています。しかもご計画を持って、この世界と私たちをご支配くださっているのです。
神のご支配に敵対する者
神様がご計画を持って、この世界をご支配くださっていることを告白しているのが25節以下ですが、そこでは聖書の言葉が引用されています。当時、新約聖書はまだありませんから、ここで言う聖書は旧約聖書のことです。神様がダビデの口を通して聖霊によってこう告げたと言って、聖書の言葉が引用されています。「なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか。地上の王たちはこぞって立ち上がり、指導者たちは団結して、主とそのメシアに逆らう」。共に読まれた旧約聖書詩編2編1、2節のみ言葉です。そちらも読んでおきます。「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち 人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して 主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか」。ここでは神様のご支配に敵対する者たちのことが語られています。「国々」「人々」「地上の王」「支配者」は、神様とそのご支配に敵対し、「主の油注がれた方」に逆らうと言われているのです。「油注がれた方」は、「メシア」という言葉のもともとの意味です。旧約の時代に特別な務めに立てられるときに油が注がれたので、神様から特別な務めを与えられた者を「油注がれた方」と呼びました。それが次第に、やがて到来する「救い主」を指すようになったのです。使徒言行録に戻りますと、27節ではこの詩編2編1、2節のみ言葉が実現したことを語っています。「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました」。2編2節が告げていたように、王(領主)であるヘロデと、支配者であるポンティオ・ピラトが結束し、それにイスラエルの民も加担して、神様が「油を注がれた聖なる僕イエス」に逆らい、メシア、救い主であるイエスを十字架に架けて殺したのです。
神の恵みのご計画の実現
このイエスの十字架の死において、神様のご支配に敵対する力が極まったように見えます。神様のご支配などまったくないかのように思えます。しかしこの出来事も神様のご支配のもとにあり、神様のご計画の内に、御心の内にありました。だから28節で教会のメンバーは、「実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです」と告白しているのです。この「実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたこと」も、詩編2編に指し示されています。その4節から6節でこのように言われています。「天を王座とする方は笑い 主は彼らを嘲り 憤って、恐怖に落とし 怒って、彼らに宣言される。『聖なる山シオンで わたしは自ら、王を即位させた』」。神様のご支配に敵対する力が極まったように思えるイエスの十字架の死において、「天を王座とする方」である神様は、イエスを死者の中から復活させることによって、神様のご支配に敵対する力を、その根本にある罪と死の力を滅ぼされました。そして復活のイエスを天に上げ、この世界を支配するまことの王としてくださったのです。私たちはこの主イエスの十字架と復活によって、罪と死の支配から解放され救われました。このことこそ、神様があらかじめ定めておられたご計画であり御心です。十字架と復活において、私たちを罪と死の支配から解放する神様の恵みのご計画が実現しました。神様に敵対する力が極まったように思えるところで、実は神様の恵みこそが、神様の愛こそが極まったのです。
同じ信仰を告白することにおいて
教会のメンバーが仲間であるのは、「心を一つに」してこの信仰を告白することにおいてです。神様に敵対する力が極まったように見える主イエスの十字架において、神様の愛が極まり、私たちを罪と死の支配から救う神様の恵みのご計画が実現した、という信仰を告白することにおいてなのです。気が合わないことも、仲の悪いこともあるかもしれないし、興味や関心が全然違うかもしれません。しかしたとえそうであったとしても、同じ信仰を「心を一つに」して告白することにおいて、教会のメンバーは「仲間」であります。身内や家族以上の存在である「仲間」であるのです。
教会が直面している現実と重ね合わせて
この信仰の告白によって、教会が今まさに直面している現実を、主イエスの十字架と復活の出来事に重ね合わせることへと導かれます。誕生したばかりの教会は、この信仰の告白によって、今自分たちを支配しているのは、ペトロとヨハネを逮捕し、「福音を語ってはならない」と命じた宗教指導者たちなどではなく、この世界とこの世界にあるすべてのものをお造りになり、主イエスの十字架と復活において、自分たちを罪と死の支配から救ってくださった神様である、と受けとめたのです。自分たちの目には権力者が力を振るっているように見えたとしても、神様こそがこの世界と教会をご支配くださり、教会が妨害に直面することを通しても、神様が恵みのご計画を実現し、伝道のみ業を前進させてくださると信じたのです。
