「パウロの苦難」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:イザヤ書 第56章1-8節
・ 新約聖書:使徒言行録 第21章17-36節
・ 讃美歌:50、377
<ユダヤ人の思い>
本日のところは、パウロがエルサレムにやって来て、起こった出来事が語られています。前半にはユダヤ人キリスト者が、後半にはユダヤ人が登場します。
主イエス・キリストの救いを宣べ伝えている、伝道者パウロは、これまで異邦人の地で伝道の旅を続けてきました。そこでは、異邦人の中でもキリストを信じる者が多く起こされ、各地に教会が生まれました。しかし、異邦人の地に住んでいるユダヤ人たちの多くは、キリストの福音を受け入れられず、パウロを迫害してきました。
なぜなら、ユダヤ人たちは、神の救いは、神に選ばれた自分たちのためにあるのであり、神の民のしるしである割礼を受け、神の律法をきちんと守っているユダヤ人しか、救われないと考えていたからです。旧約聖書の時代、ユダヤ人の中から救い主が現れ、民を救うことが預言されていました。ユダヤ人たちは、輝かしい姿の王が来て、自分たちのイスラエル王国を地上に再建してくれる、そのような期待を抱いていました。
しかし、パウロが宣べ伝えているのは、十字架で死刑になったナザレのイエスという一人のユダヤ人が、救い主であるということです。その死刑になったイエスは復活し、天に昇られた。そして、すべての人の罪を赦す、救い主となられた。この方が、旧約聖書から預言されていた救い主であり、この方を信じることで、罪を赦され、神の前に正しい者とされる。義とされる。そのようにパウロは宣べ伝えていたのです。
それは、神の律法を守り、割礼を受けているユダヤ人であるということは救いの条件ではなく、ただ、キリストが救い主であると信じることによって、一方的に神が救いを与えて下さるということです。ですから、ユダヤ人、異邦人ということも関係なく、救いに与ることが出来ます。これは逆を言えば、神に背いてしまう深刻な罪の中にある人間は、どのような行いをしても、条件を並べても、神の前で完全に正しい者となることは、決して出来ないということです。
しかし、ただキリストを信じることで救われるという福音は、ユダヤ人にとって、割礼を受けて、特別に選ばれた神の民として歩んで来たこと、努力して律法を厳格に守ってきたことは、救いの役には立たない、と言われたのと同じことです。それは認めがたいことです。もしわたしも、自分が一所懸命努力を積み重ねて得ようとしてきたものを、隣の人が何もしていないのに受け取っているのを見たなら、嫉妬というか、怒りというか、何とも言えないどす黒い感情が胸に渦巻くと思います。
努力した分、報われたいと思うのは当然ですし、神の律法も知らず、割礼も受けていない異邦人が、神の民として歩んで来たユダヤ人とまったく同じに、キリストを救い主だと信じることだけで神に救われる、というのは、とても不公平に思われたでしょう。
しかし、本当は、決して不公平などということではありません。神は、このユダヤ人、つまりイスラエルの民を、世のすべての人間を救うという、神の壮大なご計画のために選び、お用いになった、ということなのです。そこに特別な祝福があります。ユダヤ人、イスラエルの民は、地上のすべての民の、祝福の基として選ばれたのです。イスラエルの民の歴史を導き、用いることによって、そのユダヤ人の中で、神の御子イエスが人となってお生まれになり、すべての人の罪を贖うために十字架で死なれ、そして復活させられたのです。そして、その救いが、ユダヤ人の中から始まって、すべての民に、異邦人に、全世界に、与えられる。それが、神の救いのご計画なのです。
<パウロの思い>
しかしまたパウロは、このようなキリストの救いに反発するユダヤ人の気持ちが、大変よく分かるのです。なぜなら、パウロ自身も、異邦人の地に住んでいた、熱心に律法を守るユダヤ人であり、かつてはキリストを信じる者を迫害する側の人間だったからです。しかし、パウロは、使徒言行録の9章に語られていたように、主イエスと出会い、この方がまことに聖書に預言されていた、神の約束の救い主だと信じ、洗礼を受けました。次週のところでパウロの回心の告白がありますので、その時に詳しく触れますが、そのようにしてパウロは迫害者から、キリストの伝道者となって、各地で福音を宣べ伝えるようになったのです。
主イエスと出会う前のパウロは、キリスト者を迫害することも、神のためと思っていました。しかしそれは、神の救いの御心に背いていた、ということを知りました。神のためにと思って熱心にしたことでさえ、神に背いている。それほどに人の罪は深刻なのです。割礼を受けていても、律法を熱心に守っていても、神の前で、まことに正しくあることは、人間の力では絶対に出来ないのです。神が遣わして下さった、救い主イエス・キリストの十字架の死によって、神が罪を赦して下さったということを、受け入れるしかないのです。
