夕礼拝

神の思い、神の道

「神の思い、神の道」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第55章8-9節
・ 新約聖書:使徒言行録 第16章6-15節
・ 讃美歌:51、460(1-4)

<第二回伝道旅行の途上で>
 本日、共にお読みしたところは、パウロという伝道者の、二回目の伝道旅行での出来事です。パウロは、5:36にあるように、「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見て来ようではないか。」と、これまでパウロがキリストの福音を宣べ伝えてきたところを再び訪ねていく計画を立てました。キリストを信じる者がおこされ、生まれた教会が、今それぞれの場所で、どのようにしているか、その様子を見に行こう、ということでした。

 パウロは、シラスという仲間を与えられて、教会を力づけて回り、またリストラという地では、生涯の同労者となるテモテという若い弟子と出会い、彼も旅に加わりました。
 新しい仲間が与えられ、また、訪問した先々の教会では、再び訪れてくれたパウロをとても歓迎したことでしょう。今日の箇所の直前の16:5には、「こうして、教会は信仰を強められ、日ごとに人数が増えていった」と述べられています。
パウロは神への感謝とともに、喜び勇んで、いよいよ熱心な思いで、次の場所へ行こうとしたでしょう。
後ろの地図をご覧になれる方は、「8.パウロの宣教旅行2、3」をご覧ください。第二次旅行のルートが実線で書かれています。右の真ん中辺りのシリアのアンティオキアから出発し、デルベ、リストラ、イコニオンと教会を尋ねて行きました。
 ところが、今日の箇所では、パウロの計画がそこから次々に挫折していったことが描かれています。6節には「彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」とあります。第一回伝道旅行のルートをたどるなら、この後イコニオンから西へ行ってピシディア州のアンティオキア(出発点とは違う土地)、南下してぺルゲという所に行くのではないかと思うのですが、「アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」とあるので、パウロの計画は、もしかすると真っ直ぐ西へ向かって、アジア州の中心地エフェソへ行くつもりだったのかも知れません。とにかく、イコニオンから先へ行きたかった所が、何等かの理由で行くことが出来なくなり、パウロたちは予定していなかった、北の方のフリギア・ガラテヤ地方へ行ったのです。
 そうして今度はミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしましたが、7節には「イエスの霊がそれを許さなかった」と書かれています。それで仕方なくミシア地方に入って、まったく行く予定も何もなかったトロアスという町に辿り着いたのです。

<計画の挫折>
 聖霊が禁じるとか、イエスの霊が許さない、と書かれているのが、具体的にどういうことだったのかは分かりません。神の預言を聞いた人がいたのかも知れませんし、聖書の他の箇所から推測をして、パウロが病気になったために、進路変更せざるを得なかったのだ、と考えることも出来ます。それはガラテヤの信徒への手紙4:13以下にパウロが「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」と書いてあるところがあるからです。体を壊してしまったパウロが、そのまま目的地へ向かうことが出来なくなり、行き先を変更して、その地で福音を語り、この手紙の宛先になっている教会が誕生したのではないか、という説があるのです。
とにかく、パウロたちはどうしても予定通りに旅をすることが出来なくなり、計画が何度も頓挫してしまったのです。

 自分勝手な、自分の利益を求めるような計画ならいざ知らず、そうではなくて、神に仕えようとして、主イエスの福音を知らせようとして、計画し、実行しようとしていることです。それなのに、あれもこれも上手くいかない。神がパウロの計画を妨げられるというのは、とても理不尽なことのように思えます。
パウロはこの時、「神よ、どうして、道を閉ざされるのですか」、「なぜ、神のために、キリストの福音のために行おうとしていることを、妨げられるのですか」と、神に訴えたい気持ちだったのではないでしょうか。神のみ心が分からない、神はどうして助けて下さらないのだろうと、そんな風に嘆いたかも知れません。

しかしまたパウロたちは、よく祈っていたと思います。どうすれば良いのか。どこへ向かえば良いのか。神は何をなさろうとしているのか。どうして止められるのか。神のみ心を求め続けていたのではないでしょうか。そうでなければ、今回のように、パウロたちが道を閉ざされた時に、何とか次に伝道する場所を見つけ出そうと、計画を変更しながらでも歩みを進めていこうとはしないと思うのです。計画は挫折しても、神が命じられた、キリストの福音を宣べ伝える、という目的を、パウロたちは何とか果たしたいと祈り求めていたのではないでしょうか。  

 パウロたちが最後に辿り着いたのは、小アジアの端っこ、トロアスという港町です。目の前には海が広がっています。聖霊に、イエスの霊に禁じられ、とうとう行くべき道は無くなってしまいました。もう向かうべきところはありません。どこへ行けば良いのか。ここで引き返すべきなのか。パウロたちは、海を見つめ、途方に暮れたと思います。

<神の召しの確信>
 ところが、その夜、パウロは幻を見ます。一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けて下さい」と言ってパウロに願うという幻です。マケドニア州というのは、トロアスの町から海を渡った向こう側にある、ヨーロッパの大陸の地域です。そこは、パウロが行くことなど思いもよらなかった場所でした。そこの人物が、「助けて下さい」と願っている幻です。

