夕礼拝

励ましの言葉

「励ましの言葉」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第16編1-11節
・ 新約聖書:使徒言行録 第13章13-42節
・ 讃美歌:218、451、72

励ましの言葉  
 「何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください。」  
そう言われて語られたのが、本日共にお聞きした、パウロの説教です。   

 パウロはバルナバと共に聖霊によって選ばれ、教会の祈りの中で伝道の旅へと送り出されました。はじめにバルナバの出身地であるキプロス島にいき、その後、パウロとその一行はパフォスから船出してパンフィリア州のペルゲというところに来ました。ここで、助手として一緒に来ていたヨハネがエルサレムへ帰ってしまいました。   
 そこから更に二人は旅を続け、ピシディア州のアンティオキアに到着した、とあります。パウロとバルナバを出発させたのもアンティオキアという地にある教会でしたが、これはシリアの地方であり、同じ地名でも違う場所ですので、注意しなくてはなりません。      

 ここで、安息日になり、パウロとバルナバはユダヤ人や、神を畏れる者たちが集まっている会堂に入り、席に着きました。礼拝が行われていたのです。そこで、律法と預言の書、つまり私たちで言えば旧約聖書が朗読され、会堂長たちが、パウロとバルナバに「励ましのお言葉があれば、話してください」と頼みました。   
 会堂に居合わせたラビや適当な人物に説教を依頼するのはよくあることでした。ユダヤ人であるパウロは、キリストを信じるまでは、ファリサイ派という律法を厳密に守る律法学者のグループの一員でしたから、これまでも会堂で話をすることはよくあったと思います。旧約聖書の律法と預言の書についても詳しく学んでいます。   
 そのパウロが、旧約聖書に記された、イスラエルの民の歴史を辿りながら、イエス・キリストこそ、そのイスラエルの歴史を導いてきた神が送って下さった救い主である、ということを語っていくのです。      

 使徒言行録のこれまでの所でも、パウロが宣教した、ということは書かれていましたが、その説教の内容が語られているのは、13章が初めてです。   
 この説教の、イスラエルの歴史を辿っていく部分は、7章でステファノが最高法院に引き立てられ、その裁判の席で語った説教と似ています。その時、この説教を聞いていたユダヤ人たちは激しく怒り、ステファノに襲いかかって外に引きずり出し、石で打ち殺したのですが、この時、パウロはここにいて、その石を投げている人たちの上着の番をしていたことが記されていました。パウロはこの時、キリストを信じる者に敵対心を覚えながら、ステファノの説教を聞き、そしてキリスト者の迫害に賛成していたのです。   
 そのパウロが、今はキリストを信じる者となり、自らが人々にキリストを信じるように、と励ましの言葉を語る者とされています。キリストとの出会いは、パウロをまったく新しく変えました。パウロに罪の赦しと、新しい命を与えた、その「励ましの言葉」を、パウロはここで語ろうとしているのです。      

 「励まし」という言葉は、他に「慰め」とか「勧め」という意味も持つ言葉です。励まし、というと、応援するとか、元気づけるとか、そのような意味ですが、ここでパウロが語ろうとしている「励ましの言葉」は、死んでいる人を生かし、絶望から希望を与え、決して癒えることのない傷を癒し、決して赦されることのない罪を赦す、人の存在そのものを励まし、慰め、生かしていく、そのような神の言葉であり、またその恵みを受けるようにとの勧めの言葉なのです。  
 そして、ここで語られていくイスラエルの民の歴史、そしてイエス・キリストの出来事は、まさに今ここにいるわたしたちのためにも、神がご計画し、導き、成し遂げて下さったことであり、わたしたちにも向けられた「励ましの言葉」なのです。

イスラエルの民の歴史  
 さて、パウロは16節から「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々」と語り始めます。  
 まず語るのは、神が選び出し、導き出してくださった、神の民イスラエルの歴史です。ここでは「神は~をし、神は~をしてくださり、神は~なさった」と、すべて主語が神になっています。神が主導権をもち、導いておられる歴史であるということです。  

