夕礼拝

あだ名はキリスト者

「あだ名はキリスト者」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第43章1-7節
・ 新約聖書:使徒言行録 第11章19-30節
・ 讃美歌:56、507、81

<キリスト者>
 キリスト教の教会に所属している人、イエス・キリストを信じている人のことを、「クリスチャン」と呼んだり、「キリスト者」と言ったりします。「あの人はクリスチャンだよ」という風に、人から言われることもありますし、教会員の方は自分で「わたしはキリスト者なんです」とか、「わたしはクリスチャンなので、日曜日は教会に行ってるんですよ」とか、自分のことをそう言って紹介することがあると思います。
 この、イエス・キリストを信じる人を「キリスト者」「クリスチャン」と呼ぶのは、実は、今日一緒にお読みしたところに出てくる、アンティオキアという場所の教会の人々に対して、世界で初めてこの呼び名がついたのです。
 このアンティオキアの教会、というのは、どういう教会だったのでしょうか。

<アンティオキアの教会>
 使徒言行録を11章から少し遡って、8:1をご一緒に見てみたいと思います(227頁)。「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」。本日バルナバがタルソスで捜し出し、アンティオキアに連れて来たというサウロが、ここで出てきます。この時、エルサレムの教会のメンバーであったステファノが、殺されてしまうという事件が起き、当時サウロはそれに賛成していました。
 そして、エルサレムの教会に対して大迫害が起きました。サウロも回心をする前で、エルサレムでキリストを信じた人々を迫害していました。使徒たちのほかは皆、これは主にギリシャ語を話すユダヤ人たちだったと思われますが、ユダヤとサマリアの地方に散って行ったとあります。しかし、これで人々がバラバラになって雲散霧消してしまったのではありませんでした。8:4を見て下さい。「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」。福音、イエス・キリストが救い主だ、ということを告げ知らせながら、行く先々で伝道したのです。これは名もない、多くの人々です。キリストを信じたことによって迫害され、エルサレムにいられなくなった人々です。でもこの人々は、信じたこと、自分が救われたことを、バラバラにされても、語らずにはいられなかったのです。

 そして、今日の11:19に続きます。「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった」とあります。
 まず、彼らがどこまで行ったかを見てみましょう。今日は聖書のあちこちを開きますけれども、聖書の巻末の地図の8番を見て下さい。「パウロの宣教旅行2、3」とあるところです。パウロとは、さきほど登場したサウロのことです。さて、右下にエルサレムという町が記されています。ここから迫害された人々は、フェニキア、キプロス、そしてアンティオキアまで行った、とあります。フェニキアはエルサレムの少し上に太字で縦書きで書かれています。そして、キプロスはその左側に広がる地中海に浮かんでいる島です。本日登場するバルナバは、このキプロス出身でした。そして、アンティオキア。フェニキアのすぐ上に横書きでシリアと太字であり、そのすぐ上にアンティオキアという地名を見つけることが出来ます。人々はエルサレムから出て、こんなにも広く、遠くまで、福音を告げ知らせながら巡り歩いたのです。
 そして、この地図8のページを見て頂いても、また一つ前のページの地図7を見て頂いても分かるように、アンティオキアは、パウロが宣教旅行をする際の出発点になっています。ここから更に遠くへキリストの救いが宣べ伝えられていくための拠点となったのが、このアンティオキア教会なのです。

 そして、このアンティオキア教会には大きなもう一つの特徴があります。それは、この教会のメンバーは、ユダヤ人ではなく異邦人が中心だった、ということです。エルサレムは、ユダヤ人たちの中心地であり、教会のメンバーはユダヤ人で構成されていました。
 聖書の本文に戻りますと、19節には、エルサレムから迫害のために散らされた人々は「ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった」とあります。彼らは旧約聖書を知っている同胞にしか、キリストが救い主であるということを語りませんでした。
 ところが、彼らの中には勇気を持った積極的な人たちもいたのです。20節には「しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアに行き、ギリシャ語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた」とあります。「ギリシャ語を話す人々」とは、「ギリシャ人」のこと、つまり異邦人のことです。彼らはユダヤ人以外の人々にも、主イエスについて福音をどんどん告げ知らせたのです。イエス・キリストは、わたしの救い主であり、そしてすべての人の救い主だ。目の前にいる人にとっても、ユダヤ人、ギリシャ人は関係なく、キリストは救い主だ。彼らにはその確信と、こんなに良い知らせを語らずにはいられない、誰にだって語りたい、という思いがあったのでしょう。そうした彼らの伝道によって、アンティオキアの地の、異邦人の中で、キリストを信じる者が多く生まれたのです。

