「回心」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:詩編 第25編6-11節
・ 新約聖書:使徒言行録 第9章1-19a節
・ 讃美歌:442、512
本日の聖書箇所のところに、副題で「サウロの回心」と書いてあります。
「回心」というのは、心が回ること。心が、その人自身の生き方が180度回って、これまでと全く違う方向を向くこと。全く新しい生き方をすることです。わたしたちが心を向けるべきなのは、わたしたちを造り、愛して下さる神様の方です。
でも現実には、わたしたちは、欲望のままに自分の向きたい方を向き、好き勝手にして、神様から全然違う方向へ行ってしまいます。そんなわたしたちが、神様の方を向いて生きるには、どうすれば良いのでしょうか。
それは、この「回心」という字が「心が回る」と書いているのであって、「心を改める」という字の「改心」ではないことが重要なことです。
心を改める「改心」は、自分の過去の悪い行いや、態度などを反省して、自分で心を改めて、これからは善い行いをするように努めていこう、と決心することです。でも、このような自分の心での反省や決心などというのは、すぐに誘惑にあって、ぐらつきます。何度反省しても、同じことを繰り返してしまうし、自分の努力や意志の力で「心を改め」ても、また自分の弱い方へ、心が動いていってしまいます。
もし自分の力や意志で、神様の方を向かなければならないなら、わたしたちは本当に向かなければならない方向を見出せないまま、生涯を終えてしまうかも知れません。
しかし、心が回る「回心」は、そのように自分の力で行うものではありません。それは全く外から、神様の力によって、神様のご意志によって、わたしたちがぐるりと方向を変えられることなのです。生き方も、思いも、心も、希望も、何もかも神様の方に向けられる。神様がわたしたちの心を捕え、ご自分の方を向かせて下さるのです。
今日の聖書箇所は、そのように神に「回心させられた」人、サウロと言う人のことが書かれています。サウロに起こった出来事を通して、神様がサウロの心、そしてわたしたちの心を、どのように神の方に向けさせて下さったのか、そのことをご一緒に聞いていきたいと思います。
このサウロという人は、実は、使徒言行録で以前、少し登場していました。それは教会で最初の殉教者となったステファノの石打ちの場面です。7:58に人々がステファノに石を投げる時、「自分たちの着ているものをサウロという若者の足もとに置いた」とあります。また8:1には「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」と書かれています。このように彼は、キリストを信じる者たちを迫害する側の人間でした。
詳しくどのような人だったかというと、今日の聖書箇所の9:12に「サウロという名の、タルソス出身の者」と書かれています。タルソスというのは、ローマのキリキア州の首都だった町です。サウロは、ユダヤ国内ではなく、ユダヤの国外の町で生まれたユダヤ人でした。ですから、彼はギリシャ語を話しました。さらに、22章にサウロは「ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、熱心に神に仕えていた」と書かれており、エルサレムで律法の教育を受け、ヘブライ語も当然使いこなす、ファリサイ派と呼ばれる律法学者のグループの、超エリートだったのです。
サウロは、神の律法を忠実に守ることが、神の民であるということであり、神の救いにあずかることだと固く信じていました。そして、救い主を待ち望んでいました。しかし彼らは、十字架に架けられて処刑されたナザレのイエスが救い主だということは、受け入れられませんでした。律法では、「木に架けられた者は神に呪われた者」である、とされています。サウロは、今やエルサレムからユダヤ、サマリアまで、どんどん広まっていく新しい教え、十字架で死んだナザレのイエスは復活し、この方こそ聖書に預言されていた、神が遣わした救い主である、ということ。そして、この方を救い主と信じる信仰によって、新しい神の民とされる、という教えが、神の律法に逆らう教えだと判断しました。そして、神に熱心に仕えるその思いから、キリストを信じる者、教会を激しく迫害していたのでした。
1、2節には、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺害しようと意気込んでいた、ということ。また、大祭司にダマスコという地域の会堂にあてた手紙をわざわざもらいに行き、公に、合法的に逮捕するための手続をして、キリストを信じる者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げて、エルサレムに連行しようとしていた、ということが書かれています。それは他でもない、自分が信じる神のために、熱心に、徹底的に、キリスト者を根こそぎ絶やしてやろうとしていたのです。
ところが。3節に、「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が周りを照らした。」とあります。それは突然、天から起こった出来事でした。
サウロは地に倒れて、このような声を聞きました。