 まず、神は、イスラエルの先祖を選び出して下さいました。それから、エジプトの地に住んでいる間に、この民を強大なものとし、そこから導き出して下さいました。また、荒れ野でイスラエルの民が神に逆らい、罪を犯したことを耐え忍ばれました。17~18節の部分は出エジプトのことです。そして、19節ではカナンの地を相続させて下さったこと。その後、士師の時代が続き、そして人々が王を求めたので、神がサウルを王として与えたこと。それからダビデ王を立てられたことが語られています。  
 神は、「わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う」と宣言されました。これは、ダビデ王個人に対する宣言ではなくて、ダビデの子孫に与えられた宣言、約束です。神はその約束に従って、「救い主イエスを送ってくださった」のです。  

 先ほど、歴史を述べていく仕方がステファノの説教と似ている、と申しましたが、パウロは語る視線がステファノとは少し違います。ステファノは、イスラエルの民が、神に逆らい続けた罪を語り、キリストを受け入れない人々も同じように神に逆らう罪を犯しているのだということを指摘しました。   

 一方でパウロは、イスラエルの民を導き続けて下さった神の恵みを、一つ一つ数え上げる仕方で、その歴史を語りました。   
 そのことでパウロが語ろうとしているのは、イスラエルの民の歴史は、民の反逆や罪にも関わらず、神が憐れみと恵みによって導いて下さった歴史であり、その神が与えて下さった最大の恵みが、「救い主イエスを送ってくださった」ことであるということです。   
 またここから示されるのは、イスラエルの民の歴史は、すべての人のために救い主を与え、信じるすべての人の罪を赦して下さるために、神が目的をもってイスラエルを選び、神のご計画に従って導かれて来た歴史だということです。

 イエスという救い主は、何の予告もなく突然ユダヤ人の中に現れ、救い主だと名乗ったのではありません。神はイスラエルの民を選び、預言を与え、救いのご計画を示されて、その約束を実現するという仕方でイエス・キリストを与えて下さいました。その歴史が、神のご計画の中に確かにあり、神ご自身がそれを成し遂げて下さるということが示されたのです。

主イエスの十字架と復活  
 そして、24節で、救い主イエスの到来を、洗礼者ヨハネが指し示したことが述べられます。パウロは言います。   
 26節「兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました」。   
 主イエスは、まことの人となり、この世に来られたのです。      

 しかし、主イエスが救い主として来られるために選ばれたイスラエルの民は、この方が救い主であることを認めませんでした。預言者の言葉を理解せず、つまり、イエスこそ、旧約聖書で預言されていた救い主であることを理解せずに、罪のない方を罪に定めて十字架に付けました。そして、そのことによって、神の救いの約束を実現させることになったのです。   
 この民の反逆は、神の予想外の出来事だったのではなく、また、民がこのように反逆しなければ、神の約束が実現できなかった、ということでもありません。   
 このような、民の無理解、そして神が送って下さった救い主を罪に定めて十字架につける、という恐ろしい罪でさえ、神のご計画の御手の中で導いて下さり、神は成し遂げようとしておられる救いの御業を実現してくださったということなのです。      

 29節には「こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後(のち)、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました」とあります。聖書に書かれていた、主イエスについての預言は、すべて実現したのです。   
 そして、主イエスを木から降ろし、墓に葬りました。木から降ろす、というのは、申命記21:22-23で「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである」と書かれていることが意識されています。主イエスは、罪のない方であったにも関わらず、神に呪われた者として処刑されたのです。これは、わたしたちの悲惨な罪を、つまり神から見放され、滅びるしかない、そのような罪を、主イエスがその身に負って下さった、ということです。      