大胆に神の言葉を語る
だから教会のメンバーは、29節からこのように祈ります。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」。主イエスを死者の中から復活させた神様が、この世界をご支配くださっている神様が、権力者たちの脅しに目を留めてくださり、妨害や脅しに直面しても「あなたの僕たち」が、つまり教会が「思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と祈ったのです。本日の箇所では、29節と31節に「大胆に」という言葉があります。13節にも「大胆な態度」とありました。「大胆」という言葉がこの箇所のキーワードであることが分かります。この言葉は、もともと「自由に何でも言う」という意味の言葉です。ギリシアのアテネの民主政においては、「言論の自由」とほぼ同じことを意味しました。ですから13節の「大胆な態度」というのも、ペトロとヨハネが大胆に自由に語った、その態度ということであり、何も語らなくても堂々としていた、というようなことではありません。この大胆さは、語ることと切り離せないのです。教会のメンバーは、教会が権力者たちの脅しや妨害に直面しても、大胆に自由にみ言葉を語ることができるよう、福音を宣べ伝え続けることができるよう祈ったのです。
私たちの教会も同じように祈ります。私たちの教会が伝道する教会であるとは、教会が大胆に自由に主イエスの十字架と復活による救いを宣べ伝えていくことだからです。私たちの教会も、福音を語ることを妨げる様々な力や脅しに囲まれています。その中で福音を自由に語り続けられるよう祈り求めていくのです。私たちが自分たちの力や計画に頼って、あるいは自分たちの決意や覚悟に頼って、脅しや妨げに抵抗して、福音を語り続けようとしても行き詰まるしかありません。私たちの力や計画、決意や覚悟は、ちょっとしたことで、あっという間に砕けてしまうものだからです。だから私たちは、大胆に自由にみ言葉を語ることができるよう、神様に祈り求めていくのです。
私たちの思いを超えたみ業
30節では「どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」と祈っています。29節では教会のメンバーが「あなたの僕たち」、つまり神様の僕たちと言われていました。ここではイエスが、神様の「聖なる僕」と言われています。私たちが神様の僕であるとは、神様の聖なる僕として歩まれたイエスの僕として生きるということです。イエスを主人として、イエスの僕として生きるということなのです。自分自身が自分の人生の主人である限り、私たちの人生は自分の力と予想を超えることはないでしょう。そこには本当の驚きはありません。しかしイエスが私たちの人生の主人であるならば、私たちが思ってもみなかったことが、自分の力では到底できないことが、私たちの人生に、また教会の歩みに起こります。本当の驚きが与えられるのです。「病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」という祈りは、イエスを主人として、イエスの僕として生きる私たちと教会の歩みに、私たちの思いを越えたみ業を行ってください、という祈りなのです。
聖霊に満たされて
教会のメンバーが祈り終えると、「一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」と言われています。聖霊こそが、教会に神の言葉を大胆に自由に語り出す力を与えます。聖霊はペンテコステの日だけに降ったのではなりません。このときも降ったし、今この礼拝にも降っています。聖霊によってこそ、私たちの教会は大胆に自由に福音を語り続け、伝道していくことができるのです。
私たちは主の日毎に教会の礼拝からこの世へと遣わされ、主の日毎に教会に帰ってきます。仲間のところに帰ってきます。そこでそれぞれの伝道の小さな報告を分かち合い、互いに慰め合い、励まし合います。そして心を一つにして、神様に敵対する力が極まったように見える主イエスの十字架において、神様の愛こそが極まり、私たちを罪と死の支配から救う神様の恵みのご計画が実現した、という信仰を告白するのです。その信仰の告白に導かれて、脅しや妨害に直面するときも、教会が神様の言葉を、主イエスの十字架と復活による救いの良い知らせを、大胆に自由に宣べ伝え続けていくことができるよう、祈り求めていくのです。この教会の祈りを、神様は聞き届けてくださり、聖霊を送ってくださり、私たちの教会が大胆に神様の言葉を語れるよう聖霊で満たしてくださいます。私たちの教会は同じ信仰に立ち、共に祈る仲間の群れです。そこに聖霊が降り、私たちは聖霊に満たされて大胆に自由に福音を語り続け、伝道していくのです。そのとき私たちの思いをはるかに超えた、神様の伝道のみ業が前進していくのです。