ですから、キリストの救いに与ったパウロは、仲間のユダヤ人たちが、神のご計画を正しく知り、神のまことの思いを知り、キリストを受け入れ、信じることを心から願っていました。異邦人の地でも、パウロはまずユダヤ人の会堂を探して、そこでキリストの福音を説教していたのです。
しかし、ユダヤ人からすれば、パウロは裏切り者のような存在です。ですから、本日の聖書箇所の27節以下にあるように、エルサレムにやってきたパウロを、アジア州から来たユダヤ人たちが、何とか亡き者にしようと、人々を扇動して騒ぎ立て、パウロに言いがかりをつけて殴り、殺してしまおうとしたのです。ユダヤ本国のエルサレムの地は、エルサレム神殿があり、多くの敬虔なユダヤ人が集まる場所ですから、パウロにとって、これまで以上に危険が多いことは十分予想できました。そして実際に騒動が起こり、その地域に駐屯していたローマの兵士に、パウロは捕えられることになったのです。
聖霊は前からその危険をパウロにはっきりと告げていましたし、前回の聖書箇所21:10にもあったように、預言者アガボが、パウロは「エルサレムでユダヤ人に縛られて、異邦人に引き渡される」と言っていました。周囲の人々は、何とかパウロをエルサレムへ行かないように引き止めたいと願いましたが、パウロの決意は固く、皆で神の御心を祈って、送り出したのです。そして、すべては聖霊が示していた通りになりました。
こうしてエルサレムに入ったパウロには、さまざまな苦難が襲いかかってきます。しかしパウロは、命を落とすことも覚悟して、神から与えられた使命を果たすためにエルサレムへ来たのです。
<ユダヤ人キリスト者の思い>
さて、この多くのユダヤ人が抱えている思いは、ユダヤ人の中でキリストを信じた者の中でも、なかなか拭い去ることが出来ないものでした。
ユダヤ本国のエルサレムにおいても、十字架のイエスを救い主と受け入れ、復活を信じ、洗礼を受けたユダヤ人は多くいました。しかしなお、神の救いを完全に得るためには、やはり割礼を受けたユダヤ人である必要があるのではないか、と考える者がいたのです。
そのために議論が起こったことが、使徒言行録の15章で語られていました。15:1にはアンティオキアという場所の異邦人が多くいる教会に、「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた」とあります。
そのために、パウロは数名の者とともにエルサレムへ行き、ユダヤ人キリスト者が殆どを占めるエルサレム教会で、使徒たち、長老たちとこのことを話し合いました。それは、妥協点を見つけることや、どちらかを言いくるめて説得しようとするものではありません。彼らは、聖書に書かれている御言葉を確かめ、実際に神が行ってこられた御業を見つめ、共に神の御心を問うたのです。
旧約聖書には、異邦人にも神の救いがもたらされることが語られていました。本日お読みしたイザヤ書56章においても、異邦人や宦官のように、律法において救いから外れているとされていた者たちも、主のもとに集い、神の祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す、と語られていました。
また、神は御言葉に耳を傾ける異邦人にも、ユダヤ人と同じように、聖霊を送られました。それは使徒であるペトロが目撃し、証言したことです。聖書のみ言葉と、神の御業は、確かに、異邦人であっても、キリストを信じる者には救いを与えることを示しているのです。
このことは同時に、神の救いは、人のどのような業にも、条件にもよらない、ということを示しています。ただ、神が、救いに与る者を選び、招いて下さり、救いを与えることがお出来になる。ただ神の恵みによって救われる。この福音が明らかにされているのです。
しかし、この時エルサレム教会は、救いのために、異邦人がユダヤ人になるための割礼を受ける必要はない、と認めながらも、異邦人キリスト者にいくつかの条件を出しました。
それが、本日の25節にあったように「また、異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りました。それは、偶像に捧げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしないように。また、みだらな行いを避けるようにという決定です。」と言われていることです。みだらな行いを避けることはキリスト者として言わずもがなですが、他はユダヤ人の食事に関する律法の規定です。ユダヤ人がこれまで律法を守ってきたことを、この点においては異邦人も守るように、ということです。
