「命の水」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:イザヤ書 第55章1-3節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第4章1-26節
・ 讃美歌:17、132、514
聖書を中心とする礼拝
教会の礼拝においては必ず聖書が読まれます。聖書が読まれない礼拝はありません。礼拝というと、一般的なイメージとしては、何かのご本尊を拝むために頭を下げたり手を合わせたりすることを思い浮かべますが、教会の礼拝ではそういうことがありません。そもそも拝む対象となるご本尊のようなものがどこにもありませんし、特にこの教会には、中にも外にも、十字架すらもありません。初めて来られた方は、礼拝と言いながら何も拝んでいないではないか、と思うかもしれません。この礼拝堂にあるのは、このでっかい聖書だけです。ご本尊はないけれども聖書がある、それが教会の礼拝なのです。この聖書は別に特別なものではなくて、図体が大きいだけで、皆さんが持っている、教会で貸し出している聖書と中身は同じです。この聖書を拝んでいるわけではありません。しかし私たち教会は、聖書に神様から私たちへの語りかけが、つまり神の言葉が記されていると信じています。聖書が読まれ、その箇所についての、今私がしている「説教」と呼ばれるお話がなされることによって、神様からの語りかけを聞く、そのことによって、目に見えない神様を拝んでいる、それが教会の礼拝なのです。礼拝で必ず聖書が読まれるのはそのためです。聖書にこそ、神様から私たちへの語りかけがある、その語りかけを聞くことによって私たちは神様を礼拝しているのです。
魂の渇きと飢えを満たすもの
その聖書から先ほど二つの箇所が、旧約聖書と新約聖書の言葉が読まれました。今日はこれらの言葉から神様の語りかけを聞こうとしているのです。先ず旧約聖書の箇所、イザヤ書第55章1-3節を見てみたいと思います。その冒頭に、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」とありました。神様が今私たちに、このように語りかけ、招いて下さっているのです。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」。「渇きを覚えている者」それは私たちのことではないでしょうか。ここには、「穀物を求めて、食べよ」とも語られています。渇きだけでなく、飢えをも覚えている私たちを神様がこのようにご自分のもとへと招いておられるのです。私たちは様々な渇きや飢えを覚えて生きています。今は盛んに「熱中症予防のための水分補給」が叫ばれており、そのためのいろいろな水が売られています。また飢えを満たすための食べ物はコンビニに行けば二十四時間いつでも手に入ります。でもそのようなものでは満たすことのできない、もっと深い魂の渇きと飢えがあります。その渇きと飢えを満たしたいという願いを心の底にかかえながら、私たちは日常の生活の忙しさの中に埋没しているのではないでしょうか。そして時々その日常を離れて、自分にごほうびを与えたり、ストレスを解消するための何かをしたり、自分に充電しようとしています。それはみんな、心の底にある渇きと飢えを満たすものを求めてしていることだと言えるでしょう。しかしこのイザヤ書55章の2節にあるように「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」ということになっていることも多いのではないでしょうか。これこそ自分にとって糧になる、心の飢えを満たしてくれる、と思い期待して何かを求め、そのためにけっこうのお金をつぎ込んでも、それが本当には糧にならないもの、飢えを満たしてはくれないものであることが多いのです。あるいは、一時は飢えを満たすことができた、充電できたと思っても、日常の生活に戻ってみればたちまち渇きと飢えが戻って来るようなこともあります。私たちの心の奥にある本当の渇きや飢えを満たすものはそう簡単には見つからないのです。
自己肯定感への飢え渇き
そもそも私たちは何に対して渇きや飢えを覚えているのでしょうか。私たちが心の底で求めているものは何なのでしょうか。具体的には、それぞれの人の置かれた状況によって様々に異なった求めがあるし、切実に必要としているものも人それぞれ違っているでしょう。しかし心の一番深いところで、具体的なあれこれの求めの土台となるところにおいて私たちが飢え渇いているのは、自分が自分として良しとされること、自分という人間の存在が根本的に肯定されること、自分が自分であることを喜ぶことができることなのではないでしょうか。自己肯定感、という言葉があります。自分で自分のことを肯定できる感覚です。横浜が舞台になっていて大ブレイクしたテレビドラマ「逃げ恥」というのがありましたが、あれは自己肯定感の低い男女どうしの恋愛の話でした。自分で自分のことを肯定でき、喜ぶことができるなら、私たちは明るく前向きに生きることができ、積極的に人と関わっていくことができます。