2025年8月3日
説教題「一つになって」 副牧師 川嶋章弘
列王記上 第8章54~61節
使徒言行録 第2章42~47節
最初の教会の姿が語られている
使徒言行録2章を読み進めてきて、本日はその最後の部分を読みます。新共同訳聖書では42節と43節の間に小見出しがあり、42節と43節が切り離されていますが、むしろ42節から47節までを一つのまとまりと考えることができます。41節で「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」と言われていたように、41節までは、ペトロの説教を聞いた人たちが悔い改めて洗礼を受け、十二人の使徒を中心とする弟子たちの仲間に加わり、そこに最初の教会が誕生したことが語られていました。2章1節から始まる五旬祭(ペンテコステ)の日の出来事は、この41節まで続いています。ペンテコステの出来事は、聖霊が降り、弟子たちが色々な国の言葉で神の偉大な業を語り始めたことで終わるのではなく、ペトロの説教を聞いた多くの人たちが洗礼へと導かれ、最初の教会が誕生したことにまで至るのです。一方42節以下では、誕生したばかりの教会の姿が語られている、と言えるでしょう。42節の冒頭に「彼ら」とありますが、「彼ら」とは、洗礼を受けた三千人ほどの人たちのことです。誕生したばかりの教会で、そのメンバーとされた人たちがどんな信仰生活を送っていたのかが語られているのです。43節以下ではこのことがさらに詳しく語られていますから、42節から47節までを一つのまとまりとして読んでいきます。
伝道する教会の姿
このように本日の箇所では、誕生したばかりの教会の姿、そのメンバーとされた人たちの信仰生活が語られていますが、その最後47節の後半でこう言われています。「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」。これは、誕生したばかりの教会に、日に日に新たに洗礼を受けて、教会のメンバーとされる者が与えられていった、ということです。つまり教会の伝道が進展し、教会が拡大していったことが語られています。ですから私たちは、この箇所から単に誕生したばかりの教会の姿を知るだけでなく、伝道する教会の姿を知ることができるのです。
今、私たちは教会の伝道が停滞している現実に直面しています。一体、何をしたら良いのだろうか、と途方に暮れることもあります。考えることを諦めてしまいそうになることもあります。しかし諦めてはなりません。誕生したばかりの教会の姿が語られている箇所の最後に、教会の伝道の進展が語られていることは偶然ではないでしょう。教会が教会であることと、教会が伝道することは一つのことである、そのことが見つめられているのです。伝道しない教会は教会ではない、と言っても言い過ぎではありません。確かに私たちは伝道が困難な現実に直面しています。しかし私たちが倣うべき教会の姿が、伝道する教会の姿が、この使徒言行録に記されています。伝道が停滞している現実に直面している私たちは、この箇所を通して、私たちの教会が何をなすべきかを示されていきたいのです。
伝道は主のみ業
しかしその前に、大切なことを確認しておかなければなりません。この箇所を通して、伝道する教会であるために私たちの教会が何をなすべきかを示されたいと申しましたが、しかしそれは、私たちの力で伝道できるということではありません。47節の後半で、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」と言われていました。ほかならぬ主ご自身が、一日一日、洗礼を受け、救いにあずかり、教会に加えられていく者たちを起こしてくださったのです。つまり教会の伝道は、主のみ業であり、聖霊の働きによるものにほかなりません。私たちはまずこのことをしっかり弁える必要があります。自分の力で伝道できると勘違いしてはならないのです。しかしそれは、私たちが何もしなくて良いということではありません。聖霊の働きを待って、ぼーっとしていれば良いのではありません。私たちにはなすべきことがある。それが、47節に至るまでの部分で語られています。私たちは主ご自身が教会の伝道を前進させてくださることに信頼して、私たちがなすべきことに邁進していきたいのです。
一つになって
伝道する教会であるために私たちがなすべきことは、この箇所のキーワードを用いて一言で言うならば、「一つになる」ことです。44節に「信者たちは皆一つになって」とあり、47節に「日々仲間に加え一つにされた」とありますが、この「一つになって」、「一つにされた」が、原文ではまったく同じ表現です。また言葉は違いますが、46節の「毎日ひたすら心を一つにして」の「心を一つにして」も、同じことを見つめているでしょう。つまり伝道する教会であるためには、教会のメンバーが「一つになって」歩む必要が、「心を一つに」して歩む必要があります。裏返して言えば、教会の伝道が停滞しているとしたら、それは、教会のメンバーが一つになって歩んでいない、ということであるかもしれません。私たちの教会は、一つになって歩むことができているか、そう問うてみる必要があります。しかしそもそも「一つになって」歩むとは、どういうことでしょうか。どうすれば私たちは「一つになって」歩むことができるのでしょうか。そのことを誕生したばかりの教会のメンバーの信仰生活から示されていきたいのです。
