説 教 「罪を赦していただきなさい」副牧師 川嶋章弘
旧 約 イザヤ書第57章14-19節
新 約 使徒言行録第2章37-42節
大いに心を打たれ
使徒言行録2章を読み進めています。この2章では、ペンテコステの日の出来事が語られています。本日は、その最後の部分を読み進めていきます。冒頭37節に「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ」と言われています。「これを聞いて」というのは、14節から直前の36節までで語られていたペトロの説教を聞いて、ということです。人々はペトロの説教を聞いて「大いに心を打たれた」のです。「心を打たれた」と言われると、感動したように思えますが、原文の表現は「心を刺される」とか「心に痛みを感じる」という意味の言葉です。人々はペトロの説教を聞いて、なんて素晴らしい説教なんだ、と感動したのではありません。むしろ心に痛みを感じました。ペトロが語った言葉が心に突き刺さったからです。ペトロは説教の終わり36節で、このように語っていました。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。人々はペトロから自分たちがイエスを十字架につけて殺したことを突きつけられて、心を深く刺され、痛みを感じました。イエスの十字架の死を知っていても、自分とは関係ない、自分には何の責任もないと思っていた人たちが、ペトロの説教を通して、自分たちこそがイエスを十字架につけて殺した、と気づかされ、自分たちの罪に気づかされたのです。自分たちが神様から遣わされたイエスを拒み、神様に背き自己中心的に、自分勝手に生きていることに気づかされたのです。
私たちも教会の説教を通してこのことに気づかされます。私たちもかつては、イエスの十字架の死を知っていても、自分には関係ないことだと思っていました。しかし教会の説教を聞くようになり、そこで「ほかならぬあなたがイエスを十字架につけて殺した」と告げられます。最初は、戸惑いを覚えるだけかもしれません。自分は人を殺していないし、そもそも自分が生まれるより前に生きた人物を殺すなんて出来るはずがないと思うのです。しかしある時、気づかされます。「あなたがイエスを十字架につけて殺した」とは、自分の人生は自分のものだと勘違いし、自己中心的に自分勝手に生き、神様に背き、自分自身と隣人を傷つけてばかりいる私たちの罪が、イエスを十字架につけて殺したことを意味している、と気づかされるです。そのとき私たちは、教会の説教を聞いて心を深く刺されて、痛みを感じるのです。
私たちの主、救い主であると示されて
しかしペトロの説教を聞いた人々は自分たちの罪に気づかされ、心を深く刺されただけではありませんでした。私たちも教会の説教を聞いて自分の罪に気づかされ、心を深く刺されて痛みを感じるだけではないはずです。もしそうであったなら自分の罪の重さに耐えられず、絶望するしかないからです。しかし人々は、この後、ペトロたちに「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねています。絶望していないからこそこのように尋ねることができたのです。
ペトロの説教は、また教会の説教は、神様に背き、隣人を傷つけることしかできない私たちのどうしようもない罪を突きつけるだけではありません。ペトロは、あなたがたがイエスを十字架につけて殺した、と語った後に、そのイエスを神様が復活させてくださった、と語ります。そのことを通して神様は、イエスが私たちの主であり、私たちのメシア、救い主であることを示された、と語るのです。それは、イエスが十字架で死なれ、復活されたことによって私たちの罪の赦しと救いが実現した、ということです。確かに私たちの罪がイエスを十字架につけて殺しました。しかし神様は、まさにその十字架の死において、イエスを十字架につけて殺した私たちの罪を赦し、私たちを救ってくださったのです。このことは、神様が十字架で死なれたイエスを復活させることによって確かなこととなりました。だからペトロは、神様はあなたがたが十字架につけて殺したイエスを復活させることによって、イエスがあなたがたの主であり、救い主であることを示された、と告げているのです。
どうしたらよいのですか
このように説教を通して、私たちは自分の罪に気づかされるだけでなく、イエスが自分の主であり、救い主であることを示されます。自分自身を自分の人生の主人として生きるのではなく、イエスを主人とし、その十字架の死と復活によって実現した罪の赦しと救いにあずかって、新しく生き始めることを示されるのです。しかしその罪の赦しに、その救いに、どうしたらあずかることができるのでしょうか。ペトロの説教を聞いた人々は、それが分かりませんでした。だからペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねたのです。
悔い改めなさい
