夕礼拝

福音を知る喜び

「福音を知る喜び」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第56章1-8節
・ 新約聖書:使徒言行録 第8章26-40節
・ 讃美歌:403、461

 「読んでいることがお分かりになりますか。」フィリポは、聖書を読んでいたエチオピアの宦官に声をかけました。
「聖書が分かる」とはどういうことでしょうか。聖書は難しい。何を言っているのか分からない。そう思われることも多いかも知れません。でも聖書が分かる、というのは頭で分かるとか、理性的に理解するということとは違います。
聖書は、ただの遠い昔に書かれた古典や伝記ではありません。今ここにいるわたしたちに、生きておられる神が語りかけて下さる御言葉なのです。そこには、神のわたしたちへの思いと、御心が示されています。
聖書において、神が語って下さること、神のわたしたちへの思い、御心とは何でしょうか。
ヨハネによる福音書にこう書かれているところがあります。
「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」
そうです、聖書はわたしたちの救い主イエス・キリストについて語っています。それは、わたしたちが主イエスを神の御子、救い主であると信じ、そして主イエスによって、わたしたちが命を受けるためです。それが、聖書を通して語られる、神のわたしたちへの御心であり、望んでくださっていることなのです。
その神の御心を知ること。神が主イエスによってわたしの罪を赦し、わたしを救うと言っておられることを知ること。それが、聖書が分かる、ということです。

今日の聖書の箇所では、一人のエチオピアの宦官が、その神の御心を知り、主イエスの救いにあずかり、信仰を得て洗礼を受けたことが書かれています。
この人は、27節に「エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官」であると書かれています。当時のエチオピアと言われている場所は、現在のエチオピアの位置ではなく、エジプトの南にあるスーダンの辺りだったようです。
そしてこの人は、エチオピアの女王カンダケに仕え、全財産の管理を任されるような、位の高い高官でした。また、「宦官」であったと書かれています。宦官というのは、女王に仕えたり、王宮で仕えるにあたって、男女の性的な問題が起こらないように去勢をした男性のことです。単に「宦官」が「高官」と同じ意味で使われることもあったようですが、ここでは「高官で、…宦官」であるとわざわざ書かれていますので、この人は本来の意味での宦官であった。つまり去勢をした男性であったと考えることが出来ます。

宦官は馬車に乗ってエチオピアから、わざわざエルサレムの神殿に礼拝のためにやって来て、また自分の国へと帰る途中でした。遠い遠いところから、長い時間をかけて旅をしてでも、神を礼拝したいと願い、とても熱心に、真剣に、救いを求めている人だったのです。
しかし、そうやってエルサレムの神殿までやって来ても、彼は神殿の中心部の聖所で堂々と喜んで神に礼拝を捧げることは出来ませんでした。
その理由は、まず、彼はユダヤ人ではありませんでした。外国人、異邦人は、神殿の「異邦人の庭」と呼ばれている手前のところまでしか入ることが出来ないのです。
しかしその異邦人も、もし割礼というしるしを受けるならば、改宗したと見做されてユダヤ人になることが出来ました。
しかし、彼がユダヤ人になることが出来ない、神の民に加わることが出来ない決定的な理由がありました。それは、宦官であるということです。旧約聖書の申命記の23:2に次のように書かれています。
「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない」。
これは律法で定められていることです。どれだけ熱心に神を求めても、礼拝をしても、宦官である彼は生涯、決して神の民に加わることは出来ないのです。それは真剣に神を求めている彼にとって、悲しく辛いことでしたが、しかしどうすることも出来ませんでした。宦官は、律法によって、神の民となる資格を失っている者だったのです。

この宦官が、帰り道に預言者イザヤの書を朗読していました。当時の聖書は一つ一つ手書きで書き写されており、とても高価なものでした。また全部一冊にまとまっていたのではなくて、書物別に分かれていました。この時、イザヤ書だけを手に入れたのか、他の書物も持っていたのかは分かりません。しかし宦官はこの時、エルサレム神殿までやってきた喜びと、決して神の民に加わることが出来ない、悲しい現実を味わって帰途に着く中、「イザヤ書」を読んでいたのです。
宦官は、本日共にお読みしたイザヤ書56章もきっと読んだことでしょう。ここは、彼にとって特に気にかかる所ではなかったかと思います。
56章を見てみますと、ここには、神の救いが実現し、恵みの業が現れる時、異邦人も宦官も区別されることなく、神の家に名が刻まれる、彼らも祈りの家、喜びの祝宴に連なることが出来る、とあります。まさにこの宦官にとって、自分のような、異邦人や宦官の救いについて書かれている箇所なのです。
「宦官も、言うな 見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。
なぜなら、主はこう言われる 宦官が、わたしの安息日を常に守り 
わたしの望むことを選び わたしの契約を固く守るなら 
わたしは彼らのために、とこしえの名を与え 
息子、娘を持つにまさる記念の名を わたしの家、わたしの城壁に刻む。
その名は決して消し去られることがない。」

