主日礼拝

美しい歩み

「美しい歩み」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第52章7-10節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第10章14-21節
・ 讃美歌:323、237、401

信仰は聞くことによる
 先週の礼拝と同じく、ローマの信徒への手紙第10章14節以下からみ言葉に聞きたいと思います。先週の説教題は「信仰は聞くことによる」でした。それは17節の「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」に基づく題でした。パウロはここで、信仰において「聞く」こと、しかも「キリストの言葉を聞く」ことが決定的に大事だと言っているのです。ここの少し前の10節でパウロは、「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と言いました。私たちの救いは、心で信じ、その信仰を口で言い表すことによって与えられるのです。何を信じ、言い表すのか。その前の9節には「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」とありました。十字架につけられて死んだ主イエスを父なる神が死者の中から復活させて下さったことを信じて、「イエスは主である」という信仰を言い表すところに、救いが与えられるのです。この救いは、私たちが努力して良い人間になることによって獲得するものではないし、厳しい修行を積んで悟りを開くことによって得られるものでもありません。父なる神が独り子イエス・キリストの十字架と復活において実現し、恵みによって与えて下さる救いであり、私たちはそれを聞いて、信じることによってその救いにあずかるのです。それゆえに、信仰において「聞く」ことが決定的に重要なのです。
 「聞く」というのは、自分が何かをする、語る、考える、という能動的なこととは対照的な、受動的なこと、受け身のことです。聞くためには自分は黙らなければなりません。自分の考えや主張を語ることで頭が一杯になっていると、聞くことはできません。また何か自分の業、働きを忙しくしていると人の話を本当に聞くことはできません。聞くためには、自分の活動をやめて、自分の言葉を語ることを差し控えて、じっと沈黙して相手に耳を傾けることが必要なのです。そういうことが、信仰において、つまり神の前で、神の救いにあずかることにおいて、決定的に大事なのです。

遣わされ、語る者によって
 さてパウロはここで、この決定的に大事な「聞く」ことが起るためには、「語る」者がいなければならないと言っています。「聞く」ことは今申しましたように受動的なことですが、それが起るためには、語る者が必要なのです。そのことが14節の後半でこのように語られています。「また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」。「聞く」ことが起るためには「宣べ伝える」人が必要です。その人が語ってくれることによって「聞く」ことが起るのです。しかしそのことにはさらに先があります。「宣べ伝える人」は、自分の勝手な思いや考えを語ればよいのではありません。人間の思いから生じる人間の言葉がいくら語られ、聞かれても信仰は起りません。「宣べ伝える人」は、自分の言葉ではなくて、キリストの言葉を語るのです。それによってこそ、キリストの言葉を「聞く」ことが起り、そして信じて呼び求めることが起るのです。それでは「宣べ伝える人」はどのようにしてキリストの言葉を語ることができるのでしょうか。15節の前半には「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」とあります。彼がキリストの言葉を語ることができるのは、彼が神について、キリストについての知識を豊かに持ち、また語る力を持っているからではなくて、神が彼を立て、遣わして下さることによってなのです。神に遣わされているからこそ、彼の言葉は人間の勝手な言葉ではなくて、キリストの言葉、神の言葉となるのです。教会に、み言葉を語る者として牧師、伝道師が立てられているのは、この神の派遣によってです。神が遣わして下さっているという信仰のゆえにこそ、私はここで説教を語ることができるのだし、その信仰のゆえにこそ皆さんはここで神を礼拝することができるのです。