それこそ恋愛もできます。私たちが心の底でいつも求めているもの、飢え渇いているのはそのことなのではないでしょうか。そして私たちはその自己肯定感を得るためにいつも、他の人から肯定されることを求めています。人がほめてくれたり、「いいね」と言ってくれることで安心する、つまり自己肯定感を得ることができる、ほめてくれなくても、自分が送ったメッセージを読んでくれていることが分かれば、肯定されていると感じる、でも読んでくれないと、無視され、自分を否定されたように感じる。私は全くやらないのですが、「ライン」というネット上の世界でそのようなことが起っていると聞きます。ましてや、人からけなされたり、マイナスの評価を下されてしまうと、もう自己肯定ができなくなり、心がズタズタになり、落ち込んでしまうのです。それは今日の社会において、評価とか査定ということが幅をきかせていることも一つの要因でしょう。職場においても常に仕事を評価され、能力、適性を査定され、それを他の人と比べられています。そういう中で、自己肯定感を持って生きることがとても難しくなるのは当然のことです。自分が自分として良しとされ、自分という人間の存在が根本的に肯定され、自分が自分であることを喜ぶことができる、そういうことへの飢えと渇きを、今日を生きる私たちはますます深く感じているのです。
神の恵みによる招き
そのような渇きを覚え、飢えを感じている私たちに、神様は聖書を通して「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」と語りかけ、私たちを招いておられます。「銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」とも言っておられます。つまり、わたしのもとに来れば、あなたたちの渇きをいやす水を、飢えを満たす食物を、ただで与えてあげる、お代を払う必要はない、何の代償もいらない、わたしのもとに来て求めさえすれば、あなたがたは渇きをいやされ、飢えを満たされるのだ、と言っておられるのです。世の中には、「タダより高いものはない」という教訓があります。タダで与えてあげる、という言葉には気をつけた方がいい、そこには必ず何か裏があるのだ、うまい話には気をつけろ…、それは確かにそうでしょう。だから私たちは、自分で銀を量って払って、渇きや飢えを満たすものを手に入れようとしているのです。求めているものはタダでは手に入らない、それなりの苦労があってこそ渇きや飢えを満たすことができると思って、いろいろ苦労しているのです。しかしその苦労、努力が、「糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労する」ような無益なことになってはいないか、と神様は問うておられます。人間どうしのギブ・アンド・テイクの関係においては、確かにタダより高いものはない、と警戒しなければならないことがあります。しかし神様が私たちとの間に結ぼうとしておられる関係はそれとは違います。神は私たちの魂の渇きと飢えを、まさにタダで、何の見返りも求めることなく、恵みによって満たそうとしておられるのです。聖書は、そういう神の恵みに満ちた招きを私たちに告げているのです。
イエスとサマリアの女
魂の渇きを覚えている人を神が恵みによって招き、命の水を与えて下さる、という話が、先程読まれた新約聖書の箇所、ヨハネによる福音書第4章に語られています。イエス・キリストが、サマリア地方を通って行かれた時に、シカルという町の井戸のところで一人の女性と出会った、という話です。イエスは旅に疲れてお昼頃、井戸のそばに座っていた、と6節にあります。そこに一人のサマリア人の女が水を汲みに来たのです。イエスは彼女に「水を飲ませてください」と言いました。すると女は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言いました。それは「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」と9節にあります。ユダヤ人とサマリア人は兄弟のような関係でしたが、歴史的な経緯があってとても仲が悪く、お互いに口もきかなかったのです。だからユダヤ人であるイエスがサマリア人である自分に「水を飲ませてください」と頼んだことは彼女にとって驚きでした。普通ならこれは、よほど喉が渇いていてもう死にそうなので、相手がサマリア人だろうとそんなことは構っておれなかった、と考えられます。彼女もそう思って、ちょっと意地悪な気持ちで、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言ったのでしょう。しかしイエスは言われました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」。これは持って回ったような言い方になっていますが、要するにイエスが言っておられるのは、「本当に喉が渇いているのはあなたの方であって、私こそがあなたに、生きた水を与える者なのだ」ということです。イエスが彼女に「水を飲ませてください」と語りかけたのは、イエスご自身が渇きに苦しんでいたからではなくて、実は渇きに苦しんでいるこの女性が、このことによってイエスに「水を飲ませてください」と願い、そしてイエスが彼女に生きた水を与え、彼女の渇きが癒されるためだったのです。