 しかし、30節にあるように、神はイエスを死者の中から復活させてくださいました。救いの出来事は、この復活によって、確かなものであると保証されているのです。ですから、パウロはここで復活のことを何度も強調します。   
 この復活の証人が使徒たちです。彼らは主イエスの十字架の前から行動を共にし、十字架の死を見届け、そして復活の主イエスと出会い、幾日にもわたって共に過ごしたのです。このことは、使徒言行録の1章に記されています。このようにして、33節にあるように、「神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです」。   
 ここで聖書が三か所引用されています。三つ目の35節の「あなたは、あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしてはおかれない」というのは、本日共にお読みした旧約聖書の詩編16:10の引用です。これらの言葉が、主イエスにおいて成就したのです。こうして、イスラエルの先祖たちに与えられた神の約束が、確かにパウロたち、ここで説教を聞いているイスラエルの子孫たちに対して果たされたということが、証明されているのです。      

 そして、36節以降で、ダビデは、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てたとあります。しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかった、のです。   
 それはつまり、主イエスは今も生きておられる、ということです。歴史の中で起こった救いの出来事は、過去の出来事になったのではありません。救いは神が導いておられる歴史の中で確かに実現し、そして今も神が導き続けておられ、生きておられる主イエス・キリストが、そのご自分の罪の赦しと、復活の命へと、今も人々を招き続けて下さっている、ということなのです。      

 このパウロの説教を聞いている人々は、神の言葉によって、聖霊のお働きによって、この時、生きておられるキリストに出会い、救いに招かれているのです。また、2000年後の今、ここで、このパウロの説教の内容を聞いているわたしたちも、この壮大な神の救いのご計画に入れられており、その恵みの歴史の中を生きているのです。そして、そのすべてを導いておられる神が、遣わして下さったキリストを信じるように、復活して、今も生きておられ、わたしたちに罪の赦しと永遠の命を与えて下さる方を信じるようにと、招いて下さっているのです。   
 わたしたちも、神の歴史の中にいます。自分も神の救いのご計画の中に在るのだと知った時、自分のちっぽけな、歴史の中のほんの一瞬の自分の人生が、孤独で儚い、空しいものではなくて、大きな神の愛に包まれており、大きな救いの御手の中にあるのだと信じることが出来るのです。   

信じる者は義とされる   
 そしてパウロは、最後にこのようにキリストの福音を告げます。   
 38節「だから兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」。      

 わたしたちは、イエス・キリストによって、罪が赦されたことを告げられます。神に逆らい、神に呪われる死を負うべきであったわたしたちの罪を、キリストが引き受けて下さり、死んでくださいました。   
 そして、わたしたちは、この十字架と復活によって示された罪の赦しが、救いが、わたしのためであったと信じることによって、「義とされる」のです。「義とされる」とは「正しいとされる」ということです。神の御前で、自分ではどうすることも出来ない罪を、主イエスによって赦していただき、「正しい者である」と見做していただくのです。      

 「正しい」というのはどういうことでしょうか。それは、神との正しい関係にあるということです。神の呼びかけに応える者となり、神との交わりの中に生きる者とされる、ということです。そしてそこにこそ、わたしたちの生きる目的と、喜びがあります。   
 神との正しい関係に生きるところにしか、喜びも希望もありません。神との関係の破れの中では、わたしたちは隣人との関係も破れ、また自分の罪によって絶望し、朽ち果てていくしかないからです。本日お読みした詩編16:2でも、「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません」と言われています。まさに、わたしたちの幸い、生きる喜びは、主のほかにはないのです。   
 「義とされる」ことは、人の努力や、熱心さや、功績によっては手にいれられないものです。それが、「モーセの律法では義とされえなかった」ということの意味です。ただ、神から与えられた救い主イエスを信じることによって、それは与えられるのです。      