キリストの言葉を聞く
 この関連で一つ注目しておきたいことがあります。それは14節の「聞いたことのない方を、どうして信じられよう」ということについてです。この文章を普通私たちは、「その方について聞いたことがなければ、どうしてその方を信じられよう」という意味に理解していると思います。イエス・キリストについて全く聞いたことがなければ、信じることなどできるはずはない、それは当り前だ、と思っているのです。しかしある注解者は、ここは「その方について」ではなくて、「その方が語るのを」聞いたことがなければどうして信じられよう、という意味だと言っています。「その方の言葉を聞いたことがなければ、どうしてその方を信じることができよう」とパウロは言っているのだというのです。そのように取るならば、次の「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」も、「宣べ伝える人がなければ、どうしてその方が語るのを聞くことができよう」という意味になります。つまり「宣べ伝える人」が語るのは、イエス・キリストについての言葉ではなくて、イエス・キリストの言葉、イエス・キリストからの語りかけだ、ということになるのです。つまりパウロがここで見つめているのは、イエス・キリストについての知識や情報がどのように得られるかということではなくて、主イエス・キリストご自身との出会いと交わりがどのようにして起るかということです。イエス・キリストが「宣べ伝える者」を遣わして下さり、その人を通してご自分の言葉を語りかけて下さり、それによってキリストご自身の言葉を聞くことが起り、それによってキリストを信じる信仰が与えられ、そしてキリストのみ名を呼び求めること、つまりキリストと共に生きることが起っていくのです。礼拝において起っているのはそういうことです。私がここで語っているのは、イエス・キリストについての講演ではありません。勿論聖書の言葉を正しく受け止め、理解するために必要な説明もしていますが、しかし説教は根本的には、神ご自身の、主イエス・キリストご自身のみ言葉なのであって、語っている私も、聞いている皆さんも、共に神からの語りかけを聞いており、神のみ前に立って礼拝をしているのです。ですから礼拝と講演会は違います。講演を聞いてイエス・キリストについての知識をいくら学んでも、それで主イエスの名を呼び求める信仰が生まれるわけではありません。礼拝において、主イエス・キリストご自身からの語りかけを受け、主イエスとの出会いと交わりを与えられることによって、私たちは主イエスを信じ、その救いにあずかる者となるのです。

美しい足
 さてパウロは15節で、私たちが主イエス・キリストご自身と出会い、主の名を呼び求める者となり、救いにあずかる、そのことの始まりに、神が主イエスによる救いの知らせを「宣べ伝える人」を遣わして下さるという神のみ業があることを語っていますが、そこで旧約聖書の言葉を引用しています。15節後半です。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」。本日の説教題「美しい歩み」はここから取りました。本日はこのみ言葉を中心に据えて、この箇所を改めて読んでいきたいと思います。
 「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」。この足は、ある知らせを伝える伝令の足です。昔は今のように電話も無線も、まして携帯などありませんから、何かの知らせ、出来事を伝えるためには、人間がその知らせを携えて走るしかありませんでした。そこですぐに思い出すのは、マラソンの語源となった、紀元前490年のペルシャ戦争における「マラトンの戦い」の話です。ペルシャの大軍が攻めて来ており、この戦いに負けたらアテネの市民たちは皆殺しにされるか奴隷に売られてしまう、という状況の中で、ある兵士が完全武装のままマラトンからアテネまでの42.195キロを走り、「我ら勝てり」と告げて絶命したという話がプルタルコスの「英雄伝」にあります。「我ら勝てり」という知らせはアテネの人々にとってまさに救いの知らせ、良い知らせ、つまり福音でした。福音を告げたこの兵士の足は、泥まみれ、ほこりまみれで、またまさに息も絶え絶えの疲れ切った足だったでしょう。しかし彼のもたらした知らせのゆえにその足はアテネの人々にとってこの上なく美しいものとなったのです。つまりこの足の美しさは、その人が携え、伝える知らせによることです。「良い知らせ」を伝える者の足は、泥まみれであっても美しいのです。

良い知らせ
 この引用は本日共に読まれたイザヤ書52章7節の言葉です。その7節をもう一度読んでみます。「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる」。この「良い知らせ」は「あなたの神は王となられた」ということです。この預言が語られた時、イスラエルの人々はバビロニアによって国を滅ぼされ、バビロンに捕え移されていました。そのイスラエル人にとって、主なる神がシオンで、つまりエルサレムで王となられた、神の王国が再建される、そして神が、捕え移されている民を故郷に連れ帰って下さる、という救いの知らせを伝える者の足はなんと美しいことか、と歌っているのです。パウロはこの言葉を、神によって遣わされた人がキリストの言葉を宣べ伝えることを語った後に引用しています。それは即ち、その人が宣べ伝えるキリストの言葉は、捕囚の民に与えられたあの解放の宣言のような、喜ばしい救いの知らせなのだ、ということです。神が遣わして下さった「宣べ伝える人」を通して私たちは、「良い知らせ」を、喜ばしい救いの宣言を、つまり福音を聞いているのです。「我ら勝てり」という知らせを受けたアテネの人々が躍り上がって喜んだ、それと同じ喜びを私たちは礼拝において与えられているのです。