渇きに苦しんでいる女
この女性は実は渇きに苦しんでいた、そのことがこの話の中で次第に明らかになっていきます。16節に、イエスが彼女に「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言ったとあります。すると彼女は「わたしには夫はいません」と言いました。それを受けてイエスは「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」と言われました。イエス・キリストは、この女性がどのような人生を送ってきたのか、今どのような生活をしているのか、そしてどのような魂の飢え渇きを覚えているのかを知っておられるのです。彼女には五人の夫がいた、五人の夫と結婚しては離婚してきたのです。バツ五、というわけです。そして今は、夫ではない男と同棲している。それは今日の感覚で言うならば、大変自立した女性だったということになりますが、当時は、とんでもなくふしだらな女と人々から見られ、後ろ指を指されていたでしょう。このような人生を送ってきた彼女にとって当時の社会はまことに生きにくいものだったと思います。彼女がお昼頃に井戸に水を汲みに来たのはそのためです。普通井戸に水を汲みに来るのは朝か夕方なのです。しかしその時間に行くと町の女たちと顔を合わせることになる、それが嫌なので彼女は真昼に水を汲みに来たのです。主イエスは、この女性が世間の人々の冷たい視線にさらされながら、しかし自分の思いを曲げることなく、肩肘はって生きていることを見て取り、彼女の魂の奥深くに、深い渇き、飢えがあることを見抜いて声をかけたのです。
人生を良しとすることができない
彼女は何に渇き、飢えていたのでしょうか。人からほめられたり評価されたりすることは、もはや彼女にはどうでもよいことでした。彼女は愛に飢え渇いていたのです。五人の男と次々に結婚しては別れてきた彼女は、その都度、真実の愛を、本当に愛し合う関係を求め、期待し、そして失望してきたのでしょう。彼女にとっては、世間の人々の評価、評判よりも、本当に愛し合う関係こそが大事だったのです。しかし今、六人目の男と、結婚せずに共にいる、そこには、これまで愛を追い求めて生きてきたことへの深い失望、幻滅が感じられます。彼女は、いろいろなものを犠牲にして愛を追い求めてきました。多くの人を傷つけ、自分も傷つき、人々に批判され、軽蔑され、後ろ指を指されながら、ひたすら真実の愛を求めて生きてきたのです。しかしその本当に愛し合う関係は結局得られていない。これまでの自分の歩みは、「糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労する」ような無益な歩みだったのではないか、そういう疑いが、不安が、恐れが今彼女を捕えています。自分の人生は結局無益な営みだったのではないか、人にどうこう言われるというのではなくて、自分自身で、自分の人生を良しとすることが、肯定することが、喜ぶことができない。愛に飢え渇いて生きてきた彼女は、魂の奥深くに、そういう飢えと渇きをかかえていたのです。
命の水
この女性に主イエスは13節以下でこう語りました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。井戸の水を飲めばその時渇きはいやされるが、しばらくすればまた喉は渇く、それは当たり前のことですが、彼女にとってそれはまさに自分のこれまでの歩みそのものでした。彼女は、男との愛という「この水」を求め、それを飲んではまた渇くということを繰り返して来たのです。その中で、「この水」をいくら飲んでも、本当に渇きをいやされ、良い人生を、生き生きと、自分が自分であることを喜んで生きることはできないのではないだろうか、という疑問が次第に大きくなっていたのです。主イエスはその彼女に、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とおっしゃいました。彼女が求めてきた「この水」とは違う水がある。それはいくら飲んでもまた渇くような水ではなくて、あなたの渇きをいやし、あなたが良い人生を、生き生きと、自分が自分であることを喜んで生きることができるようにする「命の水」だ。しかもその水はすぐに枯れて無くなってしまうものではなく、あなたの中で泉となって、永遠の命に至る水が常に新たに湧き出る。そういう命の水を私が与える。だから私のもとへ来なさい、と主イエスは招いておられるのです。彼女も、そして私たち一人ひとりも、心の奥底において、自分という人間の存在が根本的に肯定され、良しとされ、自分が自分であることを喜ぶことができるようになることを望んでいます。そういう私たちの魂の渇きをいやしてくれる命の水を、イエス・キリストが与えて下さるのです。