しかし、その神の救いの実現とはいつ起こるのか。恵みの業はどのようにして現れるのか。子どもを決して得ることが出来ない自分が、息子、娘を持つにまさる記念の名を刻まれるとは、どういうことなのか。
つい先日、エルサレム神殿の中心から遠く離れたところで礼拝を捧げ、神の民に加わることが出来ない自分を実感した宦官です。このイザヤ書の、異邦人も宦官も救われるという預言の中に希望を探しつつも、この預言が一体いつどのように実現するのか皆目わからず、どこか、自分から遠い言葉のように、感じていたのではないでしょうか。

そうやって宦官は、馬車に揺られてイザヤ書を朗読しながら、自分の国へ帰ろうとしていたのでした。当時、聖書を読む時には皆声を出して朗読をするのが一般的だったのです。

さて、ここにフィリポが登場します。フィリポはユダヤ人で、主イエスの救いを信じ、キリスト者となった人ですが、エルサレムでキリスト教会への迫害が強まり、サマリアという地方へ逃れました。しかし、フィリポはそこで大いにキリストの福音、神の国を宣べ伝えました。そして、サマリアの多くの者が、十字架にかかり復活した主イエスこそ、神が遣わされた救い主であると信じ、洗礼を受けました。
そのようにサマリアで伝道していたフィリポに、主の天使が現れて言いました。「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道を行け」。そこは寂しい道であったと書かれています。福音を多くの人に伝え、良い働きをしていたフィリポを、神はわざわざ寂しい道へ向かわされました。どうしてでしょうか。それは、このたった一人の宦官に救いを知らせるためです。救いを求めている一人の宦官が、神の救いにあずかるために、神はフィリポをこの人のところへ遣わされたのです。
そして29節にあるように、フィリポは霊に、つまり聖霊なる神に導かれ、示されて、馬車に乗ってイザヤ書を朗読している宦官のもとへ行き、声をかけました。「読んでいることがおわかりになりますか」。
宦官は答えました。「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」。そして、フィリポに馬車の隣に座って欲しいと頼んだのでした。

ちょうどこの時、宦官が朗読していた箇所は、イザヤ書53章の7~8節にあたるところでした。「苦難の僕の歌」と呼ばれている箇所の一節です。
「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」
そしてこの箇所の後には、「彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは 彼の手によって成し遂げられる。」と書かれています。

宦官は、フィリポに、この「彼」とはだれのことか、と尋ねました。
フィリポの答えは、「この彼とは、イエス・キリストのことである」という答えでした。そして、この箇所から説きおこし、宦官に主イエスの福音を告げ知らせたのです。

ユダヤの人々が旧約聖書の時代から待ち望んでいたメシア、救い主は、イスラエルの国を立て直し、勝利に導く王の姿のイメージでした。イザヤ書のように殺されるために従順に引かれていく小羊のような、卑しめられ、命を取り去られるような、そのような救い主を、誰も想像しなかったし、求めていなかったのです。ですから、ここに書かれているのは、一体誰のことだろう、と宦官が疑問に思うのも無理はありません。

しかし、神が遣わされた、神の御子主イエスは、弱々しい人となり、すべての者の罪を負って、卑しい姿になられ、苦しみを受け、十字架へと向かわれ、殺されたのです。そのようにして、ご自分の命によって罪人に赦しを与え、神の救いの御業を実現されたのです。
これが、まさにイザヤ書が預言している救い主のお姿でした。主イエスによって、このイザヤ書の預言は成就したのです。神の救いの御業は、主イエスによって成し遂げられたのです。
そうして、神の望まれることを成し遂げられた救い主のもとに、新しい神の民が集められます。もはや神の民とはユダヤ人のことだけを指すのではなく、主イエスを信じて、主イエスに結ばれた者たちが神の民とされます。彼らは神の子どもとされ、そのようにして子孫が末永く続いていくのです。

そしてこのことは、イザヤ書56章に書かれていることも、主イエスによって実現したということを示します。神の救いはイエス・キリストによって実現し、恵みの業はイエス・キリストによって現れたからです。
ですから、この方によって、もはや律法によって排除されることなく、異邦人も、宦官も、新しい神の民に入れられるのです。主イエスによって、神の家に入り、喜びの祝いに、連なることが実現したのです。

宦官の喜びはいかに大きかったことでしょうか。
フィリポの説き明かしによって、意味が分からなかった聖書が、まさに枯れ枝にすぎないと思っていた自分に、救いを告げ知らせていると知ったのです。律法のために神の民の外にいるしかないと思っていたのに、主イエスによって既に神の救いが実現しており、宦官である自分も神の子とされ、新しい神の民に加わることが出来るのだと、知ったのです。
求めていた救いは主イエスにこそあり、その救いにあずかることが、神の御心だと知ったのです。