 21節には「主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった」とあります。「主がこの人々を助けられたので」というのは意訳で、実際に元の言葉では「主の御手が彼らと共にあって」と書かれています。
 生きておられる主イエスが、共に働き、導いて下さる聖霊が、いつも彼らと共にありました。彼らを救い、生かし、命を与える方の御手が、いつも彼らと共にあり、彼らを支え、また新しい人々を救いへ招くために、彼らを用いられたのです。だから名もない彼ら一人一人が、勇気を与えられて、また確信を持って、福音を語り出しました。
 人々は主イエスの名を伝え、人々は主イエスに立ち帰りました。いつも中心には、主イエス・キリストご自身が、臨んでおられたのです。

<エルサレム教会からの使者バルナバ>
 そうして22節にあるように、アンティオキアの地で、大勢の異邦人がキリストに立ち帰った。このうわさが、エルサレムの教会にも聞こえてきました。そしてエルサレムの教会は、バルナバを選んで、アンティオキアの教会へ派遣しました。このバルナバの派遣は、ユダヤ人中心のエルサレム教会と、異邦人中心のアンティオキア教会が、お一人のイエス・キリストを頭とする、一つの新しい神の民として共に歩んでいくために、とても重要なことでした。

 その使者にバルナバが選ばれたのは、神のみ心に適った素晴らしい人選でした。
 このバルナバは、4:36に「レビ族の人で、使徒たちからバルナバ―「慰めの子」という意味―と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた」と紹介されています。バルナバは、主イエスを信じ、神の恵みに応えて、教会のため、兄弟姉妹のために、自分の持ち物を売り払って献金するような、まことに生きた信仰を持ち、その信仰が生活や態度に現れている人でした。彼は兄弟たちに信頼されている、エルサレム教会の重要な人物であったと思います。
 またバルナバはキプロス島出身のユダヤ人でした。20節にあるように、キプロス島やキレネから来た者がアンティオキアで異邦人に福音を宣べ伝えた、とありますから、同じキプロス島出身のバルナバは、彼らを励まし、協力していくのにうってつけだったのです。

 11:23にバルナバがアンティオキアに到着すると、彼は「神の恵みが与えられた様を喜び、そして、固い決意を持って主から離れることのないようにと、皆に勧めた」とあります。
 バルナバは、アンティオキアでキリストを信じる者が大勢与えられたこと、多くの人が主に立ち帰ったことを、「神の恵み」と受け取って、自分の喜びとすることが出来る人でした。キリストを信じる人の喜びは、神の恵みを見ることです。そして、この異邦人への伝道も、確かに神のみ業であると受け止めました。
 もしここで、異邦人ということに拘ったり、エルサレムから離れて勝手なことをして、と批判するようだったら、アンティオキアの教会とエルサレムの教会は一つになれなかったでしょう。しかし先立って、ペトロとコルネリウスの出来事で、神が異邦人をも救って下さることを、エルサレム教会の人々は知らされて、神を賛美し、受け入れました。
 バルナバも、すべての人がイエス・キリストに立ち帰り、救われる、という神のみ心、神の恵みを、しっかりと受け取り、それを喜び、賛美したのです。