パウロはその幻を、旅の同行者に話します。そして、彼らは「マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだ」と、確信するに至ったのです。
トロアスの港から、海を渡った、向こう側のヨーロッパ大陸に、自分たちの行くべき目的地がある。神がパウロたちの計画を止め、トロアスまで来させたのは、マケドニア州へ遣わし、福音を告げ知らせるという神のご計画のためだったのだ、と確信したのです。

この10節に出て来る「確信」と言う言葉は、「結び合わせる、組み合わせる、一緒に持って来る」という意味があります。
パウロは、御言葉を語ることを禁じられたこと、行こうとした地域に入るのを許されなかったこと、様々な出来事を一つ一つ心に留め、神のみ心を問いながら歩む中で、とうとう、それらのすべての歩みが神の導きの中にあったということが分かった、神が自分たちをどのように用いようとされているかを確信したのです。一見、神が自分たちの歩みを妨げ、計画が挫折したように思ったことも、実は、パウロが自分たちでは計画することも出来なかった、もっと大きな神のご計画、神の思いがあり、そこへパウロたちを召し出すためであったのだと知ることが出来たのです。
ですから、これは偶然が重なった末にそうなった、という結果論ではありません。この確信は、挫折のように感じた時も、苦しんだ時も、迷った時も、それらの自分たちの一つ一つの歩みのすべてに、聖霊なる神のお働きがあり、神がいつも自分たちと共に歩んで下さっていた、行くべきところへ導いて下さっていた、ということを確信することでもあったのです。

そうしてパウロたちはトロアスから船出して、マケドニア州の都市、フィリピへ行きました。この小さな一行が海を渡ったことは、キリストの救いの恵みが、はじめてヨーロッパへと伝えられた、キリスト教会の歩みにおいて、大変歴史的な、大きな前進だったのです。
すべては神のご意志、ご計画でした。パウロたちが歩みを妨げられ、次々と失敗を重ねたように感じた歩みは、パウロが思いつきもしなかった、海を越えて、ヨーロッパ大陸へ福音をもたらすという、さらに大きな神のご計画へと導かれて行ったのです。パウロたちにははっきりとその神の召しが示されました。人間の思いを遥かに高く超えた、人間の思いを大きく超えた、新しい神の道が、そこに備えられていたのです。

<神の思い、神の道>
本日お読みした旧約聖書のイザヤ書55:8-9には
「わたしの思いは、あなたたちと異なり/わたしの道はあなたたちの道と異なると/主は言われる。天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。」
と書かれています。神の思い、神の道は、わたしたちの思いや道を遥かに超えるものです。神は、わたしたちが想像もできないような、大きな恵みのみ心、憐れみの思いを持っておられます。神はそのようなご自分のご計画に、神の道に、わたしたちを召し出して下さるのです。

それなら、わたしたちは、何かを妨げられたり、止められたりする仕方ではなくて、最初から分かりやすくご計画を示して下さったら良いのに、と思うことがあるかも知れません。でも、もし神がすべてを明らかにしておられて、これからすべきこと、起きることが全て決まっていて、わたしたちが全部その通りにしていかなければならないなら、わたしたちはまるで神さまの操り人形かロボットのようです。

しかし、そうではありません。神は、わたしたちが、自分の思いを、心を神に向けて、自由に決断し、喜んで神に従っていくこと、天におられる復活の主イエスとの交わりの中で、聖霊の導きによって、神と共に歩んでいくことを望んでおられます。
神は、わたしたちをご自分の意志に従わせる人形やロボットのように作られたのではありません。神と共に生き、神に自由に応答し、神との交わりに生きる者として、喜びに生きる者として、創造して下さったのです。

神の思い、神の道は、わたしたちには遥か高く、思いもよらない、想像も及ばないようなものです。しかし、神は交わりの中で、神とわたしとの関係の中で、わたしたちが神のみ心を知ることが出来るように、御言葉によって、また祈りの中で、一つ一つ丁寧に導いて下さいます。
それは、神に仕えようとする教会の歩みにおいてもそうですし、それぞれに与えられた人生の歩みの中でもそうです。その時々で、わたしたちは神の思い、み心を中々知ることが出来ず、自分の思いや、自分の計画に捕らわれたり、挫折や失敗に心が向いて、思い悩み、苦しむことがあります。神よ、どうしてですかと、嘆き、訴えることがあります。
しかし、わたしたちは、自分の思いや、失敗や、困難ばかりを見つめるのではなくて、神を見上げ、神に心を向けなければなりません。神に祈り続け、聖霊の導きを信じつつ、神のみ心を問うていくなら、神はわたしたちにとって最も良い時に、最も良い仕方で、歩むべき道を示して下さるでしょう。神はいつも共に歩んで下さっており、神のご計画にわたしを召しておられる、ということを、確信させて下さるでしょう。

<神との交わりの中で歩む>
しかし、わたしたちは、そのように神のみ心を求めていくことさえ、自分の力では中々できないことがあります。目の前の出来事に戸惑い、うろたえ、立ち止まってしまったり、引き返そうとしたり、その場で倒れてしまうこともあるでしょう。神を見失いそうになり、神から離れ、祈ることをやめてしまいそうになることもあるかも知れません。