聖書は、他でもないわたし自身に語りかける、神の御言葉です。
正しく神の御言葉を聞くためには、何より聖霊の導きが必要ですし、また神に立てられた説き明かしをする者が用いられます。わたしたちもはじめは、聖書に書かれていることが、難しい、分からないと感じたり、礼拝で聞く聖書の説き明かし、つまり説教も、ピンとこないことだってあったでしょう。
しかし、宦官が神を真剣に求めて礼拝を守り続け、聖書を読み続けている中で、聖霊が導いて主イエスの救いを知らせて下さったように、救いを求めて、教会で礼拝の場に身を置き、聖書を読み、その説き明かしを聞き続ける中で、聖霊が導きを与え、必ず神の御言葉を聞かせて下さいます。神はこのわたしに語っておられるのだと、主イエスはわたしのために遣わされたのだと、十字架と復活はわたしを罪から救い出し、わたしに新しい命を与えるためなのだと、知らされるのです。

主イエスこそ自分の救い主であると知った宦官は、どうしたでしょうか。彼は、洗礼を受けることを望みました。36節に「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」と言いました。その後に、十字のようなマークがあります。37節は、有力なギリシャ語の写本には欠けているのです。しかし、他の写本には載っていて、大事な部分だと思われるので、使徒言行録の巻末に記されています(272頁)。これは、初代教会の洗礼の時の誓約の言葉であったと思われます。ご一緒にそこを開いて読んでみましょう。
「フィリポが、『真心から信じておられるなら、差し支えありません』と言うと、宦官は『イエス・キリストは神の子であると信じます』と答えた。」
ここは、正確に訳すと、人称が入ります。
「フィリポが『あなたが、真心から信じておられるなら、差し支えありません』というと、宦官は、『わたしは、イエス・キリストは神の子であると信じます』と答えた」

他でもない「あなたが」信じているかと問われます。これはあなたのための救いだからです。そして「わたしは」イエス・キリストは神の子であると信じますと、主イエスは、「わたしの救い主」であると、信仰を告白し、洗礼を受け、主イエスの恵みを受け入れるのです。
当時、洗礼は全身を水の中に浸す全浸礼が行われていました。宦官に洗礼を授け、二人が水から上がると、主の霊がフィリポを連れ去っていきました。徹頭徹尾、この一人の宦官を救うために、聖霊なる神が働き続けて下さったことが分かります。フィリポを連れてきたのも、聖書を説き明かさせたのも、イエス・キリストは神の子であると告白させたのも、洗礼によってキリストと結ばれる者とならせたのも、聖霊のお働きです。
そして、ここにいるわたしたち一人一人のためにも、聖霊なる神は、このように働き、導き、信仰を与えて下さるのです。

手引きをしてくれたフィリポの姿は見えなくなりましたが、それでも宦官は喜びにあふれて旅を続けました。宦官は、神の民から排除された者から、新しい神の民の一員になりました。主イエスの救いを知らなかった者から、救いを知る者になりました。罪人であった者から、罪を赦された者になりました。滅びに至る者から、神と共に永遠の命を生きる者となりました。神に救われた者として生きる。言い尽くせない喜びです。一人の人が洗礼を受けるとは、本当に、人の思いを遥かに超えた、神の恵みの御業です。わたしたちにとって奇跡です。そしてわたしたち一人一人に、その大きな恵みが与えられているのです。

本日は聖餐が行われます。復活して天におられ、今も生きておられる主イエスが主人となり、招いて下さり、ご自身がそこに臨んでくださる食卓です。聖餐は、洗礼を受けた者があずかります。わたしたちの救いを成し遂げて下った主イエスの十字架を覚えて、信仰によって、まことにわたしたちを生かして下さる、主イエスの体と血にあずかる時です。ここにいるわたしたちも、神の民になる資格などありませんでした。しかしただ主イエスを救い主と信じる信仰によって、一方的に与えられた恵みを受けることによって、この食卓に連なる者とされました。その恵みをわたしたちは全身全霊でしっかり受け取りたいと願います。

そして、まだ洗礼を受けていない方へ。主イエスの救いに、資格や条件はありません。宦官の時のように、異邦人はここまでとか、宦官は神の民にはなれないとか、そのようにわたしたちと神様を隔てるものは、もはや主イエスが取り去って下さいました。どうぞ自分に与えられた救いを、神の招きを受け入れてください。そして、主イエスこそわたしの救い主ですと、信じ告白する時が与えられますよう、祈っています。

聖霊なる神が導き、聖書を通して神の御言葉を語りかけて下さいますから、イエス・キリストこそ、わたしたちの救い主であるという福音を聞き、わたしたちを新しい神の民にしようとされる神の御心を知り、わたしたちはその恵みに、お応えしていきたいのです。
エチオピアの宦官が、主イエスの福音と出会い、信じて洗礼を受け、行きとは違う、全く新しくされた者となって、喜びにあふれて旅を続けたように、わたしたちも主イエスに結ばれて生きる、全く新しい者となって、主イエスと共に喜びの旅路を歩みだすことが出来るのです。

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