これは、救いの条件ではありません。また異邦人は、これまでユダヤ人の律法とは関わりなく生活してきたのですから、このような規定は本来必要のないことです。しかし、このようなユダヤ人の規定を異邦人キリスト者に守らせようとしたのは、神がユダヤ人も異邦人も、分け隔てなく、キリストを信じる信仰によって救って下さると示されたにも関わらず、人間にとっては、その分け隔てはなお根深く残り、取り去ることが出来なかったということを示しています。
ですから、あの15章のエルサレム会議から時が経っても、ユダヤ人が多いエルサレムの教会と、異邦人が多い異国の地の教会の間では、お一人のキリストを信じる信仰においての一致と、一つの体としての教会同士の交わりが、まだしっかり確立できていなかったのです。
<パウロの使命>
パウロが、命を懸けてエルサレムの教会へ行ったのは、まさにこのキリストにおける一致のため、ユダヤ人キリスト者の教会と、異邦人キリスト者の教会の交わりを確立するためでした。そのために、異邦人教会からの献金を預かり、エルサレム教会のために献げ、ユダヤ人も異邦人も、同じ一つのキリストの福音に与り、恵みも苦しみも共にする兄弟姉妹であることを示そうとしたのです。
それはすべての教会が、キリストを信じる一つの信仰、同じ福音に立つことを確認するためであり、また異邦人の教会も、神がユダヤ人を選んで行われた神の民の救いの歴史に連なっていく、新しい神の民である、ということを確かにするためにも、必要なことでした。
エルサレムに着いたパウロを、17節にあるように、エルサレム教会のリーダーであるヤコブと長老たちは、喜んで迎えました。そして、パウロが用いられて、神が多くの異邦人を救って下さったことが報告され、皆が神を賛美した、とあります。つまり、エルサレム教会を指導している人々の間では、ユダヤ人も異邦人も関係なく、キリストを信じることで救われる、という福音の理解の一致があったと考えられます。
またエルサレムの教会の中では、多くのユダヤ人がキリストを信じるようになり、なお熱心に律法を守っている、ということが報告されました。しかしその者たちが、21節にあるように、パウロについて誤解をしている、つまりパウロが「異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子どもに割礼を施すな。慣習に従うな』と言って、モーセから離れるように教えている」と聞かされている。だから、パウロがエルサレム教会に来たことを知ったなら、黙ってはいないだろう、と言うのです。
パウロは、「割礼を施してはいけない」「慣習に従ってはいけない」と教えたりはしていません。救いのために「~してはいけない」と禁止することもまた、そのような条件を守らなければ、救いに与れない、と言っているのと同じことです。それは、人の行いによらずに救われる、という福音を、やはり蔑ろにしてしまうものとなります。
パウロは、律法からは自由にされている。つまり、律法を守っているから救われるのではないのだ、と教えています。ですから、律法は、救いのためにしなければならないものではないし、またしてはいけないと禁止するものでもありません。救いの根幹に関わらないのなら、それはどちらでも良いのです。
このように、律法に対して自由な態度をとることが出来るのは、キリストを信じる信仰によって救われる、という絶対で唯一の福音の真理があるからです。
しかし、パウロに反発を覚えるユダヤ人キリスト者たちのために、ヤコブたちは、提案をしました。それは、23節以下に書かれています。「わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。この人たちを連れて言って、一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭をそる費用を出して下さい。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。」
パウロも律法に従って清めの儀式を受け、他の者の誓願のためにも費用を出してほしい。そうすれば、パウロも律法を大切にする者だということを分からせることが出来る、誤解を解ける、というのです。
パウロはこの提案を受け入れます。そして、26節にあるように「そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献げることができるかを告げた」のです。
<福音による自由>
このように人々を納得させるために、パウロは律法に従って見せました。これは、パウロの妥協だったのでしょうか。パウロは渋々、ことを丸く収めるために、このことをしなければならなかったのでしょうか。