しかし、そのような弱く罪深いわたしたちに、神が教えて下さろうとしている神の思いとは、わたしたちの思いを超えるような深い愛と、憐れみのみ心です。神が共に歩もう、と招いて下さる神の道は、御子が十字架に架かられることによって、わたしたちに拓いて下さった、主イエスによる救いの道、神の国へと向かう道です。主イエスの救いの御業こそ、私たちの思いをはるかに超えた出来事なのです。
罪の中で、行き先を失い、滅びにしか向かうことの出来なかったわたしたちに、永遠の命に至る道、神の国へ至る道を、主イエスがわたしたちのところまで下って来られて、用意して下さいました。主イエスは、わたしたちが人生の歩みにおいて経験する、試練や悩み苦しみ、そして死の苦難をも知っておられます。そして主イエスは、わたしたちの罪と死を、すべてご自身の身に負い、贖って下さいました。神の御子がへり下られて人となり、罪の中にあるわたしたちの元まで来られ、救いの御業を成し遂げ、わたしたちと共にいて下さるからこそ、わたしたちはどのような時にも、まことの平安と慰めを与えられます。
そして、復活の主が、わたしたちが倒れて祈れないような時にも、父なる神に執り成し、祈って下さるので、わたしたちはまた立ち上がらせていただき、神の許へと立ち帰ることができ、神の道を歩んでいくことができるのです。
そして、天におられる主イエスが再び来て下さると約束して下さったので、わたしたちは死んでも主イエスの復活にあずかり、神の国を受け継ぐ者とされる、その確かな唯一の希望に向かって、歩んでいくことができるのです。

たった今も、主イエスが遣わして下さった聖霊が、わたしたちと共にいて下さり、働いて下さっています。この力強い、父、子、聖霊なる神との交わりに生かされて、御手に支えられ、導かれて、わたしたちは、人の思いを遥かに高く超えた、神の恵みにあずかり、神のご計画に召され、救いの完成へと向かう神の道を歩んでいくことがゆるされているのです。

<主が心を開かれたので>
さて、神の召しによって、聖霊の導きによって、海を渡ってマケドニア州へ到着したパウロたちは、フィリピというところに行きました。そして安息日に町の門の外にある、祈りの場所があると思われる川岸に行き、集まっていた婦人たちに主イエス・キリストの福音を語りました。14節には、「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けた」とあります。

主が、彼女の心を開かれました。福音が語られる時、福音が一人の人間に伝えられ、注意深く聞かれるとき、そこには主ご自身のお働きがあります。福音が受け入れられるためには、主イエスの救いのみ業が自分の救いのためであったと信じるためには、主が心を開いて下さらなければならないのです。
トロアスから海を渡り、このフィリピの地で福音を宣べ伝えたのは確かにパウロですが、パウロをこのリディアという婦人に遣わしたのも、リディアが信仰を得て、家族と共に洗礼を受けることが出来たのも、すべては神ご自身のみ業なのです。
リディアはこの後パウロたちを無理に自分の家に泊めさせます。そして、パウロたちが旅立って行った後には、リディアの家は、フィリピでキリストを信じた人々が集まる場所として用いられていったようです。そして後に、「フィリピの信徒への手紙」の宛先であるフィリピ教会として、パウロの伝道を助けていくような教会へと成長していくのです。

神が、リディアの心を開いて下さったように、神はわたしたちの心をも開いて下さり、み言葉を聞かせ、受け入れさせ、救いに与らせて下さり、神のご計画を知らせて下さいます。神が、「地の果てにまでも救いをもたらす」とお決めになり、進めて下さるその恵みのご計画に、救いの道に、ここに集められた一人一人が招かれているのです。

そして、神と共に歩み出した者は、今度はその神の救いのみ業に、ご計画に、心を開かれ、目を開かれて、福音を宣べ伝えるために召し出されていくのです。
いま、マケドニア人の幻は、わたしたちにも与えられているのではないでしょうか。「助けてください」。それは親しい友人から、働いている職場から、学んでいる学校から、ご近所の人から、そして家族からの声ではないでしょうか。神が主イエス・キリストの福音を届けようとしておられる者のところへ、わたしたちも今、遣わされようとしているのではないでしょうか。

<神の道を歩む>
わたしたちの計画や、歩みには、失敗や挫折や苦難が多くあります。しかし、わたしたちは、人の思いを高く超える神の思いによって、神と共に生きる者とされ、神の道を歩んでいくことが許されています。どのような時も、いつも主イエスが共に歩んで下さっています。わたしたちの目には道がないように見えるときも、神は目を開いて下さり、聖霊の導きによって、救いへ、神の国へ、希望へと向かう神の道を指し示して下さいます。
わたしたちは、聖霊に導かれて、御言葉を聞き、祈り、神との交わりに生きながら、神の呼びかけにお応えする者となりたいのです。
人の思いをはるかに高く超える、神の愛と恵みを知らされつつ、神と共にある喜びの中で、神に従い、神の道を歩んでいきたいのです。

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