 このようにバルナバは、エルサレム教会とアンティオキア教会の架け橋となるのに、まことに適した人物でした。
 そして、バルナバはアンティオキアの人々に、固い決意を持って主から離れることがないように、と勧めました。主の救いは、一時的なブームや、流行ではありません。生涯、主イエスの救いに与った者として信仰を守ること。主が再び来られる終わりの日に望みを置いて、生涯をキリストと共に歩み通すこと。それが、救われるということです。また救われた群れである教会は、そうして神の国が完成するまで、福音を宣べ伝え続け、さらに新たなる人々を救いへと招き続けていくのです。
 わたしたちも、主イエスに救われて、洗礼を受けて終わりではありません。主イエスと共に生涯を歩み続け、恵みに留まり続け、神の国の完成を待ち望んで生きる、というのが信仰の歩みです。

 ここで、バルナバが「皆に勧めた」と書かれている「勧める」という言葉は、他に、慰め、励まし、という意味もあります。まさに「バルナバ」という言葉をギリシャ語で「慰めの子」という時にはこの単語が使われます。バルナバは、このように人々を慰め、励まし、勧める、そのような賜物を与えられた人だったのです。
 24節に「バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである」とあります。彼の本名はヨセフでしたけれども、人から「慰めの子」と呼ばれるほどに、聖霊の賜物によって、人を慰め、励まし、また勧めをする、そのような力を与えられていました。その賜物は人々の間で、また教会の間で、豊かに用いられました。アンティオキア教会には、エルサレム教会からの使者であるバルナバを通して、神からこのような助けが、慰め、励まし、勧めが与えられたのでした。こうして、多くの人々が主へと導かれました。

<サウロとの再会>
 さて、さらにバルナバは、25節以下にあるように、アンティオキアからサウロを捜しにタルソスへ出かけ、見つけ出してアンティオキアに連れ帰ってきました。
 バルナバは、かつて迫害者であったサウロが回心した後、エルサレムの教会の仲間に加わることが出来るように、仲介を買って出たことがあります。ここでもバルナバの賜物が豊かに用いられました。9:26以下には、そのエピソードが語られています。「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。それで、サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の名によって恐れず教えるようになった」。このように、バルナバはサウロの事情を詳しく聞き取り、使徒たちに執り成したのです。サウロは使徒たちと共に行動するようになりますが、今度はサウロ自身が迫害に遭い、タルソスへと逃れていたのでした。

 バルナバはサウロの回心の状況もきっと詳しく聞いていましたし、その時に主イエスがサウロのことを「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」と言われたという場面もあり、そのことも聞いて、心に留めていたでしょう。異邦人中心のアンティオキアの教会において、これから異邦人に向けて伝道をしていくのに、このサウロがまさに今必要である、神が用いようとされていると、バルナバは確信したのではないでしょうか。
 バルナバがサウロを見つけ出した時、どのような再会を果たしたのかは書かれていません。しかし、これからアンティオキアの教会へ行って、一緒に主イエス・キリストのために働こう、と言って、再会を神に感謝して、共に喜んで歩み出したに違いないのです。
 二人は丸一年の間そこの教会にいて多くの人を教えた、とあります。アンティオキアの教会に属する人々が主から離れることのないように慰め、励まし、勧め、そしてまだキリストを知らない異邦人の人々にも、二人はキリストのこと、福音を語り、教えたのではないかと思います。そうしてアンティオキアの教会は、後に伝道の拠点となる教会へと整えられ、成長していったのです。

<アンティオキア教会の成長>
 さて、少し大事な26節後半を飛ばして、27節を見ます。そのように整えられていったアンティオキア教会の信仰の様子がよく分かる場面です。アンティオキアにエルサレムから預言者たちがやってきて、大飢饉が起こることを預言しました。それが現実になった時、アンティオキア教会の人々は、それぞれの自分の力に応じて、ユダヤに住む兄弟たち、つまりエルサレムの教会に援助の品を送ることに決めました。そして、バルナバとサウロにその援助の品を託し、エルサレム教会の長老たちに届けました。
 異邦人が大半の、出来て間もない教会が、顔も知らない、しかしバルナバを送ってくれた、同じ主イエスを信じるエルサレムの兄弟のために、自分の力に応じて、つまり一人一人が自発的に、献げものをしました。神から受けた恵みを共に分かち合い、また苦しみも共にしようとする、まことの一つの主イエス・キリストを頭とした教会が築かれていることが示されています。
 アンティオキア教会の人々の信仰が、名ばかりや、口先だけにならず、本当に一人一人が恵みに留まり続け、神を愛し、また兄弟を愛し、感謝して自分自身を献げることが出来る、そのような群れへと成長しているのです。