「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」
「サウル、サウル」と、名前を呼ばれました。他でもない、サウロ自身を呼ぶ声です。そして、天からの圧倒的な光の中で、サウロの名前を呼ぶ方が、「なぜ、わたしを迫害するのか」と語りかけられたのです。
サウロはたずねます。「主よ、あなたはどなたですか。」
すると答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」
「わたしは、イエスである」と言われました。
サウロの名前を呼び、「わたしは」、「あなたは」と、一対一で対面するそのような関係を、天におられる主イエスの方から始められたのです。
そして、わたしはあの十字架で死んだナザレのイエスである、と。復活して、天に上げられたイエスである、と名乗られました。そのようにして、サウロに天からご自身を現されたのです。
また主イエスは、「わたしは『あなたが迫害している』イエスである」と言われました。サウロは、この天から彼を打ち倒す光の中で語りかける、このお方を、自分が迫害していると知らされたのです。
サウロが迫害していたのは、主イエスを信じる人々、教会でした。しかし、主イエスは、それを「わたしへの迫害だ」と仰います。主イエスは、信じる人々と教会を、ご自分と一体としておられます。ですから、サウロが主イエスの弟子を縛り上げて牢屋に送り込んだのは、主イエスを縛り上げて牢屋に送り込んだのであり、主イエスの弟子の殺害に賛成して加担したのは、主イエスの殺害に賛成して加担していたのです。
サウロはこの時、今自分を地に打ち倒し、語りかけて来るイエスという方が、神であり、救い主なのだと知らされました。
サウロは、この天から出会って下さった主イエスに打ち倒されました。これまでの自分が受けた教育や、信念や、行動すべてにおいて、サウロは神に熱心に仕え、神に従うつもりで教会を迫害していました。しかしそれは、神が遣わして下さった救い主を迫害していたのだと、むしろ神への反逆の罪を犯していたのであり、神に対して最も深い罪を犯していたのだと、知らされたのでした。サウロは神の前で、もうどうしたらよいか分からなかったでしょう。自分は罪によって滅びてしまうと思ったのではないでしょうか。
しかし、主イエスは仰いました。
「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが告げられる。」
主イエスは、起きなさい、と命じられます。罪の中に打ち倒れたサウロを、十字架によって罪を贖い、復活された主イエスが、新しく立たせようとされます。主イエスは、サウロの迫害をずっと受けておられました。サウロに打たれ、サウロに攻撃されました。サウロの罪を、すべてその身に引き受けておられたのです。そして主イエスは、このサウロの罪をも赦すために、十字架に架かられ、死なれたのです。
そしてサウロに出会って下さった、復活の主、天に上げられた主イエスは、サウロに起きなさいと、語りかけます。サウロを赦し、全く新しい者として立たせ、なすべきことを与えようとされます。サウロに新たに生きる道を、与えて下さるのです。
サウロは地面から起き上がって、目を開けましたが、目が見えなくなっていました。しかし彼は、主イエスに出会う前から、本当に見なければならないものが、何も見えていなかったのです。主イエスの光に触れて、まことに彼は自分の目が何も見えていなかったことを知ったのでした。彼はもう、自分の目によって見えるものに、頼ることはできません。
主の弟子たちを脅迫し、殺してやろうと意気込んで、ダマスコに乗り込もうとしたサウロでしたが、彼は今や、目が見えず、人々に手を引かれて、とぼとぼと、弱々しい姿でダマスコの町に入ったのでした。そして、三日間、目が見えないまま、食べも飲みもせず、11節にあるように、ずっと祈りつつ、主イエスが仰って下さった、なすべきことが告げられるのをひたすら待っていたのでした。
そのサウロのところに、主イエスはダマスコにいるアナニアという弟子を遣わされます。ダマスコにも主イエスを信じる信仰は伝わり、そこに信じる者の群れである教会がありました。
主イエスはアナニアに、サウロをたずねて、手を置き、元どおりに目が見えるようにするように、と言われました。サウロにはその幻が示されて、アナニアが来るのを待っています。
しかし、アナニアは驚いて主イエスにこう答えます。
「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」
教会を激しく迫害しているサウロの名は、すでにこのダマスコの地でも知られていました。いわば、アナニアたちにとって、サウロは命を狙ってくる敵であり、主イエスに逆らう者です。その彼に、あなたが、わたしを遣わされるのですか、とアナニアは抗議したのです。
しかし、主は言われます。
「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」
主イエスが、サウロを選ばれました。サウロは、異邦人や王たち、またイスラエルの子ら、つまり世界中に主イエスを伝えるために、主イエスご自身が選んだ器だ、というのです。
主イエスの弟子となることも、主イエスの御業に用いられることも、人の資質や、能力や、これまでの経歴などは、全く何も関係ありません。ただ、神が選んで下さる。そこに、わたしたちが主イエスの救いにあずかる根拠がすべてあります。