全ての人が福音に従ったのではない
 「しかし」と16節が続いています。「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません」。「福音」つまり「良い知らせ、救いの知らせ」が告げられても、全ての人がそれを信じて受け入れたのではないのです。つまり良い知らせを良い知らせとして喜んで聞くことが出来ない人が多いのです。なぜでしょうか。パウロはすぐに続けて「イザヤは、『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っています」と語っています。それは、今7節を読んだイザヤ書52章の次の53章の冒頭の言葉です。53章の1節に「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか」とあります。これが16節に引用されているのです。パウロは、自分が神によって遣わされてイエス・キリストによる福音を宣べ伝えているが、多くのユダヤ人たちがそれを受け入れようとしないという事実と、このイザヤ書の記述を重ね合わせています。「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」というイザヤの嘆きはパウロ自身の嘆きと重なり、その「わたしたちから聞いたこと」の内容を語っているイザヤ書53章は、パウロが宣べ伝えているキリストの福音と重なるのです。

主の僕
 ですからここでイザヤ書53章をも見ていきたいのですが、52章13節から53章にかけては「主の僕の歌」と呼ばれています。52章13節に「わたしの僕」とあります。主なる神に命じられたことを行う僕の姿が歌われているのです。主はこの僕に何をお命じになったのでしょうか。53章11節の後半に「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」とあります。これが、主がお命じなったことです。この僕は、神に背いている人間の罪を自分の身に背負って苦しみを受けたのです。12節の最後には「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」とあります。この僕は人々の罪を担って苦しみを受け、罪人のための執り成しをしたのです。5節には「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とあります。このように、自らが刺し貫かれ、打ち砕かれ、懲らしめを受けることによって、罪ある人間に救いをもたらす僕、それは主イエス・キリストの十字架の死のお姿そのままです。主イエスは、私たちの罪を全て背負い、担って、十字架の苦しみと死を引き受けることによって、私たちのための執り成し、贖いの業を行い、私たちに救いを与えて下さったのです。パウロが語っている福音とはまさにこの主の僕である主イエスによる救いの知らせなのです。

信じられないような、驚くべき救い
 この福音、良い知らせが、良い知らせとして聞かれず、受け入れられない、それはイザヤが「だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っているのと同じです。主の僕による神の救いのみ業は、人々に理解されず、受け入れられないのです。それは、この僕の姿が決して見た目に美しい、立派な、風格のある姿ではないからです。53章の2、3節にあるように、この僕には見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない、むしろ軽蔑され、人々に見捨てられるような姿なのです。だから3、4節にあるように、私たちは彼を軽蔑し、無視し、彼の苦しみは自業自得だと思っていたのです。けれどもそのみすぼらしい、風采の上がらない僕が、実は私たちの病を担い、痛みを負い、私たちの罪のために代って懲らしめを受け、罪の赦しのために自らを償いの献げ物として下さった救い主だったのです。それは驚くべきことであり、誰がそんなことを信じるだろうか、と言わざるを得ないようなことです。
 パウロは、自分が神に遣わされて語っている福音は、この主の僕の歌がイエス・キリストにおいて現実となったものであることを意識しています。だから、この福音がなかなか福音として受け入れられないのは当然なのです。キリストの福音は、「主の僕の歌」と同じように、「誰が信じえようか」と言わざるを得ないような教えなのです。いやキリストの福音は主の僕の歌よりももっと信じ難い、もっと驚くべきものだと言えます。主の僕の歌では、罪人のために苦しみを受けることによって執り成しをするのは主の「僕」であったのに対して、キリストの福音においては、私たちのために十字架にかかって死んで下さったのは、神の独り子、まことの神であられる主イエス・キリストご自身なのです。神であられる主イエスが、見るべき面影も、輝かしい風格も、好ましい容姿もない一人の人間となり、軽蔑され、人々に見捨てられ、無視され、罪人の一人として十字架につけられて殺されることによって、私たちの罪を背負って下さったのです。まことの神である主イエスのこの十字架の苦しみと死とによって私たちの罪は赦され、神による救いが与えられた、それがパウロの宣べ伝えている福音です。それは、人間の思いや常識をはるかに越えた、まさに信じられないような、驚くべき恵みを告げる言葉なのです。