<キリスト者>
 さて、このアンティオキアの教会の人々が、26節の後半に「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」とあるように、世界で初めて「キリスト者」と呼ばれた人々なのです。
 エルサレムの教会では、ユダヤ人の中の一部のユダヤ人たちがキリストを信じるようになったので、ユダヤ教の分派、一派のように呼ばれていました。使徒言行録にも主イエスがナザレ村出身なので、教会が「ナザレ人の分派」と呼ばれるところが出てきます。
 しかし、アンティオキアの教会は異邦人の市民の中にあります。そして、その人々が、このキリストを信じている人たちのことを見て「キリスト者」とあだ名をつけて呼ぶようになりました。ギリシャ語では「クリスティアヌス」と複数形で書かれており、口語訳では「クリスチャン」と訳されていました。

 このようにあだ名を付けられるというのは、どういうことでしょうか。それは彼らが、何かあれば「キリスト」「キリスト」と語り、何をするにつけても「キリスト」「キリスト」と言っていたということです。機会があれば、自分はキリストを信じたんだ、キリストに救われたんだ、そのように人々に語っていたのでしょう。
 それを聞いていた人々は、「はいはい、またこの人たちはキリストのことばっかり喋ってるよ。」「口を開けばキリスト、キリストって言ってるよ。」そんな感じで、「あいつらはキリストばっかり言う、キリスト者だな。」そんな風に言われ始めたのでしょう。ちょっとからかうようなニュアンスがあったかも知れません。

 しかし教会の人々は、そのあだ名を喜んで受け入れました。いつしか自分たちのことも、自分で「キリスト者」だと言うようになったのです。「わたしたちはキリストの者だ」。主イエス・キリストの十字架によって罪が赦され、復活の新しい命を頂き、終わりの日の希望を持って生きている。キリストが人生の中心におられ、キリストによって生かされている。自分たちはそういう者である。そういう意味を込めて、キリストの名前によって、自分の存在を言い表すことが出来るのです。「わたしたちはキリスト者です」。なんと喜びに満ちた自己紹介であり、また信仰の告白でしょうか。

 そしてわたしたちもまた、そのように名乗ることが許されています。キリストの救いに与って、キリストのものとされて、キリストと共に生きている。今、わたしたちはキリストと共に在る「キリスト者です」。そのように、キリストの名をもって自分を言い表すことが出来るのです。
 そしてこれこそ、伝道になります。わたしがキリストのものであるということ。キリストによって罪赦され、キリストの新しい命を生きている者であるということ。キリストによって立つ者であるということ。一人のキリスト者の存在があり、そしてキリスト者の群れがここに在ることが、キリストを指し示し、恵みを証しするのです。

 本日は聖餐に与ります。天におられるキリストの体と血を確かに頂き、キリストの体に結ばれていること、主がいつも共におられる、その恵みを、目に見えるしるしによって確かにされる時です。キリストと一つにされ、生かされている。その恵みを共に味わう時です。
 この恵みは、ユダヤ人も異邦人も、男も女も関係なく、すべての人に差し出されていて、この方を信じて洗礼を受け、恵みを受け入れるのなら、誰でも食卓に共に招かれて、共に「わたしたちはキリスト者」だと言うことが出来るのです。

 「わたしたちはキリスト者です」。そう、喜んで誇らしく名乗り、また「あの人たちはキリスト者だ」とキリストの名であだ名されるような者になりたいと願います。
 そして、キリスト者の群れには、主の御手がいつも共にありますから、わたしたちも福音を告げ知らせる者となり、また信仰が、神のために、兄弟のためにと、行動や生活に活き活きと表れていくような、そんなキリストの教会へと成長することが出来るように、祈り求めたいと思います。

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