人々の問いかけに対して、ペトロは38節でこのように答えています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」。ペトロは、まず「悔い改めなさい」と言います。「悔い改める」と言われると、私たちは「反省する」ことだと思います。しかし「悔い改め」というのは、「反省」ではありません。この言葉は、もともと「心の向きを変える」という意味の言葉です。つまり「悔い改め」とは向きを変えること、方向転換することなのです。どこからどこへ向きを変えるのでしょうか。神様に背を向けて生きていた私たちが、神様の方に向き変わるのです。神様はイエスを復活させることによって、イエスが私たちの主であることを示してくださり、イエスを自分の人生の主人として生きる道を開いてくださいました。しかしその道に生きるためには、自分自身が自分の人生の主人のままでいることはできません。イエスを主と呼びながら、自分自身が自分の人生の主人のままであるのは、おかしなことです。イエスを主とし、主イエスを信じて生きるとは、主イエスのご意志に従って生きることです。生きようとすることです。しかし自分が主人のままなら、主イエスのご意志に従うことはできません。むしろ自分の思いを実現するためにイエスを利用し、神様を利用することになります。それでは、神様の方に向き変わっているのではなく、自分自身の方を向いたままで、都合の良いように神様を利用しているに過ぎません。そうではなく、神様の方に向き変わるとは、悔い改めるとは、私たちが自分の人生の主人であることをやめて、神様を主人として、イエスを主人として生き始めることなのです。
罪を赦していただきなさい
このように神様に背を向けたままで、罪の赦しと救いにあずかり、新しく生き始めることはあり得ません。ですから私たちは悔い改めて、神様の方に向き変わる必要があります。しかし私たちは、悔い改めることによって罪の赦しを得るわけではありません。悔い改めは、ある面、私たちが行うことですが、私たちの行いによって、私たちは罪の赦しを得るわけではないのです。だからペトロは、続けてこのように言います。「めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」。「罪を赦していただきなさい」と言われているように、罪の赦しは私たちが獲得するものではなく、神様が私たちに与えてくださるものです。その神様が与えてくださる罪の赦しに、私たちがあずかるしるしが、洗礼です。私たちは洗礼という儀式そのものによって罪を赦され、救われるのではありません。しかし私たちは、イエス・キリストの名によって洗礼を受けることによって、主イエスの十字架と復活によって実現した罪の赦しと救いの恵みにあずかり、その救いの恵みの内に新しく生き始めるのです。
賜物として聖霊を受けます
ペトロは38節の最後で、「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と言っています。私たちは洗礼を受け、罪の赦しにあずかるとき、賜物として聖霊を受けます。弟子たちが受けたのと同じ聖霊が、洗礼を受けることによって私たちに与えられるのです。弟子たちは聖霊を受けて、神の偉大な業を、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを宣べ伝え始めました。同じように私たちも洗礼を受け、聖霊を受けることによって、主イエス・キリストによる救いを証しする者、とされるのです。それは、洗礼を受けた者は皆、神学校に行って伝道者になるというようなことではありません。洗礼を受け、聖霊を受けた者は誰でも、それぞれの生活の場で、主イエスを証しし、その救いを証しする者とされている、ということです。その証の仕方は、もちろん一つではありません。しかしどんな仕方であれ、私たちは自分の力によってではなく、聖霊を受けることによって、その聖霊の働きによって主イエスを証しし、その救いを証ししていくのです。
神の約束
39節の冒頭に「この約束は」とあります。「この約束」というのは、38節で語られていた、悔い改めて洗礼を受け、罪を赦されることによって賜物として聖霊を受ける、という約束です。この約束が、「あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも」与えられています。「あなたがたにも、あなたがたの子供にも」は、時間的な広がりを見つめています。この神の約束は、このときペンテコステの出来事に立ち会った人たちの世代だけに与えられるのではありません。その子どもの世代にも、さらに次の世代にも、そのまた次の世代にも、というように与えられるのです。それに対して「遠くにいる人」は、空間的な広がりを見つめています。この神の約束はこのときこの場にいない人にも与えられるのです。また「遠くにいる人」とは、物理的に遠くにいる人だけでなく、ユダヤ人ではない異邦人、という意味もあります。つまり「遠くにいるすべての人にも」とは、国籍や民族や人種や性別にかかわらず、どんな人にも、ということです。このようにこの神の約束は、時間的にも空間的にも制限のない、また国籍や民族や人種や性別にもかかわらない、すべての人に与えられている約束なのです。