神の救いのみ業の美しさ
 この驚くべき良い知らせ、福音を伝える者の足はなんと美しいことか。その美しさに目覚め、それに感動し、この喜ばしくも美しい知らせを信じて生きることが、イエス・キリストを信じる信仰です。その信仰においては、聞くことが根本的に大事です。しかしそれは、聞くことによって神の言葉を理解し、神についての、キリストによる救いについての知識を得るためではありません。私たちは、神の言葉を聞き、神からの、主イエス・キリストからの語り掛けを受けることによって、神が独り子イエス・キリストにおいて実現して下さった救いのみ業の美しさに打たれ、感動するのです。神の救いのみ業はなんと美しく素晴しいものだろうか、と感嘆するのです。神の救いのみ業の美しさは、ただ眺めて楽しむような美しさではありません。私たちを新しく生かす美しさです。イザヤ書53章5節には「彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とあります。このように、神の救いのみ業の美しさは、私たちに平和を与え、私たちを癒す美しさです。あるいはそれは、道を誤り、それぞれの勝手な方角に進んでいってしまって、迷子になってしまっている羊である私たちを、見つけ出して肩に背負い、群れに連れ帰ってくれる羊飼いの美しさです。要するに、神に背き逆らい、自分が主人になって生きようとしている罪人である私たちを、神がなお愛して下さり、独り子イエス・キリストの十字架の苦しみと死とによって罪の赦しを与え、復活によって永遠の命の約束を与えて下さっている、その神の愛、慈しみ、恵みの美しさに私たちは感動するのです。神によって遣わされた人を通してキリストからの、そして父なる神からの語りかけを受けることによって私たちの心は、「神による救いのみ業はなんと美しいことか」という感動に満たされるのです。

美しい歩みが私たちにも
 そしてその時、私たちにも美しい歩みが与えられていきます。キリストの福音の美しさによって生かされる時、私たちの歩みも美しいものとなっていくのです。福音の美しさによって生かされるとは、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みの中で生かされることです。それによって私たちは、人を分け隔てする思いから解放されていくのです。パウロは18節以下でいくつかの旧約聖書の言葉を引用していますが、ここに引用されている言葉が共通して語っているのは、神の恵み、語りかけ、救いのみ手が、イスラエルの民にだけでなく全世界の人々に、「わたしの民でない者」とか「わたしを探さなかった者たち」と呼ばれている、いわゆる異邦人たちにも与えられている、ということです。イスラエルの人々つまりユダヤ人たちは、神の救いの恵みは、律法を与えられ、それを守っている自分たちにだけ与えられると思っていました。自分たちは異邦人とは違う、という誇りに生きていたのです。それゆえに彼らは、律法を行うことによってではなく、救い主イエス・キリストを信じることによって救われるという福音を福音として聞くことができず、受け入れようとしないのです。つまり私たちが自分の正しさによる救いを求め、自分の義を立てようとしているなら、キリストにおける神の救いのみ業の美しさに心打たれることは起らず、そこには、自分を誇り、人を分け隔てすることが起っていくのです。それに対して、キリストによる救いの恵みの美しさに感動し、罪の赦しの恵みによって生かされていくところには、その罪の赦しの恵みが自分だけでなく他の人々にも与えられていること、神に背く罪の中にいた自分に神が語りかけ、救いのみ手を差し伸べ、キリストの十字架による赦しを与えて下さったように、神は今も、罪ある人々、神を求めようとしていない人々にも、語りかけ、み手を差し伸べて下さっていることに目が開かれていくのです。この福音によって生かされる私たちの歩みも、この福音の美しさを映し出す美しい歩みとなっていくのです。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」という言葉が私たちのことになっていくのです。この足の美しさは、私たちが持って生まれた美しさではないし、努力して獲得する美しさでもありません。私たちの足は、罪の汚れに満ちており、泥まみれです。しかし私たちが、主イエス・キリストの十字架の死と復活による神の救いの福音の驚くべき美しさに打たれて、感動して、その喜ばしい知らせによって生かされ、癒され、平和を与えられ、道を正されつつ歩むなら、その私たちの歩みには、主イエス・キリストの福音の美しさ、喜ばしさが備わっていくのです。

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