そうではありません。先ほど述べたように、福音の真理、つまり、キリストを信じる信仰によって救われる、ただ主イエスの恵みによって救われる、ということが確認されているのであれば、律法を守ることも、守らないことも、自由なことです。
ここで、パウロが第一に大切にするのは、まず、福音の真理を守ることです。福音が歪められないようにすることです。ですから、パウロは先にあったように、「救われるためには律法に従って割礼を受けることが必要だ」という、救いに人の条件が必要であるかのような主張に対しては、断固として戦いました。
その上で大切にするのは、兄弟が福音に与ること。兄弟をつまずかせないことです。パウロはキリストの福音を信じ、律法から自由にされていますが、信仰の弱いユダヤ人の兄弟をつまずかせないため、福音のためであれば、進んで律法に従うことも出来るのです。
パウロが望んでいるのは、キリストを信じる信仰における、一つの福音における、すべての教会の一致であり、ユダヤ人と異邦人の壁を越えて、キリストにある兄弟姉妹として交わりを深めることです。そのためなら、自分の命を落としても良いと覚悟しているほどなのです。
その使命のためならば、福音のためならば、兄弟のためならば、パウロは何でも出来るし、何にでもなれるのです。
そのことをパウロが語っている箇所があります。コリントの信徒への手紙一9:19以下です。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」
キリストのものとされ、ただ唯一の神のご支配の許に生きる時、キリスト者は、他のあらゆることから解放され、何に対しても自由になれます。
しかし真の自由とは、自分の思い通りに、好き勝手に振る舞えることではありません。それは、世のどのようなことからも自由であると同時に、自分の利益や、権利や、プライドからも自由になるということです。わたしたちは、自由だと言いながら、実は自分が自分を最も強く支配し、束縛しているかも知れません。自らの利益に固執し、権利を主張し、誇りを捨てられずにいます。
しかし、キリストから与えられる自由とは、福音のために何でもできる自由であり、兄弟が福音を受け入れるためならば、自分が今持っているものも捨てることが出来る、そのような自由なのです。
しかし、なぜ、そこまで自由になれるのでしょうか。福音のために、兄弟の救いのために何でもして、その結果パウロは命を失うかも知れません。どうしてそこまでするのでしょうか。
それは、パウロのために、そしてまたわたしたちのために、救い主であるイエス・キリストが、そのようになさったからです。
主イエスは、神の御子でありながら、すべての人を救うために、その身分に固執せず、神であられるご自分の自由を捨てて、低くなられて人となり、罪人と同じになり、御自分の命をも捨てて下さったからです。僕となり、恥と苦しみを受け、わたしたちのために死をも引き受けて下さったのです。
主イエスのそのような御業によって、わたしたちは罪と死から解放され、新しい命と復活の約束を与えられたのです。神の愛のご支配の許で自由に生きる者とされたのです。わたしたちの救いのために、神の御子が、御自分をこれほどまでに低く、小さくされました。この十字架の主イエスのお姿を見つめるなら、この主イエスの恵みを受けたわたしたちもまた、主イエスを信じ、従う者として与えられた自由を、福音のために、兄弟のために、何にでもなり、どんなことでもするために、喜んで用いていく歩みが示されていくのです。
このパウロの姿は、まさに主イエスの歩みに従うものでした。死を覚悟して決然とエルサレムへ入っていったのも、ユダヤ人に訴えられて逮捕され、ローマ兵のもとに連れていかれたのも、36節にあるように最後には大勢の民衆がパウロに向かって「その男を殺してしまえ」と叫びながらついてきたのも、まるで主イエスの十字架の苦難の道を辿るかのようです。
しかしパウロは、主イエスがそのようにご自分を捨てて、苦難の道を歩き通して下さったことによって、神の救いの御業が実現したことを知っています。その主イエスは復活させられ、死に打ち勝ち、天の栄光の座に就かれ、今、パウロと共におられることを知っています。パウロが祈りをもって、神の御心に従って歩むなら、それが苦難に満ちていても、どうなっても、パウロは常に復活の主イエスと共にあり、神ご自身が、恵みに満ちた救いのご計画を必ず進めて下さる。御心を必ず実現して下さる。パウロはそのことを確信して、福音のために自分の自由を用いているのです。
わたしたちもまた、主イエスの十字架と復活によって与えられた恵みによる、まことの自由を、神のご計画のために、福音のために、また兄弟たちの救いのために、喜んで用いていく者となりたいと願います。わたしたちの歩みは小さく、惨めで、弱々しくても、神は喜んで受け入れ、すべての民を救うご計画のために用いて下さり、神ご自身が、救いの御業、神の国を、必ず完成させて下さるからです。