 この神の救いについて、福音が告げ知らされた今、聞いたあなたがたは、どのようにこの神が差し出してくださった恵みに応えるのかと、パウロは問うています。キリストの罪の赦しを、わたしのものとして受け取るのか、受け取らないのか、ということです。   
 神がイスラエルの先祖を選び、イスラエルの民を導き、イエス・キリストを与えて下さり、十字架と復活によって子孫のために果たしてくださった救いの約束は、「キリストを信じる者が皆、救われるため」に成し遂げられました。つまり、わたしたちのための約束の実現でもあったのです。その救いの恵みは、ユダヤ人ではない、異邦人にも告げ知らされ、信じる者は、誰でもその救いに与らせて下さると語られています。   
 わたしたちは、遠い国の、よその民族の、自分から遠く離れた部分的な世界史の一部を聞いてきたのではありません。これは、今も続いている、生ける神の救いの歴史であり、わたしたちも、神が救おうとして下さっている者の一人なのです。この壮大な、神の救いの歴史は、ここにいる一人の、わたしのために、与えられた出来事でもあるのです。      

 教会では、教会のことを「新しいイスラエルの民」という言い方をすることがあります。それは、血統や目に見える国によって形成される民ではありません。イスラエルの民を通して与えられたキリストに結ばれた者たちによって、形成され、受け継がれていく、新しい神の民です。一人一人が、神に愛され、キリストを与えられ、罪の赦しと永遠の命に招かれています。そして、このイエス・キリストを信じるならば、わたしたちは神の民に加えられ、神の国を受け継ぎ、神と共に生きる者とされるのです。

わたしたちに与えられた励ましの言葉  
 本日は聖餐に与ります。神の国の食卓です。これは、わたしたちの罪のために十字架で裂かれたキリストの肉、また流された血を覚え、わたしたちが、そのキリストの体と一つにされて生きていること、救いに与っていることを味わい知る時です。わたしたちは、同じ一つのパン、一つの杯を分かちます。共に聖餐に与る者は、洗礼を受け、同じお一人のキリストの体に結ばれた、一つの神の民なのです。      

 説教は聞く神の言葉、聖餐は見える神の言葉、と言います。この神の言葉に、わたしたちはまことに生かされ、養われ、慰められ、励まされるのです。      

 パウロの説教を聞いた人々は、次の安息日にも同じことを話してくれるように、この「励ましの言葉」を、もう一度話して欲しいと頼みました。礼拝の説教では、色々な聖書の箇所が説き明かされますが、それはいつも主イエス・キリストがわたしたちの救い主だということ、神がわたしたちを愛しているのだ、ということが繰り返し語られているのです。そして、その言葉はいつでも、何度でも、わたしたちを励まし、わたしたちを新しくし、生かして下さるのです。      

 わたしたちが誰かに励ましの言葉を語ろうとしても、がんばれ、とか、応援してるよ、というくらいのことなら語ることが出来ますが、本当に絶望の中に沈んでいる人、悲しみ、苦しみのどん底にいて、心が闇に閉ざされている人に対しては、人間の言葉は空しく、何も届かないし、また何を語ったら良いかも分かりません。   
 しかし、神が与えて下さる励ましの言葉は、口先だけの言葉ではありません。イエス・キリストそのものです。わたしたちの最も暗く、苦しい、絶望の果てにまで降ってきて下さり、神に呪われた死をもわたしたちの代わりにその身に引き受け、ご自分の命を与えて下さった、イエス・キリストご自身が、神の言葉なのです。   
 この方が唯一、わたしたちを死から引き上げ、罪を赦し、立ち上がらせて下さる方、新しい命を与えて下さり、神と共に生きる喜びを与えて下さる方なのです。      

 この言葉が、今、わたしたちに与えられています。神に逆らい、罪の中でただ朽ち果てるしかなかったわたしたちに、イスラエルの歴史を導き、主イエス・キリストを与え、その救いの御業を実現して下さった神が、この救いの歴史の中にわたしたちを置いて下さり、神の言葉を語りかけ、わたしたちに励ましを、慰めを、命を、与えて下さるのです。

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