使徒の教え
その信仰生活がまとめて語られているのが42節です。このように言われています。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。「使徒の教え」とは、使徒たちが語った福音であり、主イエス・キリストの十字架と復活の証言です。ペトロの説教がそうであったように、使徒たちは、私たち人間の罪がイエスを十字架につけて殺したにもかかわらず、神様がその十字架で死なれたイエスを復活させることによって、私たちの救いを実現してくださったことを語ったのです。私たちの教会の礼拝の説教においても、この「使徒の教え」が語られています。使徒たちが証言し、つまり聖書が証言している、キリストの十字架と復活による救いが語られています。ですから「使徒の教え」に熱心であるとは、私たちの教会に当てはめるなら、私たちが主の日の礼拝を重んじ、その礼拝で語られる聖書とその説き明かしである説教を熱心に聞く、ということなのです。
パンを裂くこと
次に「相互の交わり」とありますが、先にその次の「パンを裂くこと」を見ておきます。「パンを裂くこと」とは、本日、この礼拝でもあずかる聖餐を意味しています。聖餐ではパンと杯(ぶどう汁)にあずかります。ここでは杯について何も言われていませんが、「パンを裂く」で、パンと杯にあずかることを言い表しています。私たちは説教においてキリストの十字架と復活による救いを告げられ、示されます。また聖餐において、キリストの体であるパンと、キリストの血である杯(ぶどう汁)にあずかることを通して、説教で告げられたキリストの十字架と復活による救いの恵みを、体全体で味わうのです。
説教と聖餐
私たちの教会が一つになって歩むために、私たちは何よりも共に説教と聖餐にあずかる必要があります。この社会では、仲の良い人たちが集まったり、あるいは同じ目標や理念を持つ人たちが集まったりして、一つのグループや組織を作ります。しかし教会が一つになって歩むことの土台にあるのは、私たち自身の仲の良さや、共通の目標や理念ではありません。そうではなく、キリストの十字架と復活による救いを告げる説教を共に聞き、その救いの恵みを味わう聖餐に共にあずかることに、一つになって歩むことの土台があるのです。
教会は誕生したそのときから、福音の説教を語り、聖餐を行ってきました。もちろん今の私たちの教会のように形は整っていなかったかもしれません。しかし本質的には、教会は誕生したときから今に至るまで、キリストの十字架と復活による救いを告げる説教を語り、その救いの恵みに五感を持って味わう聖餐を行ってきました。教会が教会であるためには、正しく福音の説教が語られ、聖餐が行われなくてはなりません。もし教会が正しく福音の説教を語ることがないなら、正しく聖餐を行わないなら、教会が一つになって歩むことはできません。また私たちが共に説教と聖餐にあずからないなら、私たちの教会が一つになって歩むことはできません。どれほど仲が良く見えても、一体感があっても、本当に一つになって歩めているとは言えないのです。共に「使徒の教え」と「パンを裂くこと」に熱心であることにこそ、つまり共に説教と聖餐にあずかることにこそ、私たちの教会が一つになって歩むことの土台があるのです。
祈ること
次に「祈ること」とあります。聖書は、教会がキリストの体であり、その頭がキリストである、と告げています。私たちは洗礼を受けることによってこのキリストの体である教会の肢、部分とされます。その私たちが一つになって歩むことの土台は、先ほどお話ししたように、共に説教と聖餐にあずかることにありますが、一つになって歩むためには、「祈ること」も欠かせません。「祈ること」に熱心であったとは、教会のメンバーがそれぞれに熱心に祈っていた、ということでもあるでしょう。しかしそれ以上に、教会のメンバーが一緒になって、熱心に祈っていたということではないでしょうか。教会の頭であるキリストのご意志を求めるために、神のみ心を求めるために共に祈っていたのです。私たちは「祈り」というのは、私たちの願いを神様に訴えることだと思っているところがあります。もちろん祈りにおいて、私たちは神様に自分の願いを何でも訴えて良いのですが、しかしそれだけが祈りではありません。祈りは神様との対話です。そして私たちは神様との対話を通して、自分の思いを実現しようとするのではなく、神のみ心を、キリストのご意志を示され、それに従っていこうとするのです。それこそが「祈り」です。キリストの体である教会の異なる肢、異なる部分である私たちが一つになって歩むためには、私たちが頭であるキリストのご意志に従って歩む必要があります。頭(脳)の命令に体の各部分が従うからこそ、私たちは一つの体として歩むことができます。