イエス・キリストの十字架と復活によって
どうしてそんなことが言えるのでしょうか。それは、イエス・キリストにおいて、神が私たちの存在を肯定して下さり、私たちを良しとして下さっていること、つまり神が私たちを心から愛して下さっていることが分かるからです。イエス・キリストは、神の子であり、まことの神であられるのに、私たちと同じ人間となってこの世に来て下さいました。そして私たちの全ての罪をご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さいました。主イエスが私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さったことによって、私たちは罪を赦されたのです。そして父なる神は主イエスを復活させて、新しい命、永遠の命を与えて下さいました。このことによって、主イエスを救い主と信じる者たちをも新しく生かし、永遠の命の約束を与えて下さったのです。また主イエスが受けて下さった苦しみと死は、私たちがこの世で背負い味わう全ての苦しみや悲しみにおいても、そして死においても、主イエスが共にいて下さることを示しています。このイエス・キリストの十字架の死と復活にこそ、神が私たち一人ひとりを愛しておられ、私たちを良しとして下さり、私たちの人生を肯定して下さっていることがはっきりと示されているのです。イエス・キリストはこの十字架の死と復活によって、私たちに永遠の命に至る命の水を与えて下さるのです。
命の水によって新しく生かされる
あなたが与えて下さる命の水を下さい、と願った彼女に主イエスは、「あなたの夫をここに呼んで来なさい」とおっしゃいました。主イエスのこの求めによって、彼女のこれまでの歩み、愛を追い求めては失望し、その中で人を傷つけ、自分も傷ついてきた、その罪の現実が明らかにされました。彼女が命の水にあずかるためにはそのことが必要だったのです。主イエスが与えて下さる命の水によって魂の渇きをいやされるためには、私たちの罪と苦しみの現実、人間関係における破れ、人を傷つけ、また人から傷つけられていることの全てが主イエスの前で明らかにされなければなりません。なぜならこの命の水は、そのような罪と苦しみ悲しみ、弱さを負って生きている私たちに、神がイエス・キリストによって罪の赦しを与えて下さり、私たちのことを肯定して下さり、良しと言って下さることにおいてこそ与えられるからです。神に背き逆らっており、人に対しても、愛されることを求めながら愛することができず、良い関係を失ってしまう私たちの罪にもかかわらず、神がそのような私たちを愛して下さり、独り子イエス・キリストの十字架の死によって赦して下さり、私たちの人生を肯定して下さり、新しく生かして下さる、それが、命の水によって渇きをいやされることです。主イエスによって与えられるこの命の水は、私たちの中で泉となり、私たちを常に新たに生かしてくれます。この命の水を飲むことによって私たちは、自分の罪や弱さによる問題が山積みであるもかかわらず、自分の人生を根本的に良しとし、生きていることを肯定することができるようになります。願っている通りにならないことが多くても、自分が自分であることを喜ぶことができるようになります。人から批判され、けなされたとしても、神が愛して下さっていることを知っているがゆえに、人の評価や査定によって絶望してしまうことなく歩むことができるようになります。そして人生の様々な課題に積極的に向き合い、取り組んでいくことができるようになります。出会う人々と良い関係を築いていくことができるようになります。愛されることだけを求めるのでなく、愛することができるようになるのです。あの女性が求めていた、本当に愛し合う関係も、神によって愛されていることを知ることの中でこそ築いていくことができるのです。
礼拝への招き
このような新しい歩みは、命の水を与えて下さる主イエス・キリストと出会い、主イエスからの語りかけを聞き、「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」という神の招きを受けることによって与えられます。そのことが起るのは、神様を礼拝することにおいてです。この話の終わりのところは礼拝の話になっています。23節でイエスは、「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」と言っておられます。主イエスを遣わして下さった父なる神は、私たちを礼拝へと招いておられるのです。教会の礼拝においては、聖書が読まれ、聖書に記されている神からの語りかけ、神の恵みによる招きの言葉が語られています。聖書から神の語りかけを聞き、神を礼拝することによって、私たちは命の水をいただき、魂の渇きをいやされ、永遠の命に至る水に養われつつ生きていくのです。そういう礼拝が毎週日曜日にここで行われています。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい」。それは神が私たちを礼拝へと招いておられる言葉なのです。