誰の目から見ても、サウロは主イエスに救われるのにふさわしくありません。なぜなら、主イエスを迫害し、教会を最も苦しめていた人物の一人なのです。しかも、その主イエスを迫害していたサウロが、主イエスの名を伝える者になるなんて、誰にも考えられません。
しかし、主イエスがサウロを選ばれます。そして、主イエスご自身が、サウロをご自分の十字架と復活の恵みにあずからせ、新しく生きる者として、立たせて下さるのです。
それで、アナニアは、主イエスの言葉に従い、祈って待っているサウロのもとへ行きました。そして、手を置きました。
「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れて下さった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。」
すると、たちまちサウロの目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり目が見えるようになりました。サウロは、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した、とあります。
アナニアがサウロに手を置いて、聖霊で満たされて、まことに主イエスが救い主であると信じた時、サウロは、体の目も、そして、まことに見るべき神を見つめる信仰の目も、見えるようになりました。これまで自分の目を信じて、見た方向に歩み、神に逆らってしまっていた、そのような目は見えなくなって、今はしっかりと主イエスだけを見つめる目を与えられたのです。サウロは心の方向をしっかり主イエスの方へ向けられて、罪の中で主イエスに逆らう歩みではなく、恵みの中で主イエスと共に歩む、そのような新しい生き方を与えられたのです。
そして、サウロは身を起こして、洗礼を受けました。先ほどの6節の主イエスが「起きて町に入れ」と言われたところの「起きなさい」という言葉も、ここの「身を起こして」の「起こす」という言葉も、「起き上がる、立ち上がる」という意味と共に、「復活」の意味でも使われる言葉です。まさにサウロは、神に逆らった死ぬべき自分の罪を負って下さった、主イエスの十字架の死にあずかり、そして主イエスの復活の命の中で、新しく主イエスの弟子として立ち上がったのです。
もうひとつ注目したいのは、アナニアは、サウロのもとに来たとき「兄弟サウル」と呼んだことです。同じ主イエスに選ばれ、救われた者は、共にお一人の主イエスに結ばれ、共に神の子、神の家族となるからです。アナニアは、主イエスが選ばれ、ご自分と一つになさろうとするサウロを、同じ主イエスを信じる者として「兄弟」と呼んだのです。
主イエスがアナニアをサウロのもとへ遣わして下さったのは、この主に結ばれた兄弟姉妹の共同体、つまり教会に、サウロをしっかりと結びつけて下さるためでしょう。主に従うのは、一人で従うのではありません。主に共に結ばれた兄弟姉妹とも共に一つにされ、主の体なる教会で、共に御言葉を聞き、共に祈り、共に伝道していくのです。サウロは主イエスと結ばれ、同時にこの主イエスを信じる者の交わりの中に、加えられたのです。
これが、サウロの回心の出来事です。サウロは一方的な神の働きかけによって、心の向きを、生き方のすべてを、サウロという人物のすべてを、主イエスの方へ向けられて、全く新しく主イエスの福音の恵みの中を歩む者とされたのです。
サウロはこの後、「パウロ」とギリシャ語の名前で呼ばれて、各地に、世界中に主イエスの福音を宣べ伝えました。パウロは、主イエスを宣べ伝えたために、多くの苦しみ、迫害を受けました。16節で、主イエスが「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」と仰っていた通りです。
しかし、主イエスは、パウロが教会を迫害していた時、「なぜわたしを迫害するのか」とパウロに仰った方です。パウロは、どのような迫害に遭っても、苦しみに遭っても、自分と共に必ず主イエスがおられることを知っていたでしょう。彼はどのような苦しみの中でも、主の恵みの中にあり、喜んで、主イエスのために仕えたのです。
そのようにしてパウロは、主イエスに選ばれた器として、主イエスの名を広く各地に運んでいく器として、主イエスのために用いられていったのです。
このパウロのように、復活して、天におられる主イエスが出会って下さることによって、主イエスの選びによって、わたしたちも主イエスへと心を向けさせられます。
わたしたちが経験するのは、パウロのように劇的で、衝撃的な「回心」ではないかも知れません。しかし、教会において御言葉を聞き続ける中で、神が語られることを聞き、主イエスの十字架と復活の福音を知らされる中で、わたしたちにも一人一人、主イエスは名を呼んで出会って下さり、語りかけられます。それは全く、自分の外からの、神からの恵みの働きかけです。
そして、見るべきものが見えず、神に逆らい続けていた自分が、福音の光に打ち倒され、そこから主イエスの罪の赦しと、復活の恵みの中で、まったく新たな者として立ち上がらされるのです。そして、わたしたちも、なすべきことが与えられ、神に選ばれた器として、天におられる主イエスと共に、新しく歩み出すことが出来るのです。