それと同じように頭であるキリストのご意志に、部分である私たちが従うからこそ、私たちは一つのキリストの体として歩めるのです。だからこそ誕生したばかりの教会のメンバーとされた人たちは、キリストのご意志を求め、神のみ心を求めて熱心に祈っていたのです。私たちも、私たちの教会が一つになって歩むために、共に祈ることに熱心でありたいと思います。具体的には対面の祈祷会やWeb祈祷会に、できるだけ多くの方が出席して、共に祈っていきたいと思います。また教会のどんな会も、祈りで始まり、祈りで終わります。教会の会議であるならば、その会議において、神のみ心が示されるのを祈り求めますし、会議でなくても、神のみ心にかなった会となるよう祈り求めます。そのように共に祈ることを通して、私たちは一つになって歩んでいくことができるのです。
相互の交わり
さて、後回しにしていた「相互の交わり」について見ていきます。教会が一つになって歩み、伝道する教会となるためには、私たちが礼拝で共に説教と聖餐にあずかり、共に祈るだけでは十分ではありません。「十分ではない」という言い方は正確ではありません。私たちが一つになって歩む土台は、共に説教と聖餐にあずかることに、つまり主イエス・キリストの十字架と復活の救いの恵みに共にあずかることにあります。繰り返しになりますが、この土台なしに私たちが一つになって歩むことはできません。しかし私たちは共に救いの恵みにあずかって、それで終わりではないはずです。その恵みを共有し、また分かち合って歩んでいくはずなのです。それが、「相互の交わり」に生きる、互いに交わりを持って歩むということです。礼拝で説教と聖餐にはあずかるけれど、交わりは持ちたくない、というのは本来、あり得ないことです。もちろんだからと言って、色々な事情があることに目を向けず、礼拝だけ出席している方を批判すべきでは決してありません。しかし今はなかなか交わりを持って歩めなくても、神様が時と場所を備えてくださるならば、交わりを持って歩もうという思いを持って歩むことは大切だと思います。共に説教と聖餐にあずかり、さらに共に祈るという土台の上で、私たちが互いに交わりを持って生きることによってこそ、私たちは本当に一つになって歩むことができるし、伝道する教会となることができるのです。
すべての物を共有
この箇所では、「相互の交わり」が具体的に語られています。一つは、44、45節で、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」と語られていて、もう一つは、46節の終わりで、「喜びと真心をもって一緒に食事をし」と語られています。
まず44、45節について考えていきたいと思います。誕生したばかりの教会に加えられた人たちは、「すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合って」いました。「相互の交わり」と訳された言葉は、原文では「コイノーニア」という一つの言葉ですが、「すべての物を共有にし」の「共有にし」は、この「コイノーニア」と同じ語根の言葉です。つまり「相互の交わり」の本質に、共有すること、そしてそれを分かち合うことがあるのです。それは根本的には、すでにお話ししたように、キリストの十字架と復活による救いの恵みを共有し、分かち合うことです。しかし最初の教会では、救いの恵みを共有し、分かち合うことの具体的な現れとして、すべての物、財産や持ち物を共有して、それぞれの必要に応じて、それを分け合っていたのです。分け合うために、財産や持ち物を売ってお金に変えることもあったのだと思います。
二つの極端な反応
このような最初の教会の姿を見て、私たちは、今の私たちの教会の姿が最初の教会の姿からかけ離れていることに幻滅してしまうかもしれません。すべての物を共有にし、それぞれの必要に応じて、それを分け合うことなんて、まったく出来ていないではないか、と思うのです。そしてそのような幻滅は、これまでも二つの極端な反応を生んできた、と言えます。一つの反応は、今の教会は堕落しているから、最初の教会の姿に戻らなくてはならない、という反応です。教会では私有財産を禁じて、すべての財産を共有にすべきだ、と考えたりするのです。しかしそれはあまりに極端な反応です。そもそも使徒言行録が私有財産を禁じている、とも言えません。5章でペトロがアナニアに彼の土地について、「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになったのではないか」と言っています。この一言を見ても、使徒言行録が、あるいは最初の教会が私有財産を禁じていたとは言えません。もう一つの反応は、最初の教会の姿はあくまで理想に過ぎないから現実的ではない、今を生きる教会とは関係ない、という反応です。この反応も、反応の方向は逆でも、私有財産を禁じるべきだという反応と同じようにあまりに極端な反応です。むしろ最初の教会の姿は、私たちの教会が一つになって歩み、伝道する教会となるために倣うべきことを、その本質を明らかにしているからです。