平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも
共に旧約聖書イザヤ書57章14~19節を読みました。その最後でこのように言われています。「平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる」。この箇所は捕囚後のユダヤ共同体の文脈で語られています。捕囚から解放されエルサレムに帰還した人たちによって、ユダヤ共同体が順調に再建されたかと言うと、まったくそんなことはありませんでした。問題が山積する中で、しかし預言者イザヤはこのように告げたのです。ここで「近くにいる者」とはエルサレムに帰還した人たちで、「遠くにいる者」とは捕囚の地に留まった人たちのことかもしれません。空間的な隔たりを越えて、神様は平和と癒しを与えてくださる、と告げられている、そのように受けとめることもできます。しかしむしろ「近くにいる者」とはユダヤ人であり、「遠くにいる者」とは異邦人である、と読むほうがよいでしょう。すでにイザヤは、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも救いが及ぶことを告げているのです。ユダヤ人であれ異邦人であれ、どのような者に救いが及ぶのでしょうか。それが15節で告げられています。「わたしは、高く、聖なる所に住み 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり へりくだる霊の人に命を得させ 打ち砕かれた心の人に命を得させる」。神様は、「打ち砕かれて、へりくだる霊の人」と共にいてくださり、平和と癒しを与えてくださり、命を得させてくださるのです。「へりくだる霊の人」とは、自分は大したことはできません、と謙遜して生きる人のことではありません。そうではなく、神の前にへりくだって生きる人のことです。それは、自分自身を自分の人生の主人とするのではなく、神様を主人として生きることにほかなりません。「へりくだる」の反対は、「傲慢になる」です。自分自身が自分の人生の主人であるなら、私たちは神の前に傲慢に生きています。そのように生きるのではなく、神様を主人とし、神の前にへりくだって生きるなら、神様は共にいて、平和と癒しを与えてくださるのです。この約束が、あらゆる時代に生きるすべての人に与えられていることが、すでに旧約聖書において預言されていたのです。
あらゆる時代に生きるすべての人に
主イエスの十字架の死と関わりのない人はいません。私たち人間の罪がイエスを十字架にかけて殺したからです。しかし同時に、そのイエスを神様が復活させて、私たちの主とし、救い主としてくださったことと、関わりのない人もいません。だから悔い改めて洗礼を受け、罪を赦されることによって賜物として聖霊を受けるという約束は、あらゆる時代に生きるすべての人に与えられています。イザヤの預言を踏まえれば、悔い改めて洗礼を受け、主イエス・キリストと結ばれた者と、神様がいつも共にいてくださり、癒しと平和を与え、まことの命、新しい命を与えてくださるという約束は、あらゆる時代に生きるすべての人に与えられているのです。
私たちもこのペンテコステの出来事から時間的にも空間的にも隔たっています。また私たちはユダヤ人でもありません。私たちこそ「遠くにいる者」にほかならないのです。しかしその私たちが悔い改めて洗礼を受け、罪を赦されて、賜物として聖霊を与えられました。神様は私たちといつも共にいてくださり、癒しと平和、新しい命を与えてくださったのです。この神の約束は確かに、時間と空間を超えて、国籍や民族や人種や性別を超えて、私たちに与えられたのです。
神の招き
しかしこの神の約束は、自動的にすべての人に与えられるわけではないことにも目を向ける必要があります。39節を改めてお読みします。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」。「わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも」と言われています。確かにこの約束は、あらゆる時代に生きるすべての人に与えられています。しかしそれは、神様が招いてくださる人なら誰にでも、ということです。そのように言われると、神様が招いてくださる人と、招いてくださらない人がいるなんて、神様はひどい方だと思われるかもしれません。しかしここで見つめられていることは、私たちが悔い改めて洗礼を受け、罪を赦されることによって賜物として聖霊を受けるのは、神の招きによるものだ、ということです。神の招きこそが、私たちの悔い改めや洗礼よりも先にある、ということなのです。私たちは一つの決断をして信仰を告白し、洗礼を受け、罪の赦しと救いにあずかります。洗礼を受けることに、自分自身の決断という面があることは確かです。しかしそれがすべてではありません。もし私たちの決断に私たちの救いがかかっているなら、私たちの救いはとても不確かなものになります。なぜなら私たちの決断はしばしば揺らぐからです。一度決断しても、後からあの決断は正しかっただろうかと思い悩むことも少なくありません。私たちの決断がすべてなら、それが揺らぐとき、私たちの救いも揺らいでしまいます。自分の決断が揺らぐ度に、自分は罪を赦されているのだろうか、救われているのだろうか、と不安になるのです。しかし私たちの決断より先に、神の招きがあります。私たちの決断は、この神の招きに応えることです。神の招きこそが決定的なのです。神の招きによって、私たちは悔い改めて洗礼を受け、罪の赦しと救いにあずかったのです。だからたとえ私たちの決断が揺らぐとしても、私たちがすでに罪の赦しと救いにあずかっていることは決して揺らがないのです。私たちは神の招きに応えて洗礼を受け、罪を赦されることによって賜物として聖霊を与えられました。神の約束が、神様が招いてくださる者なら誰にでも与えられているとは、このことを見つめています。神の招きが先にあることは、この大きな恵みを告げているのです。
邪悪なこの時代から救われなさい
40節にこのようにあります。「ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた」。このペトロの言葉を受け入れた人々が洗礼を受けました。41節の後半によれば、その人数は三千人ほどでした。私たちは三千人という人数に驚きますし、それほど大勢の人がどうやって一日で洗礼を受けたのだろうかと思ったりします。しかし大切なことは人数ではなく、ここに教会が誕生したということです。ペトロの説教を聞いて、心を深く刺された者たちが、悔い改めて洗礼を受けたことによって、教会が誕生したのです。その誕生したばかりの教会で行われていたことが、42節にこのように記されています。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」。このことについては、次回、43節以下と共に見ることにします。
本日は、「邪悪なこの時代から救われなさい」というペトロの言葉に注目したいのです。洗礼を受け、罪を赦され、教会のメンバーとされ、新しく生き始めることは、「邪悪なこの時代から救われる」ことだ、とペトロは言います。私たちは、私たちが生きているこの時代が、邪悪な時代に思えることがあるのではないでしょうか。戦争がなお続き、自国の利益を優先することが叫ばれ、分断が拡大しているこの時代が、邪悪な時代のように思えても不思議ではありません。しかしここで言われている「邪悪さ」は、私たちが目で見て明らかに分かる「邪悪さ」を必ずしも意味しません。この言葉は、もともと「曲がった」とか「歪んだ」という意味の言葉です。本来のあるべき姿から曲がっている、歪んでいる、ということなのです。本来のあるべき姿とは、神様と共に歩み、神様のみ心に従って歩むことです。しかしそのあるべき姿から曲がっている、歪んでいる。神様と共に生きるのではなく、神様を無視して、自己中心的に自分勝手に生きているのです。国の指導者だけが歪んでいるのではありません。ほかならぬ私たち自身が歪んでいる。ほかならぬ私たち自身が神様を無視して自己中心的に、自分の欲望を満たそうと生きています。そのために人を傷つけ、あるいは環境を破壊しているのです。しかしそのように生きるしかなかった私たちが救われました。私たちが何か善いことをしたからではありません。私たちには何の手柄もないけれど、神様は恵みによって私たちを救いへと招いてくださったのです。私たちは、その神の招きにお応えし、悔い改めて洗礼を受け、罪を赦され、賜物として聖霊を受け、教会の一員とされ、邪悪な時代から、歪んだ時代から救われているのです。そうであれば私たちは、もう邪悪な時代に支配されて生きるのではありません。イエスを主とし、救い主として生きていきます。自分自身を自分の人生の主人とするのをやめて、イエスを主人として生き、主イエスのご意志に従って生きていくのです。といっても私たちは邪悪な時代の外に撤退して、世捨て人となって生きるのではありません。邪悪な時代のただ中で、罪を赦され、救われ、賜物として聖霊を与えられた者として生きるのです。確かに神の招きが先にあります。しかし私たちには神の招きが誰に与えられているかは分かりません。だから私たちは、邪悪な時代のただ中で、すべての人に、主イエスによる救いを証ししていくのです。すべての人が洗礼を受け、罪を赦され、邪悪な時代から救われることへ招かれている、と宣べ伝えていくのです。「遠くにいる者」であったにもかかわらず救われたからこそ、私たちは、今、遠くにいる方々に、遠くにいるように感じている方々に、自分には主イエスの十字架と復活は関係ないと思っている方々に、この救いに招かれている、と語り続けていきます。神の招きに応え、洗礼を受け、罪の赦しと救いにあずかって生きる歩みに、まことの平和と癒しが与えられる、と語り続けていくのです。