互いに関心を持って歩む
誕生したばかりの教会のメンバーとなった人たちは、年齢、性別、仕事もばらばらであったでしょう。その中には富める者も貧しい者もいたに違いありません。44、45節は、そのような状況の中で、教会のメンバーが貧しい者に無関心ではなかったことを語っています。つまりここで根本的に見つめられていることは、財産を共有することよりも、教会のメンバーが互いに関心を持って歩んでいる、ということです。私たちが、経済的なことに限らず、互いに関心を持って生きているか、そして弱っている人、苦しんでいる人、悩んでいる人がいれば、その人のために、自分の持っているものを分かち合っているか、ということが問われているのです。それは、必ずしも物やお金を分かち合うことだけではありません。むしろ私たちが互いに分かち合うべき自分の持っているものとは、何よりも時間ではないでしょうか。私たちが交わりを持って歩むとは、相手のために、特に困難の中にある方のために、自分の時間を割く、ということなのです。互いに交わりを持って歩むとは、何よりも互いに無関心でいない、ということです。そして互いに相手のために自分の時間を割いていく、用いていくということです。それは、救いの恵みを共有し、分かち合うことの具体的な現れにほかなりません。私たちは互いに関心を持ち、互いに自分の時間を割くことを通して、互いに交わりを持って歩むことができ、本当に一つになって歩むことができるのです。
共に食事をする
さて、46節の「喜びと真心をもって一緒に食事をし」にも触れておきたい、と思います。これはいわゆる「愛餐」のことです。教会はその誕生したときから、共に食事をすることを大切にしてきました。互いに交わりを持って歩むとは、具体的には共に食事をすることでもあったのです。私たちの教会は、コロナ禍によってこの共に食事をする機会を完全に奪われました。それは「相互の交わり」のすべてではないとしても、大切な部分を奪われたということです。今、四年に亘ったコロナ禍からほぼ脱却して、教会で共に食事をする機会が少しずつ増えてきています。しかしなかなか回復は簡単ではありません。その理由は色々ありますが、その根本には、共に食事をすることは単に楽しいだけでなく、多くの労苦を伴うということがあるのではないでしょうか。
先週の夕礼拝は、青年伝道夕礼拝でしたが、その礼拝の後に、青年を対象とした夕食会が行われました。青年会の働きを覚えてくださった教会の姉妹が夕食を作ってくださったのですが、青年会のメンバーも豚汁を作りました。メンバーは、主日礼拝後、買い出しに行き、大きな鍋一杯に豚汁を作りました。それが終わると、礼拝前に行う交流会の準備をし、そして交流会、礼拝、夕食会と続き、夕食会の後には、片付けがありました。とてもハードな一日で、奉仕した青年たちはへとへとだったのではないかと思います。翌日に試験がある者もいたし、レポート課題を抱えている者もいたし、疲れることを見込んで翌日の仕事を休みにしていた者もいました。そうやって皆が自分の時間を割きながら奉仕したのです。青年伝道夕礼拝と夕食会には、この数年で最も多くの青年たちが集いました。もちろんそれは神のみ業です。それ以外ではあり得ません。しかし青年会のメンバーは、その神のみ業に仕えるために、「喜びと真心をもって一緒に食事を」するために、それぞれが自分のできる精一杯の奉仕をしたのです。
このように共に食事をすることは、多くの労苦が伴います。しかしその労苦を担っていくところでこそ、思ってもみなかった神のみ業を目の当たりにします。労苦を担って、「喜びと真心をもって一緒に食事」をすることを通して、私たちは一つになって歩んでいくことができるし、伝道する教会として歩んでいくことができるのです。
畏れと好意
43節には「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである」とあり、47節には「民衆全体から好意を寄せられた」とあります。「恐れ」というのは「恐怖」の「恐れ」ではなく「畏敬」の「畏れ」でしょう。自分が初めて目の当たりにすることに対する畏れ、神のみ業に触れることに対する畏れです。私たちが互いに関心を持ち、互いに自分の時間を割くことによって、共に交わりを持って歩むなら、また労苦を担いつつも「喜びと真心をもって」共に食事をするなら、それは、この社会に生きる人にとって、「不思議な業としるし」であるに違いありません。そしてその「不思議な業としるし」を目の当たりにした人たちに、そのことへの畏れが、あるいは好意が起こされていくのです。私たちが共に説教と聖餐にあずかり、共に祈り、互いに関心を持って、自分の時間を割いて共に交わりを持って歩み、共に食事をして歩むとき、私たちの教会は、本当に一つになって歩むことができるし、伝道する教会として歩むことができます。そのように歩むとき、神様は必ずみ業を行ってくださり、「救われる人々を日々仲間に加え一つに」してくださるに違いないのです。そのことに信頼して、私たちの教会は伝道の業に仕えていくのです。
